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博士論文要旨

論文題目:近世後期北奥の豪農・豪商の思想形成
著者:鈴木 淳世 (SUZUKI, Yoshitoki)
博士号取得年月日:2016年11月30日

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1、本論文の構成

序章 本稿の課題
 前置き
 第一節 研究史整理
  第二節 本稿の課題
第三節 八戸藩の概要
 第一章 淵沢定啓の蔵書形成
  はじめに
  第一節 軽米町淵沢家の概要
  第二節 淵沢定啓の蔵書形成
  第三節『四書示蒙句解』抜書の特徴
  おわりに
第二章 淵沢定啓の書物受容
はじめに
第一節 天保期の書物受容
第二節 弘化・嘉永期の書物受容
第三節 安政期の書物受容
おわりに
第三章 淵沢定啓の経営思想
はじめに
第一節 淵沢家経営の概況
  第二節「国産」政策への関与の影響
第三節 飢民救済活動の責務
おわりに
第四章 淵沢定啓の鉄山支配
はじめに
第一節「鉄山支配人」の性格
第二節「鉄山支配人」の経営
  おわりに
第五章 石橋憲勝の経営思想
はじめに
第一節 寛延・宝暦飢饉の影響
第二節 石橋憲勝の飢饉対策
第三節 石橋憲勝の書物受容
  おわりに
第六章 八戸藩領の書物流通
はじめに
第一節「大仲間」の概要
第二節「大仲間」以外の活動
第三節「書物仲間」の影響
  おわりに
終章 本稿の成果と今後の課題
はじめに
第一節 北奥地域の《地域性》
第二節 十九世前半の《時代性》
第三節 益軒研究に関する論点
おわりに

2、先行研究の成果と課題
本論文は、19世紀前半の北奥地域(現東北地方北部)をフィールドにして、豪農・豪商の思想形成(蔵書形成・書物受容)を、彼ら自身の経営の実態や当該地域の社会・経済状況を踏まえて検討しようとするものである。
近世の豪農・豪商に関する先行研究として、まず想起されるのは、1970年代頃に佐々木潤之介氏が展開した豪農―半プロ論(世直し状況論)である。豪農―半プロ論とは、宝暦・天明期以降の商品経済の浸透によって階層分解が進展し、豪農・小生産者・半プロレタリアート(以下「半プロ」に省略)の3階層に分解していく傾向にあったとされ、豪農は半プロの対極的・非和解的な存在であったと論じられた。それに対して、1990年代頃から渡辺尚志氏は豪農―半プロ論の批判的継承を目指して豪農類型論を展開している。豪農類型論とは、近世中期以降の豪農を、①「草莽の志士」型豪農、②在村型豪農Ⅰ(村との共生志向型豪農)、③在村型豪農Ⅱ(自己経営最優先型豪農)、④「権力―村」連携型豪農、⑤回避型豪農に類型化したものである。最近では、岩田浩太郎氏が豪農類型論を批判し、大規模豪農と中小豪農の立場性の相違を強調している。岩田氏自身が大規模豪農と巨大な城下町商人を類似の存在として位置づけていることなどを踏まえれば、豪農・豪商の立場性の相違は《経営規模の差異》によって生じてくると論じられているとも言い換えられよう。しかし、豪農・豪商の立場性を考える上では豪農・豪商の思想分析を行う必要がある。一人の人間の思想も時期によって変化することを考慮すれば、豪農・豪商の思想形成を詳らかにし、立場性の相違が生じてくる理由・背景を解明することが課題の1つと思われる。
本論文で取り上げる北奥で、他地域の豪農・豪商に相当する存在は、名子主的村落支配者層(以下「名子主層」に省略)である。先行研究によれば、彼ら名子主層は自家経営の維持・発展のため、「名子」と呼ばれる隷属小農や、「下人・下女」と呼ばれる奉公人を使役し、農業・商業を大規模に展開していた。同時に、名子主層は「高利貸機能を通じ多くの「作人」を従属させつつある質地地主でもあり、さらに村請制による徴税請負人として共同体再生産機能を担わされ、そして「自立」小農・隷属小農の非自給物資の供給者としての商人的機能」を持っており、村落共同体のうちで中心的な役割を果たしていた、という。先行研究では豪農―半プロ論を下敷きにして、19世紀前半の名子主層は名子・貧農層と敵対的な関係にあったと論じられてきたが、豪農―半プロ論への批判が出てきていることを踏まえれば、名子主層のイメージを是正していく必要もあると思われる。
思想史の領域でも、豪農―半プロ論への批判を試みた研究が、いくつかある。それらの研究では、豪農が儒学や国学などの所説にもとづき、村落共同体との共生を志向していたと論じられる傾向にある。ところが、それらの研究では「伝記」の記述や著作のテキスト分析に終始し、経営分析を行っていない。豪農・豪商が常に思索にふけっていたわけではなく、彼らの主要な関心の一つには必ず《家》の経営があったと想定されることを踏まえれば、テキスト分析のみで彼らが村落共同体との共生を志向していたとは論じられない。よって、豪農・豪商の思想形成を詳らかにするためにはテキスト分析と経営分析を組み合わせて検討する必要があると思われる。さらに、最近、若尾政希氏が上層農民の蔵書形成・書物受容や、その背景の書物流通・書物貸借の状況を詳しく検討し、思想形成の過程を分析していることに学べば、蔵書形成・書物受容や、その背景の書物流通・書物貸借の状況を検討した上で思想形成を論じる必要があると考えられる。ところが、いまだ豪農・豪商の蔵書形成・書物受容や書物流通・書物貸借の状況についての事例研究は少ないため、現時点では事例研究を積み重ねていく段階にあると思われる。
 要するに、豪農・豪商の立場性の相違を明らかにするために彼らの思想形成を詳しく検討する必要があるが、その場合には蔵書形成・書物受容や書物流通・書物貸借の状況を踏まえ、かつ経営分析を合わせて行う必要がある。

3、本論文の課題設定と方法
 以上の先行研究の課題を踏まえて、本論文では、19世紀前半の北奥地域をフィールドにして豪農・豪商の思想形成を検討し、豪農・豪商の立場性の相違が生じてくる理由・背景を解明することにしたい。具体的には、先行研究で森嘉兵衛氏が名子主の典型例として挙げられていた八戸藩領陸奥国九戸郡軽米町(現岩手県九戸郡軽米町)の豪農・淵沢円右衛門定啓(?~1871)に着目し、彼の思想形成を明らかにしていく。合わせて、先行研究で守屋嘉美氏が八戸藩の藩政改革(文政改革)の中心人物の一人であり、領主権力と密接な結びつきを持っていたものとして特筆していた八戸城下(現青森県八戸市)の豪商・石橋家(屋号:西町屋)の人びとの思想形成も検討し、淵沢家と石橋家の比較を通じて、両者の立場性の相違が生じてくる理由・背景を考察していく。

4、本論文の概要
 序章では、従来の豪農論・中間層論や思想形成に関する研究史を整理し、19世紀前半の北奥地域をフィールドにして豪農・豪商の思想形成を検討し、豪農・豪商の立場性の相違が生じてくる理由・背景を明らかにする意義を示すとともに、具体的な分析方法や本論文の構成を示した。
 第一章では、軽米町の豪農・淵沢定啓の基礎情報を明らかにするとともに、彼の諱(実名)の変化の時期を確定し、それによって蔵書形成の画期を詳らかにした。その結果、天保9年(1838)11月以降の時期に定啓が荻生徂徠(1666~1728)の著書『訓訳示蒙』などの様々な書物を入手・読書していたことが明らかとなった。特に天保15年(1844)2月以降、定啓が朱子学者・中村惕斎(1629~1702)の四書註釈書『四書示蒙句解』を読み、その詳細な抜書を作成していたこと、そして「誠意」・「中庸」・「自欺」・「慎独」・「順利」・「桀」などの語句に強い関心を持っていたことも特徴として指摘した。
第二章では、定啓自身の著書『用字集』・『遺言』・『軽邑耕作鈔』・『牝駄畜録』・『遺忘倢』・『教訓歌』の分析を通じて書物受容の画期を明らかにするとともに、彼の思想的な変化について論じた。その結果、比較的早い時期に定啓が貝原益軒(1630~1714)の教訓書『大和俗訓』を読み、天保4年(1833)12月作成の『遺言』で、陰陽を司る「天道」への畏怖を前提にして「利欲」の抑制を説いていたことが明らかとなった。また、安政3年(1856)2月作成の『伊呂波分教訓歌』では、『大和俗訓』・『四書示蒙句解』の所説を織り交ぜ、陰陽を司る「天道」への畏怖を前提にして「欲と怒」の抑制を説くとともに、「聚斂の臣」批判を展開していたことも指摘した。
第三章では、『遺言』に示された天保初期の定啓の経営思想が、実際の行動にどのように反映されていたのかを検証した。その結果、定啓が軽米町周辺の酒屋たちとの協調関係の維持に努め、天保飢饉時に自家の名子や「出入の者」を優先的・積極的に救済し、彼らとともに生業を営むことを志向していたことを明らかにした。
第四章では、惣百姓一揆(稗三合一揆)が発生した天保5年(1834)前後の大野鉄山(現岩手県九戸郡洋野町)を分析対象とし、惣百姓一揆前の「鉄山支配人元〆役」の石橋徳右衛門寿秀(1766~1838)が主に領主権力の利益のために行動していたのに対して、惣百姓一揆後の「鉄山支配人元〆役」の定啓が主に「百姓」救済のために行動していたと論じた。同時に、定啓が領内統治のために利用され、「鉄山支配人元〆役」退役後の鉄山労働者からの貸付金回収において苦悩・葛藤を深め、朱子学に惹かれていった経緯について考察した。
第五章では、視点を変えて、大野鉄山支配において豪農・淵沢家と対照的な行動をとった八戸城下の豪商・石橋家の人びとの経営思想を検討し、定啓の経営思想の特徴を逆照射した。特に、寿秀に強い影響を及ぼした5代目当主・石橋徳右衛門憲勝(1722~1804)の経営思想を分析した結果、憲勝が寛延・宝暦飢饉の体験を契機として、仏教的な因果応報思想にもとづいて様々な経費節約を説き始めたことが明らかとなった。また、その因果応報思想が寿秀にも受け継がれていたことも詳らかにした。合わせて憲勝の蔵書形成・書物受容も検討し、彼が後半生に『五倫書』・『素書国字解』・『彝倫抄』などを読み、家族の和合によって《家》の維持・発展が実現されると説くようになっていったことも指摘した。
第六章では、豪農と豪商の行動・思想の差異が生み出された背景を探るため、八戸藩領の書物の貸借ネットワーク(書物仲間)に着目し、書物の入手経路の差異を明らかにした。その結果、石橋家が関与していた書物貸借組織「大仲間」と、淵沢家が所属していた書物貸借組織「軽米仲間」の文化的嗜好性の差異を詳らかにするとともに、石橋家・淵沢家双方の蔵書形成・書物受容のあり様に影響を及ぼしていたと指摘した。
 終章では、本論文の内容を総括し、今後の課題と展望について述べた。

5、本論文の成果と課題
(1)本論文の成果
①19世紀前半の北奥の豪農・豪商の多様性
要するに、19世紀前半の北奥の豪農・豪商は、領主権力から何らかの負担を転嫁される存在であったという点では共通するが、名子・貧農層の利益に配慮して行動する淵沢定啓や、領主権力の利益を優先して行動する石橋寿秀など、様々な立場性のものがいたと言える。渡辺尚志氏の豪農類型論にもとづき、強いて分類すれば、定啓は村落共同体の再編を重視する在村型豪農Ⅰ(村との共生志向型豪農)に近い性格を有しており、寿秀は自己の経営拡大・利益追求が中心目的である在村型豪農Ⅱ(自己経営最優先型豪農)に近い性格を有していたとも考えられる。従来、豪農・豪商は名子・貧農層と敵対的な関係にあったと論じられてきたこと踏まえれば、少なくとも一概に豪農・豪商を名子・貧農層と敵対的な存在であったと見なすことはできないと結論づけられる。

②豪農・豪商の性格を分岐させる文化的な要因
 また、論証の過程で石橋家と淵沢家には大きな《経営規模の差異》があったことも確認できた。従来の豪農論・中間層論で《経営規模の差異》が豪農・豪商の立場性を分岐させる要因として挙げられていることを踏まえれば、石橋家がいち早く領主権力と結びつき、結果的に淵沢家との相違が生じた一因として《経営規模の差異》を挙げることもできるかもしれない。しかし、テキスト分析と経営分析を組み合わせて思想形成を検討した結果、石橋家の人びとが領主権力と結びついた後、武士身分のものたちと文化的嗜好性を共有し、易姓革命論批判に惹かれていったのに対して、淵沢定啓は益軒本の読書から朱子学の学習へと進み、易姓革命論を視野に入れた形で「聚斂の臣」批判を展開するという顕著な相違が見出された。そして、石橋家が関与していた「大仲間」の文化的嗜好性と、淵沢家が関与していた「軽米仲間」の文化的嗜好性は、石橋家・淵沢家双方の蔵書形成・書物受容のあり様にも反映しており、両者の立場性が分岐してくる背景には、書物流通の身分的・地域的な偏差があったとも考えられる。言い換えれば、石橋家と淵沢家の立場性の相違は《経営規模の差異》のみならず、書物流通の身分的・地域的な偏差が助長した可能性があると付言できよう。

③書物流通の偏差の規定性
 さらに、19世紀前半の北奥で書物流通の身分的・地域的な偏差が存在したこと自体も興味深い点である。思想史の領域で、専ら豪農・豪商を在村型豪農Ⅰに近い性格と見なし、彼らの志向性に沿う形で蔵書形成・書物受容がなされたと説かれていたことを踏まえれば、実際には、書物流通の状況は一様ではなく―好きなものを好きなだけ読めるわけではなく―書物流通の偏差が存在しており、その書物流通の偏差自体が豪農・豪商の思想形成を、一定程度規定する可能性があると提言できよう。

(2)今後の課題
 ①飢饉体験が豪農・豪商の思想形成に与えた影響、②「書物仲間」に類似した書物貸借組織の発掘、③蝦夷地の紛争処理のために兵学を重視する《地域性》、④対外的な危機意識の高揚に伴い、兵学の重要性が再認識された《時代性》、⑤「国家」意識が高揚し、「国益」・「国産」政策が展開された時代背景、⑥豪農・豪商が朱子学を本格的に学び始めた理由を考慮する必要がある。さらに、⑦個々の益軒本の思想的な特徴を踏まえて、⑧益軒本が豪農・豪商の経営方針・政治活動に与えた影響の内実や、⑨益軒本の環境思想が豪農・豪商に及ぼした影響の内実を明らかにすることも、今後の課題と言える。そして、右の9点が解明された時にこそ、19世前半の北奥地域のあり様の一端が、より豊かな形で描き出されてくるものと思われる。

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