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博士論文要旨

論文題目:植民地下朝鮮における言語支配の構造:朝鮮語規範化問題を中心に
著者:三ツ井 崇 (MITSUI, Takashi)
博士号取得年月日:2002年3月28日

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 言語の規範化とは、ある言語(または変種)に対する集権化を志向しつつ、その言語(ないし変種)の文法を創出していくプロセスととらえられるが、概して、それは、民族、または国家、ときには超国家的な範囲で、当該言語が政治的地位を向上させるための一手段であるとされる。とくに、民族ないし国家を母体にしておこなわれるそれは、当該言語社会と不可分の「統一体」としての象徴的価値をその言語に対して付与する作業をもまたともなうこととなる。

 言語計画論(=政策ないしは準政策的におこなわれる言語の規範化および普及の過程を跡付けて論じる研究分野)的に見れば、論者ごとに概念設定のずれがあるとはいえ、おおむね、規範化の作業は、言語の地位(ステータス)の決定と「標準化」のための実体的な整備という作業そのものとしてとらえられるだろう。しかし、問題はそれを推進する力である。いまとなってはあたりまえのことだが、言語の規範化作業は、当該言語に対する人為的介入の過程であり、それゆえ、その過程が政治的背景との連動を見るとき、その過程そのものが政治性を帯びざるをえない。つまり、言語の規範化という行為は、その言語をとりまく社会的、政治的環境によって意味づけられるものなのである。それゆえに、言語の規範化について論ずることは、同時にその社会的および政治的背景を論ずることでなければならない。

 植民地という環境を言語的に見れば、ある言語社会に異言語が政治権力を背景に侵入し、かつ侵入した言語(支配言語)と元来存在した言語(被支配言語)との間で序列化がはかられ、ないしは後者が駆逐されるという構造が一般的に存在すると言ってよい。では、このような状況下で、被支配者側の言語が規範化されることの意味とは何であるだろうか。

 しかし、その具体的な展開過程は、言語ないしは言語社会ごとに、あるいは時代ごとに異なった様相を呈する。本稿は、言語規範化の行為と社会的、政治的環境との連関を日本支配下朝鮮という時間/空間のなかに探ろうとするものである。
朝鮮近代史においても、「言語」は植民地支配の過酷さを語るうえで重要な役割を果たしてきた。具体的には、異民族言語である日本語が支配言語として、従来存在した民族語としての朝鮮語を圧迫する要素であったことが糾弾されてきたのである。その意味で、言語問題は、植民地期を語るうえで欠かせない要素であるとも言えるが、しかし、これまでその語りのあり方が万能であったかどうかについては疑問である。本稿の序論では、朝鮮近代社会と朝鮮語の関係性について論じたいくつかの理論的枠組み(=朝鮮語「抹殺」論、朝鮮語「近代化」論)が、とくに植民地期における朝鮮語規範化をめぐる実態にそぐわないことを論証した。

 植民地下朝鮮における朝鮮語規範化作業は、支配者側(=朝鮮総督府)と被支配者側(朝鮮人知識人)と両者によってアプローチが試みられたため、第1編と第2編の記述により、それらの動きを複眼的に把握することを試みた。以下、その概略を示す。

 朝鮮総督府による朝鮮語綴字法規定は、「普通学校用諺文綴字法」(1912年/以下、第一回綴字法)、「普通学校用諺文綴字法大要」(1921年/以下、第二回綴字法)、「諺文綴字法」(1930年/以下、第三回綴字法)と制定/改正されていったが、総督府側にとっての一義的な目的は、朝鮮語教科書編纂時の綴字法統一にあった。しかし、各回綴字法の性格は、意図・通用範囲・社会的位置づけの変化にともなって、変容していくことになり、単に教科書編纂という教育政策史的事実の枠内では把握不可能になっていった。とくに、第二回綴字法以降は、日本人官吏に対する朝鮮語奨励政策のような他の政策や「文化政治」下における朝鮮人研究者の朝鮮語研究といった社会的動向との間で相互規定関係を見せるにいたった(第1編)。とくに後者の場合、朝鮮語規範化問題により敏感であった朝鮮人研究者は、厳しい監視の目を注ぎ、第三回綴字法の審議に自ら積極的に関与していったのである。それは、彼らの多くが現職教員でもあり、朝鮮人児童・生徒に対する朝鮮語教育の実践的課題に直面していたことと決して無関係ではない。その代表的研究者集団である朝鮮語研究会(朝鮮語学会)は、審議の場さえも言語運動の実践の場とし、自らの主張を綴字法規定に大幅に反映させることになる。と同時に、朝鮮語研究会は、言語運動の主導権を握ることになり、1931年に朝鮮語学会と改称後も民族紙/誌、文学者、教職関係者などの大きな支持を得ることになる。こうした動きに対抗する形で、それまで啓明倶楽部という社交団体を中心として活動してきた朴勝彬を中心に朝鮮語学研究会が組織され、朝鮮語学会の綴字法案に対する反対運動を繰り広げていくことになる。つまり、総督府綴字法、とくに第三回綴字法の制定は1930年代以降に本格化する朝鮮人の言語運動の展開のあり方を規定していったのである。また、このことから、総督府綴字法に対する「朝鮮人」側の反応が一枚岩でなかったこともわかるのである(第2編)。

 こうした史実の流れのなかには、「支配─被支配」の関係に規定された力関係が存在していた。しかし、このことは、必ずしも両者が対立的、没交渉的に存在したことを意味しない。支配者側と被支配者側の相互の関係性、その背後での双方の思惑の違い、さらに利害を同じくしているはずの「被支配者側」が分裂する様相などは、時期的変容にともない様相を変化させていくが、その変化そのものが、そのときどきの植民地支配の構造を具現化したものであり、そこに生じる単に「支配─抵抗」とは割り切れない複雑な関係性にこそ、まさに植民地下の言語支配の構造を見てとれるのである(結論)。筆者が、従来の朝鮮語「抹殺」論、朝鮮語「近代化」論を批判したのも、それらが、支配者側と被支配者側の対立性のみを強調し、このような構造を把握できなかったからである。

 最後に、本稿の反省と今後の課題をいくつか示しておく。第一に、言語とその社会的政治的背景について論じるとしながら、筆者の能力の限界から、その背景に関する部分の叙述が十分に展開できなかった。この点については、政治史、教育史、運動史、農村社会史などの流れを先行研究や史料などで詳しく追っていく作業を要するだろう。第二に、同時期の「言語問題」の他の側面についても分析し、「言語問題」像の構築へとつなげていく必要がある。ここには、本稿では意図的にはずした日本語強制の問題や、行論の都合上十分に扱えなかった、朝鮮語綴字法の「改革」を認めなかった人々の主張に対する分析も当然含まれる。もちろん、構築を急ぐあまり実証がおろそかになってはいけないことは言うまでもない。第三に、解放後の「言語問題」の推移についても論じていく必要がある。とくに、朝鮮語「抹殺」の記憶は、解放後における言語純化(醇化)の原動力として機能していくことにもなり、重要な論点であろうと思う。

 ここで挙げた論点は、大きな区分であり、個々の論点において、さらに細分化していろいろな課題が出現してくるだろう。課題は尽きないのである。

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