Go! home

思いついたことを新しい順に並べています

***
ハンナ・アーレントのThe Life of the Mindの第一部を再読する。久々に知的な感激を覚える。思考と日常生活、思考と常識との相反。思考の異様さ。「思考とは生ける死である」 しかし、思考は人間の生に意味を授ける。思考は現実からの引きこもりにより、生きるに値する非現実を私たちに供与する。


***
私の思考はこの4ヶ月の間、ほぼ活動を止めていた。あってはならない状態だが、いまだに続いているのかもしれない。ただし、復活の兆しは徐々にみえはじめており、それは私が400メートルのグラウンドを10周走ることと相関をもつように思える。運動が苦手で、とくに走りを嫌う私が、なぜ走るのか。きっと取引をしたのだ。肉体の苦痛と精神の苦痛の入れ替えを訴えたのだ。誰に向けて持ち出したかは不明だが、確かに私は取引をした。


***
’One of the fundamental fantasies of anthropology is that somewhere there must be a life worth living.’
私はこの文章をヴィヴェイロス・デ・カストロの論文から知ったが、ヴィヴェイロはロイ・ワーグナーの民族誌でみつけたという。ワーグナーはといえば、デイヴィド・シュナイダー著のThe Curse of the Souwの序文から引用している。

こう書くのは、上の文章と関連するもう一つの文章をめぐる語りを思い出したからである。

ユーグ・ド・サン=ヴィクトールは12世紀に自己の理想を次のように表明した。「自分の祖国を麗しいと思っている人はなお未熟な青二才である。どのような国でも自分の国だと感じることのできる人は、すでに強靱な魂をもっている。だが、完璧な人間はただ一人、その人にとって世界全体が異邦であるような人である」(フランスに済んでいるブルガリア人である私はこの引用文を、アメリカ合衆国で暮らすパレスチナ人エドワード・サイードから拝借した。サイード自身は、トルコに亡命したドイツ人エーリッヒ。アウエルバッハの作品の中でこれをみいだした)----トドロフ『他者の記号学』及川・大谷・菊池訳---


***
近年のバシュラールは科学的論考ばかりが評価されており、詩や想像力や夢想についての諸著作といえば、「後期の彼はちょっと・・・」という別扱いを受ける。まるで老人ボケの所産のようだ。バシュラールがこれらの著作をものしながらも、同時に科学論の執筆をつづけていたことなど無視されている。

60年代の日本では、むしろ詩や想像力や夢想をめぐる彼の仕事が注目されていた。だが紹介者たちは、彼の科学的論考と相補的な関係にある、と気軽に構えていた向きがある。バシュラール氏の二つの仕事がどう結びつくかについて、きちんと考えなければいけない。


***
ヴィヴェイロス・デ・カストロが、わが論文にメイルで賛辞を寄せてくれた。締めくくりの一句で昇天しそうになった。‘Reverie as an anthropological object. What a beautiful, important idea.’


***
ハイデガーの弟子、ハンス・ヨーナスの論集を英語版で読む。The Phenomenon of Life: Toward a Philosophical Biology. よかった。前半では何といっても、ギリシア数学の近現代化に関連する議論。後半では、近代科学の神髄が実験にあり、実践=応用と解きがたく結びつくという指摘、またグノーシス派と20世紀のニヒリズムをめぐる共通点と差異の抽出。すべてがみごと。


***
オクスフォードの総長賞を受賞したPDと、英国人類学の不毛な経験主義について話す。経験主義ばりばりの博論を書いた彼は、それを執筆する途上にいる。でもあくまで、今後の飛翔に向けた助走だという。「ベイトソンみたいだね」 彼の目が輝いた。「はい。彼は僕のヒーローです」


***
時間は空間と同様に、差異を実体化する一形式である。ならば差異の生成をつうじて時間を作出できないだろうか。partial connectingの展開が差異を連続的に生成するのならば、この書き方から時間を作り出してみてはどうか。


***
人類学をもっとも特徴づける方法は比較であり、しかしながら比較はつねに不可能である。エヴァンス=プリチャードの言葉があらためて挑発的に響く。比較の一様式としてのpartial connections.


***
「概念と生命」_______ 信じがたい論文題目だが、カンギレムはこともなげに二つを並べて論じきる。神々しいばかりの知力である。

***
レヴィ=ストロースに関する執筆依頼がくる。彼が何を論じたのかについては、とても書く気になれない。どうやっても先を越されているようで、彼の半ば(というか100%の)冗談に踊らされるようで、書いても仕方ないのではないか。そこで、レヴィ=ストロースがどんな人物かについて考えましょう、と執筆を引き受けた。三流の興信所の報告でも、素行をめぐる調査ならそれなりに読むに値するというものだ。