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博士論文要旨

論文題目:近世仏教教団の教学統制と教化活動―東本願寺を事例に―
著者:芹口 真結子 (Mayuko, Seriguchi)
博士号取得年月日:2017年3月21日

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1.本論文の構成
序章 近世宗教史研究の成果と課題
はじめに
第一節 近世仏教史研究の展開
第二節 新たな研究視座の登場と分析の多角化
第三節 課題と方法
第一部 教学論争と教学統制
第一章 羽州公巌の事件と教学統制
はじめに
第一節 公巌事件の展開
第二節 公巌の教説の特質
第三節 公巌の「正統」化論理
第四節 公巌教説の影響
おわりに
第二章 教学論争と藩権力―尾張五僧の事件を事例に―
はじめに
第一節 尾張五僧の事件の展開過程
第二節 寺法と国法の相剋
おわりに
第三章 教学論争と民衆教化―加賀安心争論を事例に―
はじめに
第一節 加賀安心争論前史―文政元~二年央坊派遣―
第二節 加賀安心争論の展開
第三節 対立の具体相
第四節 争論解決への対応とその特徴
おわりに
第二部 教化活動の担い手と取締
第四章 教化活動をめぐる取締の構造と展開
はじめに
第一節 本山の教化活動規制の特徴
第二節 加賀藩領における教化活動の管理・規制
第三節 藩寺社奉行所による取締強化の背景
おわりに
第五章 〈俗人〉の教化活動と真宗教団
はじめに
第一節 久保田城下の真宗寺院と清次郎一件
第二節 清次郎一件の処理
第三節 民衆の教化活動と社会的背景
おわりに
第三部 文字化された教え
第六章 近世の講録流通
はじめに
第一節 公巌の事件関係記録の伝播と受容
第二節 講録流通の様相
おわりに
第七章 「問答体」講録について
はじめに
第一節 「示談録」の史料的性格
第二節 「示談録」の世界
おわりに
終章 課題と展望
参考文献一覧

2.先行研究の成果と課題
近世の宗教をめぐっては、辻善之助や、豊田武による議論の影響を強く受け、幕藩権力の宗教統制によって近世仏教教団が体制化し、僧侶の堕落を招いたとする歴史像(いわゆる近世仏教堕落論)が長らく保持されてきた。だが、1960年以降になると、近世仏教堕落論を乗り越えるべき対象と見定め、近世仏教の「生きた」側面を提示しようとした研究潮流も登場した。かかる潮流の象徴的な存在は、竹田聴洲や大桑斉などの近世仏教史研究者による、雑誌『近世仏教』(第1期:1960~1965年、第2期:1979~1988年)の公刊である。しかし、以上の研究においては、堕落論をいわば部分肯定するかたちで議論が展開されたために、新たな近世仏教像の構築を十分に進めることができなかった。
1970~1980年代になると、「堕落論の克服」という目的とは距離を取るかたちで、近世の宗教をめぐる研究が進められていく。それらは大まかに、①思想史研究と、②政治史・国家史研究の2つに分けられる。①思想史研究には、幕藩制イデオロギー論に影響を受け、近世仏教のイデオロギー的展開に注目する研究(大桑斉、倉地克直)と、民衆思想の観点から近世仏教を取り上げた研究(奈倉哲三、有元正雄)が存する。②政治史・国家史研究には、幕藩制政治史の立場から、近世初期~中期の幕府寺院行政の展開を検討した杣田善雄の成果や、朝廷も含めた近世国家権力の特質を探るという視座から、宗教者編成のあり方や宗教者集団の実態について検討した高埜利彦の研究を挙げることができる。このうち、特に②の研究は、近世史研究に対して宗教に注目する意義を示すものとなり、現在の近世宗教をめぐる関心の高まりを生み出す基盤となったといえる。
その後、身分的周縁論と接合しつつ、宗教者の編成や活動実態の解明が深化する一方、澤博勝の一連の研究に代表されるように、地域社会史研究の観点から近世宗教を取り上げた成果も生み出された。また、1990年代から育まれた書物研究の手法を導入し、宗教知の具体的な様相や、宗教者の思想形成過程などを検討した研究も数多く出されている。さらに最近では、幕藩領主の宗教政策の再検討や、宗教者間の教学論争における幕藩領主の関与のあり方を通じ、近世の宗教と政治の関係性についての議論が深まりつつある。
このように、近世宗教史研究では、近世宗教像を形づくってきた既存の枠組み自体の見直しと、近世の宗教に関する実証研究の深化が進められてきた。しかし、そのような動向と表裏を成すかたちで、議論が拡散化していく傾向も見出される。仏教教団の構造分析や、幕藩領主の宗教政策の見直しを進めている朴澤直秀の言葉を借りれば、「個別分析の成果を、宗派の特質や地域性に留意した上で総合化する動きは未だ乏しい」(朴澤「近世の仏教」『岩波講座日本歴史』(第11巻近世2)岩波書店、2014年、249頁)のである。尤も、宗派差や地域差の大きい対象である近世宗教を、個別分析に留めず、議論の総合化に寄与できるような研究を個人レベルで行う場合、近世宗教を解明する上で重要な要素や軸を打ち立てることが必要となろう。

3.本論文の課題と方法
以上の問題意識のもと、本論文では、教学論争の展開と、教説の流通の様相をトータルに検討し、近世宗教の特質の一端を明らかにしようとした。従来の研究が明らかにしてきたように、近世期になると、仏教諸宗派は幕藩権力から存在を公認され、自律的な教団運営を行うとともに、宗派の教学を研究する機関を設置して、僧侶の養成や教学の整備・研究を進めた。そのようななかで形成されていった教説は、僧侶による教化や、書物流通を介して民衆へと受容された。一方で、経典ならびに祖師等の著述の解釈をめぐる相違や、宗派間・諸教間の教説の差異によって様々な教学論争が生じ、ときに幕藩領主の介入も招くこととなった。このように、教化や教説をめぐる諸問題は、当時の思想や社会構造に規定されるかたちで立ち現れる。したがって、教化や教説への着目は、宗教を媒介項に、近世期の政治や思想の特質を探る上でも有効な切り口となると考える。
そこで本論文では、東本願寺(以下東派)の教学研究機関・学寮の総責任者たる講師をつとめ、精力的な民衆教化活動を行うとともに、各種の異安心(いあんじん、異端的教説を指す)事件の取調べなどを担った学僧・香月院深励(こうがついんじんれい)が所属する東派教団を主な事例として取り上げた。そして、教学論争の取調記録や、触頭寺院の史料、僧侶の法話を筆記した講録などを活用して、教説をめぐってどのような問題が惹起し、その問題に対して、幕藩領主と仏教教団が、それぞれどのように解決しようとしたのかを検討するとともに、社会へ様々な影響を与えた教説が、いかなるかたちで流布していたのか、法話に代表されるオーラルな伝達のあり方と、書物を介した流通のあり方の双方を分析した。

4.本論文の概要
序章では、これまでの近世仏教史研究・宗教史研究に関する成果と課題を示した上で、教化・教説をめぐる諸問題を取り上げることの意義を述べた。
第1部では、教学統制、および、教説の正邪を判定する権限(教学統制権)のあり方について、3つの教学論争を通じて分析した。
第1章では、享和2年(1802)に発生した出羽国酒田浄福寺住職・公巌の事件を取り上げ、公巌の教説の特徴と、その教説が異安心として判定されていく取調過程について検討した。公巌の教説は、独自の聖教解釈を下敷きにした救済論理のもと、三業帰命説など、本山で異安心と判定されていた教説を(限定的に)肯定するものであった。当時、三業帰命説は東西両派において問題となっていたため、公巌の教説は、学寮の取調べを経た上で、本山側によって異安心の裁断を受けることになった。なお、取調べで公巌は、学寮の基礎を形づくった講師・恵然の著述などをもとに、自説の正統性を講者に示そうとした。しかし、これは、講師の著述は自説の根拠を示す証拠にはならないとする講者側の認識によって否定されることになった。
第2章では、文化6年(1809)~同9年にかけて展開した尾張五僧の事件を取り上げ、教学統制権をめぐる寺法と国法との関係について検討した。本事件では、5僧が唱えた教説への判定をめぐって、寺法・国法触頭の名古屋御坊と、学寮との間に対立が生じた。この対立は尾張国内の門徒の騒動を引き起こし、尾張藩の介入を招くに至る。さらに、五僧への判定の表現をめぐり、本山側の判定と、藩の触文言に齟齬が生じた。藩は、教説の是非をめぐる判定への不干渉を標榜しつつも、国法の決定に合う寺法の取り捌きを本山へ要求した。本山は藩の要求を受けて五僧の判定文言を変え、五僧の取調べに関わった講者達を処罰した。先行研究では、幕藩権力は、本山による教学統制権に対して干渉しないと論じられるが、本事例からは、藩の対応が教説への不干渉という原則に基づいていたとしても、実態面では藩による教説の是非判断への干渉が生じていたことを窺うことができる。
第3章では、文政年間(1818~1830)に加賀国で生じた教学論争(加賀安心争論)を通じて、僧俗の動向が争論の拡大に影響を与えたことを示した。加賀国には、講師・深励と宣明双方の教学解釈が、講師自身、あるいはそれぞれの門弟による教化活動によってもたらされた。しかし、深励と宣明の解釈には相違点もあり、その相違が教化の場で顕在化し、対立を生じさせることもあった。その対立は、自身が信奉している教えと相違する内容を聞いた門徒が相手方を批判し、それを受けて僧侶同士が批判を繰り広げていくかたちで激化した。これに対し、本山と学寮は、両者の主張が前講師達の学説に基づいたものであり、さらに、格別異安心的な要素が見出せないことから、双方の主張は対立するようなものではないと結論づけ、両者の融和を図ろうとした。そうした本山・学寮側の対応は、争論の当事者に葛藤を抱かせるものであった。
第2部は、オーラルな教えの伝達と、教化活動の取締のあり方について論じている。
第4章では、寺院僧侶と旅僧の教化活動に対する取締の内実や、僧侶による教化活動の実態について、本山側の触や、加賀藩領の事例を通じて検討した。東派では、享保7年(1722)の制条により、原則的に組合寺院以外による法談が禁止された上で、各地の触頭寺院が、教化活動の取締の実務を担っていた。また、加賀藩領の事例からは、教化活動の取締をめぐるせめぎ合いが、藩と触頭寺院との間で展開されていたことが分かった。
第5章では、文化元年(1804)から翌年にかけて出羽国久保田に滞在し、同所の東派寺院と共に教化活動を行った清次郎をめぐる事件を取り上げ、俗人の教化活動に対する教団側の対応を検討した。本山は、統制の管轄外である俗人の教化活動を取り締まる際、教学統制権に基づく教説の是非判断をもとに俗人の活動の不当性を僧侶に示し、問題の収束を図っていた。だが、かかる対応では、本山の教説の範囲内にある教えを説く俗人の活動を排除することは困難であった。
第3部は、文字化された教えの流通について、講録を題材に分析した。
第6章では、講録を(1)学寮等での講義録、(2)法談・法話の筆録、(3)異安心取調関係記録、(4)問答体講録の4つに類型化した上で、(1)~(3)の流通について検討した。その結果、(1)は書林による「貸し本」での流通と、個人の貸借等による流通によって、その他の講録は、個人の貸借等による流通によって、それぞれ伝播していたことが明らかとなった。
第7章では、まず、学僧と門徒の問答を記録した体裁の講録があることに注目し、それを「問答体講録」と定義して類型化した。その上で、文化9年(1812)4月に本山へ来訪したとされる、筑後国の6名の門徒と深励との問答を「記録」した「示談録」を取り上げ、流布のあり方や内容の分析を行った。この示談録は、僧侶が教化の場で直面しうる論点を網羅したものであると同時に、問答体講録の中でも物語性が強く、豊かな内容を持つものであった。ゆえに、示談録は、僧俗に受容されていたのである。
終章では、これまで論じてきた内容を整理した上で、今後の課題と展望を示した。

5.本論文の成果と課題
本論文の全体を通じて、東派教団による教化活動の取締のあり方や、かかる取締からの逸脱を含む僧俗の活動の実態、学寮が教学統制権の実質的な担い手となることによって生じた事態などについて明らかにした。
では、これらから見えてくる、教化と教説をめぐる近世宗教の特質とは何であろうか。それは、信仰が、宗教知の広範な流通・受容によって支えられるあり方である。学僧から俗人まで、様々な立場にある人々が、オーラルな教えの伝達と受容、そうした教えが文字化された写本の伝播などを介して、自身の信仰や思想を形成していった。しかしそれは、異安心の発生や、取締から逸脱する教化活動のように、仏教教団や幕藩領主が望まない状況も生み出すものでもあった。こうした動向をいかに統御し、教団を運営していくのかが、近世仏教教団の課題であったといえるだろう。触頭による教化活動の管理や、学寮による教学統制のあり方は、そうした課題への対応策の一つだったのである。
以下、まずは本論文の成果から見える近代への見通しについて述べていく。近世期においては、本山の教学統制権が幕藩領主から保証され、教説の内容そのものに対して幕藩領主が干渉することは基本的にない。また、教化活動の場で語られた内容に対しても、その是非が領主から問題にされることはなかった。ところが、近代に入ると、例えば、教導職制度において、特に明治5年(1872)11月以降、説教の内容についての制限が明確化され、説教の指針として設けられた三条教則から逸脱する教えを説くことが規制された。ここからは、近世期と異なり、教化活動の場における語りへの規制を、国家権力が積極的に行っていく様を見て取ることができる。とはいえ、近世の宗教もやはり、ときの国家権力が許容する範囲で活動を展開していたのであり、そこには様々な抑圧や矛盾が存在した。こうした抑圧や矛盾の存在に目を向けながら、近世と近代の宗教政策の相違が、教化や教説をめぐる諸動向にどのような影響を与えたのか、考察を深める必要があるだろう。
次に、以上の見通しを踏まえつつ、現段階の課題を4点にまとめた上で、今後の課題について述べていきたい。
1つ目は、学寮が教学統制権の実質的な担い手となる以前における、教学統制のあり方の解明である。具体的には、明和期以前の異安心事件(学寮が異安心の取調べを行うのは明和期以降である)が、どのようなかたちで処理されていたのかを分析し、近世期の教学統制権の通時的な展開を描き出すことが求められる。それにより、本論文が扱ってきた近世後期における教学統制権の特質が、より具体的に見えてくるだろう。
2つ目は、近世社会に流通し、受容された教説の内実を明らかにすることである。具体的には、本論文が注目した講録を活用し、その内容分析を進めながら、近世期の教化活動の実態や、教説の内容に関する具体像を描いていきたいと考えている。
3つ目は、民衆側の意識・行動に関する究明を進めることである。本論文でも、教学論争における門徒の動向や、俗人による教化活動、教化活動を支える門徒の姿など、できる限り門徒達の意識・行動に関わる事柄を取り上げるように努めた。しかし、教団側から異安心と判定される教説を人々は何故受容したのか、当該期の人々が求める教えとは何であったのか、十分に分析できたとはいえない。今後は、これまで用いた本山や触頭寺院の史料もフル活用しつつ、一方で、先程述べた講録ならびに、一般寺院や講の史料、村方の史料なども利用しながら、人々の意識・思想を組み込んだ、より立体的な歴史像を描出することを目指したい。
4つ目は、他宗派の事例分析の必要性である。本論文で検討した教化活動の取締のあり方や、教学統制の仕組みは、どの程度一般的に見られるのだろうか。具体的な事例に即して検討し、近世期の仏教教団における教化・教説の全体像を示す必要が残されている。
以上の課題に取り組んだ上で、先に触れた近代の宗教をめぐる動向が、近世期における歴史的展開をどのように継承し、あるいは断絶するかたちで展開されたものであったのか、解明していきたいと考えている。それは、近代における宗教政策の捉え直しを進めるものになると同時に、近世宗教の歴史的特質を描き出すことにもつながるだろう。

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