フィールドワーク

2012年韓国フィールドワークより >ナヌムの家

 「ナヌムの家」へ

 ハルモニたちの隣で学ぶ「慰安婦」問題


「ナヌムの家」へ-ハルモニが、“おばあちゃん”になった瞬間-
高野 宏(一橋大学4年)

江辺駅からバスで約1時間、それからタクシーで約30分かけて「ナヌムの家」に向かう。タクシーにのってからは、なかなか大きい川に沿って、山間部に入っていった。ナヌムの家は、そんな山に囲まれたいわゆる「何もないところ」に、ひっそりと佇んでいる。
 到着前後、自然に溢れた穏やかな風景とは裏腹に、私の心と体は、ぎこちなく「うようよ」していた。フィールドワーク終盤で溜まっていた疲れ、ついにハルモニに会えるという期待、でもどう接すればいいのか分からない不安というのが、その原因だったと思う。

「ナヌムの家」には、おおまかには歴史館とハルモニが暮らす建物がある。その間々には、ハルモニをイメージしたと思われるオブジェや、亡きハルモニたちの像が立っていたりする。「家」全体の雰囲気は、とても優しい 。
 着いて少しの間、みな中央あたりで手持ち無沙汰にしていると、日本から来ているボランティア職員の方が対応にあたってくださった。しばらくし、また別の職員さんに招かれ木造りの広間へ。そこで、20分程度のビデオを見る。ビデオはこれまでの「慰安婦」問題を追った歴史をざっと示したものだったので、これまで日本で学んできたことを思い返すことが出来た。  そのあと、歴史館に向かう。歴史館のガイドは別の日本人ボランティアスタッフの方が担当して下さった。(歴史館の詳しい内容については、本レポートに続く「ハルモニたちの隣で学ぶ「慰安婦」問題」を参照にして下さい。)

ガイドしていただいたその声は、歯切れがよく明瞭で、情報がどんどん頭の中に入ってきた 。
 一方で、歯切れの良い声とは対照的に、再現された展示物の存在感は、私の足取りに重みを与えてくる。
 最終的に入った、ハルモニたちが描いた(思ったよりも数倍大きかった)絵の空間では、ちょっと気持ちがこみ上がってしまい・・・結果的には、この歴史館(で見たこと、聞いたこと)をうまく消化できなかった。  少しフラフラになりながら、しばらくし、「お掃除タイム」が始まる。それはハルモニたちが暮らす建物の部屋や広間の、掃除のお手伝いをみんなでしようというものだ。10人が3班に分けられ、1班はハルモニの部屋掃除、1班は廊下の掃除、もう1班は広間(広めのリビングのような場所)の掃除、(呉さんと工藤さんはゴミ箱のゴミ収集)に一斉に取りかかる。私は、3番目の広間が担当。  建物に入った瞬間は、私の戸惑い感は頂点にあって、ハルモニに会ったらどうしよう、という思いだった。入ってすぐ、右をむくと、二人、ハルモニが広間の奥に座っている。そのうちの1人と目があった。そのハルモニは何か私に言葉を投げかけた。何を言われたか、それにどう返したかは全然覚えてないが、その時自然に心が解けた気がして、急に楽になった。不思議に。

 掃除が始まり、私は広間の隅から雑巾で床拭きを始める。そのうちの一辺を拭き終えたとき、さっき目が合ったハルモニの席に、折よく辿り着く。  「東京から来たの?」「はい。」「大学生?」「はい、4年生です」、最初はこんな具合の会話だったと思う。気づけば、そのハルモニ(裵春姫さん)はずっとしゃべっていた。僕はほとんど聞いていた(途中で鈴木くんも輪に加わって)。少しの緊張と、少しの興奮と、掃除をしていなかった若干の焦りを額に感じながら、ただずっと、ハルモニの昔を懐かしむ話、ちょっとした愚痴、(その他いろいろ)を聞き、時たま笑ったり、質問したり。普通の楽しい会話をした。その時はまるで、本当のおばあちゃんと会話しているような気持ちだったと思う。

 最後に、「お元気で」と言ったら、「またこれたら来てね」と言われて素直にとても嬉しかった。「慰安婦」問題についていろいろと勉強して、わだかまりの募る思いばかりだったが、そこでやっと一つ区切りついたというか、「穏やかな何か」にそのわだかまりが変わった気がする。この問題を自己完結させてはいけないかもしれないが、ある程度の自己完結がなければ、私がこれを次の世代に伝える際にはうまくいかないだろう、とも思っている。
 「お手伝い」のあとの、ゼミのみんなの顔はとても清々しくて、爽やかだった。みなそれぞれハルモニたちとなんらかの交流を持つことが出来たらしい。「来てよかったね」と、簡単だけど心のこもった感想を言い合った。
 お世話になった職員の方々と集合写真をとり、帰路へ。タクシーに乗り込み、沈みゆく夕陽をじんわり受けながら、それぞれに感じたことを再度分かち合う。自然のざわめき、雑巾のひんやり感、ハルモニの手のぬくもりとともに、僕にとって、きっとみんなにとっても思い出の「ナヌムの家」は、いつまでも心に残るだろう。



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ハルモニたちの隣で学ぶ「慰安婦」問題
石原佳奈(社会学部3年)



「日本軍慰安婦歴史館」は1998年、ナヌムの家に併設される形でできました。今回歴史館は、ナヌムの家の日本人ボランティアスタッフの方の解説を聞きながら、見学しました。1時間という限られた時間だったので、すべての展示物に対する説明を受けたり、じっくり見学することはできず、消化仕切れない部分も多かったと思います。当時の説明を受けてノートにしたもの、私の感想などをここに書きたいと思います。

「慰安婦」という言葉は日本側の言葉ですが、本人たちは「慰安」をしたわけでもありません。そのため、国際社会では “sexual slave”(性奴隷)、正式名称は「日本軍性奴隷被害者」となります。しかし、「性奴隷」という言葉を当事者のハルモニ(韓国語で「おばあさん」の意)たちに聞かせたくないという声も一方ではあります。そこでナヌムの家では主に括弧付きの「慰安婦」が使われています。
 現在世界で名乗り出た「慰安婦」被害者の234人のうち、生存者は59人です。私たちが訪れた日の2日前、中国に住んでいたハルモニが亡くなり、生存者数は60人から59人に変わりました。

歴史館は4つの展示場と野外広場に分かれています。第1展示場「証言の場」。「慰安婦」とは何なのか、なぜ慰安所がつくられたのか、どのようにつれてこられたのか、どこに慰安所があったのか、などをテーマとした展示があります。 「慰安婦」問題をめぐる日本での論争で、慰安所が「なかった」とされることの理由の一つに、当時「慰安所」という名称ではなく「軍人倶楽部」、「安全便利な公衆便所」、日本では「朝鮮ピー(女性性器をさす俗語)の宿」などといった多様な名称が使われていたことがあります。炭鉱にも慰安所がありました。少女たちが連れてこられた状況は様々でした。(若いので)性病にかかっている可能性の低い少女たちが集められました。識字率が高くなかったため、少女たちの募集は文書での説明から、口コミへと募集方法が変わりました。工場で働くとか、勉強ができる、三食ついてくる、看護婦として働く、日当がつくなどとさまざまな勧誘方法でだまされて連れてこられたそうです。一旦工場で働いたあとに連れてこられた被害者らもいます。田舎では親日派の村人の協力のもと、強制連行もあったようです。工場でも、慰安所でも、一度連れてこられると逃げられず、目的地を知らされることなく、トラックなどで運ばれため、自分がどこにいるのかも分からなかった被害者も多くいたそうです。ソウルにいると思っていたらハルビン(中国東北部)であったとか、常に真夏のような気温だったことしかわからない被害者らもいます。大部分の少女たちは知らない間に母国ではなく、他の国に連れて行かれました。このために、裁判のための詳細な調査に年月がかかり、明らかになっても、ハルモニたちの裁判の証言が具体的でなく、不利になってしまうこともあったとのことです。

第2展示場「体験の場」。ここでは慰安所の模型など、実際日本軍「慰安婦」がどのようなものだったのかが展示されています。彼女らにあてがわれたのは、暗く、狭い個室です(4畳前後に感じました)。そこにはかたく狭い寝台と、陰部を洗うための水(または洗浄液)が入った桶があるだけです。そこで彼女らは一日で数人から多いときには数十人の兵士の相手をさせられていました。野戦慰安所といわれる、ジャングルの中の、建物もない慰安所もあったそうです。「慰安婦」の少女らは慰安所では他の少女らと話すことも禁止で、隣の少女を生存確認するために壁を叩きあっていたこともあったそうです。「慰安婦」らをとりまとめていた「おかみさん」は日本人の中高年女性でした。彼女らは「慰安婦」たちを管理する立場でありながら、「慰安婦」が足りない時や、管理が上手く行かないときには、軍からの暴力を受けることもあり「慰安婦」と同じように兵士らの相手をさせられることもありました。また、兵士の性病予防のために、軍医が彼女らを病気か病気でないかを判断し、その診断結果表は「成績」と呼ばれていました。性病予防や性病の治療のために使われた水銀や、「606」という性病治療薬が使われていました。現在もそのことが原因となり、水銀中毒症や、ガンなどの後遺症に苦しんでいるハルモニもいます。また多くの兵士の相手をさせられたことで、股関節脱臼や骨折することもあり、気を失っても休むことはできませんでした。こうした肉体的要因に加え、精神的なトラウマ・ストレスなども原因となり、ハルモニたちは未だ多くの傷跡や後遺症に苦しんでいます。

第3展示場「記録の場」。ここには戦後の「慰安婦」問題について展示があります。謝罪と賠償を訴える水曜集会や、軍に置き去りにされ、故郷に帰ることができず現在まで中国東北部などに住んでいる「慰安婦」被害者についても展示されています。ナヌムの家にいるハルモニの多くは、置き去りにされた後、中国軍の捕虜になって生き延びました。生きていくために日中朝の三か国語を身につけたハルモニもいます。「慰安婦」についての新しい資料も発見されています。今年は「ボルネオに送る少女が台湾に着いたことの記録」が発見されました。日本では未発表の資料です。

 第4展示場「告発の場」。ここにはハルモニたちの書いた絵と遺品が展示されています。ハルモニたちの人生や生活、言葉にならない思いが伝わってきます。特に絵画は、ハルモニたち一人一人がおかれた状況と、感情が伝わってきます。被害体験は、戦後何十年も彼女らの内にこんなにもありありと残っていたということを感じさせられます。
 そして屋外にあるのが、第5展示場「追慕の場」。ここには亡くなったハルモニたちへの慰霊塔、焼香所などがあります。イムオクサンという韓国の女性芸術家によって作られた若い少女が日本軍兵士をあらわす剣でつらぬかれたものと、おばあさんになったハルモニのものが対になった「誰が彼女らに…」というモニュメントがとても印象的です。
今まで、特に戦時中の「慰安婦」被害そのものに関する話について、それまでどこか、具体的には想像できず、自分とは遠い話だというふうに感じているところがあったと思います。しかし、歴史館での見学で聞いた話や展示は、今まで勉強してきたものよりも具体的で生々しいものでした。

 ナヌムの家は、住む家や一緒に住む家族、十分な生活費が得られないハルモニたちのために、福祉施設として作られた「ハルモニたちが暮らす場所」です。 そしてそのハルモニたちの「被害」を展示した歴史館はその隣にあります。私たちは、ハルモニたちに会う前に、歴史館を見学しました。
 ナヌムの家でのハルモニたちとの交流やボランティアについては高野君のレポートを参照してほしいと思いますが、私はハルモニたちを目の前にしながら、どこか、歴史館で見学した内容と、目の前にいるハルモニたちを上手く結びつけられなかったように思います。今こうやってレポートを書きながら、歴史館で学んだ内容と、「慰安婦」被害者であるハルモニたちがその隣で暮らしていることを、改めて考えています。


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