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博士論文要旨

論文題目:近代日本の戦傷病者と戦争体験
著者:松田 英里 (MATSUDA,Eri)
博士号取得年月日:2016年7月29日

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【本研究の構成】
序章 先行研究の整理と本研究の課題
    一、問題の所在―なぜ日露戦争の「癈兵」をとりあげるのか―
    二、本稿の課題と構成
第一章 1920年代における癈兵運動の展開過程
   はじめに
   一、癈兵の「社会復帰」と格差
   二、癈兵団体による待遇改善運動 
   おわりに
第二章 戦争犠牲者の「名誉」の保持と癈兵対策
   はじめに
   一、「名誉」と「自活」の論理
   二、『戦友』と『後援』における癈兵のとりあげ方
   三、癈兵の待遇改善運動をめぐる政府・社会の対応
   おわりに
第三章 慰霊旅行記にみる癈兵の戦争体験
   はじめに
   一、癈兵としての歩み
   二、残桜会による慰霊旅行
   おわりに
第四章 一時賜金癈兵の増加恩給獲得運動
―運動における戦争体験のもつ意味―
   はじめに
   一、癈兵をめぐる諸制度の問題点
   二、一時賜金癈兵による運動
   三、断食祈願の弾圧と傷痍軍人特別扶助令の制定
   おわりに
第五章 大日本傷痍軍人会の創設と活動
   はじめに
   一、大日本傷痍軍人会の創設と下部組織の立ち遅れ
   二、総力戦による組織の変化
   三、アジア太平洋戦争期の大日本傷痍軍人会
   おわりに
終章 本研究の成果と課題
参考文献

【本文要旨】
本研究は、国家最高の兵役義務を果たし、なおかつ国家の遂行した戦争によって傷痍疾病を負い、「名誉の負傷者」として称揚の対象とされる一方で、「戦争の惨禍」として忌避・蔑視されていた「癈兵」の軌跡を検証することで、日露戦争とアジア・太平洋戦争の二つの戦争の戦場体験と戦争体験のもった固有の意味を明らかにするものである。
 軍事援護事業に関する政策史・制度史の先行研究が厚みを増す一方で、癈兵そのものに焦点をあてる研究は、資料の残存状況の悪さも相まってほとんど試みられてこなかった。さらには、民衆の「抵抗」や「解放」の歴史を扱ってきた民衆史研究からも、癈兵はほぼ等閑視されていた。そのため、癈兵をめぐる政策史・制度史が蓄積を増すにもかかわらず、癈兵自身は「名誉の負傷者」あるいは「戦争の惨禍」という位置づけのまま据え置かれた。
上記の研究状況に対して、本研究では癈兵の行動や言動を分析することを通じて、癈兵の固有の戦場体験・戦争体験の意味を明らかにし、「名誉の負傷者」、「戦争の惨禍」という従来の位置づけの問い直しを試みたものである。各章の内容は以下の通りである。
第一章では、1920年代の癈兵による待遇改善運動の展開過程に焦点をあて、運動の意義と課題を論じた。復員した癈兵を待っていたのは、軍隊内の階級と学歴に基づく社会復帰の格差という現実であった。『河北新報』の連載記事からは、入営前に雑業に従事していた者が多い兵士クラスほど、復員後に生活が立ち行かなくなるケースが見受けられた。それに対して、下士官や比較的高学歴である将校は、転職に成功したり、軍隊に残留したりする者が多く、軍隊内の階級と入営前の学歴が、受傷後・発症後の生活に影響を与えていた。待遇改善運動は、そうした格差を抱えながらも癈兵が連帯し、起こした運動であった。本章では、待遇改善運動に関する新聞報道や癈兵団体の規約などを検証することによって、運動の展開過程を明らかにした。それにより、格差を前提としながらも、癈兵が連帯できた要因として、第一次世界大戦後の物価高による困窮のほかに、軍人であるという強い自己認識と「優遇」を当然視する「特権意識」、現状に対する不満を共有していたことを挙げた。さらに、軍人であるという強い自己認識と過酷な戦場体験は、癈兵の不満を国家や社会に見捨てられたという「棄民意識」にまで先鋭化させたことを指摘した。本章では、「棄民意識」は「特権意識」と表裏の関係にあり、この二つが両輪となって運動を盛り上げるという働きを果たしていたことを明らかにした。その一方で、「優遇」を当然視する「特権意識」は、運動の高揚のなかで固定化され、恩給増額を盛り込んだ1923年の恩給法の成立後、分裂・衰退する癈兵運動の新たな局面を切り開く力とならなかったという問題を抱えていたことも論じた。
第二章では、第一章で分析した待遇改善運動の展開過程を前提として、「名誉の負傷者」として癈兵を特別視することが、彼らの行動や言動にどのような影響を及ぼしたのかということを明らかにすべく、癈兵の「名誉」をめぐる軍と援護団体、地方行政機関と癈兵の間の相克の分析を行った。まず、日露戦争後の社会事業者や経済界、援護団体などの癈兵対策に関する言説を分析し、軍や援護団体が、癈兵の被救護権を「国家的優遇」として抑圧するとともに、彼らの行動や態度を「名誉の負傷者」としての枠内に束縛しようとしていたことを明らかにした。これに対して、当事者である癈兵が待遇改善運動のなかで発した主張は、尊敬の念と「名誉」の欺瞞性を指摘し、困窮の実態を突き付けるものであった。結果として、癈兵は恩給増額を勝ち取ったものの、恩給法が癈兵運動に影響されて成立したこともあって、癈兵団体を持て余す向きような向きが強まった。軍や援護団体、地方行政機関は、恩給増額実現後も要求を重ねる癈兵団体に対して、自制・忍耐を求め、抑え込みをはかろうとした。その際に用いられたのが、「名誉の負傷者」として自制・忍耐を求めるというロジックであった。この一連の相克の分析を通して、戦争犠牲者である癈兵に与えられた「名誉」とは、癈兵を特別視するものであると同時に、彼らの「権利」を抑え込み、行動や態度を束縛するものとして用いられていたと結論づけた。
第三章では、日清・日露戦争の戦場跡を巡る慰霊の旅に参加した癈兵の旅行記の分析を行い、彼らの戦争体験への向き合い方を検証した。はじめに、旅行記の分析を行う前提として、軍事援護団体である辰巳会の機関誌『癈兵之友』に掲載された癈兵の投書などから、復員後の癈兵の体験の特徴を析出する作業を行った。それにより明らかになったのは、「凱旋」行事に参加できなかった癈兵が強い不満や「引け目」を抱えていたということであった。さらに、日露戦争の熱気が冷めた社会では、「戦争の惨禍」の象徴である彼らの身体は忌避の対象であったこと、軍籍を有しない癈兵は軍人として待遇を受けられない場合があったことも明らかになった。これに対して、つぎに行った旅行記の分析では、以下の二つを特徴として提示した。一つは、旅先で癈兵が受けた盛大な歓待に対する感想である。これは、日露戦争当時に「凱旋」を体験することのできなかった癈兵の不満や「引け目」を払拭し、自己の存在価値を彼らに再確認させる役割を果たした。二つめは、朝鮮と「満州」の「発展」に関する感想である。かつての戦場の「発展」を目にした癈兵は、自分たちの犠牲の価値を再確認し、自らの戦争体験を朝鮮・「満州」の「権益」を獲得するものであったと意味づける感想を記していた。そして、その戦争体験の意味づけを強固なものにしていたのが、戦死者に対する「負い目」であった。以上の分析から、本章では、日本国内で国家や社会から存在を忘却され、不満とやるせなさを抱えていた癈兵が、旅行の過程を通じて自己の存在価値を確認し、自らの戦争体験を朝鮮・「満州」の「権益」を獲得するためのものであったと位置づけ、「帝国意識」を強めていったと結論づけた。
 第四章では、比較的軽症のため増加恩給の支給対象から除外された一時賜金癈兵の増加恩給権獲得運動・待遇改善運動の展開過程と彼らの戦争体験との関係性を明らかにした。まず、一時賜金癈兵が生み出された経緯を明らかにするために、恩給制度の問題点の検証を行った。その結果、恩給制度は恩給発生年限など幾重にも線引きを設けることで補償対象者を限定するという差別構造をもった制度であり、一時賜金癈兵は癈兵と同様に傷痍疾病を負いながらも、審査基準と再審査期間という壁に阻まれ、増加恩給の支給を受けられなかったという経緯を明らかにした。つぎに、一時賜金癈兵による増加恩給権の獲得と癈兵としての待遇を求めた運動の展開過程の分析を行い、運動が恩給制度に基づいた自らの「特権性」を国家と社会に認めさせる方向で展開されたことを示した。その際、彼らの戦争体験については、癈兵としての自己認識を支える方向で内面化されると同時に、国家との対峙する際の原動力にもなると位置づけた。
 五章では、日中戦争からアジア太平洋戦争にかけての大日本傷痍軍人会の変遷過程の分析を行い、会の特徴と実態を明らかにするとともに、銃後の一員としての癈兵・傷痍軍人が果たした役割について迫った。まず、大日本傷痍軍人会の設立経緯を確認したうえで、組織の特徴について次の二点を指摘した。一点目は、癈兵・傷痍軍人の政治的活動の弾圧と統制を目的に創立された大日本傷痍軍人会は、日中戦争以降に職業保護対策が本格化したことにより、その主たる対象を日中戦争以降の傷痍軍人へと移し、「精神修養」と「再起奉公」を促す組織へと質的な転換を遂げたということである。主な対象から外された日清・日露戦争の癈兵と満州事変の傷痍軍人は、「傷痍軍人の先輩」として「模範」たることが求められ、彼らの戦争体験・受傷後の体験は、管理・統制の対象とされた。二点目は、本部―支部―分会―班というトップダウンの組織形態のもと、地域社会や会員である癈兵・傷痍軍人の実情をよそに指導・監督を行っていたという点である。そのため、各地の支部や分会の規約、あるいは幹部の発言の分析を行った結果、大日本傷痍軍人会の方針は、癈兵・傷痍軍人の支持をなかなか得られず、人的基盤も弱かったことなどから、本部創立のあと各地で支部・分会の設立に遅れが生じており、創立当初から活動がおぼつかない状態であったことが明らかになった。また、仙波志村役場に残されていた大日本傷痍軍人会の資料から、最末端の町村レベルにおける大日本傷痍軍人会の活動を分析し、戦時中に傷痍軍人が果たした役割について迫った。それにより、アジア太平洋戦争の開戦以降、傷痍軍人を「就職斡旋」の名目のもと捕虜監視員として採用する動きがあったこと、傷痍軍人はすでに軍籍を失っているにもかかわらず、防空・防火・防諜など国民生活の日常生活に関わる部分で協力が求められていたこと、そして戦局の悪化とともに危険性の高い役割も付与されていくことが明らかになった。こうしたことから、本章では傷痍軍人を銃後の一員として総力戦体制を支えた側面を抱えていると位置づけた。
以上の各章の分析と考察をもとに、序章で述べた本稿の課題と照らし合わせると、つぎのような成果と課題があげられる。
 一点目は、癈兵による待遇改善運動を支えていたのは、個々の戦場体験・戦争体験にもとづく軍人としての強い自己認識であったことを明らかにしたことである。1920年代に展開された癈兵による運動は、癈兵が主体となって展開した運動であった。彼らの主張する恩給増額と待遇改善は、「戦争の惨禍」として同情や蔑視の対象とされることへの「抵抗」であり、「解放」のための試みでもあった。運動の底流にあったのは、兵役義務を履行し、さらには国家の遂行した戦争で傷病を負った軍人であるという強い自己認識と、「名誉の負傷者」という国家や社会の称賛からかけ離れた現状に対する不満であった。彼らの自己認識と現状に対する不満は、当然ながら過酷な戦場での体験にもとづいていた。癈兵と認知されなかった一時賜金癈兵による運動では、軍人としての彼らの強い自己認識がより顕著に現れている。1920年代末から30年代初頭にかけて展開された一時賜金癈兵による運動は、蔑視の対象とされた増加恩給を受給する癈兵よりも、さらに「劣位」に置かれた存在がいることを訴え、癈兵としての認知と待遇を求めた運動であった。戦争犠牲者である癈兵による運動は、運動に参加した個々人が自らの戦場体験・戦争体験の意味を問い直す場でもあったのである。
二点目は、犠牲を払った癈兵・遺族の存在を忘却し、さらには蔑視する日本社会と国家に対する不満、そして戦場体験・戦争体験に対する強いこだわりが、彼らの「帝国意識」の土壌となっていたことを明らかにしたことである。戦場体験・戦争体験の意味を問い直すという作業は、運動の延長線で行われた朝鮮・「満州」での慰霊旅行を通じても行われた。朝鮮と「満州」の「発展」を目にした癈兵団体は、自らの戦場体験・戦争体験を朝鮮と「満州」の「権益」を獲得するものであったと位置づけたのである。戦場体験・戦争体験のこうした位置づけは、満州事変以降に国民一般に広く共有され、軍事的膨張を下から支える思想的基盤になっていた。本研究は、癈兵に即して満州事変以降の軍事的膨張を支える思想的基盤の形成過程を明らかにしたものであった。
三点目は、癈兵による運動が戦争犠牲者としての立場から差別への「抵抗」と「解放」をはかるものである以上、貧困者や一般の「障がい者」と癈兵を峻別するという構造上の問題を抱えていたこと、さらには癈兵自身も戦争犠牲者という立場に縛られざるをえなかったことを明らかにしたことである。
四点目は、戦時中の大日本傷痍軍人会の変遷過程の分析から、癈兵・傷痍軍人を銃後の一員として位置づけた点である。アジア太平洋戦争に従軍し、傷痍軍人となった人々の戦場体験・戦争体験が注目を集めるなかで、銃後の一員として癈兵・傷痍軍人が果たした役割はほとんど着目されてこなかった。本研究では、戦争犠牲者である癈兵・傷痍軍人が銃後の一員としての役割を課せられていたことを明らかにし、「戦争の惨禍」あるいは戦争犠牲者という位置づけのみに収斂しない、癈兵・傷痍軍人の側面を提示することができたと考えている。

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