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博士論文要旨

論文題目:水平社創立の文化史的研究
著者:関口 寛 (SEKIGUCHI, Hiroshi)
博士号取得年月日:2000年3月28日

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一 問題の所在と課題

 近年、筆者が携わる日本近代史研究においては、国民国家論とよばれる研究潮流が大きな影響力を及ぼしつつある。この研究潮流は、従来の歴史学が分析の基礎にすえてきた近代的な「主体」や「国民」といった概念が近代国民国家の形成過程において諸々の国家の支配装置をつうじて創出されてきたものであること、またその過程においては、「国民」概念に包摂しえない存在が抑圧され、排除されてきたこと、そしてこの暴力の契機なくしては近代社会が成立しえないことを強調している。筆者が国民国家論に関心をもつのは、この議論が差別史研究、マイノリティ研究に強力な理論的枠組みを提供すると同時に、これまでの歴史研究者の認識のありかたに重大な反省を迫るからである。

 日本近代社会成立期に関していえば、最近では被差別部落史研究においてもこの理論的パースペクティヴに立った研究が現れ、被差別部落にたいする社会的差別がいかに形成にされてきたのかについての研究成果が積み重ねられてきている。それでは同様の視点を本稿が扱う20世紀初頭にまで敷衍させた場合、どのような議論が可能であろうか。近年の西川長夫の研究によれば、日本では、日清、日露の両戦争を体験した19世紀末から20世紀初頭にかけての世紀転換期に、交通、憲法、議会、軍隊、教育などをはじめとする国家の諸制度や諸装置が確立し、国民国家の原型が形成された。そして当該期をつうじてこの制度や装置によって産出された「国民文化」が人々の間で受容されるようになることを指摘し、この時期が日本の国民国家形成にとって決定的な時期であったとしている。(西川長夫「帝国の形成と国民化」、西川・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房、1999年)。

 筆者の考えでは、このことは部落問題に引き寄せて考察するならばいっそう明確になるように思われる。つまり被差別部落の存在が社会問題として認知され、部落民に関する人種主義的な言説が社会に氾濫するようになるのがまさにこの世紀転換期であり、政府によって部落改善運政策が開始されると同時に被差別部落の内部において自主的な部落改善運動がおこされるようになるのもこの時期である。日本の列島社会史のなかで部落問題がこれほどにまで大きく取り上げられ、社会の関心を集めたことはそれ以前になかったといってよいであろう。本稿が扱う部落改善政策が開始され、水平運動が勃興するようになる20世紀初頭はまさに西川のいう日本の国民国家の確立期であったことに筆者は注目したい。そこで本稿は国民国家論の枠組みを念頭に置きながら、20世紀初頭に固有な意味を与えられるようになった部落問題について考察する。

 ただし、民衆運動史研究に携わる筆者には、国民国家論の諸研究は支配権力による民衆統治の側面を強調する傾向が強いように感じられる。たしかに国民国家権力は人々を編成し国民主体を創出しようとする。だが具体的な人々の実践に即してみるならば、実際の民衆は国家権力に回収されるだけの受動的な存在では決してない。筆者は民衆にたいする権力統治が上から一方的に達成されるのではなく、国家権力がそれまでの民衆の社会的存在様式と触れ合うことで複雑な葛藤を生み出す側面を分析する必要があると考える。また、一見国家権力にとらわれたかにみえる諸主体も、支配権力とのさまざまな交渉を通じて組織された抵抗形態であることを見落としてはならないであろう。そして国民国家が今日的な姿を整える過程は、権力が民衆を統合するだけではなく、民衆が逆に権力に対してあらたな秩序や規範を承認させるようなダイナミックな過程として捉えるべきと考える。そこで本稿は国民国家論の潜在的な有効性をみとめつつも、上に述べたような問題点をふまえ、あくまで歴史具体的な場に即しながら国民国家形成のなかに部落問題を位置付け、水平運動の成立について考察する。

 水平運動は、1920年代前半にそれまで誰も予想できないような強度を備えた抗議形態をもって登場し、急速な勢いで社会全体に拡大していった。従来、水平運動は社会主義思想をはじめとする諸々の啓蒙思想の受容によって人々の間で諸権利に覚醒する近代的主体が確立し、部落改善運動の封建的性格を克服するなかで成立したとされてきている。しかし啓蒙合理主義的な枠組みにおいてすすめられてきた研究史を眺めるとき、筆者にとって問題と思われるのは、運動のなかにおける民衆の位置付けが与えられない点である。すなわち、これまでの研究においてごく普通の部落民衆は、運動のなかでエリートによって指導され、動員される受動的な客体として描かれるか、さもなければ運動の発展にとってしかるべき役割を果たすことのできない不十分な主体としてしか登場することはない。そしてエリートとともに運動に参加したにもかかわらず、普通の部落民衆はついに歴史舞台における真正なる「主体」として認定されることはないのである。

 しかし筆者は実際に水平運動が展開する実践の場に即して考えるならば、エリートとはみなしえない多様な人々がそこに参加したからこそ運動が高揚し発展しえたのだと考える。そこで本稿は、これまでの啓蒙合理主義にもとづく歴史叙述では捨象され、あるいは運動の進歩にとっての桎梏として理解されてきた多様な民衆がすすんで水平運動に参加したのは何ゆえか、という問いをたててみたい。この問いについて考えるならば、少なくともつぎの二点について考察する必要があるだろう。

 まず、当該時期に部落民衆が置かれていた歴史的・社会的文脈における位置についてである。先にも述べたが、部落問題が大きな社会問題として社会的に認知され、部落改善運動や水平運動が急激に展開するようになったのは20世紀初頭という特定の時期であった。筆者は、それまで歴史上の表舞台に現れることのなかった広汎な下層民衆が水平運動に参加し、運動を基底部で支えるようになった要因は、当該期に被差別部落をはじめとする下層社会が巻き込まれていた、国民国家形成という歴史的文脈に位置付けて理解されるべきと考える。当該時期に被差別部落民はどのような社会的存在様式のもとに生活しており、またどのような変化に巻き込まれていたのか。まずこの点について考察し、人々が水平運動に参加するように促した社会構造的要因を把握することが必要であろう。

 それを踏まえた上で二番目に、水平運動の対抗文化や抗議運動などの社会的実践に多くの下層民衆が惹きつけられ、すすんで運動に身を投じた理由を問うべきであろう。総じて従来の水平運動史研究は、人々が実際に運動に参加する局面、すなわち実践の場にたいして超越的であったといえよう。しかし筆者はこれまでの研究では分析の対象とされなかった実践の場そのものが人々にとってきわめて重要な意味をもっていたと考える。下層民衆にとって水平運動の対抗文化や抗議運動に参加することがどのような意味を持っていたのか。このことを考えることで水平運動そのものについても、従来とは異なる理解を引き出すことができるだろう。

 以上のような視点にたち、最後に筆者が本稿においてあきらかにしようとする課題について述べておこう。本稿の課題は、水平運動の成立が部落民衆にとってどのような意味をもっていたのかについてあきらかにすることである。そして結論を先取りするかたちでいうならば、本稿は水平運動の誕生を、現在に続く部落民アイデンティティの成立として分析することにする。勿論、現在の部落民衆の起源を血縁的に遡りながら考察するならば、それは古代あるいはさらにその先まで遡ることが可能であろう。しかし社会的に自身を被差別部落民として定義し、公的な活動を展開するようになったのは水平社の創立をもって嚆矢とするべきだと考える。その意味で水平社の創立が部落民衆の社会的アイデンティティの形成に関するきわめて重大な契機であったとすることに異論はないであろう。

 ただし、アイデンティティという概念はこれまでの歴史研究においてはあまり馴染みのないものかもしれない。そこでこの概念について触れておこう。戦後社会において支配的なパラダイムを提供してきた社会科学は、近代を共同体に従属していた人々が市民社会へと解放される過程として捉え、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと人々の帰属意識が発展することを自明の法則として考えてきた。つまり、歴史の進歩とともに市民社会の下位概念として位置付けられた(民族、身分、ムラなどの)社会集団はしだいにその帰属感覚を上位の集団へと求めるようになることが当然とみなされてきたのである。そして戦後歴史学も同様に、社会運動や水平運動は本質的にこの共同体への「従属状態」との訣別によって成立したということをアプリオリに前提としてきた。

 しかしこのような理解はもはや今日では支持しえないのではなかろうか。たとえばわれわれが今日の世界情勢を眺めるならば、連日のように各地で民族の独自性が強調される動きが生起し、また民族間の憎しみに起因する地域紛争が生じていることが報道されている。そして最近の歴史研究では、近代社会においても様々なマイノリティ集団やエスニック集団がその自律性を弱めるのではなく、むしろ逆に自らのアイデンティティを主張し、その独自性や民族文化と呼ばれるものを構築していったこと、すなわち共同性を創出していったことが強調されてきている。そして今日では、人々のアイデンティティが歴史的に形成されるものであり、また変容するものであることは社会科学の共通認識になってきているといっていいだろう。このようにアイデンティティ概念は近年の社会科学一般における近代社会の見直しがすすめられるなかで、とりわけマイノリティ問題について論じる際の重要な分析概念として広く用いられてきている。筆者はこのアイデンティティに関する議論を部落史研究に敷衍し、論点として提示してみたい。そしで本稿では、共同体への「従属状態」からの解放として捉えてきたこれまでの運動理解に対しては逆に、水平社の創立を部落民アイデンティティの成立過程、あるいはあらたな共同性の構築過程として位置付けることにする。

 以上のような問題意識にたち、本稿では水平社発祥の地である奈良県をフィールドとし、水平社の創立をその前史である部落改善運動まで遡って検討する。

ニ 国民国家形成下の被差別部落

 第二章では、水平運動の成立を分析する本稿の基礎作業として、20世紀初頭における被差別部落が置かれていた位置を歴史的・社会的文脈のなかに位置付けた。当該期は日露戦後における逼迫した国家経営のなかで、日本の帝国化を支える国民創出が課題とされた時期であった。奈良県においても部落改善政策はこの課題にむけて開始された地方改良運動とともに展開されてゆく。部落改善政策において被差別部落民はあるべき「国民」像からかけはなれた存在としてみなされていた。そしてこの政策を通じて被差別部落は広く社会改良の対象として位置付けられるとともに、社会的差別の対象とされていった。

 この時期に被差別部落についての詳細な実態調査が開始されるようになることもこの時代状況を物語っているといえよう。(国家目的に実施された調査であるとはいえ、これらの史料は当時の部落民衆の生活を把握するために貴重である。)これによれば、当該期の被差別部落がきわめて劣悪な環境にあり、国家権力が問題とした被差別部落民の存在が浮き彫りにされている。詳しくは本文を参照されたいが、住居、生業、収入、教育、衛生施設、健康面、治安面などにおいて「一般」部落と被差別部落のあいだには大きな格差が存在した。またその一方で調査によれば、支配文化から疎外された人々は部落共同体のもとに強固な紐帯を維持し、相互扶助慣行のもとに自らの生活を擁護していたことが分かる。

三 部落改善運動の展開

 第三章、第四章・第二節では当該期の部落内有力者層に照準を合わせ、部落改善運動の実践を分析する。当該期に外部から部落民衆に向けられた視線にはしばしば人種主義的な差別観念が含まれており、部落上層の人々にはきわめて屈辱的に感じられていた。そしてこの眼差しに対抗して部落内からは有力者を中心として部落改善運動に積極的に取り組む動きが生じた。西松本矯正会の事例検討や大和同志会の言説分析によってあきらかになったのは、部落改善運動の実践は形成されてゆく「国民」社会に相応しいあらたな生活態度を部落内部において確立することに向けられていたことである。改善運動の実践は部落民の文明化能力と国民たりうる力量を誇示し、社会からの承認を要求するものであった。ここではこれまで「封建的イデオロギー」として認識されてきた部落改善運動の実践の抑圧性について、むしろこれを近代的性格から把握するべきであることを指摘しておく。そして改善運動の実践は一面において抑圧性をもちつつも、社会の周縁におしやられていた部落民衆に公的な行動原理を与え、社会参加の途を開示するものであった。実際に改善運動は部落の生活擁護のために部落外との交渉にあたり、また水平運動に比べればはるかに穏健なかたちではあったが差別にたいする抗議活動を展開している。つまり、改善運動の実践は多分に抑圧的でありつつもあくまでも部落民衆の生活を擁護する目的であり、それゆえに村民のあいだに一定の合意が形成されていたのである。そしてこのような形態が水平運動が成立する以前における、当該時期の被差別部落の村落秩序であった。

四 部落民アイデンティティの構築

 第四章・第三節ではこれまでの改善運動の実践の分析をうけて、水平運動を創立した青年層の思想運動に焦点を合わせ、一層強力な部落民の公的アイデンティティが創出される過程の言説を分析する。従来、一般的にこの主題については社会主義やデモクラシー思想などの受容による「封建的イデオロギー」の克服として理解されてきている。しかしこれまでの分析であきらかにしたように改善運動が「封建的イデオロギー」の実践でないならば二つの運動の関係は異なる関係として位置付けられる必要があるだろう。そこでここでは青年エリートの思想運動が果たした役割を再検討する。まず、水平運動をおこした部落内の多くの青年層も当初は部落改善運動に積極的に携わっていた。そしてこの青年層や水平社の機関誌および抗議運動の言説において用いられた論理やレトリックを分析するならば、水平運動が自身の実践を正統化し、可能たらしめたのは改善運動の実践原理であったことが分かる。すなわち青年エリートたちは部落改善運動の実践原理に沿いながら、部落民衆の自己固定的な社会的アイデンティティ――社会に対する固有な対峙のしかた――を構築し、抗議運動の様式を組織したのである。改善運動と水平運動の論理的連関に着目するならば、両者はともに厳しく対決していたことは事実であるが、水平運動の成立においてみられたのは改善運動以来追求されてきた自己(と社会が取り結ぶ関係についての)理解の劇的な変容あるいは部落民衆の公的アイデンティティの成立であった。つまり、水平運動が発明した糾弾技術は、改善運動よりもはるかに直接的な方法で、自己の存在を固有な歴史をそなえた社会集団として承認するよう、社会に要求することを可能とした。そしてこの抗議の様式が確立されることにおいてはじめて、日常生活における言辞を政治的な問題として解釈し、提示し、糾弾することが可能となったのである。

五 水平運動における対抗文化と自己組織化

 第五章、第六章では、創立期の水平運動の抗議活動や対抗文化の実践を再構成し、多くの民衆によってときにラディカルな抗議活動を展開した様相を分析した。実際に水平運動が抗議活動を展開した局面では、運動が部落共同体の紐帯がもっていた社会的結合に訴え、参加強制がかけられることで一致して抗議が起こされることや、ときに社会的周縁に位置する存在をも含む多様な民衆が動員されることで運動が強度を発揮したのであった。また下層民衆が積極的に運動に参加したもう一つの要因として、水平運動の抗議運動や対抗文化が備えていた、部落民アイデンティティを表象するための形式的な特徴をあきらかにした。すなわち、水平運動の抗議運動および対抗文化は部落民衆が、固有な歴史をもつ社会集団として自身の存在を主張し、公的な承認を要求するための象徴的戦略によって構成されていた。そしてこの実践がそなえる様式こそがそれまで社会から貶められ、抑圧されてきた多くの下層民衆にあらたな社会的存在様式を与え、強力な自己肯定的を可能とするアイデンティティを付与したのである。この公的アイデンティティのもとに人々は同じ部落民であるというだけで自身の居村を越えて結集し、ともに公的に行動することが可能となった。こうしてみるならば、水平運動の演説会や差別糾弾闘争はそれ自体が部落民衆としての一体性を創出し、あらたな共同性や社会的結合が構築されてゆく過程であったことが分かる。抗議運動や対抗文化はこれまで研究対象とされることがなかった領域であるが、この実践の場にあらわれたアイデンティティ・ポリティクスこそが運動が多くの下層民衆を惹き付け、急速な勢いで社会全体に広がっていった要因であった。

六 結論

 以上の分析から明らかになったのは、以下の二点である。

 まず、実際に抗議運動が起こされる際には日常生活のなかで築かれてきた紐帯が大きな役割をはたすことが重要である。国民社会形成下にあった当該期の被差別部落は、「一般」部落との様々な格差のもと、自らの生活を擁護するための紐帯を形成していた。水平運動はこの部落共同体の基盤にはたらきかけつつ、居村を越えた社会集団としての部落民衆というあらたな共同性を構築していった。国民社会が形成されるなかで、人々はそれ以前から継承してきた人的結合を再編成し、あらたな社会的存在が創出されたということができる。この事実は被差別部落のみならず他の社会集団においても一般化可能と思われるが、今後の課題としたい。

 また、二番目に、水平運動はこのようにそれまで抑圧され、貶められてきた社会集団に強力な自己肯定を可能とするアイデンティティを付与することになった。多様な民衆がすすんでこの運動に身を投じていったのは、この運動が示す肯定的な自己イメージに自己を同一化するべく行動したからである。水平運動が創出した対抗文化や抗議運動の実践はそのアイデンティティを可能とするさまざまな戦略にもとづいて組織されていた。この実践をとおして人々は自己に明確な属性を付与することになった。つまり、自己を「被差別者」として位置付け、固有な歴史を備えた集団として社会にその存在を承認させることが可能になったのである。人々が社会に対峙する存在様式を与えられ、自己の利害を主張することができるようになるという点で、この社会的アイデンティティを獲得することの意味はきわめて大きかったといえよう。

 本稿は水平運動が1920年代に成立し、急速な勢いで社会に広がっていった要因をこの二つの視点から分析したものである。最初に述べたように、従来の発展段階論的な進歩史観において部落民衆の主体性の欠如や脆弱性が強調されてきた。しかし、広汎な民衆が水平運動に惹き付けられ、身を投じていった際の主体性それ自体をそのものとして把握することこそ必要なのではないだろうか。この観点に立つならば、これまで近代部落史研究において蓄積されてきた成果は大きく読みかえることが可能となるであろう。

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