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博士論文要旨

論文題目:ドイモイ前後におけるベトナム紅河デルタ農村の変容:バックニン省チャンリエット村における農業生産合作社を中心に
著者:重久(岩井) 美佐紀 (Iwai-Shigehisa, Misaki)
博士号取得年月日:2001年3月14日

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構成
序章 ベトナム紅河デルタ村落の変容
 第1節 問題の所在
 第2節 本論考における課題の設定と先行研究
 第3節 ベトナム村落の地域的差異
 第4節 本論考の調査村の性格、調査方法および資料の紹介

第1章 チャンリエット村の概要
 第1節 自然地理条件
 第2節 歴史的背景
 第3節 居住形態:地縁集団としてのソム
 第4節 交通・情報システム
 第5節 村の人口構成およびその特徴
 第6節 現在の「郷約」:「王法も村の垣根まで」
 第7節 父系血縁集団ゾンホ

第2章 集団経営時代(1958~1980年)の合作社機能
 第1節 集団的生産システムと合作社組織の形成
 第2節 チャンハ合作社の経営内容
 第3節 集団経営時代の合作社と農家の関係
 第4節 女性の社会進出と託児所経営に見られる合作社の社会機能

第3章 家族請負時代(1980~1988年)の合作社機能
 第1節 全社合作社の解体と生産物請負制の導入
 第2節 合作社経営の変化
 第3節 チャンハ合作社と農家の関係の変化
 第4節 1985年以降の合作社機能の低下

第4章 家族自主経営時代(1988年以降)の経営変化
 第1節 「長期土地専有権」交付の意味
 第2節 「10号決議」以降の農業経営の変化
 第3節 農業収支
 第4節 農外経済活動の発展
 第5節 収入と生活水準

第5章 家族自主経営時代の合作社の機能変化
 第1節 合作社の経営システムの変化
 第2節 「規定費」の設定と徴収
 第3節 チャンハ合作社の経営内容の変化:経常収支と基金収支
 第4節 合作社と農家間の関係の変化
 第5節 チャンハ合作社組織の分割
 第6節 合作社の機能変化とそれに伴う管理機構の変化

終章
 1、合作社の機能・組織の変容
 2、農家の経営変化
 3、本研究の意味
 4、今後の課題

 本論文は、北部ベトナム紅河デルタ村落において、農業生産合作社(以下、合作社)が1950年代末の成立から今日までの約40年にわたり、どのように形成され、機能してきたのかを、合作社と農村行政組織・村落との関係に焦点を当てて論じたものである。1988年のベトナム共産党政治局決議10号(以下、10号決議)により農業面でのドイモイ、すなわち集団経営から個別経営への転換が行われた。10号決議のインパクトは、生産システムの転換に限らず、集団経営の主体であった合作社の機能を著しく縮小させ、地域によっては合作社組織そのものが解体するなど、農村社会の再編を迫るものであった。ドイモイにより合作社の経営基盤が縮小すると、ベトナム北部では、国家の末端行政組織である「社」が実体化したり、社の下位組織である「ラン」(自然村)が行政権限をもつような事態が進行している。本論文は、ドイモイ以降に顕著に現れてくる集団経営から個別経営への経済機能の移行の過程と、合作社から農村行政組織・村落への行政機能の移行を関連させながら、合作社機能の変化を通じて紅河デルタ村落の変容を明らかにするものである。

 本論文では、紅河デルタ村落の変容を以下の3つの視角で分析した。一つは、合作社と社、ランとの関係の変化が合作社の機能にどのような変化をもたらしたのかという視角である。第2には、農民の経済生活がどのように変化してきたのか、そして第3には、合作社と農民との関係がどのように変化してきたのかという視角である。

 本論考の考察時期は、集団的生産システムが形成された1958年から家族経営へと転換し数年を経た1997年までの、約40年間である。この40年間を、生産システムの変化に基づき3つの時期に分けて分析を試みた。第1は集団経営時代(1958~1980年)、第2は生産物請負制が施行された家族請負時代(1980~1988年)、そして第3は「10号決議」施行以降の家族自主経営時代(1988~1997年)である。

 調査地であるバックニン省ティエンソン県ドンクアン社チャンリエット村は、首都ハノイから約17キロの距離にある都市近郊村で、非農業部門の経済活動が活発な商業村として発達し、紅河デルタの中でも強固なランが存在するといわれる自然堤防上に形成された開拓の古い村である。チャンリエット村での調査は、1994年3月から12月までの約9カ月と、1995年から1998年までは一回につき約2週間から1カ月の計5回の追調査によって成り立っている。

 これまでの紅河デルタ農村研究において、村落の生態的、歴史的条件の違いから生ずる多様性を視野の中に取り込みながら、集団経営時代から今日までの村落の社会経済構造の変化を実証的に論じたものはほとんどない。従来の集団経営時代を扱った合作社研究は、主に社会主義体制および農業政策との関連で論じられ、合作社は総じて党中央・国家の末端機関であり、その指示・決議の忠実な実行者として描かれてきた。その中で、合作社は農民の利害と対立する存在として描かれた。すなわち、合作社の制度上の「欠陥」である平均主義的な分配のために、自身の個人的利益を追求する農民は合作社内労働では手を抜き、結果的に農業生産を停滞させることになったと論じられた。これらの研究は、共産党中央の指示、決議などの公文書、そして共産党中央機関誌や党のオピニオン雑誌など、主に中央の刊行物に依っているため、合作社の経営の実態が描かれず、合作社と農民との関係についても極めて観念的、抽象的で、具体的なイメージが提示されてこなかった。これに対して本論文は、開拓の歴史が古く、公田と呼ばれる村落共有田をコントロールすることによって相対的に均質な社会を形成してきた紅河デルタ農村と合作社の関係に着目し、合作社の実態を明らかにしようとするものである。

 第1章では、チャンリエット村の地理的条件、歴史的背景、地縁・血縁組織を概観し、その凝集性の強さを示した。チャンリエット村は、紅河堤防沿いの自然堤防村落で、水利的条件にも恵まれた、人口約3,000人の村である。19世紀初頭に編纂された史料には、すでに手工業村として登場し、その後小売り・卸業を専門とする商業村へと変貌した。村の史料によると、立村から約700年を経てきた村の守護神はチャン・バ・リエットという陳朝期の村出身の皇子で、毎年村では守護神の生誕日に村祭りが開かれる。また、従来封建的遺制とされてきた村の掟(郷約)が1991年に新しく改定され、村祭りや葬儀などに関する慣習法的な役割を担っている。村の凝集性は、その居住形態や血縁関係にも表れている。村には「王法も村の垣根まで」という諺に示されるように、村の周りを竹の生け垣で覆われ(今日は煉瓦塀であるが)、4つの門からしか出入りができなかった。村の中は、5つのソム(地縁組織)に区切られ、ソム間、ソム内の路地は迷路のように深く入り組んでいる。また、ゾンホと呼ばれる父系血縁集団があり、村には10数もの主だったゾンホが存在し、通婚圏はほぼ村内に限定されるため、大半の村人が親戚関係にある。

 第2章では、集団経営時代における合作社組織の変遷、合作社経営の状況、そして合作社と農家の関係について考察した。チャンリエット村で最初に合作社が形成されたのは1958年で、3年後の1961年にはチャンリエット村単位で全戸加入による1村合作社が成立した。1965年には、村人口がチャンリエット村の6分の1ほどの隣の小村ビンハとともに「連村合作社」チャンハ合作社が形成された。ビンハ村は、チャンリエット村内のソム単位で作られた5つの生産隊と同様、一つの生産隊としてチャンハ合作社の構成体となった。チャンハ合作社は、ベトナム戦争後の1978年に、同じ社に属する大規模村落ドンキのドンキ合作社とともに全社レベルの「全社合作社」ドンクアン社合作社へと統合されたが、2年で解体した。

 農家の労働時間の大半はチャンハ合作社の生産システムに拘束されていた。個々の農民は、合作社内の共同労働に従事し、労働に応じた収入を得ていた。社員の労働は労働点数によって評価されるが、全ての農作業は、軽重、難易、天候などの条件に従って「労働ノルマ」と呼ばれる労働評価で分類され、点数化された。男性が担当する耕起・整地や農薬の散布などは技術が必要とされる作業のため労働評価が高く、女性が担当する移植、除草、収穫は単純作業と見なされ労働評価は低く抑えられていた。そのため、女性が男性と同量の労働点数を稼ぐためには、複数の単純労働に長時間従事しなければならなかった。一方で、家族単位で合作社の労働点数を稼ぐ作業もあった。全農家に割り当てられた養豚と、主に耕起を担当する数戸の農家に割り当てられた水牛の世話・飼料提供である。また、農家は5パーセント地と呼ばれる自留地を分配された。基本的に、自留地では自由に作物を作付けすることが認められたが、主に自家消費用の野菜・雑穀を栽培するか、または不足分の飯米を満たすために稲を作付けることが多かった。

 農民の労働報酬の全てが籾米で支払われたわけではなく、標準口糧によって籾米と現金の配分が決定された。標準口糧とは、1ヶ月当たり1人(口)に割り当てられる食糧(籾米)のことで、労働点数がそれを上回ると残りを現金で支払われ、下回ると不足分を公定価格で購入することができた。食糧自給の達成が至上目標であり、戦時経済体制下にあったこの時期には、標準口糧は所得再分配機能を果たし、労働点数が標準口糧に満たない社会的弱者に対する社会保障的な役割を果たした。一方で、チャンハ合作社では、その設立当初から、農民の社会経済生活を保障するために、診療所、託児所、図書館、幼稚園などの社会福祉施設の拡充が図られてきた。例えば、村の壮年男性の多くがベトナム戦争へ出征した集団経営時代では、農業生産の主力となった女性たちのために無償の共同託児所が早くから設立された。乳幼児を抱えた女性たちが男性と同じ労働点数を稼ぐためには、長時間労働しなければならなかったが、託児所はそのような女性たちの労働を保障する役割を果たした。託児所をはじめ、図書館、診療所、放送ステーションの運営経費は、合作社の公益基金から賄われていた。

 しかし、1970年代後半、すなわちベトナム戦争終結後、状況は大きく変化した。多くの復員兵を迎えるとともに、共産党中央の社会主義的大規模化の政策により、1978年にドンクアン全社合作社が成立すると、合作社は経営不振に陥り、農業生産は著しく低下した。当時の幹部および農民からの聞き取りによると、1コン(労働量)当たりの籾米が以前の4分の1ほどに落ち込んだという。さらに、壮健な男性のいる家庭に有利なように標準口糧制度も手直しされ、標準口糧の所得再分配機能は低下した。この傾向は、北部ベトナム農村全域で見られたものであるが、復員兵の帰郷による労働力過剰というだけでなく、それに加え、経営成績に差のある合作社同士の非合理的な統合、そして深刻なインフレなど、様々な要因が複合的に重なった結果引き起こされたものであった。

 第3章では、家族請負時代におけるチャンハ合作社の経営状況、合作社と農家の関係について考察した。生産物請負制は、合作社の共有地を農家に「一時的に」分配し、移植、草取り、収穫の3つの作業を農家に請け負わせ、生産量ノルマを達成すれば超過分をそのまま農家が受け取るというシステムであった。種籾管理、耕起・整地、水利などは、そのままチャンハ合作社が責任をもった。生産物請負制の導入後も労働点数制は存続したが、チャンハ合作社では、農家が担当する作業を一律に固定し、個人の労働評価の対象外とした。その結果、実質的な農業経営の主体は農家に移行し、農業経営における合作社の比重を相対的に低下させた。また、ほとんどの農家は生産量ノルマを超過することができたために、農民が全体で獲得する籾米量は増加し、食糧の平準化を目的とする標準口量の意味は薄れた。

 一方で、家族請負時代前半のチャンハ合作社では、商工業が著しく発達し、経営構造が大きく変化した。煉瓦、草マット、竹すだれの製造販売など、チャンハ合作社が経営する商工業部門に多くの労働力が投入された。合作社の商工業部門の主力は合作社管理から除外された3つの共同作業に従事していた女性たちが担った。商工業の発達によって合作社の経営収益に占める現金の割合が増大し、農民が受け取る現金も集団経営時代に比べると格段に増えた。農業経営の面では農家に大部分を移譲した合作社は、商工業部門においては農外就労機会を農民に提供する機能を果たした。このような商工業の発達に伴って、合作社組織も拡大した。1970年代初めと1980年代初めとで比べると、この10年間に合作社幹部・職員に支払われた総籾米量は約3~4倍に増加している。1983年チエム期のチャンハ合作社の経営成績は、ティエンソン県内45合作社の内トップであった。

 しかし、1985年の東欧諸国への手工業品の輸出のストップは、チャンハ合作社の機能を麻痺させるほどの重大な打撃を与えた。合作社内の商工業が壊滅したことを契機に、ほとんどの農家では、女性たちが現金収入を求めて村外へ小商売に出るようになった。この時期、農家の家計収入に占める農外収入は、合作社内の生産部門で得られる労働点数に応じた収入を大きく上回っていた。すなわち、家族請負時代後半のチャンリエット村全体の経済に占めるチャンハ合作社の比重は急速に低下し、集団的経営システムは、ほとんど意味をなさないものになっていた。また、同じく1985年、配給制度が廃止され、統制経済が事実上崩壊した。生産財の高騰によって上昇した生産コストと国家の籾米買い上げ価格との間に生じた逆ざやの補填は、合作社の経営基盤をさらに弱体化させる結果となった。このように外的環境が大きく変化するなかで、チャンハ合作社では幹部の横領など不正事件が発覚するなど、身勝手な幹部の行動に対する農民の不満が高まり、合作社の権威は失墜した。

 合作社の経営変化に伴い、合作社の社会機能も縮小した。1980年代前半には若い保母を雇うなど、託児所の質を向上させることが目指されたが、商工業部門の壊滅により、多くの女性たちが小商売に出るようになると、合作社の労働時間に合わせた託児所の開所時間は、母親たちの労働形態の変化に対応できなくなり、まもなく閉鎖されてしまった。それに代わって、民間の託児サービスが始まった。

 第4章では、家族自主経営時代に入り、完全に農業経営権を手中にした農家の経営変化とそれに伴う農家間の経済格差について考察した。チャンハ合作社では、1992年に各農家に2006年までの「長期土地専有権証明書」が交付されることになったが、それに先立ち、1980年に分配されていた土地の再調整が行われた。各農家が3つの等級全ての土地を専有し、標準生産量を均一に保つという条件を満たすために、各農家の専有地は5筆から7筆ほどに細分化され、広範囲の地片に分散するなど、その土地専有状況は極めて零細で労働効率の低いものであった。

 農業経営の変化にともない、農作業も大きく変化した。農家が自身で種籾の保管と育苗に責任をもつようになると、実際に作付けられる種籾の種類は大幅に増えた。また、化学肥料の購入と散布などを自由に行えるようになったため、農民は必要量を村内の複数の小売り販売業者から現金で購入するようになった。共有の役畜の水牛も専門農家に払い下げられ、耕起・整地作業も専門の農家に移管された。このような変化のために、農作業時間も大幅に縮小したが、さらに農作業を効率化するために、移植や収穫の際に村外の日雇い労働者を雇用する農家が増加した。

 家族自主経営時代のもう一つの特徴は、個々の農家が行う農外就労が本格的に始まったことである。都市近郊村であるにも関わらず、チャンリエット村では野菜への転作などの近郊農業の拡大がみられなかった。同村において、相変わらず大半を占める作物は、全般的にみて手間があまりかからず、これまでの経験が活かせる稲作であった。兼業農家にとって稲作は、米が主食として重要であるというだけでなく、農業に労力を割きたくない農民の選択の結果ではないかと考えられる。1994年の時点で、農家の96パーセントが非農業部門から現金収入を得ていた。その内、就業人口が最も多いサンダル交換業は、村内で卸業者と小売業者の分業体制が確立している。

 チャンリエット村の農民の収入を世帯単位で正確に把握することは極めて困難であるが、1994年に筆者が行った世帯調査によれば、農家の農業収入(稲作、養豚、その他の収入を含む)と農外収入の割合は3対7で、明らかに村の農民の経済生活は農外収入に大きく依存していることがわかる。また、世帯当たりの平均年間収入は約550万ドン(当時55,000円相当)、月収にすれば約46万ドン(同4,600円相当)であった。世帯収入分布の特徴は、極端な高収入世帯が存在しないことである。さらに、もう一つの特徴は、世帯員の数にしたがって収入の増加がある程度認められることである。つまり、労働従事者の多さが総計としての収入の多さをもたらしている。このような農外収入の増大は、テレビやオートバイなどの耐久消費財の普及にみられるようにチャンリエット村の生活水準を大きく変化させたが、その一方で、上記の耐久消費財の有無にみられる農民間の生活水準の差は経済格差を反映している。

 第5章では、ドイモイ以降のチャンハ合作社の組織や経営内容がどう変化し、それに伴って機能がどのように変化したのかを明らかにした。1988年の10号決議の施行を機に、合作社の任務は、水利、作物防衛(病害虫駆除の予防)、農業指導・サービスに限定され、生産機能が大幅に縮小した。合作社は、上記の農業サービスの提供の他に、「規定費」と呼ばれる公租公課を各農家から徴収し、国家に納める行政代行機関としての役割を果たすようになった。「規定費」の内訳は、国家納入分(農地使用税、水利費など)、合作社基金(主に公共事業や社会福祉活動)、そして管理分(合作社幹部・職員の人件費、サービス料)で構成されている。合作社の収入源は、各農家から徴収する規定費のみとなり、財源が縮小し、それに伴いその経営基盤も縮小した。

 このように経営基盤が弱体化した合作社は、1990年代初め合作社共有地を個人の宅地用に売却することによって道路や変電所、水利施設の整備・修繕など比較的大規模な公共事業や、図書館、幼稚園、診療所などの公益活動を行う財源としたが、1994年以降は、規定費として徴収するわずかな公益基金のみが公益活動の財源となり、その活動範囲はより縮小した。それに伴い、合作社組織も縮小した。家族請負時代から家族自主経営時代にかけて、幹部・職員に支払われた労働報酬は半減した。

 チャンハ合作社は、1994年にそれぞれラン単位のチャンリエット合作社とビンハ合作社に分割され、翌95年には、約30年間にわたって築かれたチャンハ合作社時代の財産の分割が行われた。チャンハ合作社の基盤は明らかにチャンリエット村にあり、チャンハ合作社は極めて1村合作社に近い性格をもっており、ビンハ村からは全社合作社時期を除く約30年間で一度も合作社主任を輩出することはなかった。1995年に行われた村長の改選(1991年に設置)では、村長を兼務していた合作社主任が落選し、合作社幹部ではない退役軍人が新村長として選出された。それを契機として、これまでほとんど実体のなかったといわれていた「村政権」と合作社の間で、合作社の共有財産および公共・社会福祉事業をめぐって確執が起きた。「村政権」の実体化は、各行政組織の役割と権限を明確化することを目指した全国レベルの行政改革の流れに沿ったものである。すなわち、ベトナム政府および党中央が、合作社の権限や役割を限定する一方で、農村行政組織・村落の権限を強化した結果、このような事態が引き起こされたのである。

 終章では、以上述べてきたことから本研究の意味を検討した。従来の先行研究では、合作社と農民との関係は対抗的に描かれていた。このような解釈に対し、本論文は、実地調査によって明らかにされた結果に基づき、合作社が農民の組織という性格を強く持っていることを示すとともに、合作社と農民は常に対抗関係にあったのではなく、協力関係にもあったということを明らかにした。この研究に則していえば、平均主義的な分配を行うという合作社本来の制度的な「欠陥」のために、農民が合作社経営に対して常に非協力的な態度をとるという解釈はあてはまらない。少なくとも戦時経済時代の合作社内で行われた平均主義的分配は、農民たちにとって制度的「欠陥」というような決して消極的なものではなく、むしろ主体的に受け入れられていた側面がある。例えば、標準口糧に見られる所得再分配システムは、チャンハ合作社の集団的生産システム内で発揮された平均主義とみることができるが、それは社会的弱者を集団で支えるという極めて社会保障的な役割を果たした。また、合作社経営の向上が農民自身の生活の向上に直接結びついていたことから考えると、全ての合作社で、全ての時期に、そして全ての農民が集団経営に不熱心だったというわけではない。自由市場が極めて制限されていた時期においては、合作社内労働で手を抜けば、自身の収入も減ることを十分理解している農民が、合作社内労働に一定の積極性を見せても不思議ではない。

 本論文による実証研究の結果に則していえば、合作社は共産党中央・政府の統一的な政策の下で作り出されてきたものであったとしても、伝統的な自治組織であったランとの関係の中で定着していったということである。合作社は、まさに伝統的なランのただ中で、その組織を構成し、ランとの相互作用によって運営されてきたといえる。もちろん、伝統的なランが果たしていた機能は、そのまま合作社の機能と同一ではないが、標準口糧の所得再分配機能や平等主義的な土地分配方法などに姿を変え、継承されてきたと考えられる。以上から、合作社建設にみられるベトナムの社会主義革命は、従来の伝統的組織や社会関係を根底から変えたとはいえないのである。すなわち、ベトナムにおける社会主義革命の意味を、今後もう一度捉え直す必要があるのではないだろうか。

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