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博士論文要旨

論文題目:開戦決定と人造石油―何故、日本に人造石油工業は成立しなかったのか―
著者:岩間 敏 (IWAMA,Satoshi)
博士号取得年月日:2016年3月18日

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Ⅰ.論文の章立て
はじめに

第一章 開戦判断と人造石油
1.大本営政府連絡会議と御前会議における決定
2.企画院の石油の需給予測
3.開戦は国内政治
4. 満州の石油探鉱

第二章 ドイツの人造石油
1.人造石油の工業化
2.ドイツの液体燃料自給力

第三章 昭和前期の燃料事情
1.燃料政策の確立と人造石油
2.燃料政策実施要綱
3.人造石油製造事業振興計画の策定
4.人造石油製造体制の構築
5.陸軍による産業、工業五ヵ年計画

第四章 日本の人造石油工業
1.頁岩油工業
2.低温乾溜工業
3.石油合成法(フィッシャー法)
4.石炭直接液化法(水素添加法)

第五章 人造石油(計画、対策、実績)と開戦準備
1.人造石油の計画と実績
2.石油禁輸と石油の需給対策
3.人造石油生産と南方油田の占領準備

おわりに
Ⅱ.各章の要約
はじめに
本稿の課題は戦前・戦中期、日本で最大級の国家プロジェクトであった人造石油開発の実態と問題点を明らかにすることである。そして、開戦直前の大本営政府連絡会議、御前会議において臥薪嘗胆論が後退し開戦決定の主因となった石油の需給見通しと企画院総裁の説明内容を検証する。人造石油開発では石炭の直接液化法(水素添加法)を先導した海軍と、工業化の役割を担った満鉄と朝鮮窒素肥料の技術陣との間で厳しい「産軍対立」が生じた。日中戦争からアジア・太平洋戦争の総力戦下、人造石油開発において何故、産軍対立から開発の中止、製造製品の転換、人造石油政策の破綻に至ったかを具体的な事例に基づきながら検証する。
又、技術的問題とは別に、人造石油開発が挫折した原因の一つは資材の配当問題があった。この問題を生産力拡充計画、物資動員計画等と対比しながら分析する。更に、開戦を前に政治、軍事指導層とは別に、陸海軍の中堅・実務層は人造石油は期待出来ないとして南方油田の占領準備を進めていた。この準備が何時の時点からどの様に行われていたかを明らかにする。
 
第一章 開戦決定と人造石油
 1941(昭和16)年10月28日の大本営政府連絡会議で鈴木貞一企画院総裁は人造石油の生産見通しについて次の様に述べた。「人造石油400万竏生産の計画では、鉄100万トン、石炭2,500万トン、費用21億円、3年間で工場設備の建設は終わる。人造石油の生産量は、1941(昭和16)年の34万竏から年々増加して1944(昭和19)年には400万竏が見込まれるが、計画の実行には大なる難点がある」。しかし、この説明の僅か2日後、10月30日に開催された大本営政府連絡会議と11月5日の御前会議での鈴木総裁の説明は一転した。その要旨は以下の通りであった。
(1)必要な液体燃料の品種及数量は人造石油工業のみで生産することは殆ど不可能である。
(2)南方作戦実施の場合、石油の総供給量は第1年85万竏、第2年260万竏、第3年530万竏、国内貯油840万竏を加えれば需給見通しは第1年255万竏、第2年15万竏、第3年70万竏の石油残となる。石油残とは需給差引の結果、石油が残り、戦争が継続出来ることを意味した。
(3)航空燃料は第2年若しくは第3年において危険な状態に陥ることが予想される。
(4)人造石油の生産量は第1年30万竏、第2年50万竏、第3年70万竏と推定される。
この企画院総裁の説明は会議の出席者に、米国の石油禁輸が継続されれば、石油の供給は国内産原油、備蓄石油の取り崩しと人造石油だけとなり「ジリ貧」になると思わせ、外交的解決を求める臥薪嘗胆論は後退した。開戦の場合、蘭印からの石油持込み量は戦争第1年30万竏、第2年200万竏、第3年450万竏とされた。最も重要な航空揮発油の需給予測では第2年で24万から44万竏の不足が見込まれた。本来なら、不足とは航空揮発油の残がなく戦争が出来ないことを意味したが、会議では問題視されず12月上旬の開戦が決定した。

(3)第二章 ドイツの人造石油
1936(昭和11)年9月、ナチス党大会で、ヒットラーは、「ドイツの発展のためには人造石油工業の発展が不可欠な条件である」と力説した。この結果、人造石油の生産が第二次四ヵ年計画の主柱として国家主導体制で強力に推進された。
この背景には、1933(昭和8)年9月、石炭直接液化法の特許を保有するIG・ファルベンの社長カール・クラホフが「人造石油生産についての四ヵ年計画」を航空省に提出していた。新たに設立された「四ヵ年計画庁」の実権はカール・クラホフが握り、計画投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられた。人造石油計画の遂行は実質的にIG・ファルベンが担い、同社の活用、政府と企業の一体化がドイツの人造石油の開発と生産を急速、強力に進め得た一つの要因であった。
 人造石油の生産量は、1934(昭和9)年の40万トンから3年後の1937(昭和12)年には年123万トンに伸びていた。帝国燃料興業の調査では1941(昭和16)年のドイツの液体燃料自給量は610万トン、輸入量は500万トン、合計で年1,110万トン程度と推測していた。国内自給量610万トンの内、人造石油は350万トンを占めた。日本はこのドイツの液体燃料自給政策を参考に人造石油政策を策定した。

第三章 昭和前期の燃料事情
 日本の燃料政策は海軍が先導した。大正中期から開戦迄に取り上げられた燃料政策、戦備は大きく分けて、(1)外油購入、(2)石油備蓄、(3)海外油田の確保、(4)人造石油の生産であった。人造石油は1928(昭和3)年8月作成の燃料調査委員会答申「我国燃料の将来に対する根本方針」で取り上げられ開発、育成の対象となった。具体的な計画としては1937(昭和12)年1月、第一次人造石油7ヵ年計画が策定された。この計画では、1937(昭和12)年度を初年度とし、最終年度の1943(昭和18)年度には人造石油の生産能力を内外地、満州を合わせて揮発油約100万竏、重油約100万竏の計約200万竏とした。
既に工業化されていた頁岩油は計画に含まれていなかった。同計画の事業資金は約7億7,000万円程度とされた。この額は1937(昭和12)年度に成立した1937(昭和12)年度海軍補充計画(略称③(マルサン)計画)による戦艦「大和」、「武蔵」の2隻、正規空母2隻を含む計70隻の艦艇建造予算8億6百余万円に近い巨費であった。生産計画に合わせ事業資金を支援する帝国燃料興業株式会社の設立、人造石油製造事業法の制定が行われた。
(5)第四章 日本の人造石油工業
満州撫順炭嚝の油母頁岩(含油量6%)を乾溜して製造する頁岩油粗油の生産能力は1941(昭和16)年で年28万トンであった。計画では1945(昭和20)年3月迄に同生産能力は年86万トンが見込まれたが資材配当が十分でなく達成出来なかった。
 石炭の低温乾溜製品の最大生産量は1944(昭和19)年の約10万竏であった。日本では大部分の原料炭は粘結炭であったため、非粘結炭用のドイツ製ルルギ、コッパース炉に適合する原料炭が少なかった。低・高温乾溜タールへの水素添加による航空揮発油の生産計画は技術的に、より容易な天然石油への水素添加に切り換えられた。このことは日本の技術水準がタールへの水素添加の段階に達していなかったことを示していた。
石炭をガス化して触媒により石油を合成する石油合成法は1936(昭和11)年に三井物産がドイツから導入した。ドイツの設計、ドイツ人技術者の直接技術指導であったが国産炉に欠陥と故障が頻発した。機器製造の工作力と鉄鋼品質の低さがその原因であった。触媒のコバルトが不足し、京都帝国大学の喜多源逸研究室で鉄触媒が開発された。石油合成法の製品生産量は1944(昭和19)年が最大で年2万竏弱であった。
石炭直接液化法(水素添加)を導入した満鉄は当初の海軍法(機械撹拌方式、塩化亜鉛触媒)から満鉄法(水素撹拌方式、硫化第一鉄触媒)に切り換えた。アンモニア製造の経験から内熱式反応筒を導入した朝鮮窒素肥料(後に朝鮮人造石油)は触媒を塩化亜鉛から水酸化鉄・硫黄に切り換えた。海軍法が工業化の過程で満鉄と朝鮮窒素肥料に否定されたことは、その後、民間と海軍の技術陣が対立する主因となった。
1943(昭和18)年、「石炭直接液化は見通し立たず」との海軍の判断によって直接液化法の開発は中止され、満鉄と朝鮮人造石油は操業目的を南方石油への水素添加、メタノール製造へ転換した。人造石油生産計画の破綻であった。

第五章 人造石油(計画、対策、実績)と南方油田占領の準備
 1941(昭和16)年から1945(昭和20)年の5年間の人造石油の製法別生産量は、頁岩油約56万竏、低温乾溜約33万竏、石油合成約5万竏、石炭直接液化(水素添加)約1,500竏であった。第一次人造石油7ヵ年計画の生産実績は、7年間の生産見込量694万竏に対し生産実績77万竏、計画達成率11%であった。この低い計画達成率の原因としては、日本の工業工作力の低さ、鉄鋼供給量の少なさ、鉄鋼品質の低さ等が挙げられる。資材の配当、特に鉄鋼は1940(昭和15)年段階で必要な量25万トンに対し供給量は13万トンと約半分の供給しか出来なかった。大規模な投資、資材が必要で、成果が上がるのに時間が掛かる人造石油、水力発電部門等への資材配当は中堅・実務層の判断で減少され、優先的な部門へ回された。
1940(昭和15)年12月、浜松陸軍飛行学校内に挺進練習部が設置された。同年11月には海軍落下傘特別陸戦隊2隊が編成され連合艦隊に編入された。空挺部隊の本格的訓練が開始された。陸軍の実務者が南方油田占領の動きを具体的に外部に示したのは、1941(昭和16)年3月であった。陸軍省整備局資源課から日本石油地質部長に南方の占領油田の復興作業計画の作成依頼がなされた。同年8月には石油徴用者の選別、内示は終わり、掘削機が国内油田から取り外され積出地に集積された。政府が正式に石油技術者の徴用を発令したのは同年10月1日であった。石油徴用者達は10月下旬に日本を離れ待機地のサイゴンへ出発した。
大本営政府連絡会議で開戦が決定された1941(昭和16)年11月上旬には南方油田占領の準備は完了し要員はサイゴンで待機状態にあった。上層部と離れた軍官民の中堅・実務層の先行的判断と行動は開戦前のかく乱要因となっていた。

(7)おわりに
ドイツの戦時中の人造石油の生産量は最大で年500万竏(含ベンゾール、アルコール等)を超えていたと推測される。これに対して日本の人造石油生産量(含頁岩油)は最大で年27万竏であった。ドイツが人造石油の航空揮発油を生産し、実戦に使用していたのに対し日本では人造石油の航空揮発油は実験段階の製造に終わった。この差を生じさせたのは工業水準そのものであった。
当時の日本は最先端で広範な分野の研究開発を纏める組織、システムを構築した経験がなかった。人造石油の研究で先駆的な役割を果たした海軍は海軍第一燃料廠(大船)に研究部門を置いていた。しかし、人造石油に関しては、1936(昭和11)年2月の海軍法による満鉄、朝鮮窒素肥料の工業化決定(徳山会議)以降、産軍協同の研究開発体制は構築されなかった。
直接液化法では海軍が民間を指導する形が採られ、海軍と満鉄、朝鮮窒素肥料との技術的対立は厳しいものがあった。そのため、一部先行していた民間の技術をくみ上げ協力してそれを発展させることはなかった。また、製造される鉄鋼は高温、高圧に耐えられる品質のものが少なかった。日本の工業水準の低さと事業の段階的スケール化(実験、半工業化、工業化)、多分野の専門家を統合するノウハウがなかったことが失敗の主因であった。
更に、問題はこれらのことが政府、軍部、産業の指導層に十分に認識されていなかった。ドイツと日本との技術の差は大きかったが、自国の技術水準が正確に把握出来ていなかったために計画を立案すれば生産に達することが出来るとの判断に繋がった。直接液化法では最先端の技術を保有するドイツからの技術導入は行われず自主開発路線を進めることになった。ドイツと日本は三国同盟を締結していても、人造石油の製造に関しては、ドイツは特許導入を行わない日本に対してその製造ノウハウを明らかにしなかった。
また、日本国内では石油に関してはその情報は最重要機密として一部の人の専有とされ政策判断者達に共有化されていなかった。判断者達が十分な情報を保有しなかった結果、開戦時の政策決定の段階で企画院の示す数値によって人造石油への期待や急速な「ジリ貧」論の浮上を示すことになった。
本稿では日本の人造石油開発と比較して第二次大戦前・中に連合国側で遂行された米国の原爆開発計画であるマンハッタン計画と米・欧企業8社による高性能航空揮発油(オクタン価100)の製造法、流動接触分解法(FCC)を開発した触媒研究協議会を比較・参考の例として取り上げた。
以上

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