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博士論文要旨

論文題目:近代満洲における農業労働力と農村社会
著者:菅野 智博 (KANNO, Tomohiro)
博士号取得年月日:2018年3月20日

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1、論文タイトルと構成
(1)論文タイトル
近代満洲における農業労働力と農村社会

(2)構成
序章
第1節 問題意識及び研究課題
第2節 先行研究及び本論文の意義
第3節 研究手法及び史料
第4節 各章の構成
第1章 近代満洲における村落の形成
はじめに
第1節 農業形態と開墾
第2節 村落社会の形成と雇農農家の移動
第3節 移動の動機と経路
おわりに
第2章 近代満洲における雇農と村落社会
はじめに
第1節 雇農の社会背景と労働形態
第2節 労働条件
第3節 長工の雇用と社会関係
おわりに
第3章 満洲における農業労働力の雇用と労働市場
はじめに
第1節 南満洲における工夫市の形態分析
第2節 工夫市の利用者と雇用方法
第3節 盤山県における工夫市と地域社会
おわりに
第4章 近代南満洲における農業外就業と農家経営
はじめに
第1節 満洲における農業外就業の展開
第2節 南満洲における農業経営と労働力
第3節 農業外就業の多様化と農家経営
おわりに
第5章 分家からみる近代北満洲の農家経営
はじめに
第1節 北満洲における農家経営形態
第2節 蒼氏の分家
第3節 分家に伴う農家経営の変容――大経営の拡大と中小経営の零細化
おわりに
第6章 東北地方における土地改革の展開と諸問題
はじめに
第1節 東北地方における国共内戦
第2節 土地改革の展開
第3節 土地改革に伴う農業生産の諸問題
第4節 互助組織と農業経営
おわりに
終章
第1節 各章のまとめ
第2節 結論
第3節 課題と展望

2、問題意識と研究課題、
(1)問題意識
 本論文は、近代における満洲農村社会の実態と変容について、特に農業労働力と農家経営との関係に着目して分析したものである。分析対象時期は、近代に入って本格的な開墾が始まった時期から中国共産党(以下、中共)による土地改革の時期までとした。
満洲の開発・開墾は近代以降に急速に進展し、特に鉄道が重要な役割を果たした。鉄道敷設は人やモノの移動を促して耕作面積を拡大させるとともに、沿線地域における農業の商業化も進展させていった。また、満洲の開発をさらに加速させる契機となったのが20世紀初頭における日本の満洲進出である。これによって、農業に加えて工業や鉱業などの諸産業も発展し、地域社会に大きな影響を与えることになった。そして、日本敗戦後、満洲は中共にとって中国国民党と対抗する上で極めて重要な地域になり、徴兵や食糧調達などの大衆動員が迅速に行われた。
したがって、満洲農村社会の実態を解明することは、日本による満洲支配の実態や特質を検討する上で有益であり、さらに「中国本土」を中心に展開してきた中国農村史研究にも比較の視点をもたらすことができると考えられる。また、かかる作業は、1945年以降の中共による政権浸透や社会主義体制下の農村社会の変容を理解する上でも不可欠である。

(2)先行研究と研究課題
 本論文では、日本植民地史研究と中国近現代史研究の2つの分野に分けて、関連する先行研究を整理し、その問題点を指摘した。日本植民地史研究から満洲を検討した諸論考では、満洲在地社会の状況や変容、満洲を取り巻く内在的要素について十分に議論されたとはいい難い。また中国近現代史研究から満洲を分析した諸研究では、満洲地域経済の特徴を端的にとらえてはいるものの、具体的な社会像を提示されていない。加えて、これらは分析時期を1945年までとしていたため、満洲農村社会の連続性や非連続性は必ずしも明らかにされていない。
以上の問題意識と先行研究の課題を受け、本論文では近代満洲における農村社会の実態と変容についての検討を通して、満洲における地域社会の特徴を明らかにすることを目的とした。そして、本論文は地域社会の実態をより詳細に考察するための一視角として、農業労働力と農家経営の関係に着目した。また、個別地域や農家レヴェルに着目したミクロな分析を行い、さらに土地改革以降の農村社会をも検討することで、各時期の満洲地域社会像をより深化させた。また、満洲と「中国本土」との比較を通して、満洲の農村経済や地域社会を総体的に理解することを目指した。

3、研究手法及び主要史料
(1)研究手法
 本論文では、日本植民地史研究と中国近現代史研究の両方のアプローチから、満洲の農業労働力と農家経営に対してミクロな分析を行った。農業労働力と農家経営の関係に着目したのには、主に3点の理由がある。第1に、雇農と呼ばれる賃金農業労働者は満洲の農村において重要な役割を果たしており、農業外諸産業の労働力にもなりえた。したがって、農業労働力の実態を明らかにすることは、満洲における農業の特徴や労働力の職種間の移動についても分析が可能になるからである。第2に、農業労働力問題を通して満洲における農業経営のあり方について検討することができるからである。第3に、農民や農家経営に焦点をあて、社会経済史の視点から土地改革と農村社会の関係、土地改革の意義や中共の政権浸透過程を考察することができるからである。
ミクロな視点から個別農家や村落の実態を検討した上で、地域間の比較と時期の比較を通して、満洲における各時期の各地域の特徴をより浮かび上がらせた。地域間の比較とは、南満洲と北満洲、満洲と中国の他地域を比較することである。時期の比較とは、近代以降の開墾から土地改革が完成されるまでという比較的長いスパンを対象時期に設定し、連続性や非連続性について分析することを差す。かかる比較分析を通して、満洲における各時期の各地域の特徴をより浮かび上がらせることができよう。
また、量的調査資料と質的調査資料とを組み合わせ、さらに、従来の日本植民地史研究で利用されなかった中国側の史料(地方新聞などの地方文献)及び筆者がフィールドワークを通して独自に入手した族譜などの史料やインタビュー調査の成果も用いた。

(2)主要史料
本論文の最も中心的な史料は、「満洲国」(以下、括弧省略)期に日本人によって実施された農村調査の報告書である。これらの調査報告書は、調査が行われた時代背景やその目的を考えれば、内容に少なからぬ問題点を有していることもまた事実である。本論文ではこれらの史料上の制約を乗り越えるために、複数の調査報告書を比較対照しながら利用した。加えて、旧編・新編地方志や文史資料などの地方文献、筆者による現地調査の成果を組み合わせながら活用した。この方法を通して、日本人による調査の成果や意義、限界を浮き彫りにするばかりでなく、より多角的な視点から地域社会の特質を照射することが可能となった。
さらに、各種地方新聞と檔案も本論文の主要史料である。各市・県レヴェルで発行されていた新聞には、土地改革の実施過程や農村社会の状況など地域に根差した記事が掲載されており、地域社会の動向を追跡する上で有意義である。また、檔案には土地改革時の村落状況や政策の展開過程、発生した諸問題などが記されており、政策実施側の視点から土地改革の目的や村落社会に与えた影響について検討することが可能となった。

4、各章の内容
第1章では、近代満洲における村落形成の過程について、雇農農家の移動から明らかにした。19世紀末に本格的に始まった満洲の開墾は、華北地方から移住してきた大量の移民によって進められた。彼らのほとんどは移住当初から雇農として雇用され、その後も長らく満洲で生活していた。多くの雇農農家は1930年代以降も村落間を転々と移動し、特に労働力需要のより多い北満洲においての移動がより顕著であった。彼らが移動する背景には、高賃金を目指す傾向もあったが、同時に重視すべきなのは居住地における生活困難であった。そして、移動先の選択には親族や知人などの社会関係が強い影響を与えていた。困難な生活の中、雇農農家は自らの関係を活用して生存を図っていた。
第2章では、満洲における雇農の雇用形態や労働条件などについて整理し、さらに年工の雇用からみえる雇用主と雇農との関係について検討した。満洲の雇農は職務や能力によって細分化されており、雇用主はそれぞれの地域の特性や農家の需要に合わせて、年工、月工、日工を組み合わせながら雇用していた。満洲の基幹労働力である年工は、主に近隣村落から雇用され、雇用の際には知人や親戚といった社会関係が極めて重要な役割を果たしていた。そして、年工の雇用にあたり保証人が必要とされることもあったが、保証人の責任は明確ではなく、契約書も交わされなかった。このことから、保証人、雇用主、雇農の3者のそれぞれの間には日常生活において一定の信頼関係があったことが推測される。雇用主と雇農の両者の間には、労働力需給関係に加えて、雇農農家が移動先を選定する際に大経営農家を頼るなど強い依存関係も形成されていた。これらの社会関係は、雇農農家の移動や雇用先選定を規定していた一方、年工がこれらの社会関係を積極的に利用して生計を立てていたという一面もあったと考えられる。
第3章では、1930年代の南満洲における工夫市の実態について、雇用主と労働者との関係、工夫市と地域社会との関係などから検討し、工夫市からみえてくる南満洲の農村社会の一端を明らかにした。近代以降の本格化した開墾に伴い大量の労働力需要が満洲で生まれたため、各地に工夫市と呼ばれる労働市場が急激に増加した。南満洲における工夫市の形態は、位置、歴史、時期、規模などの面においてそれぞれ地域的な特性を有しており、各県でみられた複数の工夫市は相互に補完関係にあった。また工夫市における賃金交渉は、ほとんど雇農と雇用主との直接交渉によって賃金が決定されていた。その交渉過程からみてとれる雇農の姿は決して受動的なものではなく、雇農が様々な労働条件を勘案しながらより有利な条件を選択できる場合もあった。また、歴史的発展過程や経営形態の違いにより、南満洲と北満洲の工夫市の形態には差異がみられた。南満洲の工夫市は「分散調整型」、つまり工夫市が分散しており、遠方の労働力を吸収するというよりも近隣の余剰労働力の調整弁として機能していたのである。一方、北満洲の工夫市は「集中分配型」、つまり県城の市に南満洲や華北地方からの労働者が吸収され、そこを中継地点としてさらに県内の村落に分配する役割を果たしていたのである。
第4章では、近代南満洲の産業化が進展していた地域における農村経済の実態について、農家経営と農業外就業との関係から検討し、そこからみえてくる南満洲の農家経営の特徴を明らかにした。農業中心であった満洲社会は近代、特に満洲国期以降の開発に伴って農業外諸産業が大きく発展し、農民がそれらの就業機会を選択することが可能になった。各農家は労働力を最大限に活用することを通して、戦略的な農家経営を展開していた。そして、農業外就業の選択肢が豊富なこれらの地域において、零細化は必ずしも農家の困窮を意味しなかった。零細化と農業外就業とは相互に関連しながら展開していき、農家に就業の選択肢をより多く提供することになった。
第5章では、近代北満洲における大農経営の特質と変容について、ある一族に焦点をあてて分析し、大農経営の解体過程及び解体に伴う農家経営の変容からみえてくる北満洲の特質を明らかにした。北満洲の綏化県蔡家窩堡の蒼氏一族は、1930年代の度重なる分家によって大きく変化した。蒼氏のように分家によって生産手段や労働手段、労働力が分散することは、北満洲における生産の合理性とは著しく背馳するものであった。分家後にいくつかの農家が合同して再び大経営化する戦略を採ったのも、このような土地や労働力の生産性を考慮した合理的な選択であったといえる。一方、十分な労働手段や労働力を有していなかった農家は、経営の重心を地主経営に移行したり、或いは小作経営を組み入れたり、雇農の雇用を増やしたりして、農家経営形態を変更していった。開墾から零細化までの過程が極めて短期間であったこと、さらに自然環境や農法などにより零細化が農家経営に与えた影響がより鮮明であったこと、零細化が必ずしも農業外就業の増加と同時に進展していなかったことなどが北満洲の特徴であったといえよう。
第6章では、1945年8月以降における中国東北地方の農村社会の変容を理解するために、土地改革や互助組織の実施・展開過程や、それらが農業経営及び農村経済にもたらした影響について分析を行った。東北地方で展開した土地改革は、農業生産の面から考えれば必ずしも合理的ではなかった。大農経営がより適合していた東北地方においては、土地、労働力、役畜、農具が分散したことで、却って多くの農業経営の問題が浮上した。中共は諸政策を通して役畜不足問題や労働力不足問題を解決しようとした。さらに、中共は互助組織の推進を通して、農業経営の諸問題の解決を目指した。各農家は様々な互助組織を通して、農作業の共同化や「大経営化」を推進することで、上述の問題を一定程度解消できた。しかし、これを単に中共の政策推進の成果としてとらえることはできない。むしろ、大農経営が合理的であったという東北地方の内在的要因がより重要な役割を果たしていたと考えられる。土地改革で浮上した問題を解決するために導入された互助組織の推進は、結果的に東北地方の農業生産の特徴と合致していたのである。

5、結論と今後の課題
(1)結論
本論文の結論及びその学術上の意義は主に以下の4点がある。
 第1に、満洲における農業労働力の実態を明らかにしたことである。農業部門と非農業部門を選択することが可能であった満洲の雇農は、「高度」な分業制のなかで農業労働に従事し、時期や季節によって農業外の諸産業にも就業することができた。雇農は、親戚や友人、地縁などの社会関係を利用しながら、日本の植民地支配のなかで一定の主体性を持ち、環境に順応しながら生活する側面をも有していたといえる。
 第2に、ミクロな視点から満洲の農業経営や農家経営の特徴と変容を分析したことである。南満洲は小経営自作農や小作農を中心に、北満洲は大経営農家と雇農を中心に農業経営が行われ、その経営方法にも大きな差異がみられた。また、農家経営の面についても同様の指摘ができる。南満洲では産業化が進展するに伴い、農家経営も多様化していった。一方の北満洲は農業外諸産業の発展が未熟であったため、零細化は必ずしも農家経営の多様化と同時に進展していなかった。すなわち、農家が経営の重心を地主経営に移行したり、小作経営を組み入れたり、雇農の利用を増やしたりなど経営形態を変える必要があった。
 第3に、近代以降からの満洲農村社会の連続性と土地改革以降の非連続性を解明したことである。近代以降、満洲の開墾・開発が急速に展開し、それに伴って土地の開墾、経営規模の拡大、分割相続による解体、経営規模の零細化、経営形態の多様化など農家経営の変容が当該時期にみられた。満洲国成立は一部の農村や農民に影響を与えたが、多くの農民は日本の植民地支配に対応しながら生活していたと考えられる。そして、中共による土地改革は、これまでの生産体制や農家経営のあり方を変化させる画期となった。特に東北北部の変化が顕著であり、大経営農家と土地無所有者層という構図が土地改革を経て再編成された。また、土地や労働手段の均分により多くの問題が浮上した。
 第4に、南満洲と北満洲、満洲と中国の他地域との比較を通して、満洲農村社会像を浮き彫りにした点である。当該時期の南満洲は、華北地方や江南地方における農業労働力の利用方法や農業経営及び農家経営のあり方、農村経済の発展モデルなどと類似していた。一方、北満洲は南満洲や中国の他地域と異なる形態で発展していた。すなわち、開墾から零細化までの過程が極めて短期間であったこと、さらに自然環境や農法などにより零細化が農家経営に与えた影響がより鮮明であったことが北満洲の特徴であった。また、土地改革が農民にとって必ずしも合理的ではなかったことについては、東北地方も中国の他地域と同様であった。しかし、土地改革が比較的容易に実施されたこと、それが農業経営に与えた影響がより深刻であったことが東北地方の特徴であった。さらに、土地改革で浮上した諸問題を解決するために取り組まれた互助組織の推進は、結果的に東北地方農業経営の特徴に合致しており、中国の他地域よりも効果的であった。

(2)今後の課題
本論文は、農業労働力と農家経営との関係に着目し、近代における満洲農村社会の実態と変容を解明できたが、少なからぬ課題も残されている。今後は、満鉄沿線以外の地域との比較を通して、満洲全地域社会の特徴を明らかにしていかなければならない。加えて、満洲における労働力問題の多様性を分析するために、農村と都市との関係に着眼して検討する必要があると考える。また、分析時期を農業集団化期まで延長することで、近現代東北地方の地域社会の特徴や中国農村社会の構造を長期的な時間幅で考察することも必要である。

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