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博士論文要旨

論文題目:精神医療実践の社会学的記述―エスノメソドロジーからのアプローチ―
著者:河村 裕樹 (KAWAMURA, Yuki)
博士号取得年月日:2019年3月18日

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資料1 凡例
資料2 調査概要  
序章 本研究の問題設定と目的  
第1節 本論文の目的  
第2節 なぜ精神医療を社会学的観点から記述するのか        第3節 電気ショック療法が問うもの        
第4節 善/悪という価値判断の理解可能性                       
第1章 精神医療の臨床における展開  
本章の目的               
第2節 批判の対象としての精神医療       
第3節 反精神医学の展開            
第4節 ナラティヴ・アプローチ       
第5節 当事者研究と半精神医学          
第6節 日本の精神医療体制置          
第7節 小括          

第2章 精神医療と精神疾患についての社会学的記述の展開      第1節 本章の目的           
第2節 批判的ラベリング論         
第3節 シェフ=ゴウブ論争            
第4節 逸脱の相互作用論から構築主義へ     
第5節 トラブルの自然史や社会問題のワークの研究からエスノメソドロジーへ              
第6節 ループ効果              
第7節 小括              

第3章 エスノメソドロジー研究の方針   
第1節 本章の目的           
第2節 エスノメソトロジー研究の方針  
①インデックス性        
第3節 規範とヴァナキュラーな用語の使用への着目         第4節 エスノメソドロジー研究の方針    
②参与者の志向に即した記述     
第5節 エスノメソドロジー・会話分析に対する批判              
第4章 デイケアでの1日         
第1節 本章の目的               
第2節 朝の病棟の動きとカンファレンス   
第3節 プログラムが始まる前         
第4節 午前のプログラム        
第5節 昼休みにおける活動       
第6節 午後のプログラム        
第7節 終礼              
第8節 小括              

第5章 精神科デイケア自主性」の達成
第1節 本章の目的
第2節 本研究の位置づけ
第3節 方法誌
第4節 抵抗のうちに現れる自己
第5節 {職員-患者}カテゴリー集合とは異なる集合の要素として記述することを可能にする装置
第6節 {職員-患者}カテゴリー集第1節 本章の目的要素としての「患者」以外のカテゴリー付与装置としての部活動
第7節 カテゴリー集合の要素間の権利の非対称性を逆転させる装置としての手話の習熟
第8節 施設の透過性と抵抗の関係
第9節 小括

第6章 精神科外来診療場面における「非対称性」の達成
第1節 本章の目的
第2節 診療場面における非対称性についての会話分析による先行研究
第3節 会話分析に対する批判についての検討
第4節 精神科外来診療場面の会話分析研究
第5節 要望すること・要望を断ること――紹介状の事例
第6節 処方箋決定の事例
第7節 精神科診療場面であること
第8節 考察
第9節 小括

第7章 診療場面外における精神医学的知識を用いた「病者であること」の達成
第1節 本章の目的
第2節 本研究の位置づけ――専門知と経験知
第3節 相互行為としてのインタビュー
第4節 医学的概念と規範を用いた自己呈示
第5節 考察
第6節 小括

終章
第1節 本論文の要約
第2節 「参与者の志向に即した記述」を閉じること・拓くこと
第3節 本研究の貢献
第4節 本研究の限界と今後の展望
文献
謝辞

 序章では、「精神医療に対して様々な価値判断があるなかで、私たちは当の精神医療をどのように理解しているのだろうか」と問いを設定し、それを解くために「現代日本における精神医療という実践を参与者の志向に即して社会学的に記述すること」を本論文で行うこととして位置づけた。まず、精神疾患や精神医療はそれ自体、社会を探究するに当たり、きわめて重要なトピックであることを確認した。しかし、精神疾患や精神医療を対象とする社会学的研究は、精神医療や精神疾患に関して様々な問題があることを前提としており、総じて精神医療に批判的な観点から研究を進めてきたことを示した。たとえば「医療化」に関する議論は、それまで病理的な問題だとは見なされていなかった事柄が医療の対象とされ、それらが拡大していく過程を批判的な観点から論じている。だが、そこでいう問題とは誰にとっての問題であるのかが十分議論されないまま、批判だけが先行する状況を、電気ショック療法を事例として示した。そして電気ショック療法を批判する立場が主張する、電気ショック療法が有するとされる非人道性といった点が字義通りに当てはまらないということ、そのことの結果として、本来電気ショック療法で治療を受ければ回復していたかもしれない患者に対して、治療の選択肢を狭めるという場合があることを論じた。そして、本論文では、批判を前提とするのではなく、まずは精神医療をめぐる人びとの実践を記述する方針をとることで、精神疾患や精神医療をめぐる諸研究に対して基礎付けを行い、議論の前提を整えることが、本論文の目的であることを論じた。
 第1章では、記述の対象としての精神医療の展開を辿ることで、精神医療には人びとを解放する側面と、拘禁していく側面があり、さらに従来の拘禁という物理的に統制していく手段に代わって、薬物療法が主流となってきたことを示した。その上で、こうした精神医療に対する批判としてもっともラディカルな反精神医学の思想を整理した。そしてその思想を理論的な側面で支えたのがラベリング論であることを示した。その後反精神医学自体が活動として低調となっていくが、その後の展開のひとつとして、ナラティヴに着目し、構築主義とも合わさって、認識論的転換をもたらしたともいえるナラティヴ・アプローチの考えを検討した。そしてこうした動きが、精神医学的な専門知と対抗する知を確立しようとしてきたということを確認した。ただし、ナラティヴ・アプローチの場合は、反精神医学が主張したように、専門知を完全に否定するというよりは、それを逆手に取り、新たな専門性を打ち立てる方向性を有していたことを概観した。
 しかし2000年になり、当事者研究が登場することにより、専門知対経験知というそれまでの知の再配置が生じていることが、この10年で生じた精神医療をめぐる様々な立場・活動の特徴であることを指摘した。こうした知の再配置をそれまでの反精神医学になぞらえて「半」精神医学とみる議論も検討した。他方で、当の精神医療も、現状に手をこまねいているわけではなく、諸外国から見て明らかに異常である精神医療体制を変革し、地域への移行が進んでいること、しかしことはそう簡単ではないことを論じた。その上で、実は既存の精神医療体制の枠組みのなかで、デイケアが病棟と地域との緩やかな橋渡し役として機能していることをデータやその特徴を踏まえて示した。あわせて、デイケアに対する批判も検討し、今日の精神医療が抱える諸問題を一通り検討した。
 第2章では、第1章で確認したような多様な精神医療が展開し、そこで様々な活動が生起していることを踏まえるならば、患者を犠牲者と見なすラベリング論の観点は、現状を適切に捉えることはできないのではないか、という問題意識からその超克を試みるに当たって、そもそもラベリング論とはどのようなものなのかを論じた。そして、精神医療を対象とするラベリング論を展開したシェフのそれが、精神医療批判というイデオロギーを帯びていることを確認し、ふつう想定されるラベリング論と区別するために批判的ラベリング論と名づけた。次にシェフとゴウブのあいだで繰り広げられた論争を検討し、最後まで議論が噛み合わなかったことを確認した。次に、ベッカーのラベリング論に対する不満を取り上げ、逸脱をめぐる相互作用から構築主義へと向かう流れを確認し、オントロジカル・ゲリマンダリング問題と、構築主義的説明がはらむパラドクスについて検討を加えた。そして、こうした問題を克服する試みとして、トラブルの自然史や社会問題のワークの研究を取り上げた。しかし得られた知見を一般化する志向を有するという点で、現象の複雑さを記述するという本論文の方向性とは相容れず、その意味で問題の克服にまでは至っていないということを指摘した。最後に科学哲学者イアン・ハッキングによる構築主義批判のうち、ループ効果に焦点を当て、そうした効果が社会・歴史的な水準だけではなく、個人の水準でも起こるということ、そしてそのような現象を見ていくのであれば、まずは実践を見ていく方向があるのではないか、と結論づけた。
 第3章では、エスノメソドロジー研究の方針を示した。まず、記述の対象を批判するのではなく、その記述へと向かう方向があることをこれまでの章で見てきたことを踏まえて確認し、エスノメソドロジー研究と、既存の研究とを分かつ重要な方針であるインデックス的表現の修復について論じた。その際なぜ「言語(表現)」と「言語の使用」が問題となるのかを、いくつかの論考を手がかりに論じた。そのことを引き受け、規範に着目すること、そして、自然言語を専門用語へと置き換えていくのではなく、そのヴァナキュラーな使用にこそ着目するべきであるというエスノメソドロジーの視点を、ドロシー・スミスの「Kは精神病だ」と、マイケル・リンチの「適応実践」についての研究を具体的に検討することで明瞭にした。こうして、実践を記述していくという方針が確認されるに至ったが、その際「参与者の志向に即した記述」とは、何をどのように記述したらそのように言い得るのか、という点を、既存のいくつかの研究を手がかりに考察した。そして「複数記述問題」を研究者が解決する以前に、自然言語に習熟している者であれば誰であれ解決しているという事実を鑑みるならば、まずは研究者の解決を試みるのではなく、すでに現実の参与者によって解かれているその方法を記述していく方針こそが、エスノメソドロジー研究であることを示した。最後に、エスノメソドロジー・会話分析に対する批判を検討し、それらの批判にエスノメソドロジー研究が応えうること、このことを論じた。
第4章からは、具体的な分析へと進む。第4章と第5章ではデイケア場面での活動の実際と主体性とのかかわり、第6章では診療場面における非対称性の達成のなされ方、第7章は医療機関において語られた経験における精神医学的知識の用いられ方に着目してきた。
 まず第4章では、デイケアでの一日をエスノグラフィックに記し、時間と結びついた活動の記述を行った。そこでは、ゴッフマンが示してきたような公共の場であれば、逸脱行動として見なされるような行為が、デイケアでは特有のやり方でその文脈へと回収され、解決されていたことを、事例分析をとおして明らかにした。これはドロシー・スミスが指摘する「切り離し手続き」が行われる前に、デイケア流の解決があることを示していた。これらの記述を踏まえ、デイケアには(1)プログラムを通して、日常生活で期待される能力を用いることを患者に対しても期待されていること、(2)その期待に違背する場合が多々あったが、その都度解決が試みられることによって、ただちに問題とはされないある種の「適応実践」が行われていること、(3)これらの点があわさって、デイケアという場の秩序が成り立っていること、これらを論じた。
第5章では、第4章がデイケアの一日の流れをエスノグラフィックに記述したのに対し、プログラムやそれを支える部員制と結びついた活動を記述した。まずデイケアを透過的施設と位置づけ、ゴッフマンの全制的施設研究との関係を示した。全制的施設では、アイデンティティを保証するための様々な身の回りのものや名前が奪われることで自己の剥奪が生じるが、それを第二次的適応という形で取り戻す様々な営みをゴッフマンが論じたことを概観した。たしかに透過的施設であるデイケアでは、自己の剥奪とまで言い得るほどのことは起きていないが、自己の降格儀礼に類することは変わらず生じることを示した。そして、患者以外の、多様にラベル付けが可能なカテゴリーの担い手として患者を記述できるという点に着目し、そのような理解がどのように導かれるのかを、参与者のカテゴリー化実践に着目して記述した。そしてそれを可能にする仕組みとして、部活動という装置があり、その存在によって、職員と患者という対抗的なカテゴリー対が前景化しないような工夫がなされていた。デイケアを特徴付ける活動のひとつに「褒める」ということが観察できたが、それが観察可能なのは、部活動という装置によるということを明らかにした。
 第6章では、精神医療に対する根強い否定的な見解のひとつに、医師による患者の抑圧であったり、権力性を指摘するものがあるが、それがもっともよく現れるのが診療場面であることを先行研究を整理する形で論証した。とりわけそうした批判が、医師と患者のあいだの非対称性に基づく権力作用によるものだ、と指摘する研究が多いのに対して、会話分析研究が築き上げてきた知見のひとつとして、非対称性は所与ではなく、医師と患者によって達成されるものであるという視点を提示した。
そして、どのようにして非対称性は達成されるのかという問いを設定し、診療情報提供書についての意見と見解が医師と患者では異なる場面と、薬の処方をめぐるやり取りを事例として用い、分析を行った。その結果、既存の精神医療の診療場面についての研究にも示されているような、副作用や眠気の訴えを診療のトピックから引き離したり、その問題性を減じたりする医師の実践、言うなれば外交的なアプローチが行われていることが示された。ただし外交的なアプローチといっても、本章での事例は「交渉」と呼びうるやり方で意思決定の協働がなされていた。抑圧的である、権力的であるという記述は慎重に為される必要があることを、本章での分析は示している。
 第7章では、精神医療をめぐる活動は、なにも診察室やデイケア室といった場所や時間に限定されるわけではないということを示すために、患者が日々の生活の中で精神疾患概念をどのように用いているのかを、インタビューをとおして明らかにした。またエスノメソドロジーの観点からすれば、既存のインタビュー論における「相互行為としてのインタビュー」が実際のインタビューの分析ではいかされていないことを指摘し、こうした点にも注意を払いながらインタビューを分析した。その際、専門知と日常知の関係について整理したうえで、そうした区分が参与者にとってどのようになされているのか、ということを分析の中心に据えた。分析の結果、説明といったデータとしての価値が低いと見なされていた活動も、自己呈示という重要な活動の一部を成すことが示された。その際患者は、摂食障害者としての自己を呈示するそのアカウントに、疾患カテゴリーや規範を用いていたことが記述された。そうした方法において、疾患カテゴリーは、日常的な経験に意味を充填し、その人に固有の「摂食障害者」としての経験を理解可能にしていた。こうして、ある人の語りを比較していくのとは異なる方向性のひとつとして、経験の固有性を記述していくことの意義を示すことができた。
 最後に本研究の貢献として、(1)多様なデータを一貫してエスノメソドロジーという研究プログラムのもとに分析したこと、(2)知の布置連関の転換という点で、大きな変化が生じている医療社会学の文脈において、参与者の志向に即して、専門知と経験知の布置連関を記述したこと、(3)こうした議論を社会学上の知見の積み重ねの上に提示したことの三点をあげた。また社会学だけではなく、精神医療に対しても地域移行へと進む中で、「問題」と位置づけられた事柄が当人たちにとってどのように経験されるのか、というこれまでとは異なる観点からの記述を与えることができたという点で、幾ばくかの貢献を果たしたと論じた。本論文は、時代と地域について限定的である。またその観察の焦点に医師と非生物医学的な活動を十分に含むことができなかった点を課題として残すものの、精神医療を人びとはどのように理解しているのか、という当初の目的は達せられたものと結論づけた。

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