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博士論文要旨

論文題目:第二次世界大戦におけるアメリカの象徴天皇利用政策(起源・展開・影響)―ラインバーガー博士とグルー元駐日大使を中心に―
著者:佐瀬 隆夫 (SASE, Takao)
博士号取得年月日:2016年3月18日

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論文の構成

序論
第一章 アメリカ合衆国の対日心理作戦
第一節 心理作戦専門家としてのラインバーガー博士の経歴
第二節 ラインバーガーの心理戦争の理論
第三節 対日心理作戦計画
第二章 ジョゼフ・グルー・元駐日大使・国務長官顧問・極東局長・国務次官・国務長官代行の対日宣伝戦・対日外交
第一節 知日派外交官・元駐日大使・国務省顧問 ジョゼフ・クラーク・グルーの経歴
第二節 激動の時代の駐日大使グルー
第三節 グルー駐日米大使の近衛-ローズベルト首脳会談に関する報告書(1942年8月)-フィアリィ書記官の記録からみた報告書作成の経緯・内容・その後
第四節 グルー国務省顧問の全米講演旅行 1942年秋・1943年12月29日シカゴ
第五節 グルー国務長官顧問・極東局長・国務次官の対日戦に関する諸見解(1943年1月~1944年12月31日)
第六節 グルー国務次官の天皇制存置による戦争終結作戦
第三章 ザカライアス米海軍大佐の対日心理戦争
第四章  大元帥から象徴天皇へ
第一節 大日本帝国憲法下の天皇裕仁の「御下問」・「内奏」による戦争指導
第二節 新憲法下天皇裕仁の象徴天皇の地位よりの逸脱
おわりに 天皇裕仁と退位問題
結論



論文の概要

序論
 本論文はアメリカの象徴天皇利用政策の起源を、とくに対日心理戦計画のなかで立案された「日本計画」(JAPAN PLAN)の意義とグルー大使の役割に注目して再考することを目的とするものである。
 象徴天皇利用政策の起源に関する先行研究としては、1942年11月19日付で米国国務省ホーンベック顧問が極東課あて覚書で「日本国天皇に関して、とるべき方針の問題を集中的に検討されたい」と要請し、その結果米国国務省領土小委員会で検討(1943年7月30日-12月22日)されたことにはじまるとされてきた国務省起源説があり、この観点に立つものとして、五百旗頭真、中村政則諸氏などの著作がある。一方、OSSの機密文書の中から1942年6月3日付で陸軍省心理戦争課のソルバート大佐が起草した「日本計画(最終草稿)」と題する文書すなわち昭和天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」という内容を発見した陸軍起源説(加藤哲郎)がある。この説に立つものとして、エドウィン・ライシャワー教授の日米戦争勝利後に「ヒロヒトを中心としたPuppet Regime」を陸軍省次官らに対する提言を発見したタカシ・フジタニ(カリフォルニア大学サンディエゴ校)教授の研究などがある。
 拙論は陸軍省起源説を採用したうえで、一橋大学図書館所蔵のラインバーガー文書(Linebarger Papers: Papers prepared for Mr. J.C. Grew, Papers written during World War Ⅱ)の分析にもとづき、「日本計画」の1942年5月5日付第一草稿が天皇を戦争努力に反する宣伝の象徴として利用するという考えを示し、「象徴天皇のもとにおける民主主義」を、「宣伝目的」として掲げたことを心理戦争の課題として設定したことに注目する。さらに「日本計画」が、政府方針として公式に採用されるには至らなかったものの、同文書がグルー元駐日大使の全米講演旅行や、いわゆるザカライアス放送に生かされ、結果として対日心理戦において、さらには象徴天皇制の起源として大きな役割を果たしたことを検討していく。またそのことの歴史的な意味を考察するために、大日本帝国憲法および戦後の日本国憲法下における天皇制のあり方について検討する。
 
第一章 アメリカ合衆国の対日心理作戦
 アメリカは、ミッドウェー海戦前から、対日心理作戦の一環として、「日本計画」を立案していた。その最初の草案(1942年5月5日付)を作成したのは、陸軍省軍事情報部心理戦争課長・心理戦共同委員会議長オスカー・N・ソルバート大佐の部下である新進気鋭の政治学者ポール・ラインバーガー博士であった。ジョンズ・ホプキンズ大学で政治学博士号を取得したラインバーガーは、孫文の顧問であった父のもとで数年働いたこともあった親中国(国民政府)の政治学者であった。
  戦後、ラインバーガーは、 自著『心理戦争(Psychological Warfare)』(1948年)で、心理戦争の理論を展開するとともに、心理戦争では敵を限定することが必要で、対日心理戦では、「和平の相手となるべき天皇と国民とは埒外に置いた」と述べている。また同著では、「白色宣伝」(又は公然宣伝)は確認された出所、通例、政府又は政府の一機関(各層の軍司令部を含む)より発せられ、「黒色宣伝」(又は隠密宣伝)は真実の出所以外の表面上の出所を有し、通例、攻撃の対象となる地域の国内法では非合法的な言動をなすものだとも述べられている。「日本計画」の中核をなす天皇の利用は、とりわけ「白色宣伝」として構想されたものであり、「日本計画1942年5月5日付第一草稿」は、心理戦争の特別かつ緊急の目的(九項目)として「天皇を戦争努力に反する宣伝の象徴として使用しつつも神道(天皇崇拝)の特殊な儀式の有効性に関する疑念を増大させること」との方針を示したのであった。
 「日本計画」は、以後関係部局間で検討され、「1942年6月3日付日本計画(最終案)」に集大成され、要約版も作成された。この最終案では、」「天皇は、日本人にとっては、西洋諸国が国旗と考えているのと同様に考えられているので、天皇が戦争を引き起こすのにあずかって力があったと述べることは、不利な宣伝効果をもつ」とし、天皇=国旗=象徴であるとして、天皇制と天皇個人をはっきり分けて考え、昭和天皇は、軍事的指導者の犠牲となっており、日本のひとびとは、軍事指導者にだまされていると宣伝する方針が指摘している。また、「象徴天皇制における民主主義」が宣伝目的として掲げられていることも注目される。日本計画(最終案)の要約 では、天皇については、「日本の天皇(注意して名前ではなく)を平和の象徴として利用すること」とされている。 いずれもアメリカの国益に基づいた冷静な天皇制利用論であり、すでに戦争の勝利を確信していたアメリカ人の多数派が、日本のひとびとを和平の相手として考えていたことをよく示す内容であったと考えられる。
  「日本計画(最終案)」は、6月15日、心理戦共同委員会によって承認され参謀本部に送付され、その後、ドノバン戦略情報局(OSS)局長が主宰する心理戦共同小委員会で、ほかの案とともに検討された。しかし、ドノバン大佐とソルバート大佐の考え方の相違や組織間の軋轢から、1942年12月、同案は政府方針としては放棄されることになる。 この間、1942年6月19日、日本計画(最終案)に基づいたラジオ放送用のガイダンスも作成されたが、実際に利用されることはなかった。しかしその後、「日本計画」は、いくつかの重要な局面で大きな影響力を与えていくことになるのである。≈

第二章 ジョゼフ・グルー元駐日大使・国務省顧問・極東局長・国務次官・国務長官代行の対日宣伝戦・対日外交
 「日本計画(最終案)」の利用として第一に特記すべきことは、ジョセフ・クラーク・グルー元駐日大使が合衆国に帰任したとき、「日本計画(最終案)」の写しを与えられ、ラインバーガーが、グルーのアメリカ国内講演旅行の演説草稿作成を手伝ったことであった。グルーは知日、ラインバーガーは親中(国民政府)であったが、両者の打合せ(1942年10月11日)では、「遠まわしであっても、できれば天皇(The Throne)に言及しないこと」とされた。日本の軍部にあくまで立ち向かうべきだと述べた講演旅行は成功し、その一部を本にした“Report from Tokyo –A Message to the American People”(1942)はベストセラーとなった。その後ラインバーガーは、1943年6月、中国・ビルマ・インド戦域に転出し、1943年12月29日、「シカゴ演説」が物議をかもしたグルーはハル国務長官から全米講演旅行の中止を命ぜられた。この間の経緯について、本章では、ニューヨーク・タイムズ紙で報道された、グルー全米講演旅行の記事全件(1943年1月~1944年12月31日)を整理して検討した。
 グルーは、1944年5月1日、ホーンベックに代わって国務省極東局長に就任、自分が抱いてきた対日戦後政策を実現しうる地位に就任した。グルーは、ひそかに自分の日記から編集した『滞日十年(Ten Years in Japan)』(1944年)の出版のタイミングをはかっていた。この本は、前著とは違って、日本には平和分子がいることを知らせようとしたのであるが、出版と同時にベストセラーになった。さらにグルーは、ステティニアス国務長官に推されて国務次官に就任することになった。上院外交委員会聴聞会(1944年12月12日)では、天皇「女王蜂」論を展開し問題となったが切り抜け、12月19日正式に国務次官となった。次官就任後は、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代行の三人委員会のメンバーとして、天皇制存置の努力を進めることになった。しかし、グルーがドゥーマンの協力を得て作成した草案は、ある軍事的な理由〔原爆〕から適当ではないこと(1945年5月29日)になり、1945年6月18日ホワイトハウスで開催された最高首脳会議(国務省代表の出席なし)は、日本本土上陸作戦を実施した場合の戦闘犠牲者に対する考慮から原子爆弾の使用に傾いていった。ポツダム宣言(1945年7月26日)では、トルーマン大統領と親しいバーンズ新国務長官(7月3日就任)の意見が有力となり、グルー、スティムソンが求めた天皇条項は削除された。

第三章 ザカライアス米海軍大佐の対日心理戦争
  「日本計画」が影響を与えたと思われるもうひとつの事例が、ザカライアス米海軍大佐による対日ラジオ放送であった。1920年、日本駐在語学将校として赴任以来、34年間主として諜報活動に従事したザカライアス海軍大佐は、フォレスタル海軍長官の信認と支持を得て、日本語と日本人の友人との交友関係を駆使、ドイツ降伏の翌日、1945年5月8日以来14回にわたる対日放送を彼自身が、日本語・英語で実施した。同放送は日本計画(最終案)の影響が色濃く認められるもので、ラインバーガー博士は、ザカライアス大佐の問い合わせに対して素晴らしい計画であると回答している。またその目的は、日本に無条件降伏を受諾させ、甚大な犠牲が予想されたアメリカの日本本土上陸作戦を回避することであった。この対日放送は、これを聴いた木戸内大臣が和平交渉を開始するよう上奏し、また、ザカライアス放送を聴取した高松宮が、戦後、効果があったと証言するなどかなりの影響を日本の上層階級に及ぼし、天皇裕仁が、終戦の方向に舵をとるきっかけになったなど、日本がポツダム宣言を冷静に受けとめることができた一因となったと認めることができる。

第四章 大元帥から象徴天皇へ
 本章では、大日本帝国憲法下における天皇裕仁の戦争指導・戦争責任を示す事例と、新憲法下において天皇裕仁が象徴天皇制から逸脱して振る舞っていたことを示す事例を、既存研究を整理して論じる。特段の新しい知見を示すものではないが、本論文の考察の前提となる問題意識を提示するために、一章を設けて論じることにした。
 前者の事例としては、満州事変、日中全面戦争、1941年9月6日「帝国国策遂行要領」に関する御前会議の決定及び9月5日における天皇裕仁の陸海統帥部長に対する「御下問、ミッドウェーの惨敗をめぐる天皇裕仁の御話(1942年6月8日)と高松宮の裕仁宛書簡、近衛上奏文(1945年2月14日)に対する天皇裕仁の拒否について論じた。
後者の事例としては、天皇裕仁がマッカーサー元帥宛提出した「天皇メッセージ」(1947年9月20日付)、芦田均片山内閣副首相に対する天皇裕仁の内奏の強要(1947年7月22日、1948年5月10日)、水田三喜男大蔵大臣の内奏(1971年8月20日)と増原恵吉防衛庁長官の内奏(1973年5月26日)について述べた。
 最後に退位問題にふれた。

結語
 天皇と国民とを埒外に置き、軍部を攻撃する、というラインバーガー博士の『心理戦争』の理論に基づき、象徴天皇制のもとでの民主主義を「宣伝目的」にかかげていた「日本計画1942年6月3日付(最終案)」は、アメリカにとって成功であった、と考えられる。 「日本計画(最終案)」は、統合参謀本部によって承認されることはなかったが、ラインバーガーも、グル―も、ザカライアスも、基本的には「日本計画」の方針の延長線上で対日宣伝活動を行ったと認められる。このようにして、「日本計画(最終案)」の内容は、広く知られるようになり、さらに、戦後の対日占領政策における天皇制存置に影響を与えたと考えられるのである。
 戦後日本において、アメリカが存置した天皇制は国民の多くから支持されてきた。戦争直後1946年の世論調査では、天皇制支持86%、不支持11%であった(NHK放送世論調査所編『図説 戦後世論史』日本放送出版協会、1975年)が、1965年には、天皇制支持83%、不支持13%であり、最高は、1948年の支持90%であり、最低でも、1957年2月の支持81%であった(同掲書)。
 しかし、大日本帝国憲法下、天皇裕仁は、常に平和愛好的ではなく、しばしば侵略主義的であった。それはまさに、海外在住日本研究者17人の声明(1989年1月7日)にいう「事後の共犯」であった。さらに新憲法下、天皇裕仁は、しばしば象徴天皇の地位を逸脱した。なかでもマッカーサー元帥に送った「天皇メッセージ」(1947年9月20日)は、今日、沖縄のひとびとが、戦後70年も経つというのに、いまだに苦渋な生活を余儀なくされていることの遠因となった。このように、アメリカの対日「ホワイト・プロパガンダ(白色宣伝)」は、戦中から戦後を経て、現在まで、わが国に大きな影響を及ぼしてきた、といわざるを得ないのである。

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