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博士論文要旨

論文題目:統治と挑戦の時空間に関する社会学的考察―戦後沖縄本島北部東海岸をめぐる軍事合理性、開発、社会運動―
著者:森 啓輔 (MORI, Keisuke)
博士号取得年月日:2016年10月12日

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論文要旨
本論の問いは、沖縄本島北部東海岸における、統治と主体形成の連関を問うことであり、
具体的には以下の3 点であった。つまり、(1)占領統治の合理性を考察していくなかで、
軍政が北部東海岸地域をどのように占領したのかを考察すること(第2・5 章)、(2)戦後
の開発の系譜を辿りつつも、土地を軍事占領された当該地域がどのように開発の対象と
なったのかを考察すること(第2・3 章)、(3)そのような占領下の統治実践に対し、人々
がつむぎ出してきた抵抗実践を考察すること(第4・6・7・8 章)、であった。本論は各章
でこれら問いに対する考察を与えてきた。
第1 部「北部東海岸における戦後米軍統治̶軍事合理性・開発・社会運動」では北部東
海岸における施政権下の軍隊と資本の様々な編成過程に焦点を当てた。
第1 章「社会運動を通した統治性̶主体の関係的考察へ」ではまず、社会(科)学理論
および社会運動論をめぐる理論的潮流を踏まえた上で、本論が位置づけられるメゾ-ミクロ
統治と挑戦の時空間に関する社会学的考察
̶戦後沖縄本島北部東海岸をめぐる軍事合理性、開発、社会運動̶
はじめに
序章
第1 部 北部東海岸地域における戦後米軍統治̶̶軍事合理性・開発・社会運動
第1章 社会運動を通した統治性̶主体の関係的考察へ
第2章 占領と土地接収̶̶軍事基地によるエンクロージャーと生活基盤の喪失
第3章 統治者は北部東海岸森林地域をどのように統治したか̶̶領土統治と開発
が可能にする〈自由〉
第4章 国頭村伊部岳闘争と日本「復帰」̶̶ヴェトナム戦争と1970 年前後
第2 部 現代の米軍グローバルネットワークと社会運動
第5章 現代米軍基地海外ネットワークと沖縄本島北部開発の統治実践
第6章 高江のオスプレイ・パッド建設問題の浮上と米軍再編——1996 年−2007 年
6 月
第7章 高江の座り込みの展開̶̶2007 年7 月−2012 年10 月
第8章 直接行動の解釈学̶̶統治と挑戦の諸形態とその生成
終章
おわりに
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領域の重要性を論じ、この視角を批判的に統合するような理論形成を試みた。メゾ領域で
は特定の時空間をその対象とし、それがどのようにマクロないしはリージョナル・スケー
ルの諸権力から影響を受けるのかを明らかにし、かつミクロ領域においては、どのように
行為者から運動が形成されていくのかを明らかにすることができる。このように構造−文化
の結節点としての時空間の分析を行うための理論形成から、本論は出発した。
次に、軍事−資本主義的な国際関係において、米国グローバル統治システムの一部分とし
て戦後沖縄が成立する過程を理論的に捉える視座を提出した。最後に、占領下から現在ま
で行われてきた、琉球列島/沖縄における社会運動研究を批判的に考察した。
第2 章「占領と土地接収̶軍事基地によるエンクロージャーと生活基盤の喪失」では、
対日講和条約の締結以降に成立した北部地区の米軍基地の立地をめぐる占領政策が、どの
ようなメカニズムで北部東海岸地域を対象化したのかを考察した。戦前・戦中は、疎開先
や帝国日本の敗残兵の逃走先として北部地域はあった。沖縄戦終結(1945 年)から朝鮮戦
争(1950 年)までの間、占領主体となった米軍は北部地域にそれほど関心がなかった。し
かし朝鮮戦争以降、サンフランシスコ講和条約締結を経て、北部地域における新基地建設
のためのプライス調査団の沖縄調査(1955 年10 月)は、北部における人口や農業生産物な
どへ注目することになる。基地建設反対の動きは大衆運動としての反基地闘争を生じさせ
たが、海兵隊の基地は本島中部・北部を中心(辺野古のキャンプ・シュワブを含む)に建
設されていく。
戦中に、山中を彷徨いながら避難し、食糧難を経験した北部東海岸の人々は、戦後も「陸
の孤島」としての地位を余儀なくされるが、国頭村の与那−安田横断道路の建設のように、
村が主体となり造ってきた交通インフラが、林業で栄えた北部東海岸に可能性を与えた。
しかし他方で、林業の燃料革命による林産物の価格暴落などが影響し、林業集落は異なる
産業を模索することになり、その後山村部の農業開発が行われた。酸性土壌でよく育つパ
インアップルやさとうきびを主軸としたモノカルチャーが、これら地域で展開される。特
に施政権返還後の日本政府による農業振興は、村内で最も隔離されていた地域に含まれて
いた国頭村安田と東村高江を、農業集落として刷新する力を与えることになる。他方で同
村における農業従事者は減少を続け、とりわけ1995 年以降の産業構造の変動は、これら村
の行政に、新たな産業の育成を計画させるプッシュ要因となる。エコロジーに基づいた観
光産業はその中核的存在となっている。
第3 章「統治者は北部東海岸をどのように統治したか̶̶領土統治と開発が可能にする
〈自由〉」では、第2 章でのべた本島北部における森林地帯の成立過程を、占領主体
(GHQ/SCAP、USCAR)が、森林地域を統治の対象としていかに規定し再発見したのかと
いう視角を通して論じた。森林統治は戦後当初、人口位置に不可欠な対象として占領主体
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に見なされていたが、1950 年以降の復興期においてはUSCAR のみならず日本政府や琉球
政府との協力的統治として帰結する。この協力的統治は、戦後天皇制森林統治を米軍政に
おいて継続することとも重なっていく。「島ぐるみ闘争」以後、日本政府の琉球統治への行
政的介入が容易になる中で、琉球政府と日本政府の総合開発に基づいた山地開発が計画さ
れる。総合開発の視点は、林業の工業化に立脚したものであり、この工業化を成すための
知と資源を持たない琉球政府林野局は、自らを「遅れた」主体として確定していく作業の
中で、日本政府への従属的主体化を強くしていった。このような状況において、産業とし
ての林業は前述したように、消滅の一途を辿っていった。国頭村では辛うじて生き残った
林業は、東村では農業化の波に押されながら、歴史の波に埋もれていったのであった。
第4 章「国頭村伊部岳闘争と日本『復帰』̶̶ヴェトナム戦争と1970 年前後」では、
ヴェトナム戦争、復帰運動という同時代の出来事に相互的に誘発されて起こった、海兵隊
の新基地建設に反対する国頭村住民を中心とした直接行動である、国頭村伊部岳実弾射撃
訓練場建設阻止闘争(以下伊部岳闘争)の闘争の政治過程を考察した。伊部岳闘争は、1969
年11 月の佐藤・ニクソン会談により、基地が残留した形で日本「復帰」が決定した時期の
後に生まれた闘争であった。海兵隊第3 師団は、ヴェトナム戦争遂行のため1964 年に南ヴェ
トナムに司令部を移駐するが、1969 年11 月に再び沖縄に帰還する。移駐に伴い、米兵訓練
のための新たな訓練場の設置が急務となり、海兵隊はヘリ輸送訓練と実弾射撃訓練のため
の基地建設を秘密裏に進めた。これに対し住民を初めとした阻止勢力は、米軍の実弾射撃
演習の計画を知るやいなや国頭村阻止本部を形成し、村民で直接行動を行うことになった。
1970 年12 月31 日の直接行動は成功し、米軍の演習を村民が自力で阻止した闘争として画
期的な意味を持った。
他方USCAR と米軍は、村が主張した入会権や鳥獣保護区域などの存在を、独自の調査で
考察していた。これと並行して、日本野鳥の会や国際自然保護団体などが、ノグチゲラの
保護を求めて、国際ネットワークを活用しながら、実弾演習阻止を訴えるアクティヴィズ
ムを展開した。ヴェトナム戦争の泥沼を相対化するために、自然保護を打ち出したニクソ
ン政権の思惑、ヴェトナム戦争遂行のために実弾演習が必須であるとする第3 海兵師団、
施政権返還をスムーズに履行しなければならないUSCAR。伊部岳闘争は、これら統治形態
のそれぞれの戦略に、楔を入れる効果を生むことになった。つまり統治側の戦略の収斂を
限りなく阻止したことが、運動の成功に繋がったのである。
第2 部「現代の米軍グローバルネットワークと北部東海岸」では、現代における軍隊と
資本のグローバルな諸編成が、北部東海岸においてどのように連結されているのかを考察
した。
第5 章「現代米軍基地海外ネットワークと沖縄本島北部開発の統治実践」においては、
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西欧冷戦終結とは対照的に、東アジアで継続する冷戦と現代沖縄島北部について論じた。
東アジアにおける冷戦は、サンフランシスコ講和条約において確定された、矛盾を内包す
る国境領域に政治的緊張を与える形で継続してきた。施政権返還後の沖縄も、未だ冷戦構
造に絡め取られており、90 年代の米軍再編はその枠組みの現代的再編成を意味していた。
このような過程においてSACO 最終合意(1996 年)がなされ、辺野古をはじめとする東
海岸における海兵隊基地拠点建設が計画された。北部訓練場は、日米地位協定に基づく恒
久基地として、施政権返還後も残存することになる。SACO 合意の内容は、海兵隊が1971
年に北部訓練場の海岸線の確保が訓練場機能のために必須である、と述べたラインを踏襲
している。つまりSACO 合意の北部訓練場の北側返還は、1962 年に特別訓練地域として対
象化された南側を残存させ北側のヘリパッドをそこに移設し、一時使用していた安波訓練
場を返還させる条件として、安波区の海岸線と近隣海域を新たに接収するというものであ
る。この論理から北部訓練場の北側返還は、海兵隊の水陸両用訓練の新たに接収された恒
久基地使用による訓練の強化と述べることが可能である。安波訓練場の一時使用よりも、
使い勝手がよくなることは自明であり、これが北部訓練場の「過半」(50.9%)返還の論理
的内実なのである。
第6 章「高江のオスプレイ・パッド建設反対座り込みと米軍再編̶̶1996 年-2007
年6 月」および第7 章「高江の座り込みの生起と展開̶̶2007 年7 月-2012 年10 月」
では、東村高江におけるヘリパッド建設反対の座り込みを対象に考察した。1996 年のSACO
合意以降、北側の過半返還が日米政府によって合意された海兵隊北部訓練場の返還条件と
して、北側ヘリ着陸帯(以下ヘリパッド)の南側への移設が明記されていた。北部訓練場
の「過半」返還に伴う移設は、環境保護団体などから希少生態系を破壊するものとして多
くの批判や勧告が2000 年までにされてきた。SACO 最終合意から10 年後の2006 年に、日
米合同委員会でその位置が決定されるが、ヘリパッドは高江区の周囲に建設されることが
明らかになる。沖縄防衛局は建設開始を明言し、沖縄県や東村当局も建設を事実上認める
こととなる。そのような建設開始前夜の状況の中で、住民の中から直接行動で基地建設を
阻止する人々が現れることになり、座り込みの直接行動が開始された。
座り込みまでの政治過程で顕著なのは、国側の住民に対する建設理由の非常に杜撰な説
明と、村行政システムへの高江区の権威主義的系列化であった。国・県・村レベルで決まっ
たことなのだからしょうがない、ということを繰り返し区民に対して述べ、建設理由を防
衛機密だとして述べない国行政の態度は、住民の怒りを買うことになった。これは不満の
蓄積として帰結することになった。また、すでに辺野古の陸上/海上で行われていた直接
行動の経験が、高江の座り込みに文化−技術的な基盤を与えることにもなった。さらに、比
較的新しく移住してきた子連れの住民が中心となり、座り込みを創っていったことも、他
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の地域との相対的な状況の中で、現状の「杜撰さ」を認識させることになる。換言するな
らば、行政的権威主義、直接行動の文化−技術的実践、住民の現在経験している状況の相対
的理解という状況が、高江住民による運動生起をもたらしたメカニズムであった。
運動の支援の輪に視点を移すと、座り込み自体が運動のインフラストラクチャーとなっ
ている点が挙げられる。座り込みという技術あるいは出来事は、座るという一点において
様々な人々の主観的世界解釈を収斂させていく。特に高江の座り込みは、本島北部の山原
という自然環境と人間の関わりを全面に押しだす表象に満ちていた。80 年代以降の反戦反
基地運動の直接行動、有機農業、環境運動などの担い手が支援者として訪れ、また住民の
親密圏から繋がっていったミュージシャンやアーティストなどの支援団体・個人も、高江
の座り込みを形成する重要な支援者となっていった。運動は沖縄のみならず、東京などの
都市圏においても、この親密圏ネットワークを媒介しながら、緩やかに広がっていった。
他方住民は、国による裁判闘争に巻き込まれることになる。始めは非公開プロセスで行
われた裁判闘争は、その後公開裁判へとそのステージを変えた。2012 年には、MV-22 オス
プレイ配備反対の大規模な反対運動により、基地問題が全国規模で周知された時期であっ
た。しかしそれまで辺野古の陰に隠れる形で、県内でも周知されなかった高江の座り込み
が掲げたヘリパッド建設反対は、反対集会の声明には公式に盛り込まれなかった。基地問
題が全国化する一方で、高江のヘリパッド問題は、後景化される事態にある。
第8 章「直接行動空間の解釈学̶̶支配と挑戦の諸形態とその生成」では、座り込むと
いう直接行動が生成する諸空間について、様々な時空間スケールにより、他者と自己の統
治が形成される過程を、現象学的視点から論じるものであった。座り込むというその行為
により様々な意味づけが行われ、その意味づけにより所々の空間が成立することになる。
建設に反対する住民と、その敵手である工事を行う国家行政にとっても、この空間性がそ
れぞれの戦略として存在している。
直接行動の空間は第1 に、統治行政の権力スケールにより、行政的な遠隔操作をもって
主体化=従属化の抗争空間として成立する。第2 に直接行動の(時)空間は、歴史的象徴
的行為の時空間として立ち現れる。様々な意味世界を持つ人々の結節点としての座り込み
時空間は、それまで様々な運動を担ってきた諸個人のコミュニケーションの場と立ち現れ
る。第3 に運動の(時)空間は、個々人の生存(生活)を基盤とした主観的時空間(と非
人間)の連結としても現れる。住民の会のフライヤーやzine に現れるアニミズム的世界解
釈は、外見の異なる生物・非生物の内部に、つまり人間社会と自然に内的な連続性を見る。
この視点は座り込む住民の生業である有機農業とエコロジーの視点とも親和的であり、高
江に住まうことの人間−自然を包含した意味/記号世界における、時空間を形容している。
そこには身体的感覚が埋め込まれ、また身体そのものが世界解釈の中心的な起点となる。

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