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博士論文要旨

論文題目:戦後日本における薬剤師職能の変容―医薬分業の発達史の観点から―
著者:赤木 佳寿子 (AKAGI, Kazuko)
博士号取得年月日:2016年3月18日

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章建て
序章
1.問題の所在
2.本研究の課題
3.概念と定義
(1)機能的分業と経営的分業
(2)物と技術の分離
(3)薬剤師職能の空洞化
(4)薬業における価値観の変化と潮流ともいうべき価値観の変化
4.時代区分
5 史料
6.医薬分業の政策過程のアクター
第1章 調剤権闘争
1.100年の調剤権闘争
(1)明治の薬学導入と医薬分業の原則
(2)医薬分業運動の攻防
(3)混合販売と薬剤師法・薬品法
(4)戦時体制下の医薬分業の行方
2. GHQの関与による医薬分業政策
(1)改正薬事法
(2)サムスの改革
(3)骨抜きの医薬分業法
(4)日本の医療の問題点
(5)国の政策としての医薬分業
3.開局薬剤師と病院薬剤師
(1)開局薬剤師
(2)病院薬剤師
4.まとめ
第2章 薬剤師職能の空洞化
1.薬剤師職能の空洞化
(1)工場でしか作れない医薬品の化学合成の歴史
(2)製剤・梱包技術の進歩
(3)薬剤師職能への影響
2.薬剤師職能の空洞化の影響
(1)開局薬剤師
(2)病院薬剤師
(3)空洞化が起こした職能開拓:Drug Information (DI)
(4)診療所での医師あるいはその助手による調剤への影響
3.物と技術の分離と医療報酬
(1)三師協調路線
(2)新医療費体系
(3)国民皆保険
4.まとめ
第3章 物と技術の分離と医薬分業の始動
1.医薬分業の機運
(1)医薬分業の機運
(2)国民医療費の高騰と国の「物と技術の分離」政策
(3)医薬分業の目的の変化
(4)日薬:経営的分業と物と技術の分離
(5)日医:国民皆保険達成と物と技術の分離
2.薬剤師を取り巻く環境
(1)病院薬剤師
(2)Clinical Pharmacy(CP)
(3)開局薬剤師・薬局と第二薬局問題
(4)薬学教育改革
3.まとめ
第4章 1990年以降の「医薬分業」の急進展
1.医療のあり方、価値観の変化と医薬品政策
(1)第2次医療法改正
(2)医薬品の適正使用
(3)薬剤師教育6年制年限延長と実務実習
(4)薬局業務ガイドライン
(5)薬学・薬剤師における価値観の変化と実践までのタイムラグ
2.診療報酬改定・薬価基準改定のインパクトと医薬分業
(1)薬価基準引き下げ
(2)処方箋料引き上げ
(3)調剤技術基本料
3.病院薬剤師の病棟への業務転換における合意
(1)病院薬剤師の立場
(2)病院の立場
(3)日薬の立場
(4)「伝播」による制度変化メカニズム
4.まとめ
第5章 人と生活を見る薬剤師へ
1.ファーマシューティカルケア
(1)定義と背景
(2)PCの意義
(3)日本でのPCの理解
(4)在宅・訪問薬剤師
2.まとめ
終章 総括と今後の課題
1.薬剤師の変化
2.医薬分業の進展の要因
3.医薬分業と今後の研究課題
(1)米国の薬剤師専門職の理論と歴史から
(2)本研究の限界と今後の課題
4.おわりに


引用文献
書籍 雑誌の掲載論文 引用記事
参考図書
資料 通知 報告書 政府および機関、団体刊行物, ステートメント
参考資料(付表)


本論文は薬剤師の社会的な役割の解明を目指すものである。その一つのアプローチとして医薬分業についての検証を通して日本において近年みられる職能変化がなぜ、何のために起こったのかを明らかにすることを目標とした。
医薬分業率(処方箋受け取り率)は1974年頃から進展し始め、緩やかに進展するが、1990年代から急速な進展がみられる。なぜ、1974年まで進展することがなかったか、医薬分業率の変化が1990年代を境としてなぜ異なっているのかについて、薬剤師の変容に注目して検証することを研究課題とする。
 一般に、医薬分業は経済誘導によって進展したと言われているが、その経済誘導が何のためかは従来明らかにはされてこなかった。また、その進展も1970年代の緩やかな進展と1990年に入ってからの急進展とに分けて考えられることはなかった。
本論文ではこの二つの時期において異なった要因で経済誘導が行われたこと、すなわち1970年代は「物と技術の分離」という目的で進展したのに対し、1990年代では薬業における価値観の変化によって進展したという仮説を立て、医薬分業の歴史を遡ることで検証をおこなった。
物と技術の分離とは医師が物(医薬品)を売って儲けるのではなく、医師の技術で報酬を得るべきであるとの考えである。そして、薬業における価値観の変化とは、物を見る薬剤師から人を見る薬剤師への変化と言いあらわすことができ、①薬剤師が医療に深くかかわる②医薬品についての情報収集と提供②患者中心の医療③多職種連携という特徴をもつ。この薬業における価値観の変化は、患者中心の医療や多職種連携という点において医療や社会全体における価値観の変化と共通点を持つものである。この価値観の変化は潮流とも言える。それゆえ、この薬業における価値観の変化は社会のなかでも合意可能な変化であったために国民をも巻き込んだ大きなスケールでの合意を得て、1990年以降の急進展の要因となったと考えた。さらにこの後、2000年頃から④QOLの改善 が加わり、薬業における価値観はさらに変化していった。本論文ではこれらを明らかにするのである。
本論文において分析概念として医薬分業を「機能的分業」と「経営的分業」に分けて考察した。機能的分業とは医師が処方し薬剤師が調剤するという機能上の分業という意味である。一方、経営的分業は処方する医師の所属医療施設とは経営的に独立した薬局での調剤を言う。現在、日本の文脈では、経営的分業を「医薬分業」として扱っている。従来、医薬分業の進展の要因を語る際に区別されず一様に「医薬分業」として扱われていたが、本論文ではこの二つの概念の違いに注目して分析した。
第1章は1874年の「医制」での医薬分業規定から「医薬分業法」が施行される1956年までの約80年間、第2章では医薬分業法施行から、実際に医薬分業が進展を始める1974年前までの約20年間、第3章は医薬分業始動から急進展がはじまるまでの約20年間、第4章では1992年以降の急進展の約10年間、第5章においては21世紀以降の時代を対象として分析した。
第1章では日本医師会(日医)と日本薬剤師会(日薬)の調剤権をめぐる闘争に終始したために、全く医薬分業が進展しなかったことを明らかにした。それは、医薬分業が目的を持った政策としては扱われなかったということを示している。
医師が処方し薬剤師が調剤するという医薬分業の原則が医制(1874年)で決められたが、当初薬剤師(薬舗)の数が足らないという理由で医師が調剤を行うことになった。時代が下って薬剤師の数が増えても医師は調剤を手放さなかった。そのため、日薬による懸命の医薬分業運動にもかかわらず医薬分業は実現しなかったのである。これが調剤権をめぐる闘争であった。
 戦後占領期、GHQ公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムス准将が日本の医療改革を行う際、日本の医療の問題点として指摘したことは、医師は技術で報酬を得るべきで、物(医薬品)を売って儲けるべきではないという考えであった。従来の習慣を断ち切るために医薬分業を促進させる改革を意図し、それを受けて「医薬分業法」なる医薬分業を強制遂行するための法が1951年国会提出された。しかし、日医の反発を抑えきれずに、強制力を失って任意分業に改正され、医薬分業法は1956年に施行を迎えたのであった。
 第2章では「薬剤師職能の空洞化」が深刻になっていったことと、医薬分業の目的が「物と技術の分離」として認識され始めていた事を示す。物と技術の分離は合意が形成されず診療報酬体系に反映されなかったことが、医薬分業法が施行されても進展しなかった理由と考えて検証する。
製薬工業の技術の進歩が薬剤師職能の危機を招いたことを「薬剤師職能の空洞化」と名付けた。19世紀末から20世紀にかけて医薬品製造工業の進展は安定した品質の医薬品の大量生産を可能にし、工場でしか作れない薬の登場が薬剤師から製薬や合成という仕事を奪い、さらに製剤技術が薬剤師の仕事を単純な計数に追いやった。また、診療所での薬の扱いも容易にした。この専門職能の空洞化は薬業における価値観の変化をもたらす契機となる薬剤師の新しい職能理念誕生の原動力ともなった。その新しい職能理念のひとつDrug Information(DI)は米国で提唱され1660年代に日本に伝えられ病院薬剤師によって実践された。しかし、DIは薬剤師職能の空洞化の救済にはならなかった。
一方、医師は技術で報酬を得るべきで物で儲けるべきでないという考え方は「物と技術の分離」という概念で表現され、それに対応する新医療費体系が検討されていたが日医の合意が得られず、不十分なものとなり、物と技術を分離する機能を持つことはできなかった。日医は国民皆保険の達成の中で技術料の評価を重要視したが、物と技術の分離に関して日医内での合意がなかった。この原因として薬価差益が考えられた。医療用医薬品の公定価格である薬価と医療施設への納入価格との差が薬価差益であるが、当時この差益による収入が大きく、医療施設の重要な収入源であったからである。
第3章では100年ぶりに「医薬分業」が進展を始めた要因の解明を行った。国民医療費の増大と国民皆保険達成における報酬体系の確立の中で物と技術の分離について行政・日医・日薬の合意が形成されたために分業の進展が始まったこと、しかも、それは経営的分業であったことを検証した。
物と技術の分離の合意形成のメカニズムは以下のとおりである。当時薬の多用や高額薬の使用が収入増になる報酬体系であったため、医師が儲けのために不要・過剰な投薬をするという薬漬け批判があった。医療費の適正化のため、行政は薬での儲けを少なくする政策である薬価引き下げを1967年から始めていた。一方で医療施設の収入保証のための報酬として技術料の引き上げも必要となった。それは、薬で儲けず、技術に報酬を付けるという物と技術の分離の政策そのものであった。技術料として処方箋料を1974年に大幅に引き上げたことで医薬分業は進展した。処方箋料は院外処方箋発行に対する報酬である為、医師が院外処方箋を発行するインセンティブとして働いたのであった。
報酬体系の確立が急がれる中、日医ではそれまでの医薬分業反対運動が、技術料を獲得するための運動に代わっていった。物と技術の分離に対する日医の合意も得られるようになっていった。
物と技術の分離は経営的分業でなければ成立しない。それは、同じ経営母体では医師と薬剤師が役割分担しても収入は同じ所に入るため儲ける行動の抑止にはならないからである。日薬は医薬分業を目指す開局薬局の職業団体であったため、開局薬局に処方箋をまわすことが会の最大の利益であった。そのためには経営的分業である必要があった。このように行政、日医、日薬の間で合意が得られ経営的分業としての医薬分業が進展した。
 また、1970年代には米国でClinical Pharmacy(CP)と呼ばれる新しい職能が誕生し日本に伝わったことを示した。CP誕生も空洞化に起因しており、1990年以降の医薬分業の急進展にとって重要な役割を持つ概念となる。
第4章では1990年代からの「医薬分業」の急進展の要因は、薬業における価値観の変化であり、その価値観の変化には、潮流というべき価値観の変化が関わっていることを確認した。そのために1970年代に見られた進展とは異なってはるかに大きなスケールで国民を巻き込んだ合意が得られたことが1990年代の急進展の要因であったとしてこの時期の医薬分業の進展のメカニズムを明らかにした。
 まず、1990年代に行われた医薬品政策において、①薬剤師が医療に直接かかわる②医薬品情報の収集と情報提供③患者ひとりひとりに合った薬物療法④多職種連携という特徴を持つ目的が存在することを示した。この特徴は薬業における価値観の変化で「物を見る薬剤師(薬学)から人を見る薬剤師(薬学)」への変化でもあることを確認した。そしてその薬業における価値観の変化は、患者中心の医療、多職種連携を行うべきという医療における価値観の変化と共通すること、DI,CPといった新しい薬剤師の職能理念と一致することを確認した。そして、その目標を実行するための診療報酬上のインセンティブを付けるという手法で政策が実施されていった事を示した。
その上で、1990年代の急進展を1970年代の緩やかな進展と区別して考えるべきであることを病院―診療所別院外処方箋率のグラフで示した。グラフから1970年代の進展は診療所からの院外処方せん発行、1990年代の進展では病院からの院外処方せん発行が寄与している可能性が高いことが確認された。
急進展が開始する1992年の診療報酬重点項目のなかで急進展と病院主導を説明できるものが、調剤技術基本料の大幅引き上げであることを示した。それはCPを実践する薬剤師の病棟業務を支援する調剤報酬である。それは、薬価差益が縮小することと処方箋発行が促進されることとのセットになって大きな制度変化を引き起こすのである。その制度変化のメカニズムは次のようである。
薬剤師職能の空洞化をきっかけに生み出された病院薬剤師の病棟業務は薬業における価値観の変化をもたらすものであった。薬剤師職能の空洞化や立場の弱さのあった病院薬剤師はCPの実践としての病棟業務を望んだ。調剤技術基本料はその業務を支援するものであった。
行政は薬業における価値観の変化を実践する政策である「医薬品の適正使用」を支援するための診療報酬の重点項目のひとつとして調剤技術基本料の大幅引き上げを行った。
病院経営者は薬価引き下げで院内薬局が不採算部門となり、薬剤師を雇うことが重荷となる。そのため薬局部門の縮小が望まれた。そのため薬局部門の薬剤師を病棟に業務転換して院外処方に切り替えれば調剤技術基本料も処方箋料も得られ病院の経営の利益になる。日医にとっては、技術料の引き上げが目的であり、処方箋料引き上げを歓迎した。日薬は開局薬局へ処方箋がまわる事を望んでいたため、病院からの院外処方せん交付に繋がる薬剤師の病棟業務転換は歓迎であり、そのため調剤技術基本料を支持することになる。病棟への薬剤師進出を既に病棟にいた医師・看護師が受け入れられるのは、「患者中心の医療」「多職種連携」という潮流への合意があったからであると考えられる。しかも、国民もまたこの潮流を受け入れ始めていたため、薬剤師が病棟業務を行う変化に対する抵抗が少なかったと考えた。
この制度変化をピアソンの「伝播」「制度的同型」といった概念で説明し、これが1970年代に起こった医薬分業の進展の時よりもはるかに強力な制度変化となっていることを示し、この時期の医薬分業の急進展の要因を、薬業における価値観の変化と考えた。
第5章では、 医療はさらに、QOLの向上、改善といった新しい価値観へと変化し、それは医療・福祉の潮流ともいえる変化となっている。薬業においても1989年にPharmaceutical Care(PC)という概念が薬剤師の行動原理として登場した。PCは「患者のQOLを改善する明らかな成果を目的とする薬物療法を、責任を持って遂行すること」と定義されている。これもまた薬剤師職能の空洞化を危惧する病院薬剤師の中から出てきた理念であり、医療・福祉の潮流を汲んでいる。日本においてはQOLの改善を目指した薬剤師の活動が、特に在宅において、実践が始まっている。これらは、医薬分業が成立し、薬剤師が地域や病棟で医療に関われるという前提において可能であったため21世紀に入ってから普及していったことを示した。
 終章において、本研究であきらかになった薬剤師の変化と医薬分業の進展の要因についての総括を行い、本研究での限界と課題について触れた。
課題として、米国における薬剤師専門職の理論と歴史の文献を紹介した。米国においては1940年代まで医薬分業されていなかったが、1950年代にできた法によってOTCと処方箋薬が分けられ処方箋発行の急激な増加がみられた。情報提供の必要性が医薬分業進展に係わっていることや薬剤師職能の空洞化の対処を教育に拠ったなど興味深い共通点がある。分業開始時期の違いの要因などの究明がこれからの課題である。国際比較もまた多くの示唆が与えられるであろう。
本論文では医薬分業を促進させたメカニズムの解明のために、大きな構造変化を捉えることに主眼を置いたため、それぞれを支える根拠がまだ甘いことを、本研究での限界として最後に示した。コンセンサスの規模と内容の違いが制度変化の勢いの違いとなるという本研究の論証の根拠をピアソンの理論の援用で行ったがその妥当性の検証が必要であること。潮流や価値観の変化についての実態が示されていない事など課題は山積しているが、本研究で得られた知見をこれからの薬剤師の職能についての検証に役立てたい。

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