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博士論文要旨

論文題目:フランス革命期地方都市の政治的選択とその背景:ルアン 1789年~1794年
著者:高橋 暁生 (TAKAHASHI, Akeo)
博士号取得年月日:2004年3月26日

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 1789年に火蓋を切ったフランス革命という事件が、世界史上最も有名な事件の一つとして取り上げられるのにはもちろんたくさんの理由がある。ナポレオンの権力掌握にいたる10年間の激変、登場する人物の劇的な人生こそが人々の強い興味をそそって来たことは疑いないが、この10年自体がやはり様々な意味で、歴史的な画期となっていることが、殊に歴史家の耳目を集めてきた理由だろう。かつては特にマルクス主義史家の間でこの事件は特別な意味を持ったし、国民国家論の中では依然重要な意味を持つ事件と言えるだろう。フランス革命という事件にアプローチするにはこのようにいくつかの視点が存在したが、私は特に、革命が一貫して有した「中央集権化された国家」への志向性というものに、根本的な興味を抱いていた。本論においてはどちらかと言えば肯定的に取り上げたアレクシス・ドゥ・トクヴィルは、フランスはすでに革命以前から強力な国家権力によって社会組織が集権化されていたという視点に立っていたが、現在ではこの主張は、「中央集権化への志向」をすでに内包していたという点での革命との連続性の主張は依然有効なものの、見方としてはやはり極端に過ぎていたことが明らかになっている。中世以来の歴史を見ればある意味では運命的な帰結とも言える「社団編成国家」であったフランスは、革命によって、実質的な中央集権国家として生まれ変わったと言えるのである1。
 ただしこの場合の「中央集権化」とは、どういう意味で使われてきたのだろうか。辞典類にあたると「政治上の実権が中央政府に統一集中されること」となっているが、私は本論においてはもう少し広く、かつ曖昧に使っている。つまり、政府・中央権力の意志が、地方においてどの程度忠実に実行されるのか、その実態に中央集権化の程度を見ているということになるだろう。そして私は、このような意味で、中央権力の長い手が、どのようにして、なぜ地方政治の深部にまで入り込むことができるのかに、基本的な関心を持っていた。
 その意味で、革命期のルアンという都市は格好の検討対象である。この都市は、一見すれば革命期、その政治的な無節操が顕著であった。特にこの都市で権力を掌握し、都市としての意志を代表したはずの人々が、その信条という点で、どのような政治的方向性を本来目指していたのかが見えにくい。立憲王政の誕生を歓呼で迎えたと思ったら、そのすぐ後に共和政への共感をあらわにするかに見え、穏健な共和政に立脚する代議制の原則への尊重を主張したそのすぐ後に、モンターニュ派独裁への賞賛を惜しまず贈る。しかし、この「日和見的体質」を注意深く観察すれば、この都市にも一貫したスタンスが存在したことがわかる。それが「中央権力との協調関係を維持する」という、彼らの言葉を借りるなら「行動指針」である。序論で触れているように、こうした視点からの具体的な研究は、全フランス規模で見てもほぼ皆無に近い。そこで本論では、ルアン市の政治指導者たちが堅持したこの「行動方針」を優先するがゆえの、ある意味ではなりふり構わぬ政府・中央権力への一貫した支持を、ルアンの人々、特にその政治指導者たちの「政治的現実主義」r_alisme politiqueと呼んで、その背景を明らかにすることを試みた。以下では、その検討の過程を要約したい。

第一篇:
 第一篇における検討対象は、この「政治的現実主義」の実相であった。1789年から94年7月のロベスピエール派失脚までの5年間を対象に、ルアン市における革命の推移を、特にこの町が中央政府に対して、またより広く革命の進展それ自体に対してどのような対応をしたのかを詳細に見ること、跡づけることによって、そこに見られる特質を抽出、あらためて確認した。特に重要なのは、国王・王政を巡る諸問題と、93年春から夏にかけてのパリ・中央政府における混乱を巡る問題であった。
 1786年6月のルイ16世による「ノルマンディ行幸」の中ですでに見られたように、革命前夜ルアン市の人々に期待されていたのは、常に臣民の生活に気を配り、彼らのために「良き統治」を行うことによって初めて臣民・民衆からの愛情、尊敬、そして支持を得ることのできる、いわば「厳しい父」ではなく「良き父」としての国王像であった。確かにこの行幸の時、ノルマンディはルイを熱狂的に迎えているが、それは依然彼が「良き父」として認識されていたからでもあった。逆に言えば、こうしたイメージが崩れ去ることは、国王ルイ16世の権威失墜に直結する。概観するなら、ルアン市において、国王は革命当初は明らかに支持を得ていた。しかし、パリにおいて特にそうであるように、91年6月のヴァレンヌ事件は決定的な役割を果たしたと考えられる。その後のルアンの人々の国王に対する感情には、一種の冷淡さを読みとることができる。しかしその一方で、王政の崩壊を彼らが望んでいたとも言えない。92年6月20日のテュイルリ宮襲撃事件に対する激しい批判は、この都市の立憲王政に対する強い支持を明らかに示していた。しかしその中に、国王自身に対する強い敬慕の念であるとか、王政そのものへの原理的な執着を感じることはできない。ルアン市の、特に政治指導者たち、政治に関わることのできる人々にとって重要なのは、89年に始まり、91年9月に確立を見た現体制の維持であり、その体制が打ち立てている秩序、国民の代表である議会が制定した諸法・憲法の絶対的な尊重であった。その意味で、テュイルリ宮を襲撃したパリ民衆らの行動は、ルアン市の人々にとっては忌むべき行為として嫌悪感、警戒感しか招かなかったのである。
 しかし、こうした意味での現体制=立憲王政への明らかな支持は、実際に1792年8月10日の事件が起きると明確に変化する。この年の7月14日の連盟祭記念祭では、ルアン人民協会が国王への忠誠を高らかに宣言すると同時に、共和政への敵意をあからさまにしていたにもかかわらず、8月23日のある祭典では、同じ人民協会の議長が、王権を口汚くののしり、その「隠された陰謀」を暴いたパリ市民、議会を賞賛するのである。そもそもパリで国王廃位が公然と語られ始めるこの年の6月半ばから8月にかけての時期、ルアン市議会、人民協会他、県やディストリクトなどの政治組織において、この問題が扱われること、議論されることはほとんどなかった。ところが、パリにおいてロベスピエールが国王廃位を明確に主張し、かつ47のセクシヨンが国王廃位の請願書を議会に提出したその後で、ようやく8月5日、ルアン人民協会で「国王廃位の可能性」についての話題が提供されるのであって、8月10日を境にした豹変ぶりは、一見すればその政治的無節操を際だたせる。しかしそれはすでに見たように、ルアンの、特に政治指導者層、政治に関わることのできた人々の多くの中に、王政それ自体への原理的な執着がなかったことのむしろ現れであった。7月末から8月初頭にかけてのパリの動きは、おそらくルアンの多くの人々にとっては不愉快なものであったに違いない。しかし、実際に王権の停止が確定し、選挙を経た共和政成立への道が準備され始めると、ともかくその方向性を支持するという立場をとるのである。
 この時期のルアン市の特質に関して重要なことは、このようなある政治体制への特別の執着を感じさせないこと、また秩序維持へのこだわりと同時に、この都市がパリ・中央権力からの視線を非常に気にしていた、気にし始めていたということである。1792年秋に生じた、陸軍の軍糧秣を巡る政府からのルアン市、特にその政治指導者たちに対する怒り・嫌疑について、セーヌ・アンフェリユール県当局は敏感に反応し、抗議というより弁明を行っている。そして同時に、まさにこの92年の半ば過ぎから、政府に対して政治的なスタンスという点で対立するということが、ほぼまったく見られなくなっていくのである。このような意味で、93年1月にルアン市で起きたルジュマール事件とそれに対する地方各機関の反応は興味深い。ある弁護士が書いた王党派的な請願書を巡って、特に1月12日、市内北部のルジュマール広場で争いが起きる。この争い自体は明らかに政治的なもので、いわば「政治文化」におけるコンフリクトであった。「王党派」と言われる人々は広場に植えられた「自由の木」を引き抜き、これを燃やした。「ジャコバン派」と言われる人々数人は、これ見よがしに三色帽章をつけ、おそらくわざわざこの広場を通過する。「王党派」は彼らに襲いかかり、三色帽章を引きちぎった。この事件を初めて本格的に分析したクロード・マゾリックの研究姿勢には、もともと顕著な偏りがあることから、この事件については別の検討が必要と思われるが、本論で重視したのは、この事件の性格それ自体というより、この事件をルアン市議会をはじめとする各行政機関、また人民協会がどのように扱ったかという点であった。まず第一に「王党派」への特別の敵意であるとか、「ジャコバン派」への強い肩入れであるとか、要するに政治的な信条に関する何らかの傾向を読みとるよりは、むしろ市内の秩序維持への強い執着を本論では強調した。特にそれはルアン市当局とセーヌ・アンフェリユール県当局に顕著であった。また第二に、この事件を巡っては、政府・国民議会からの視線を強く意識するルアン市の政治指導者たちの姿を確認できた。王政を否定し、共和政を打ち立て、「ルイ=カペー」を今まさに裁こうとしている国民公会からすれば、国王裁判の有効性を否定するばかりか、国王への感情レヴェルでのシンパシーをも示唆するこのルアンの弁護士作成の請願書はもちろん、広場で自由の木が引き抜かれ、燃やされたという報告は、ルアン市に対する強い警戒心を呼び起こした。1月14日の内務大臣ロランからルアン市当局に宛てられた書簡には、まさにこのような政府の認識が現れている。これに対しルアン市当局、人民協会、県当局などは弁明を繰り返す。本論では、むしろこうした政府からの視線に対する強い意識が、この事件自体の重要性を高めたと主張した。
 このような政府・中央権力からどう見られるかという点に関する意識は、1793年春から夏にかけてのパリにおける混乱に対するルアン市の反応の中で、より明確に見ることができる。この時期、特にパン価格の値上がりを背景とした政府の経済政策を焦点に、パリのセクシヨン民衆から国民公会に対する圧力が増していた。民衆蜂起を鎮圧する明確な武力を持たないこの時期の国民公会にとって、特にパン価格を巡って引き起こされる民衆の行動、その暴力は、おそらく2月以来明らかな脅威であった。「補論」においても触れたように、このような民衆の暴力、その脅威については、国民公会に選出されている各地方の議員からその地元に、時には頻繁に書簡で伝えられ、地方で多かれ少なかれ不安を引き起こした。カンではそれが実際に「反乱」へと結びついていくわけだが、ルアンにおいても、こうした中央の状況に対する認識は、当初カンにおけるそれと変わりがなかった。4月上旬には、ルアン人民協会がこのパリ民衆による圧力に強い懸念を表明し、「国民公会を守るため」の軍隊派遣をルアン市議会に要請している。市議会もこれを支持し、実際に軍への参加を市民に呼びかけているのである。しかし、その直後から、この問題に関する討議は市議会はもちろん、人民協会においてもほとんど見られなくなる。4月半ばに相次いで明らかになったルアン市への「中傷」を前に、政府からの視線を気にかけるこの町の特質が再び顔を出すのである。しかし、自分たちが選出した議員の身体と意見の安全、そして代議制の原則そのものが大きな危機に直面し、その危機が日々増大しているパリの情勢を見て、ルアン市の政治指導者たちは完全なる沈黙を守ることができなかった。情勢がどちらに転ぶか不透明だったということもあるが、5月23日、ルアン人民協会は、ここ数ヶ月にわたって続く国民公会内外の対立について強い不快感を表明する『意見書』を作成し、これにルアンディストリクトとセーヌ・アンフェリユール県のメンバーの署名を集めてパリへ送り、国民公会で読み上げたのであった。しかし情勢は、ルアンの人々が願ったのとは逆の方向へと動く。6月2日、8万人ともいわれるパリのセクシヨン民衆による脅威を背景に、今にも点火されそうな大砲に囲まれて、国民公会議員はジロンド派の議員逮捕を決定するのである。人民協会の当初の立場からすれば、明らかにこうした決定は認められないはずのものだが、約一月の激しい議論を経て、6月の末、人民協会はこの決定を行った国民公会を賞賛し、ジャコバン・クラブとの提携関係を維持するばかりか、パリ民衆に感謝の書簡を送るのである。この時の議論について特に注意すべきなのは、協会メンバーの一人ロベールが、政府・中央権力との協調関係が導く様々な「利益」に、協会メンバーの注意を向けさせたことであった。彼の積極的な発言こそが、最終的な人民協会の政治的変質をリードしたのである。反対にルアン市議会の反応は極端に鈍く、またセーヌ・アンフェリユール県やルアンディストリクトの反応には実は当初から慎重さが見られたことを確認した。またおそらく、最終的には国民公会の決定を支持したルアン市の政治指導者たちが、その本音の部分ではこの事件を批判的に見ていたであろうことを示唆したが、それが顕著に見られるのは県総代理官アンクタン・ドゥ・ボリュの演説においてであった。人民協会の変質、各行政機関逡巡あるいはその慎重さの意味を、言ってみればロベールのいう「利益」に見て、その内実を知ろうとすることが、本論の直接的な目的となった。
 このあとルアン市政は「急進化」していき、共和暦2年には、それ以前に見られた迷い、逡巡などはほとんどまったく見られなくなり、中央権力に忠実なルアン市政が展開していく。しかしそれは、いわゆる「恐怖政治」とはその実態において乖離しているものだった。確かに逮捕者数は激増するし、後に見るように各行政・司法機関等では「粛清」が行われる。しかし、この時期ルアン市で処刑された者は皆無であるし、行政機関等の構成員としての資格を問う場面を詳しく見ると、そこでとられる措置が、曖昧で甘いものになる場合を少なからず確認することができる。この時期を振り返ったシャトゥネ夫人が「ルアン市民はその市壁の中で守られていたのだ」と誇るのは、こうした「恐怖政治」の実態を観察してのことであった。その意味では、この時期政府・中央権力に対してルアン市の政治指導者の多くが見せていた支持は、真の意味での、本当のそれではなかったとも捉えられよう。彼らは黙して待っていたのだ。独裁体制は支持しない、しかし政府・中央権力との協調は堅持すべきだというのである。このことが顕著に表れるのは、共和暦2年のリーダーたちへの、その他の政治指導者、政治に関わることのできた人々の態度だった。市長となったピロン、国民代理官のポレ、監視委員会委員長のラミーヌ、あるいはルアンディストリクト国民代理官のル・カニュ等へは、予想されるように様々な賞賛が捧げられる。彼らは常に「愛国者としての範」を示してきた「人民の行政官」とされた。しかし、こうした賞賛が中身のないものであることは、テルミドール政変直前に起きたある小さな事件に見事に現れる。「人民の行政官」ピロン等がパリで拘束されたことに対して、一度は決まった政府への抗議の書簡作成の決定が、議長の提案で撤回されるのである。明らかに政府によって余計な嫌疑をかけられることへの懸念が、「人民の行政官」の境遇よりも優先したのである。そして、この提案を行った議長ティウランは、こうした慎重な姿勢を指して自分たちが守ってきた、そして現在捕まっているピロン等も常々主張してきた「行動指針」であると明言しているのである。ピロン等はすぐに釈放されルアンに戻っており、その時彼らは歓呼を持って迎えられるが、この歓呼の声は白々しく聞こえたことだろう。実際、ロベスピエール派が失脚し、革命の政治的方向性が再び転換すると、「人民の行政官」「愛国者」とされた共和暦2年のリーダーたちは、「恐怖政治家」として告発され、引きずり回され、民衆には石を投げられ、やがて多くがルアンを去っていくのである。なぜこのようなことになるのか。見方を変えると、なぜ共和暦2年の時期に限りピロン等が支持され、ジャコバン独裁の終了とともに彼らは権力の座から転落するのか。実はこの疑問は、王権・王政を巡る問題や、93年春から夏にかけての混乱に際してみられたルアン市の政治的な特質の背景、すなわち中央政府との協調関係の維持を何よりも優先したのはなぜかという疑問と、基本的には重なるのである。彼らのヘゲモニーの少なくともその一つの理由として、彼らが纏ういくつかの特性が、この時期の政府・中央権力が志向する政治的方向性にマッチしており、中央向けのルアン市の「顔」として適していたからという点を本論では挙げておいた。適さなくなれば、彼らはヘゲモニーを失うのである。ただ彼らの権力の理由は、こうしたことばかりではない。この点は後に第三篇で取り上げられるだろう。
 いずれにせよ、第一篇において明らかになったのは、あらゆる信条やスタンスに優先してこの都市に存在したかに見える政府・中央権力との協調関係維持という、特に政治指導者たちの「行動指針」であった。革命の画期において、特に中央パリにおける情勢を、その行方がある程度決するまで慎重にうかがい、新たな方向性が明らかになるや、それ以前に表明していた政治信条を翻し、現政府のそれに従うというルアン市の性格は、政治的無節操の背後に隠れたこの「行動指針」を一貫して守ったために現れるのである。そう考えた上で、この「行動指針」を主体的に維持したという意味で、ルアン市の、特に政治を主導する立場に立った人々の主体性をここであらためて確認し、繰り返すようにこれを彼らの「政治的現実主義」としたのである。

第二篇:
 第二篇の課題は、第一篇の成果を土台とした上で、革命期ルアンの政治指導者たちに注目した。彼らをいくつかの観点から分析することによって、大きくは彼らの権力の理由、なぜ彼らなのかを問うことを課題とした。というのは、彼らのルアン市における権力には、どのようなものにせよ、どのような程度にせよ、「多くの市民」からの一定の同意が付与されているはずだと考えたためである。共和暦2年の市長ピロンの権力は、確かに「偽物」だったとも言えるかもしれない。しかし「偽物」にせよなんにせよ、彼がその時ルアン市の「顔」となることに、この町の政治に関わることのできた人々の多くが同意したのである。そこには彼らの自発的意志、主体的選択があったと私は考える。そうだとすれば、この権力への「同意」の中身を探ることは、この都市が見せた政治的態度の解明に結びつく可能性を持っていると考えた。第二篇では1789年つまり革命の前夜から1800年までを対象に、この時期にルアン市当局のメンバーとなった者たち350人前後を検討したが、この約10年の間、その顔ぶれは変転していく。そこには確かに革命によってもたらされた重要な変化も見られる。しかし、私はまずこの10年を通した分析によって、ルアン市の政治指導者像の「変化しない特質」を明らかにすることを試みた。革命の激動、それに伴う選挙の方式など制度の移り変わりなどによっても変化しない特質を見いだせるのなら、それはおそらく、このルアンという都市が革命はるか以前から培い、この町に根付いてきた主要な特質の反映とは考えられないだろうか。その変化しない特質は、革命期に一貫していたルアン市の政治的特質を何らかの形で説明しないだろうか、少なくとも、両者は関係があり、権力の変わらない特質を明らかにすることは、本論のテーマにとって重要なヒントを提供してくれると考えた。この試みは結果的には失敗であり、かつ成功ももたらしたと思う。
 前半部分においては、特に政治指導者たちの居住地域と職業に注目した分析を行った。居住地域について言えば、市南西部の地域が他を圧倒する形で市議会メンバーを輩出した。職業分析から判明したのは、なんといってもネゴシアン、特に繊維産業に何らかの形で関わるネゴシアンたちの存在感が、他の職業層を圧倒していた。居住地域、職業構成ともにこの傾向は、基本的には革命期を通して変わることはない。市南西部が伝統的にネゴシアンたちが多く住む地域であったことからすれば、ある種当たり前の結果とも言えるが、ネゴシアンは市内北部、一部は北東部にも居住している。また市南西部から選出されたメンバーはネゴシアン以外にも存在する。そうであるとすれば、市議会に選出された者たちの中に、職業構成とは別のある程度の社会的なカテゴリーの存在を見ることはできるだろう。
 このように、革命期を通して変化しない要素が明らかになるが、もちろん、変化がないわけではない。ネゴシアンは終始他の職業集団を圧倒するが、とはいっても、特に1793年初頭以降2つの市当局においてはこの優勢にかげりが見えたことは明らかである。これまで市政に関わることのなかった人々が、この革命の急進期に登場してくるのである。同じことは居住地域についても言えて、市南西部以外、特に注目すべきは旧市壁外の城外区、ことにセーヌ川左岸のサン・スヴェール城外区から何人かの市議会メンバーが出たことであろう。ただし、こうした「新しい政治階級」の多くは、市政の現場で何らかの目立った活躍をすることなく消えていった。もちろん、中にはピロンやポレ、ラミーヌといったこれまで完全に無名だった人々が共和暦2年の時期に限り、市政を主導するのではあるが。
 以上の検討を、本論中で用いたグラフで確認しておこう。

 本論では他に細かな分析をいくつか行ったが、要点は以上の通りである。その前段階として、革命期の各時期に市長や議長として市政を引っ張った数人のリーダー個々について、詳しく検討した。その結論は、やはり革命期を通して「変化しない特質」に注目することの重要性の再確認とも言えた。というのも、このリーダーの分析においても、やはり市南西部居住、繊維関連のネゴシアンの優勢という特質が導かれたからである。そこで、第二篇の後半では、この「変化しない特質」をより深く掘り下げていくことを目標に、同時に共和暦2年のリーダーたちにも注意を払った。大まかな分析の手順としては、まず共和暦2年の時期を経ても、その市内におけるヘゲモニーを維持し、革命後期にも市政に関わることのできた人々を「主な政治指導者」と命名して、彼らについて若干詳しい検討を行った。続いてその中でも特に3度も市長職を務め、革命期を通して最大の影響力を誇ったと考えられるピエール・ニコラ・ドゥフォントゥネを取り上げ、彼個人の社会経済的ポジション、政治経歴の検討を行った。さらにそこから、このドゥフォントゥネという人物が様々に形作っていたソシアビリテを明らかにし、そこに所属しつつ、なおルアン市政を主導した人々を<ドゥフォントゥネ・サークル>と名付けて、分析した。
 まず「主な指導者層」の大半は、予想したようにネゴシアンで占められ、そのうちのやはり多くが繊維産業に従事する人々だった。このことは序論最後で確認した産業都市ルアンの性格を如実に反映した結果と言える。またこの「主な指導者層」の代表とも言えるドゥフォントゥネもまた、当然繊維、特に綿製造業に様々に関わる富裕なネゴシアンであった。そして彼がその身を置く様々な諸関係、本論では特に親族関係やフリーメーソン、あるいは経営上の提携関係や居住地域について見たが、こうした諸関係で彼が知り合い、時には親しくつきあっていただろう人々が、多くの場合「主な政治指導者」に属し、そうでなくても、革命のどこかの時期に市議会で存在感を示した。その意味で、多くのこの<ドゥフォントゥネ・サークル>所属の人物が、1800年3月3度目の市長を務めたドゥフォントゥネとともに市政を主導する姿は、ルアンの権力の特質、その「変わらない」部分を最もよく象徴するものである。この<サークル>の中心を繊維関連のネゴシアンが占めたことは言うまでもないだろう。私が見る限り、ドゥフォントゥネと、彼を囲むぼんやりしたこの<サークル>に真の意味で対抗しうるような勢力はルアンでは存在しなかった。共和暦2年のリーダーたちは、対抗する勢力としては注目に値するが、すでに第一篇でも確認したように、彼らはロベスピエール派の失脚後、予定されていたように権力の座を転げ落ちるのであって、真の意味で市内で支持されているとは到底言えなかったのである。ドゥフォントゥネはもちろん、彼を中心とするルアン市の「主な政治指導者」にほぼ共通してみられる特質を、ピロンやラミーヌはほとんど有していない。いわば政治的リーダーとしては「特異」な存在だったのであり、その意味では、この共和暦2年のピロン等の台頭を許したこと自体が、ルアン市の政治的方向性の大転換であったことがわかる。これ自体が、ある意味では「日和見的変質」なのであり、本論で言うなら「政治的現実主義」の表れなのである。この変質がなぜもたらされたのかについては第三篇で触れられるだろう。
 第二篇では、最後にもう一つの検討を行った。ルアン市の権力の「変わらない特質」が「市南西部居住」「ネゴシアンであること」であるなら、また特に「主な政治指導者」の特質として「繊維産業に従事するネゴシアンであること」が指摘できるなら、こうした「変わらない特質」であるところの人々が持っていた新しい時代への期待、抱いていた希望、あるいは思想といったものを明らかにできないかと考えた。言うまでもなく、この分析によって、ルアン市政の特質である「中央権力との協調関係の維持」という「行動指針」の背景を明らかにできないかと考えたからである。結果から言えば、この検討は失敗だった。失敗と言うより、一つの結論へたどり着く手前で足を止めざるを得なかった。
 政治指導者たちの思想とは言っても、それを明らかにした史料が残っているケースはほとんどないと言っていい。そこで本論では、幸いにも二本のメモワールを中心に、その政治的経歴の長さゆえか、各種議事録等でもその思想的特質を追うことのできるピエール・ニコラ・ドゥフォントゥネの思想傾向を明らかにした上で、彼の考え方の平凡さを示すことによって、「ドゥフォントゥネの」思想は実はルアン市の主な政治指導者層、特に商工業に携わりつつ市政を主導した人々にも共有される考え方であることを示した。その際特に、後のフランス銀行総裁を務めるネゴシアンであり銀行家であるル・クトゥ・ドゥ・カントゥルの思想にも注目した。彼が、革命前の1788年、ノルマンディ商業会議所メンバー、すなわち当時のルアンの有力な商工業者層の総意を代表してしたためた二篇のメモワールの中に現れた思想は、18世紀半ば以降、主にヴァンサン・ドゥ・グルネを起点として普及していくことになる産業保護主義の系譜に位置づけられた。このル・クトゥが著した二本のメモワールは、当時の主な商工業者層の総意であるだけに重要だった。彼らの主なものは、革命期のどこかの時期に、ルアン市議会をはじめとする行政機関に所属し、何らかの形で市政に関わっているからである。このル・クトゥのメモワールのいくらかのオリジナリティを削り落とし、エッセンスのみを引き継いだと言えるドゥフォントゥネの、特に経済的な主張が平凡なのは、あるいは彼の華麗な政治経歴の結果なのかもしれない。いずれにせよ、革命期に基本的にそのヘゲモニーを失わず、1800年3月に三度市長に就任する彼の思想は、ルアン市政を主導したその他の政治指導者の多く、その主な人々に明らかに共有されたのである。
 その思想傾向の内実はどのようなものだったか。政治的には、秩序と諸法への尊重を何よりも重視し、おそらくアンクタン・ドゥ・ボリュにも見られた国民の代議制の原則を守ろうとした。こうしたことも背景だろうが、強い国家の出現=ナポレオンの登場を喜んでもいる。が、その限りでは、つまり秩序と諸法が守られているのであれば、その政治体制が王政か共和政かといった問題に拘泥していない。経済的には明らかな「産業保護主義者」であったと言える。土地が生産するものに価値を付け加え、やがてはフランス国家の繁栄を導くはずの製造業はしかし、18世紀末、諸外国、特にイギリスとの競争に明らかに後れをとっていた。ドゥフォントゥネ自身が深く関わり、特にルアン周辺地域やピカルディなどでようやくその芽を出しつつあった「国民的産業」である繊維産業、特に綿製造業は、1786年9月の英仏自由通商条約の締結によって壊滅状態に陥った。この現状を改善するために提案された具体的な方策に現れるのが、彼の経済思想である。すなわち、こうした事態を前にして、なお「国民的産業」を振興し、フランスを繁栄に導くには、まず国内において、アンシァン・レジームの特権と結びついた無数の関税を廃止し、自由な流通を確保する一方で、特に製造業に従事しようとする者たちに対しては、政府が公的にバックアップする必要があるとして、農業商業委員会の一員としていくつかの奨励策を実施している。また製造業に関わる技術の教育・普及にも熱心であり、この点でも政府の公的な支援を推進した。一方、国外に対しては、国境の関税制度を徹底的に整備し、基本的には保護関税をかけることによって、外国製品の国内への流入を防ぐ一方、原料の輸入は促進、輸出を制限することによって、何よりも国内産業の振興を目指した。彼の新関税法草稿は重要だが、東インド貿易自由化に伴う「インド綿布」の輸入に対する特別規制の主張は、まさに以上のような考え方を基礎としている。大きく言えば、製造業の発展を見据えて、そのためには「自由」への盲目的信仰を排し、あくまで「自由」と「保護」とを使い分けて国内産業の保護・育成を計り国際競争力を上げることであった。
 こうしたドゥフォントゥネの思想傾向、その実現には、明らかに「政府・中央権力」の介在が不可欠である。関税制度の刷新などはもちろん政府による制度改変以外には手段はないわけだが、産業の保護・育成のための奨励・報奨金、あるいは補償なども、政府による公的な援助が期待された。私はここから、ドゥフォントゥネを中心とするルアンの政治指導者の「政治的選択」、すなわち「中央権力との協調関係維持」という「行動指針」を説明できないかと考えた。革命を迎えたとき、通商条約によって壊滅状態にあったドゥフォントゥネ等繊維産業に従事するネゴシアンたちの苦境を救えるのは、政府からの公的な援助以外になかった。実際、ドゥフォントゥネはすでに革命以前から、オート・ノルマンディ地方議会の中心メンバーとして、ルアン周辺地域で、主に条約によって倒産寸前の工場などに政府からの公的資金をもとにした援助策を講じている。それ以上に、もはや「国民的産業」たる繊維産業は、国家単位・レヴェルで考えられるべき問題となっていた。その意味で、ドゥフォントゥネ等繊維産業に従事する有力なネゴシアンたちが、革命期に政府との連携を最重要視したことは、十分にありうる話である。しかし、これらの推測は、推測のまま留まった。問題はこうした彼らの経済的ポジションに立脚する思想傾向が、政治的な選択とどうつながるのか、そのつながる瞬間を史料から再現できなければ、やはりこれは根拠の限りなく希薄な推測に過ぎず、現時点で、私はこの点を実証するに足る史料を見つけられていないため、ここで断念せざるを得なかった。ただし、こうした思想傾向を有していたドゥフォントゥネをはじめとする少なくない数のルアンの政治指導者たちと政府・中央権力との間には、明らかな強い親和性が存在していたと考えることは許されるだろう。
 
第三篇:
 第一篇であらためて、より明確な形で提示された「政治的現実主義」の諸特徴をふまえ、かつ第二篇での政治指導者に関する分析結果を援用しつつ、いよいよこの都市の見せた政治的特質の背景を明らかにする。扱うのはこの町の「穀物供給問題」である。この第三篇は大きく2つに分かれている。前半では、ルアン市が抱えた穀物供給上の問題を、アンシァン・レジーム期から革命の前半の時期まで見ていき、いわばルアン市を囲む一つの社会経済的な状況を明らかにした。後半においては、この経済的状況がルアン市の政治的選択にいかに大きな影響を与えたのかを明らかにし、穀物問題こそが、ルアン市の政治指導者たちが貫いた「中央権力との協調関係維持」という「行動指針」を導く背景・原因の主要な一つとなっていることを示した。第二篇における「思想」についてはそれができなかったが、ここでも穀物供給問題という経済的状況が、政治を動かす具体的場面を示すことが課題となった。
 特に北部フランスの穀物流通、供給問題に関する研究を行ったA.P.アシャーは、かつては主要な都市ごとの穀物供給地域が、お互いに重なり合うこともなく暗黙のうちに成立していたが、特にルアンのそれは、17世紀を迎えた頃から本格的に弛緩し始めていたという。原因は、人口膨張が顕著なパリ市の穀物商人による頻繁な侵入だった。彼らはルアンが伝統的に穀物を手に入れてきた地域に入り込み、パリ市のために穀物を購入して運び出してしまうのである。ルアン市の穀物供給を守るために、ノルマンディ高等法院は様々な手段でパリ市の穀物商人の侵入を阻もうとしたし、17世紀末にはルアン市の穀物供給を安定的に行うために、様々な特権を有した穀物商人の団体が作られるなどしたが、いずれも効果を挙げることはなかった。加えて、こうしたパリの商人による購入も一因となって、特に危機の際には、ルアン周辺の農民は市内の市場に穀物を運び込んで売るという、当局が「通常供給」と呼ぶ手段が、ほとんど機能しなくなるのである。こうして、すでに革命前から、ルアン市は穀物供給を実現するためにある一つの手段に頼らざるを得ない状況下にあった。王権政府からの支援である。「都市の入市税」や「商人の入市税」を担保とした一括した購入用資金を国庫から貸与されたり、国内で穀物を購入する際ある徴税管区から穀物を持ち出す場合などでは、財務総監からその地域の地方長官に搬出許可の指示を出してもらうなど、購入・運搬にも政府の尽力を必要とした。とはいえ、革命前においては、「国王から与えられた」ものであったとはいえ、二種類の入市税の使途を決める裁量権はある程度地方当局に認められていたし、購入自体も、財務総監-地方長官-地方長官補佐という命令系統によってなされる場合もあったが、その一方でルアン市の穀物商人やネゴシアンが直接の主体となって購入する場合もあったことから、革命期と比較すれば、政府・中央権力への依存度ははるかに低かったと考えられる。
 革命期はこうした状況に変化をもたらす。まず決定的だったのは税制の大改変に伴う「入市税」の廃止であろう。これによって、ルアン市当局はその収入の半分を失うことになった。以降、資金的には富裕市民からの「寄付」以外は、あらゆる意味で政府の支援をあてにせざるを得なくなる。これに加えて、対外戦争が1792年春に開始する。革命の最初期においては、相変わらず「通常供給」は十分な量の穀物をもたらさなかったものの、ルアン市は、主にアムステルダム、コペンハーゲン、ハンブルク、エムデン、ウォタフォード、ロンドン、パレルモや、アメリカ大陸、スペインやポルトガルなどの諸都市・諸地域で穀物を購入していた。特にこうした海外での購入に際しては、ルアンのネゴシアンたちが華々しく活躍した。資金的なサポートもさることながら、彼らは現地の商人・商会とのコネクションを生かし、情報を仕入れ、購入をスムーズに行うことができた。戦争はこうした購入の手段をルアン市から奪っていく。購入経路が徐々に危険になったこと、現地の穀物価格が上昇したことなどから、すでに92年中頃から海外での購入の道が断たれていく。その後しばらくは、ブルターニュ・ポワトゥ両地方における購入が可能だったものの、これも93年春以降のヴァンデ戦争の激化によって不可能になっていく。その結果、ルアン市は93年の中頃までは、イル・ドゥ・フランス、ノルマンディ、ピカルディが交差する地域、穀倉地帯のソワソネ地方で穀物を購入していた。しかしこれも、6月頃から不可能になっていく。理由はこの頃同じように食糧不足に直面していた巨大都市パリとの競合であった。パリ市の依頼を受けた現地の穀物商人の背後には、政府・国民公会からの使者がバックアップしていたため、こうした購入にルアン市が対抗できるはずもなく、この地域からも後退を余儀なくされるのである。結果として、93年半ばを迎えたルアン市が有していた穀物供給手段は、自身を首府とするセーヌ・アンフェリユール県内における「徴発」にほぼ限られることになった。もちろんこの手段は、政府による許可がなければ不可能であり、こうして共和暦2年を迎えたルアン市は、資金的にはもちろん、その購入活動自体についても政府に強く依存することになった。具体的には、この年の秋に成立した中央の食糧供給委員会を頂点とするいわば「中央集権的な」穀物供給システムの中に、ほぼ完全に取り込まれていったのである。93年8月から約一年間のルアン市の穀物供給がどのように行われていたかについて本論でも取り上げたグラフを見よう。

A.O.: 通常供給DIS.: ディストリクトによる決定MUN.: 市当局による決定M.I.: 内務大臣による決定・承認等C.S.A.: 食糧供給委員会による決定・命令等C.S.P.: 公安委員会による決定・命令R.M.: 派遣議員による決定・承認等 *なお詳細は本論340頁を参照。

 このように、ルアン市は革命の進行と共に徐々にその供給手段を奪われ、この時期にいたって、ルアンの政治指導者たちが食糧行政上の責任を果たせるかということの成否は、政府からの援助如何にかかっているという状況にあったのである。
 ところで、言うまでもないことかもしれないが、基本的にはルアン市の政治指導者たち、その中でも主要な地位を占めた富裕なネゴシアンたち自身が実際に飢えるわけではない。しかしながら、例えばテルミドールの政変後に市当局がまとめた報告書からは、この町の指導者たちがいかにこの問題に神経をすり減らしていたかが如実にわかるのである。彼ら自身が回想するように、どのように住民にパンを供給するかということこそ、彼らにとって最大の課題であった。彼らがこの問題にこれほど真剣に取り組むのはいくつか理由があると考えられるが、その最大のものは、やはり飢えて蜂起した民衆の暴力への恐れであろう。1789年夏と92年夏にはこの恐れが現実のものとなっている。89年には、市内の富裕者の邸宅のみならず、「失業」を生んだとして、ネゴシアンをはじめ市内の商工業者が所有する工場、特にその機械が略奪・破壊の標的にされた。これによって破産に追い込まれた商工業者も少なからず存在する。加えて、92年夏の民衆蜂起においては、市長ドゥフォントゥネが石による攻撃を受けるなど、彼らの身体に対する暴力も見られた。93年5月1日の蜂起では、市当局メンバーの妻を人質にするという計画が報告され、また市役人ピネルが実際に民衆に捕まり、大けがを負わされる事態にまでなった。おそらく市行政を担っているということ、市民の食糧を確保するということへの責任感も重要だが、こうした現実の民衆暴力への恐怖こそが、彼らを真剣にこの穀物供給問題に取り組ませた最大の背景だろう。
 さて、これほどまでに政府・中央権力に依存していたルアン市が抱える経済状況が、この都市が政府・中央権力に対して見せた政治的態度に何ら影響しないとは到底考えにくいが、実際はどうだったのだろう。この点を、特に本論では第四章以降で見ていった。第四章では、1792年と93年について、ルアン市が政府に対して見せた政治的な態度・選択のそれぞれと、その時期の食糧事情、穀物供給のためにルアン市の政治指導者が実際に何をしていたのかをパラレルに並べてみた。ここで私が注目したかったのは、特に92年6月、つまりそれほど食糧事情が悪化していなかった時期において、ルアン市が20日のテュイルリ宮襲撃事件に対して見せた珍しく率直な意見表明とを並べ、一方で8月前後の政治的沈黙と同時期の食糧事情の悪化とを並べ、両者を単純に比べてみることであり、また特に、93年春から夏の混乱に対する政治的な反応とこの時期の政府に対する穀物供給上の依存、5月の蜂起をはじめとする危機的な状況とを並べてみることであった。関係があるように見える。穀物供給上の危機が比較的軽度だった92年6月には率直な意見表明が見られ、深刻になる8月前後以降はぱったりと政治的発言、立場表明が見られなくなる、あるいは慎重さが見られるという両者を結びつけたくもなる。しかし、これではやはり依然根拠が希薄だろう。
 そこで続く第五章では、93年の秋と冬に実施された、ルアン市内の各行政・司法機関の「粛清」について扱った。従来、ルアン市内の政治党派の争いとその一つの帰結として捉えられてきたこの「粛清」が、本来革命の政治的文脈とは関係がないはずの「穀物」を背景としていたことを明らかにした。ルアン市は、すでに92年中頃から中央政府からの穀物供給上の疑惑をかけられ、非難を浴びせられてきた。その一つの頂点として93年9月に持ち上がった「ルアンの人々は買い占め人である」という疑惑は、政府からの様々な援助によってしか満足な穀物を供給することができないルアン市にとって、ほとんど致命的だった。もともとルアン市の穀物供給のやり方に敵意を募らせていた近隣の町イヴトからの批判に端を発したこの疑惑は、ルアン市をやはり同じように自分たちの町の穀物供給の障害と見なす首都パリにも共有されたからである。パリの穀物供給に神経を使う政府・国民公会に対して、ルアン市の各行政機関、ルアン人民協会は頻繁に書簡等を送ってこの疑惑を「中傷」として抗議をしている。しかしながら、この疑惑を晴らすには、結局政府・中央権力が、「買い占め人を放置、あるいは保護している」とすら言われたルアン市の各行政機関の構成メンバーを変えるしかなかった。行政機関の粛清を求める声は、イヴト市からも、また政府からも出ていたのである。結果として93年10月の末、人民協会の推薦リストに則り派遣議員が任命する形で行政機関のメンバーが決定するのである。
 しかし、この粛清を受け入れる代わりに獲得した県内における未曾有の規模の徴発は、すぐにはその恵みをルアン市にもたらさなかったし、その一方で、中央パリにおけるルアン市への非難は沈静化するどころか、「イギリスへの密通」などという要素も加えつつ、激しさを増していた。11月4日に、この疑惑を主張する代表的人物であるクペと議論を戦わせ、ルアン市の立場をほぼ全面的に擁護し、政府からこの町への援助を再度求めたのは、ルアン市の政治指導者による食糧行政に対する指導のために政府から送り込まれたはずの派遣議員ルジャンドゥルであった。同じように、ルアン人民協会も代表者をパリに派遣している。疑惑について抗議し、穀物現物での援助を求めてジャコバン・クラブにやってきたルアン人民協会メンバーを迎えたのは、クラブメンバーのルアン市に対する激しい非難と、「ルアンを革命の水準へと至らしめるための」諸措置の提案であった。特にこの時強い批判を浴びたのは、10月末の粛清で新たに、いわば請われる形で市長の座についたドゥフォントゥネであった。激しい非難を浴びた2人の代表は、ルアンへ戻るなり、ルアン市がいかにパリによって睨まれているかについて告げ、ジャコバン・クラブで言われた言葉をほとんどそのままに、「ルアンを革命の水準へ至らしめる」諸措置の実施を協会に強く求めている。経過についての詳細はわからない。しかし11月26日、市議会と人民協会に、市長ドゥフォントゥネの辞任が伝えられる。彼はその辞任を伝える書簡の中で、はっきりと「パリのパトリオットの信頼を得ることができ」なかったことが、この辞任の原因であると告げている。援助を求めに行ったその場で、最初の粛清からわずかしか経っていない行政機関の再粛清、特にドゥフォントゥネの交代が求められていることに注意しなければならない。この要求を受け入れる代わりに、政府・食糧供給委員会からルアン市に穀物を供給するための派遣委員がやってくることになるのである。二度の粛清はともに、穀物供給上の援助をてこにした政府からの圧力の結果もたらされたのであって、この現象の中に、きわめてはっきりと穀物供給という経済状況が、ルアン市の政治的選択を導いたということを見ることができる。
 この粛清は、共和暦2年に市政を主導する人々の本格的な台頭を招いたわけだが、すでに第二篇で検討したように、ルアン市の主な政治指導者に見られるある程度共通した特質を、彼ら共和暦2年のリーダーたちに見ることはできない。彼らの登場は、92年8月や93年6月と同じように、ルアン市にとってはいわば重要な政治的変質なのであるが、この重要な変化はまさに穀物供給上の政府への依存という状況を背景としてもたらされた。しかしながら、実は粛清に限らず、この都市のヘゲモニーの行方に、「穀物」は少なからず影響を及ぼしているのだという点を、本論では第六章で明らかにした。確かにこの章における検討は、「政治」と「穀物」とが直接結びつく場面を写し取ることができたわけではないが、検討した政治指導者たちは、市政におけるヘゲモニーを握るその前に、ルアン市の穀物供給に何らかの貢献をしているという特質を、もちろん全員についてというのでは全くないが、確認することができたのである。そしていくつかの史料は、おそらく当時のルアンの人々も、この穀物供給上の貢献と政治的な権力との間の結びつきをある程度認識していたことを示唆していた。また、資金力や国内外における商業的コネクションの有無がその成否に直結した革命の最初期と、むしろそうした要素よりもパリとのコネクション、政府・中央権力からの信頼、それにより生まれる交渉力が重要な条件となった革命の急進期とを比較し、そのそれぞれの時期について、前者においてはネゴシアンが、後者においては特に政府の信頼を得た数人の「新しい政治階級」がルアン市の穀物供給に大きく貢献しつつ、同時にこの町においてヘゲモニーを獲得していたことを指摘した。
 「政治」と「穀物」のつながりを示す事例として、最後に挙げたのは1793年11月23日にルアンで行われたある革命祭典であった。この「ボルディエとジュルダンの名誉回復の祭典」は、市内のなんらかの「政治党派」によって、戦略的観点から自発的に企画されたものではなく、あくまでも外=パリから持ち込まれ、実施された祭典であった。
 先にドゥフォントゥネへの激しい非難が出たジャコバン・クラブでの会議で、イヴト市のルニュという人物が、「ルアン市を革命の水準へと至らしめる」ために示した5つの諸措置の中で提案され、クラブメンバーの支持を得たものであった。ルニュによればこうである。1789年、パンの価格高騰によりルアンで立ち上がった民衆を指導したのはこの二人であったが、彼らはこの時ルアン市内外で穀物がため込まれた倉庫を多数見つけたというのである。したがって、穀物の買い占め、倉庫へのためこみを疑われているルアン市は、言ってみればその汚れた身を清めるという意味で、89年当時は反乱の扇動者として処刑されたこの二人を、今度は「自由の殉教者」として名誉回復し、祭典を開催する必要があるというのである。ルアン市は同意せざるを得ない。ルアン市への穀物供給を促進するために派遣されたはずの中央・食糧供給委員会のメンバーサン・タマンは、ルアンに着いて早々に、ボルディエとジュルダンの名誉回復の祭典に、市民が多数参加するよう求めているのである。彼は様々な革命の政治的な指導を行う一方で、ルアン市への穀物供給促進のために、セーヌ・アンフェリユール県各地を回るなど、本来の仕事もしている。ここで重要なのは、このサン・タマンという人物は、中央から派遣され、その権威を持ってルアン市への穀物供給を実現することができるがゆえに、ルアンの政治的な革命指導も主導しえたということであろう。「穀物」と「政治」両方にまたがったこの人物の二重の役割について、彼自身が、先ほどの「祭典」の際、ルアン市民を前にした演説の中で明言している。ルアン市議会議事録は次のようにこの演説を記録している。
 「彼は、自由への愛情と専制主義者、その取り巻きへの憎しみを抱くことで、共和政府からの喜ばしい結果、期待すべきすべての利益を民衆に対して示した。彼は次のことを民衆に確約して演説を終えた。すなわち、彼はその権力を用いて、民衆が必要とする食糧供給のためにあらゆる手段を用いるというのだ。」
 穀物は、革命への忠誠がなければもたらされないということを、はっきり述べているのである。かつて「処刑」という決定を下した裁判官たちが逆に裁かれる立場に回るなど、1789年当時の価値判断がこの93年に(少なくとも表面的には)逆転したことを、この祭典は象徴しているとも言えるが、そもそもこの祭典は、パリのジャコバン・クラブにおいてルアンの代表者が穀物援助を求める中、「ルアンを革命の水準へ至らしめる」ための諸措置の1項目としてルアン市に対して突きつけられたことを想起すべきだろう。こうした要求・諸提案を受け入れる代わりの「援助」としてやってきた食糧供給委員会メンバーサン・タマンの演説には、この町においては「穀物」が「政治」とほとんど不可分の関係にあることが示されていた。ここにおいても「穀物」が、正確に言うなら穀物供給上の政府への依存関係が、この町の政治的方向性に強い影響を与えたことがわかるのである。

 以上第一篇から第三篇にいたる検討を経て、結論を述べた。
 本論において掲げたテーマは以下のようなものであった。フランス革命が中央集権化された国民国家を目指した以上、革命を通して政府との共同歩調を維持し続けた地域や都市についての検討は重要である。地方の大都市ルアンは、この意味で考察に値する。特に主な大都市が軒並み政府・パリに反旗を翻す1793年春から夏にかけての時期、ルアン市は様々な逡巡、苦悩の後に、またおそらく革命、新しい時代への様々な期待や何らかの政治信条を胸の内に飲み込みつつではあったが、中央権力と対立するという選択肢を慎重に排除した。そこに見られた「政府・中央権力との協調関係の維持」という彼らの「行動指針」の意味を探る作業は、大きくいえば中央集権化された近代国家の成員たることを選択するとは、そもそもどういうことであるのかを探ることでもあった。中央から伸びる国家の長い腕を、地方の側から握り返すとは、そもそもどういうことなのかを考えることであった。もちろん、こうした大きな問いに本論が全面的な回答を出せているわけではない。しかし、部分的にではあるが、一筋の光をあてることはできたのではないだろうか。
 ルアン市における革命を、自身の「ジャコバン史学」のための事例研究の対象として扱ってきたクロード・マゾリックの所論のほとんどは、私にとっては受け入れることのできないものであるが、ただ一つ、次のような彼の主張は、本研究を続けてくるにあたって常に私の頭の中にあった。マゾリックは、本論で私が「政治的現実主義」と表現したルアン市の特質を「政治的忠実性」と表現した上で、こうした特質は、彼の言う「政治階級」が「国家的視点と長期的視野」を持ち「国家と国民の統一性の堅持」こそ重要と判断したゆえだとする。もちろんここで言う「政治階級」とは、彼の議論を支える柱である「ジャコバン」なのであり、この点には賛成できない。しかし、もう少しその対象を広げて政治指導者層一般と考えるのであれば、おそらくルアン市の「政治的忠実性」は、マゾリックが指摘したように、彼ら政治指導者たちが「国家的視点と長期的視野」を持ち「国家と国民の統一性の堅持」を重要視したからであると私も考えている。そして私の主要な関心は、なぜ彼らがこれらを重要視したか、なぜ特に彼らルアンの人々にそれができたのか、あるいはそうせざるを得なかったのかという点にあった。私はここで言う「国家的視点」とは、統一され集権化された近代国家を志向する政府・中央権力との協調関係が生み出す様々な「利益」への認識ではなかったかと考えた。93年6月、人民協会においてロベールが注意を促したあのフレーズを想起したい。先ほどの大きな疑問、あるいはこのマゾリックの主張をきちんとした歴史叙述の中で具体化するには、なされるべきことがまだ多く残されている。「利益」の総体は、その多くがまだヴェールに覆われていて見えない。しかし少なくとも「穀物」は、ルアンにとっては明らかにこの「利益」の最も重要な要素のうちの一つであったし、「政治」を動かす力として現実に機能し、政府・中央権力との協調関係維持という「行動指針」を導いたのである。
1 本論では結局取り上げなかったが、このような意味で、私にとってシーダ・スコッチポルの所論は非常に大きな意味をもる。彼女は近代以降の国家による「大衆動員」におそらく強い関心を持っている。「それがなぜ可能になるのか」という疑問を、私は完全に彼女と共有しており、その意味で国家の中央集権化がどのように成立していくのかという点に関心を持った。ただし、スコッチポルの主張の根幹をなしている理論、すなわち、フランス革命は「外圧」と「農民反乱」によって近代国家へと脱皮していくという説明には、商工業従事者の役割をあまりにも軽視しているという点で、全面的には賛同しかねる。彼女の主著SKOCPOL (Theda), States and Revolutions: A Comparative Analysis of France, Russia, and China, Cambridge U.P., 1979.の他に、最近id., Social Revolutions in the Modern World, Cambridge U.P., 1994.が翻訳された(牟田和恵他訳『現代社会革命論-比較歴史社会学の理論と方法』、岩波書店、2001年。)。

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