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博士論文要旨

論文題目:ドイツ福祉国家思想史
著者:木村 周市朗 (KIMURA, Shuichiro)
博士号取得年月日:2002年3月13日

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本論文の構成は、つぎのとおりである。
序章 ドイツ福祉国家思想史の課題と視点
第1部 私的自治のドイツ的生成
 第1章 ドイツ自然法論と初期法治国家思想
 第2章 ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの国家活動限定論
 第3章 カントの法形式論と近代ブルジョア社会原理
 第4章 改革者国家の二類型
第2部 「社会問題」認識の形成
 第5章 ドイツ・ロマン主義と「社会問題」
 第6章 西南ドイツ初期自由主義と社会政策
第3部 近現代的干渉主義の成立
 第7章 ローベルト・フォン・モールの法治国家と干渉主義
 第8章 ローレンツ・フォン・シュタイン行政国家論の成立
 第9章 アードルフ・ヴァーグナー福祉目的国家論の形成
終章 現代ドイツ社会国家論の国制史論的構造
(1)本論文は、ドイツにおける「福祉国家」思想の形成・発展史の基本線を、18世紀後半の啓蒙絶対主義期から第2次世界大戦後の現代ドイツ「社会国家」体制まで展望する、思想史的通史の試みである。その主題は、近代社会の基本原理をなす「私的自治」原理の思想的生成と、それを前提とした近現代的国家干渉主義の成立、市民社会における近代的範疇としての国家「政策」の認識の成立、に置かれている。この主題構成は、今日「福祉国家」と呼ばれているものを資本主義システムの20世紀的到達点と捉え、それを支えているワンセットの国家「政策」連関構造の最も基本的な原理を、歴史問題をとおして解明しようとした結果である。
 第2次大戦後に旧西ドイツで本格化した「社会国家」論は、18世紀以来の特殊ドイツ的な国制史と社会史との両面から深い刻印をうけつつ発展をとげてきた広い意味での福祉国家思想史の、現代的展開次元と位置づけることができる。この広義の福祉国家思想史は、個人の自立と近現代国家の「福祉」政策との関係を軸心として、今日の視点から思想史研究上の一つの課題領域として設定されうるものであり、本論文は、それを広く近現代的国家干渉主義のドイツ的成立史と捉えなおすことによって、個人の自立を前提としながら、近代「社会問題」認識に導かれて、すぐれて社会政策的な国家干渉の不可欠性認識が成立するに至る基本線を析出し、その現代的発展状況の意味をさぐることを課題とする。
 ドイツにおける近現代的国家干渉主義および国家「政策」認識の形成史を追跡するばあい、「近代人」の成立にかかわるドイツ的ミリューに規定されて、法思想と経済思想との結節点に注目し、この境界領域に国家論を媒介させることが有意味であるように思われる。本論文にいうドイツ福祉国家思想史は、私的自治のドイツ的形成と近現代的干渉主義の成立を主題とし、個人の自由と行政的国家干渉体系とを同時に可能ならしめた特殊ドイツ的な思想装置として「法治国家」思想に焦点を定め、その形成と発展の諸局面を、現代「社会国家」(「社会的法治国家」)論の視点から追跡する。
 こうした広義の福祉国家思想のドイツ的発展史から浮かび上がるのは、諸個人の自立を実際に可能にするためには基礎前提形成的に、国家による相互扶助的な社会行政活動が不可欠であるという認識の史的連鎖である。実用主義的官房学を一淵源とするディリジスムのドイツ的伝統は、統治の学としての「国家学」の範疇的確立をつうじて、本来国家政策機能論や制度論を不可欠の基本要素として包含すべき広義の政治経済学(ポリティカル・エコノミー)の発展に、深く貢献したと思われるのであって、この点を、本論文は干渉主義の発現諸形態としてあとづけることになった。こうした本論文の視点は、国家論をも包摂した広やかな経済学の再構築を志向するものであり、方法的個人主義にもとづく純粋経済学の自然法則主義が蔵している限界への自覚を促すものである。

(2)まず、「福祉国家」は、「国家独占資本主義」、「ケインズ主義」、「フォーディズム」などの術語で理解されるように、現代資本主義に特有の20世紀的な政策連関構造を有しており、それを構成する労働・生活両面での個々の制度は、対立する諸利害の多元的併存と試行錯誤的妥協の積み重ねのうちに、各国特有に歴史的に形成されてきた。したがってその意味では、「福祉国家」思想史は、社会立法・行政活動全般の規範理念や価値基準をめぐるすぐれて現代的な政策思想史として、個々の制度・政策を生み出した規範的諸理念(労資関係をめぐる産業民主主義、生活権としての最低所得保障と自立自助の理念など)の形成・発展史を国ごとの制度史に即して把握することを、当面の課題としなければならないであろう。
 しかし、その「福祉国家」は、今日すでに、官僚制の肥大化や「財政危機」だけでなく、大量生産・大量消費型の拡大主義(地球環境問題)と主権的一国主義(その政策対応能力を超えたグローバル経済化の進展)との両面で、20世紀的な構造的限界を露呈しており、労働(生産)と生活(消費)のあり方、自立した個人を基礎とした各種の共同体のあり方をめぐって、「国家」のなすべき基本的課題が各国で模索されつつある。そしてこのことは、個人の自立と国家的「政策」カテゴリーとの相互関係という政策学的基本問題を、あらためて浮き彫りにしているように思われる。
 現代先進資本主義諸国における19世紀以降の累積的な国家干渉史は、市場経済によって媒介される私的自治原理の貫徹の否定史ではなく、資本主義的生産関係の基本は維持しつつ不断に調整・改良を行う、私的自治原理の国家政策的補完史として位置づけられるべきものである。そして、この近現代的・福祉国家的な干渉主義は、市場経済原理を維持しようとする、本質的に保守的・調整統合的な機能とともに、その前提として、諸個人の自立を促進せざるをえない契機をも含むことになろう。近代的「自由」は資本主義的「自由」として成立したことと相似的に、「福祉国家」の政策体系の機能もアンビヴァレントである。今日問われている「福祉国家」の基本課題は、つねに市場原理(資本の論理)に律せられながらも、なおかつ共通ニードの社会化をつうじて、諸個人の自由と自立の拡充(私的自治の実質化)に向けた規範理念や価値意識と、それにもとづく多元的なコモン・ルールとを、(一国内だけでなく国際連関上でも)確立することに存しているように思われる。
 したがって、現代「福祉国家」を、私的自治という近代原理のもとで、資本主義の発達とともに進行せざるをえなかった国家政策的干渉の累積的進展史の、20世紀的到達点と捉えるならば、広義の福祉国家思想史は、近現代を貫く普遍的課題領域として、私的自治のもとでの制度的国家干渉を不可欠視させる各種「社会問題」にかんする認識を含んだ、私的自治と国家干渉との相互連関にかかわる認識の発達史と捉えなおすことができるであろう。そのばあい、近現代的な国家干渉主義は、私的自治という近代市民社会の基本原理に立脚しつつ、それを--自立の阻害要因の除去または自立の前提条件の創出の方向で--国家政策的に補完する必要性を自覚した立場である。
 こうして、福祉国家思想史を、市民的自由の実質化を可能にするための基礎的前提条件の国家による供給という、近現代を貫く普遍的課題をめぐる思想史と位置づけるならば、この課題は、20世紀に限定されるものではないし、近代人の自律のあり方、「社会問題」とその認識、国家干渉の意味づけなどをめぐって、国際比較思想史をも可能とする広がりをもつであろう。

(3)ところでドイツでは、「福祉国家」概念は2つの特殊な問題をはらんでいる。
 第1に、戦後の旧西ドイツでは、すぐれて自由主義的なボン基本法のもとで、「福祉国家」という英米流の現代的用語が、国家による人民扶養を連想させるものとして嫌われ、「社会国家」(基本法にいう「社会的法治国家」)の方が多用されてきた。そこには、自由主義的な「法治国家」と干渉主義的な「福祉国家」との「対決」の構図があり、「法治国家原理」を重視する主流派憲法・経済思想が、「社会的市場経済」と相補的に、すぐれて新自由主義的に市民の自助原則を貫徹してきた。しかしそのドイツは、現代福祉国家の有力な一類型をなしてもいるのであり、その点を、今日のドイツ国制論は、国家干渉の「補助性原理」を援用しつつ、形式的・自由主義的法治国家から実質的・社会的法治国家への発展として、概ね肯定的に自己評価してきた。
 第2に、ドイツにおける「福祉国家」は、本来、発生史的には、臣民の「平和と福祉」を国家目的に掲げた18世紀啓蒙絶対主義下の旧自然法的・後見主義的干渉国家を指し、その内務行政体系が「ポリツァイ」にほかならなかった。したがって、その後の周知の特殊ドイツ的な国制史と社会史の展開、とりわけ立憲君主制下の「法律国家」化という媒介項をつうじた、「ポリツァイ国家」から近現代国家への、行政的干渉システムの歴史連続的発展という経緯の中で、近現代的な国家政策思想の基本課題は、一方で、この旧福祉国家の後見主義(幸福主義)を克服して私的自治の原理を確立すること、しかし他方で、19世紀をつうじて各種「社会問題」の発生に伴う社会政策的な新規行政需要の不断の拡大に実践的に対応しうる近代的な国家干渉原理をも提示することという、二段構えの構成をとることになったと考えられる。
 したがって、ドイツにおける福祉国家思想史は、まず、干渉主義的な旧「福祉国家」の後見主義からの脱却と私的自治の確立を第一局面とし、しかし現実には、一連の「上から」の近代化過程をつうじて絶対主義的官僚制統治メカニズムを温存した資本制法律国家・行政国家の連続的発展を制度史的背景にもったのであり、しかも現代史局面においても、「福祉国家」の用語と概念が概して冷遇されてきたという、全体としてきわめてパラドクシカルな様相を呈するのである。
 そのばあい、18世紀後半以降、特殊にドイツで成立・発展した「法治国家」思想がとくに注目されるのは、それが、行政の適法性原理をベースに、一貫して資本制経済社会の基本原理としての私的自治をドイツ的に基礎づける国制論的水脈をなしてきただけでなく、同時に、私的自治を根幹に据えながら、自助のための前提条件を共同的・補完的に創出する近現代的な行政的国家干渉体系の存立を、規範論(理性理念論的国家目的論)と法形式論との両面から保証する思想装置として、機能してきたと考えられるからである。その思想史的背景を探れば、近代人の自律と市民社会の論理は、イギリスでは心理分析的人間学(ホッブズからスミスまで、そして功利主義へ)によって形成されたのに対して、ドイツでは、そうした前提を欠いたまま、カントが市民社会の原理を「国法の理論」として叙述せざるをえなかったことが示すように、市民社会の「モラル」ではなく、「法」に守られた市民的「自由」が、近代的国制構造のあり方として問題とされたのである。
 そこで、以上のような基本的な課題認識を序章で敷衍したうえで、本論文は以下の3部から構成される。そこで取り上げられた個々の思想家は、ドイツ福祉国家思想史における不可欠の構成因として、相互の緊密な関係のもとで、いわば必然的に選び取られた人物群である。

(4)第1部「私的自治のドイツ的生成」
 西欧諸国に比べて市民社会の成熟化がおくれたドイツでは、大学の経済学は、領邦経済管理学としての官房学の伝統の中で、19世紀末まで一貫して統治の学としての性格をもちつづけた。近代的な私的自治の原理が有意味に展開されたのは、市民社会の自律的な経済原理(A.スミス)としてではなく、むしろ法と国家のタームにおいてであって、啓蒙絶対主義の後見主義的真綿を断ち切る近代理性理念の根源性と、国家「政策」の原理論との提示という功績の面では、経済学は法哲学や国家論(国法論)に一歩譲らざるをえなかったように思われる。
 (a) 私的自治の生成局面を最初に担うのは、プロイセン一般ラント法(1794年)の起草者カール・ゴットリープ・スヴァールツに代表される啓蒙官僚の、近世自然法論的な初期法治国家思想である。かれは、絶対主義下の無制限の国家活動を法的に拘束することによって、市民的自由圏を確保しようとしたのだが(国家からの自由)、その反面、「政治的自由」(参政権すなわち国家への自由)を否定しただけでなく、臣民の「福祉」の増進という旧自然法論的な「国家目的」論を脱却しえなかったため、啓蒙絶対主義の後見主義的「幸福主義」の限界を踏み越えることができなかった。(第1章)
 (b) 一方、これとほぼ同じ頃、若きヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、その「国家活動限定論」(1792年)において、伝来の「福祉」目的を排除して国家活動を「安全」目的に限定し、絶対主義末期の後見的ポリツァイ国家の福祉配慮的干渉主義に抗議した。しかしそれは、非政治的な「新ヒューマニズム」における内面的個人主義の急進的産物であり、現実の国家における基礎的な公共福祉活動の必要性に対して目を閉ざすものであったといわねばならない。(第2章)
 (c) このようなスヴァールツとフンボルトにみられた法治国家思想史上の初期的限界--すなわち、「政治的自由」の否認、絶対主義国家の「福祉」目的活動の容認による後見性、そして逆に「福祉」目的国家活動の否認という空想性--を、一気に突破したのは、カントの法形式論である。カントは、『人倫の形而上学』(1797年)において、「意志の自律」というア・プリオリな理性原理のもとでの必然的人間関係論を展開し、「法」を万人の自由の普遍的実現のための外的形式と捉えて、近世自然法論の「国家目的」範疇(幸福主義的実質論)自体を超越した。そこでは、理性理念的な「国法の理論」として国民代表制(「共和制」)が展望されるとともに、「法」の外的形式規定にもとづく諸個人の「外的自由」(「外的権利」)の普遍性の確定と、「幸福」(意思の「実質」)の道徳的法則性の否定とが達成され、しかも万人の「外的権利」の保証という「法」の外的形式規定は「法」の実質内容を問わないがゆえに、国家の権能(国家干渉の外延)は即自的制約をなんらうけないのである。
 こうしてカントは、個人の幸福追求行為を啓蒙絶対主義国家の後見主義から解放し、近代人の自由空間を法的に創出するとともに、近代法治国家の法形式性自体は国家行政的干渉主義を排除しないことを暗示していた。ここに人間関係原理として提示された理性法論的「公民社会」像は、しかし、その国制論の中に、「公民社会」を建設すべき「改革」者としての「統治権者」規定や、歴史経験的な「家共同体」的社会像を含んでおり、これらの契機は、その後19世紀前半の全ドイツ的な改革時代にすぐれて実践的に継承されることになったと思われる。(第3章)
 (d) すなわち、君主制的統治の、自己改革にもとづく連続性という、近代ドイツ国制史の 特徴的構造は、プロイセン(国民代表制を後回しにした経済的ブルジョア化)と、西南ドイツ諸国(初期立憲主義の形成、および手工業的「中間身分」社会の温存)の、2類型に分けられる。プロイセンにおける官僚制的国家政策への認識を、ヘーゲルが、伝来の「ポリツァイ」という「統治」の視点から、官僚制的管理行政論として示したのに対して、西南ドイツでは、カントの理性法論が国法学的に継承され、初期立憲主義運動に理論的支柱を与えた。しかし立憲主義の導入は、実定法主義の台頭に途をひらかざるをえない。理性法論的自然法思想から19世紀後半以降の法実証主義へのこの過渡期において、カントが理性理念的・根源的に「自由の法則」として提示した私的自治の原理を、広範な国家行政活動と実定法上で整合させる仕事は、西南ドイツ初期自由主義者ローベルト・フォン・モールの手に委ねられる。(第4章)

(5)第2部「〈社会問題〉認識の形成」
 私的自治に立脚した近代的干渉主義を成立させた基礎的要因は、国家政策的な干渉制度体系の不可欠性認識であり、それがはじめて本格的に生まれるのは、身分制の解体から資本主義の形成に至る過渡期の、社会構造的危機においてである。このドイツにおける「社会問題」認識を早期に示したのは保守主義の側であり(フランツ・フォン・バーダー)、それとほとんど同時に、自由主義者モールは、先進諸国の文献に導かれて早くも工場労働者問題を捉える。
 (a) バイエルンのロマン主義者バーダーは、19世紀初頭に、農・工・商業の均衡的発展をめざした領邦経済保全論の視点からアダム・スミスへの批判を展開し、後進国における保護主義の一先駆をなしたが、そのご1830年代半ばには、「隷農制の解体」による過渡期の広範な下層民(「プロレテール」)に、再び一つの「身分」としての社会的帰属意識を醸成させる必要性を論じ、その任務を政府とカトリック聖職者に期待した。それは、「ジャコバン主義」の浸透に対する危機意識と結びついた保守的な社会統合論であり、キリスト教所有権論の援用をつうじてドイツ・カトリック社会政策思想史の端緒ともなった。(第5章)
 (b) ヴュルテムベルクの初期自由主義者モールは、1835年の一論説で、工業化の生産力面での長所を是認しつつ、シスモンディらの古典学派批判に学んで工場の賃金労働者問題に注目し、その本質を、かれらの不安定な生存条件だけでなく、むしろそこから脱出する展望のなさにこそ見出した。したがって、モールの提案する改善策は、工場労働者に独立自営化を含む上昇展望を与えること(労働者保護に加えて、労働者の利潤参加制と公教育、自営化のための国家融資)であったが、この構想は、手工業者を中核とする「中間身分」の保全という意図(小生産者的「市民社会」構想)にもとづいており、それは西南ドイツ初期自由主義における二面性--初期立憲主義を担った政治的自由主義と、「営業の自由」には慎重な社会経済的保守主義、あるいは、工場制の長所を認めつつ「中間身分」の没落を恐れる立場--をつうじて、不安定な社会史的過渡性を示すのである。(第6章)

(6)第3部「近現代的干渉主義の成立」
 カントの理性法論の抽象性を乗り越え、初期立憲君主制下の実定法体系のもとで近代的「社会問題」認識に導かれつつ、法治国家の広範な行政活動を初めて本格的・国法学的に根拠づけたのは、モールである。したがって、本論文の研究主題の核心はモールにある。そして、モールの旧国家学的発想と意図とは、新世代のローレンツ・フォン・シュタインによって、産業社会の利害対立を調整する福祉国家的行政介入の弁証論として独自に継承される。法学・経済学の両面で近代実証主義が次第に有力化してゆく過渡期に国家行政学的に成立したモールとシュタインの福祉国家論は、ドイツ正統派経済学の定礎者カール・ハインリヒ・ラウの嫡流であったアードルフ・ヴァーグナーの政治経済学構想にとって、肥沃な土壌となっただけでなく、私的自治の前提条件を国家が補完的かつ積極的に創出するという、近代法治国家の社会的任務をめぐる行政(法)学的論理構成において、現代ドイツ社会国家論の有力な想源ともなっていると思われる。
 (a) モールは、立憲制下の私的自治原理にもとづいた近代的な国家干渉の基本原理を、先駆的かつ自覚的に「法治国家」論として樹立した。自然法論としてのカントの法形式論自体は、積極的な立法の原理たりえなかったから、近代的干渉主義が成立するためには、実定法レベルで私的自治を確定しつつ、その実定法体系の中に法の実質を規定する国家目的論が新たに組み込まれる必要があった。モールは、立憲制ヴュルテムベルク国法体系に依拠して、広範な「ポリツァイ行政」の必要性を現実主義的に認定しつつ、これに「法治国家」原理の網をかぶせる。すなわち、モールの「法治国家」は、各人が多様な「生活目的」を追求する「市民の自由」を最高原則とし、国家をそのための手段とみなして、国家干渉を、個人の生活目的活動にとっての「障害物」の除去に限定した(国家干渉の補助性原理)。しかし「障害物」の内容は問わないから、市民の自力による除去が困難であれば、そのかぎり国家活動は分野を問わず市民を支援すべきなのである。
 こうして、外見的には自由主義的な夜警国家的安全目的単一論の非現実的無力さを尻目に、市民の私的自治を最高原則とする近代自由主義国家が、補助性原理をつうじて、必要とあらば政策分野を問わずに「義務」として積極的に干渉しうるという、法治国家思想のオールマイティーな構造が生み出された。同時に、そこでは、個人は行政に対する権利主体として把握され、行政干渉と個人の権利保護(私的自治の法的基礎)とを調整する法的形式が、行政法学的に追求された。
 したがってモールの法治国家思想は、国家干渉の補助性原理という論理形式性と実定的行政法体系という法的形式性との二重の形式性によって、近代自由主義国家の干渉主義的側面の成立を基礎づけたとみなしうるが、その根底に置かれていたのは、個人の能力の自主的開展(「市民の自由」)という一つの明確な近代自由主義的な当為であった。すなわち、モールの法治国家論は、理性主義的かつ人倫的に私的自治原理から出発した、目的・手段の総体系なのであり、「ポリツァイ学」という伝統的相貌のうちに、諸個人の「生活目的」の達成に向けた合目的的手段の体系としての近代的な「政策学」的認識を示していたのである。しかしそれは、西南ドイツ初期立憲主義の産物であったから、「公民」の資格に経済的独立性を結びつけ、職業身分団体の「市民」的自律性に期待する多元的社会階層論の視点を含んでいた。この最後のものは、国家学とは別種の社会学の構想に結実するが、自然法論から法実証主義への過渡期に生きたモールは、晩年には、当為や目的から出発した国家学の伝統が没政治的な純粋法律学によって駆逐されてゆく事態に直面せざるをえなかったのである。(第7章)
 (b) ヘーゲル学徒として出発し、啓蒙の「人格性」理念に終生こだわりつづけたシュタインもまた、過渡期の人であった。かれは、公民社会の近代原理と、資本制的現実におけるその阻害状況(近代産業社会の階級構造)とへの、二重の認識を基礎に、諸個人の「人格」発展の前提条件の創出(「社会改良」)を、近代国家の不可避的な社会的任務と捉えて、それを「行政学」上に集約した。その「行政」国家論は、動態的な「社会」に対する人格性「国家」の自律的「行為」の体系学であり、シュタインは19世紀後半の実証主義の興隆の中で、法学においても経済学においてもほぼ完全に孤立しながらも、社会の全成員に自立的発展の可能性を開くための基礎的前提条件の共同社会的供給という「行政」思想によって、先行者モールと並んで、現代福祉国家に連なる一つの思想原型を提供した。その国家「行為」としての「行政」思想を、シュタインは、絶対主義期の旧「福祉国家」から、個人の自立性を絶対視する「法治国家」を経たのちの、新たな「社会的国家」による、階級的利害対立の政治的統合の論理(「国家」による「社会」の克服)として提出した。
 西南ドイツの公民的実定法の世界と多元的社会論とに立つ現実主義者モールは、シュタインの北ドイツ的・ヘーゲル的思弁論を嫌い、「人格性」理念論のシュタインの方は、モールを「法律学的」な「貧しい国家観の代表者」とみなした。シュタインの行政国家論は、労働者階級の市民的主体性の軽視と、社会の矯正者として国家を捉える権威主義とを構造的に含んでいたが、シュタインにおける国家と社会の二元論と、社会に対する国家の後見的自律性論とは、諸個人の「自由」の実現のための国家活動(社会行政)という視角から、今日の「社会国家」論の中に継承されてもいるのである。(第8章および終章)
 (c) ヴァーグナーは、ドイツにおけるスミス経済学の普及者ラウの弟子であり、自由主義経済学の信奉者として出発したが、新ドイツ帝国成立期に「社会問題」に目覚め、社会政策学会の設立に貢献、しかし学会の自由主義化に抗して、国家社会主義者ロートベルトゥスと交流し、自然的・純粋経済的要素と歴史的・法的要素とを区別する観点を学び取る。その結果、かれは、ラウの『政治経済学教科書』第1巻の全面新訂版(1876年)において、国家を「強制的共同経済」制度と捉え、法目的・福祉目的の両面での広範な国家活動を、経済学原理における基本的要素と位置づけることになった。
 すなわち、ヴァーグナーは「使用価値」視点に立って、人間の「欲求充足」活動としての「経済」を、法制度を不可欠の前提として内に含んだ「人工の産物」と捉え、それを「私経済」・「慈善」・「共同経済」の3組織で構成させた。そして広義の基礎的な公共福祉諸制度を、かれは公共財的に「社会的な共同的必要物」と呼び、「強制的共同経済」制度としての国家がそれを充足する度合いが増大してきた点に着目して、これを、「法治国家」から「文化・福祉国家」への発展と捉えた。そこでは、ドイツの旧福祉国家における広範な「ポリツァイ活動」の功罪と、その対極としてスミス-カントの線で理解された法目的単一国家論の重大な限界、という両面への目配りがなされていたのであり、「官房学の伝統」を充分自覚していたヴァーグナーの政治経済学は、「人間の社会的共同生活の必要不可欠の諸条件」をめぐる国家行政需要の拡大という国家学的政策認識の点で、モールとシュタインから多くの啓示を受けていたのである。(第9章)

(7)ドイツ第二帝制期には、立憲君主制の定着と資本主義システムの発展とをつうじて公法実証主義が興隆し、オットー・マイヤー流の没倫理的な形式的法治国家概念の支配のもとで、モールやシュタインの国家学的発想と国家目的論(価値理念や当為の観点)は大幅な退潮を余儀なくされた。しかしヴァイマル共和制期には、民主制議会主義は未成熟のまま、その基盤となった法実証主義は、とくに倫理的「実質」の復権を求める民族主義サイドからの攻撃にさらされ(形式的法治国家概念へのカール・シュミットの批判)、法形式は、特定の価値によって軽蔑されたうえで徹底的に利用されたのである(「合法的」独裁)。
 したがって、戦後の、「自由で民主的な基本秩序」という価値理念で貫かれたボン基本法のもとでの「社会的法治国家」理念は、諸個人の「自由」の実質化という19世紀以来の産業社会における普遍的要請を、法治国家原理の形式性によって担保される個人・国家関係(国家活動の法的拘束)の基礎の上に、あらためて受け止めなおしたものと理解されよう。法治国家思想は、立憲君主制という19世紀ドイツの二元的国制構造に集約される国家と社会の分離状況が生み出した、私的自治のドイツ的表現にほかならなかったが、その法治国家思想を現代に生かすものは、国家の側からの発想ではなく、個人の自立の視点であろう。そして、諸個人の「自由」の実質化のためには、私的自治の社会的前提諸条件の共同的形成が不可欠であり、そのための国家政策的干渉の法形式も、公民的かつ人類的共存という普遍的価値理念に支えられてこそ、はじめて有意味に機能しうること、この点を、曲折にみちたドイツ福祉国家思想史はわれわれに示唆しているように思われる。(終章)

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