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博士論文要旨

論文題目:マックス・シェーラーの感情の哲学のアクチュアリティ
著者:横山 陸 (YOKOYAMA, Riku)
博士号取得年月日:2018年3月20日

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序 3
第1章 他者の心の知覚 4
1.1 他者の心の直接知覚のテーゼ 5
1.2 自他無差別な体験流のテーゼ 7
1.3 自己認識の可謬性と間主観性の可能性 12
第2章 心の概念の拡張 15
2.1マッハの現象主義とゲシュタルト心理学の成立 16
2.1.1マッハの要素一元論と「ゲシュタルト性質」 16
2.1.2ゲシュタルト心理学の成立 19
2.2シェーラーによるマッハ批判と「感覚」の所与性をめぐる問題 21
2.2.1マッハ哲学再考 21
2.2.2知覚における感覚の位置づけ 24
2.3知覚の生態学的な構造 26
2.3.1 身体意識としての「身体性」 27
2.3.2 環境世界の構造と衝動する身体 30
2.3.3シェーラーにおける身体概念の変移 33
2.4生命としての心 34
2.4.1生命プロセスとしての心身の統合 34
2.4.2生命的心の四段階論 36
2.4.3生命的心と身体表現の問題 40
2.5 〈生命としての心〉と〈精神としての心〉 43
2.5.1生命的心の知覚の条件 43
2.5.2生命的自然の学習プロセスとしての「自然との一体感」 44
2.5.3 生命の目的論的性格 49
2.5.4 現象学的記述と経験科学の知識との統合 51
2.5.5精神の理念化作用=本質直観と現象学的還元 53
2.5.6 シェーラーの知覚の現象学再考、本質直観の機能化 56
第3章 親密圏のコミュニケーションの形式としての愛 60
3.1 ニヒリズムの実践としての同情 63
3.1.1苦しみの再生産としての同情 63
3.1.2 感情体験のパースペクティヴ 65
3.2 感情共有の諸形式と「ほんとうの同情」 67
3.3.1感情の状態と志向性 67
3.2.2感情共有の四つの形式と「ほんとうの共感=同情」 68
3.3 コミュニケーションの形式としての人格愛 72
3.3.1同情の押しつけがましさと羞恥 72
3.3.2愛における自発性と言語的理解 73
3.3.3愛の対話的構造と規範性 75
3.3.4愛の対話的連帯と親密圏のコミュニケーション 77
3.4共感の厚さと広さ 78
3.4.1「厚い共感」と羞恥なき同情 78
3.4.2「距離のパトス」と親密圏のコミュニケーションのダイナミズム 81
3.4.3愛の規範性と共感の広さ 82
第4章 価値感情としての浄福と悔恨 85
4.1価値の存在と当為——人格価値 86
4.2観点としての価値と価値の階層性 90
4.3価値の充足感情としての幸福感と「浄福」 94
4.4価値と人格の連関としての良心の「悔恨」 97
4.4.1行為への「悔恨」 98
4.4.2悔恨における人格の変様と「共悔恨」論の限界 99
結論 103
参考文献 108
1. 欧文 108
2. 邦文 113


要約

 本論の目的は、マックス・シェーラー(1874-1928年)の感情に関する哲学的議論を再構成し、そのアクチュアリティを示すことであった。

 第1章では、シェーラーの他者知覚論を心身二元論の克服の取り組みとして解釈することを試みた。第1節では、他者の心=感情はその身体に表現され直接知覚できるという〈他者の心の直接知覚〉のテーゼを検討した。シェーラーは〈表現する身体〉を心理現象と物理現象との「シンボル関係」として説明するが、シンボル関係とは記号論的関係であるから、両現象のあいだには解釈が介在する。それゆえ他者知覚は現象レベルでは直接的だが、論理レベルでは解釈が介在することを指摘した。第2節では、シェーラーの〈自他無差別な体験流〉のテーゼを検討した。心的体験の知覚である内的知覚を、自己の心的体験の知覚に限定する〈内的知覚=自己知覚〉という伝統的な等式に対して、シェーラーは他者の心的体験は身体に表現され知覚できるから、内的知覚は他者の心的体験の知覚でもありうることを示す。そのうえ、たいていの場合、私たちは他者の心的体験を、特定の他者ではなく、たんに〈誰か〉の心的体験として無意識に知覚している。これが〈自他無差別な体験流〉としての他者知覚のレベルであるが、シェーラーはそれを「心理感染」と呼ぶ。本論はこの「心理感染」を無意識の学習プロセスと理解し、そこにおいて、共同体における心的体験の身体表現とその解釈の仕方が習得されていると説明した。こうした学習プロセスのおかげで、日常において身体表現の解釈は円滑に進み、現象レベルにおいは〈他者の心の直接知覚〉が成立すると解釈した。第3節では、シェーラーは〈内的知覚=自己知覚〉という等式を崩すことで、内的に知覚される心的体験が自己の体験でも他者の体験でもありえることを示すと同時に、自己の体験を他者の体験と取り違える自己認識の誤謬性という問題も提起していることを明らかにした。このことは、哲学史的には、〈自己認識の明証性〉という哲学の伝統を否定するとともに、本来的自己と「世人」自己というハイデガーの自己論を準備するものであるが、シェーラーにとっては、間主観性の可能性を切り開くものであった。

 第2章では、シェーラーの〈生命-精神〉二元論を〈生命としての心〉と〈精神としての心〉との連関として再構成し、心の概念の拡張として解釈することを試みた。第1節では、マッハの現象主義(2.1.1)とゲシュタルト心理学の成立史を概観した(2.1.2)。第2節では、シェーラーによるマッハ批判という文脈から(2.2.1)、シェーラーの知覚の現象学の構想を再構成した。シェーラーは要素還元主義を批判し、所与のものは感覚=要素ではなく現象の〈全体〉だというホーリスティックな知覚論を展開しつつも、痛みや飢えといった身体変化の感覚である有機的感覚の所与性を認めている点に本論は注目した。そして、知覚された〈全体〉から意識において感覚=要素が分化する際に、その起点として有機的感覚が機能することを明らかにした(2.2.2)。第3節では、シェーラーの知覚の現象学における知覚の生態学的な構造を分析した。身体変化の感覚である有機的感覚やそのつどの身体の断片的知覚が成立するためには、意識において統一体としての身体全体が同時に志向されていなければならない。この身体意識をシェーラーは「身体性」としてメルロ=ポンティに先駆けて分析していることを示した(2.3.1)。シェーラーはこの統一体としての身体を、身体意識から有機体としての身体へと読み換え、それを環境世界との生態学的な相関構造において捉えている。本論は環境世界から効力=刺激を受容しつつ衝動する身体という相関において知覚は成立し、その際、身体の衝動が知覚に方向を与えていることを明らかにした(2.3.2)。このように〈表現する身体〉から身体意識を介して〈衝動する身体〉へとシェーラーの身体概念は変遷している(2.3.3)。第4節では、この〈衝動する身体〉と心とが同一の生命プロセスとして統合され、この生命の衝動が今度は精神と対立されていることを確認したうえで、本論はシェーラーが生命としての心を動植物にまで拡張していることを指摘した(2.4.1)。続いて、シェーラーによる生命的心の四段階論を考察した。「感受衝動」から「本能」、「連合記憶」「知能」へ進むにしたがって、生命的心の衝動としての心的能力は発展するが、それらはすべて環境世界の構造の内部にあることを示した(2.4.2)。次に生命的心との関係で、再び身体表現の問題を取り上げ、人間以外の生物の心の知覚や共感が成立するのは、他の生物と人間とのあいだで生命的心の部分的な同型性が成立しているからだと説明した。そして、生物の身体表現を知覚する場合には、この心の同型性から説明できない表現は、心の表現として認めないという条件を設定することで、擬人化や投影論を防げることを本論は主張した(2.4.3)。第5節では、生物の身体表現を心の表現として正しく知覚するためには、同型の心を具えているだけでなく、それを学んで知っている必要があることを示した。また、その学習プロセスとして、シェーラーが「自然との一体感」と経験科学の知識という二つの可能性を示唆していることを明らかにした(2.5.1)。第一の「一体感」を本論は「ディオニソス的還元」と「愛に満たされた性愛」とによって、エロースとして象徴化された生命の衝動を自由に流動させ、自然との象徴的な一体感に到達すると説明した。そしてそれによって人間は、自分自身が生命的存在者であり、生命的心をもっていることを想起するのだと解釈した(2.5.2)。生命的心は目的志向的な衝動であるから、生命的心の理解は目的論を前提としている。だが、リッカートが指摘するように、因果論と違い目的論には価値が介在するため、その客観性が問題となるが、シェーラーはその客観性を上手く説明できていない(2.5.3)。シェーラーは目的志向的な衝動としての生命的心の現象学的記述を、当時の経験科学の知識と相互に参照し統合できる範囲に制限することで、記述された目的志向性が客観性から逸脱することを防いでいる。こうした現象と経験科学の知識との相互参照と統合というシェーラーのプラグマティックな態度に、本論はシェーラーの人間学的現象学の意義を見いだした(2.5.4)。しかし生命の目的志向性の現象記述と、因果関係を前提とする経験科学の知識とを統合するためには、目的論および因果論の外部のパースペクティヴが必要であるが、本論はそうした外部のパースペクティヴを精神としての心に求めた。そして目的論的な関係も因果関係も設定せずに、対象を把握し関係づける精神の心的能力として理念化作用を解釈した。さらにそれを可能とする現象学還元が、フッサールのそれと違い、世界の実在を意識の領野へと還元する観念論的自我論ではなく、自我の衝動を遮断して世界へと開かれる観念論的実在論であることを示した。このようにシェーラーの現象学的還元は、世界を意識へと還元しないので、知識に対する現象の特権化が生じず、現象と知識との統合という哲学的人間学の課題にとって、利点となっていることを示した(2.5.5)。最後に、精神的な心的能力である本質直観の機能化について考察した。知覚を実在的な連関に拘束すると同時に知覚に方向を与えていた衝動が現象学的還元によって遮断されると、知覚は本質直観=知覚となると同時に、自ら知覚の方向を形成していく。これが本質直観の機能化であり、以前に自分や他者が知覚した本質が、次の本質直観の形式として、この知覚を方向づけるのであった。したがって、シェーラーの知覚の現象学は、実際には、何重にも媒介された知覚であることがわかる。

 第3章では、精神の間主観的な感情である、シェーラーの共感と人格愛の現象学を、ニーチェの同情批判への反論として再構成することを試みた。第1節では、ニヒリズムの実践というニーチェの同情批判を検討し、これがいわゆる模倣による感情の再生産説であり、そうした感情共有の形式は存在するが、それは無意識の「感情感染」であり、同情ではないと結論づけた(3.1.1)。次に心的体験に関わる自他の体験を〈主語のレベル〉と〈帰属のレベル〉に分け、感情共有は〈帰属のレベル〉で成立することを示した。シェーラーは帰属レベルの自他を「個別的な体験自我」と呼ぶが、本論はそれを体験のパースペクティヴの実質と解釈した。そうすると他者と感情を共有するためには、感情を再生産する必要はなく、他者の心的体験を他者のパースペクティヴから追体験すればよいことを示した(3.1.2)。第2節では、さらに〈感情状態〉と〈何かを感じるという志向性〉とを区別して(3.2.1)、感情共有の諸形式を区別した。とわけ重要なのが、「感情感染」、「追感」、「共感」、「相互感情」であった。「感情感染」は他者の身振りの模倣によって無意識に他者の感情状態を再生産する。あるいは〈誰か〉の心的体験を自他の区別が融解した〈誰か〉のパースペクティヴから体験する。「追感」は他者の心的体験を他者のパースペクティヴから追体験し理解する。それに対して「共感」は他者の心的体験を他者のパースペクティヴから追体験すると同時に、私のパースペクティヴから参与する。「相互感情」は、体験を私と他者とが統合された〈我々〉のパースペクティヴから体験することを意味する。このうち、ほんとうの同情と言われるのは「共感」であった(3.2.2)。第3節では、同情の押しつけがましさというニーチェの批判に対して、一方的な同情ではなく、相互的な愛の対話的構造を解釈することを試みた。ニーチェは同情の押しつけがましさに対する防衛反応として羞恥という感情を強調する。(3.2.1)。「共感」が相手の身体に表現された感情の知覚であるのに対して、言語的理解は相手に尋ねるという自発性をもつ。しかしこの自発性は日常においてはそのつどの社会的関係によって制限されている。たとえば医者と患者という関係において、患者は医者のプライベートを何でも尋ねることはできない。だが、愛においては、社会的関係を越えて相手のパーソナリティを理解することが許される(3.2.2)。しかし愛において、愛する側の自発性は愛される側の自発性と対話関係にあり、もし相手が自らの内面を開示せず、沈黙するならば、愛は止まってしまう。対話的構造は、いつでも対話を止める自由、愛を止める自由を保証している規範的構造といえる。つまりこの構造によって、愛の内部における愛する側と愛される側との対等な関係と各人の自律が保証されると解釈した(3.3.3)。こうした愛の対話的構造をシェーラーは連帯と相互責任の構造として理解している。本論はそれを親密圏のコミュニケーションと解釈し、このなかで、愛する者と愛される者とは、相互に自らのナラティヴなパーソナリティを語り、それが相手に受け入れられ肯定されることを感じる。愛における相手の存在への参与を、シェーラーは身体知覚と厳しく切り離すが、それは間違いである。親密圏のコミュニケーションにおいては、とりとめない会話にも、身振りや表情といった身体に支えられて、相手の人格存在への参与や肯定が示される。それゆえ、愛のナラティヴィティを支えているのは言語だけでなく身体でもある(3.3.4)。第4節では、「共感」の厚さと広さを検討した。「共感」の厚さは、愛に基づいているが、それは他者の心的体験を追体験する際の彼のパースペクティヴの実質の違いに基づく。愛におけるコミュニケーションを通じて、相手のパーソナリティが理解されることで、彼の心的体験を追体験する際のパースペクティヴの実質は厚みをもつ。そして愛において彼は自ら内面を開示したのであり、羞恥という防衛反応を示さなかったのだから、愛に基づいた同情だけ羞恥を回避できる言われる(3.4.1)。ニーチェはさらに押しつけがましい同情からの「距離のパトス」を主張するが、シェーラーの愛の概念のなかにも「絶対的距離」を見いだすことができる。しかしそれを神との関係として理解する必要はない。相手のことをすべて知らないことは、相手についてさらに知りたいというコミュニケーションを続ける動機を与えると本論は解釈した(3.4.2)。最後に愛の規範性と広さについて考察した。対話的構造は愛の内部の規範ではあるが、外部にまで及ぶ規範ではない。また愛と共感はその範囲を制限されている。すべての人を愛し共感することはできない。そこで本論はシェーラーの「人格価値」に注目し、愛の外部にあるこの普遍的な価値を愛は基礎づけられないが、動機づけ各人の幸福に向けて具体化し、さらにそれによって公共圏に変動を引き起こす可能性があることを示した(3.4.3)。

 第4章では、シェーラーの価値倫理学を〈価値の階層性〉のテーゼから明らかにし、価値感情の諸相を考察することを試みた。まず第1節では、シェーラーにおける価値の存在性格を解明し、そこから当為がどのように導出されるのかを示した。それによって彼の価値倫理学が幸福主義的な傾向をもっていることを明らかにした。次に第2節では、こうした価値感情の分析を、ヴィンデルバントおよびシェーンリッヒの価値の超越論哲学と比較することを通じて、シェーラーにおける価値の階層性を、価値経験のスペクトルとして解釈することを試みた。第3節では、価値階層の最高次に位置する聖価値の意義を、価値の充足感情としての幸福感に注目して考察した。そして聖価値の充足感情である「浄福」を、あらゆる人格の幸福が理念的に肯定される道徳感情として解釈した。理念的な道徳感情である「浄福」に対して、第4節では、規範的な道徳感情である良心の「悔恨」に関するシェーラーの分析を取り上げた。良心の「悔恨」は、「この私が為すべきであった」過去の価値行為への「悔恨」からはじまり、為すべき価値行為をこれから実現するようこの私に迫る(4.1)。価値行為の実現は、私の人格存在の再構成、すなわち回心と再生を促すが、それによって「悔恨」は行為から存在へと展開する。シェーラーはそこに、悔恨の間主観性の可能性を見、同じ悪しき傾向性をもった者たちの「共悔恨」を構想する。しかし傾向性とは行為の可能性であり、実際に為した行為に対する罪責と悔恨に基づかないかぎり、「共同悔恨」は空回りしかねないと本論は「共悔恨」の構想を否定的に評価した。

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