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博士論文要旨

論文題目:近世関東の土豪と村落・地域社会
著者:鈴木 直樹 (SUZUKI, Naoki)
博士号取得年月日:2016年3月18日

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1、本論文の構成
序章 本論文の課題と構成
第一部 近世前期の土豪と土地特権
  第一章 近世前期関東における土豪の特質
  第二章 近世前期における土豪の土地特権
  第三章 近世前期における検地施行と土豪―武蔵国多摩郡上恩方村草木家を事例に―
第二部 土豪の変容と村落・地域社会
  第四章 近世前期土豪の変容と村内小集落―武蔵国久良岐郡永田村服部家を事例に―
  第五章 近世前期~中期における土豪家と村落寺院―武蔵国榛沢郡荒川村を事例に―
  第六章 近世前期地域支配体制の変容と土豪
 終章 本論文のまとめと今後の課題

2、先行研究の課題
本論文の目的は、関東を対象地域として、土豪が旧土豪家へと変容する過程を軸に、村落・地域内の政治的・経済的・社会的構造の特質を分析し、近世村落社会の形成・展開過程の一端を明らかにするものである。
戦後歴史学において、小農自立の様相が解明される一方、近世前期(16世紀末~17世紀後半)の土豪は、小百姓の成長により「解体」・「克服」・「止揚」されるべき存在であると評価されてきた。
しかし近年、村の存続と自治性を支える存在として、15世紀後半から16世紀の侍衆・土豪が再評価され、あるいはその性格を変えながら近世社会に存続する様子が明らかにされるなど、中近世移行期の土豪をめぐる研究が新たな展開を見せている。
こうした動向を受け、畿内近国を中心に近世前期における土豪の存在や役割も見直されつつある。しかし、土豪が広範に存在し、その子孫が「旧家」として存続する特徴を有する関東については、研究が進んでいないのが現状である。そこで本論文では、関東を対象として、土豪が旧土豪家へと変容していく過程から、当該地域に特徴的な近世村落社会の形成・展開過程を示したい。
以下、本論文が研究対象とする(α)土豪、(β)近世前期~中期の関東について、先行研究の課題を述べる。

(α)土豪について
土豪とは、戦国期から近世前期に、小百姓を中心とする村からの規制下に組み込まれず、独自の特権や社会関係を有した、村や地域の有力者である。中近世移行期研究では、侍衆・土豪という概念を用いることにより、当該期の中間層に対する従来の評価が覆され、厳しい社会状況を土豪と村が一体となって乗り越えるという、新たな社会像が示された。一方、近世前期の土豪の性格把握も進みつつあるが、彼らがその他の村民とは異なり独自に持つ特権や意識(差異性)が、近世に入ってどのように変容していくか、その過程が明らかにされていないなど、課題が残されている。
一方で、社会的権力論の提唱により、近世前期の中間層が性格変化を遂げ、中後期にも独自な位置を占めていく過程を解明する端緒が開かれた。しかし、侍衆・土豪の分析・検討により見出された彼らの多様な機能を組み込んで、17世紀から18世紀の中間層(旧土豪家)の性格変化を捉えるには至っていない。

(β)近世前期~中期の関東について
徳川氏が江戸を中心に地域を編成・把握していく過程を解明するべく、優れた研究が蓄積されてきた。しかし、①関東各地の村落構造について、検地帳による経済的側面から分析する研究に限られている点、②関東の村や地域の近世化について、水本邦彦氏などが示した小農自立を達成する畿内近国をモデルとした過程が、タイムラグを伴いながらも同じように関東でも展開するとしている点、などが課題として挙げられる。

3、本論文の問題設定
上記のような先行研究の課題に対して、本論文では中近世移行期の「侍」身分論・土豪論の方法や成果に学びつつ、近世村落社会の基礎が形作られる、近世前期の土豪の性格変容を解明したい。検討にあたっては、上記(α)に記した問題点を念頭に、小農自立の影響を重視し、土豪家の性格の連続面・断絶面を具体的に明らかにすることを心がける。
さらに、村や地域社会とのせめぎ合いの中で生じる土豪の性格変容の過程からは、近世村落社会の形成・展開過程を分析することが可能である。本論文では、訴訟史料を用いることで、土豪の経済的性格変化のみならず、土豪と村民との村政運営をめぐる関係や社会関係などの変容過程に注目して分析を進める。
関東は、土豪の広範な存在が地域の特徴であるとされてきた地域である。しかし従来、関東の土豪については、土豪が近世前期に「克服」されるとしてきた1980年代の理解を踏襲し、かつ畿内近国から導き出された小農自立の過程に依拠して把握されてきた。こうした通説的理解も、実態に即して再検討する必要があるだろう。

4、本論文の概要
本論文では、上記2、3のような問題関心の下、近世関東の土豪と村落・地域社会の変容過程の解明を目指した。
序章では、研究史を整理し、現在残された研究課題を明らかにするとともに、本論文の構成を示す。
第一部では、近世前期の関東村落に広範に存在した土豪の変容過程について、特に土豪の土地特権を取り上げ、分析と考察を行った。
 第一章では、近世後期に江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』、『新編相模国風土記稿』を主な素材として、近世前期の関東における土豪の数量的把握を試みるとともに、彼らがどのような特徴を持っていたかを考察した。両書から、近世後期の武蔵国・相模国には、戦国期以来の由緒を持つ土豪の末裔である「旧家者百姓」が数多く、広範に存在していたことが明らかになった。さらに、関東の土豪は、屋敷地除地特権を所持していた。また名主として、村政運営を独占的に行っていた土豪の家は、その村政運営に対する関わり方に変化はみられるものの、近世後期に至るまで世襲的に名主を務めることが多かった。このような特徴は、畿内近国の土豪には見られないものであった。
 第二章では、武蔵国榛沢郡荒川村持田家・同国久良岐郡永田村服部家を事例に、近世初頭に関東各地で確認される屋敷地除地・名主免といった土豪の土地特権について分析した。関東では近世村落社会形成の過程において、戦国期以来の由緒に基づく土地特権に変化が生じた。屋敷地除地特権は、17世紀後半の検地施行の結果、消失した。一方名主免は、先祖以来の由緒に基づき土豪の家に付属する土地特権から、幕府規定や惣百姓の合意に基づく名主の役に付属する土地特権(名主役地)へと、その性格を変えた。
 第三章では、武蔵国多摩郡上恩方村において、分付関係の解消により土豪と小百姓との関係が変化する過程を明らかにした。土豪草木家は、寛文検地での分付関係解消により、分付地を失ったが、これは経済的な損失ばかりでなく、土豪であることの自己意識や、その源泉となる村内で数少ない分付主であるという社会的地位など、土豪的性格の喪失を意味した。しかし寛文検地以降も、耕地・山林所有においては村内での地位を維持・向上させ、村民と協力することで輪番名主となった。有力な家として変わらず存続したように見える草木家だが、土豪から近世的村役人へと性格の変化を遂げていた。
第二部では、土豪としての性格を失いながらも、近世中後期に至るまで旧土豪家として存続する要因を探り、彼らが村落・地域社会でいかなる地位を占めていたのか、一方で、土豪としての性格を失った旧土豪家を村や惣百姓はどのように受け入れ、制約を与えていたのかを考察した。
 第四章では、村政運営を行う旧土豪家と村内小集落との相互関係を追究した。永田村の内部は、北永田と南永田の二つの小集落に分かれていた。享保期に名主役をめぐる出入が発生し、近世初期以来の服部家を中心とする一元的な村政運営は村内小集落に即して二分された。小百姓の成長が、旧土豪家を中心とする村政運営を解体したのである。出入の後、北永田集落は、住民の大半と本家―分家関係を通じて権力を維持し、経済的・社会的に強い繋がりを持つ、服部家本家を中心とした村政運営機構を持つ北永田「村」となった。
 第五章では、土豪持田家・村民と寺院の社会関係について考察した。近世前期、荒川村の内部は、幕領である荒川集落と私領である只沢集落に分かれており、寿楽院はその成立に関連して荒川集落と強い繋がりを持っていた。しかし、元禄の地方直しを契機に寿楽院と幕領の関係が断ち切られると、寿楽院は「村の寺院」へと性格を変えていく。宝暦期、持田家を中心に「村の寺院」たる寿楽院の寺格昇進運動が発生した。その過程で、持田家の特別な戒名による家格が村内において顕在化することとなった。近世前期の小百姓成長の影響を受け、土豪としての性格を失った持田家だが、寺院の開基に関わりを持つことにより得られる宗教的序列の中での優位性は変わることがなかった。
 第六章では、武蔵国久良岐郡本牧領永田村の服部家を事例に、領主交代・新政策の導入・領主錯綜状態の進行などに伴い、地域社会における土豪の地位がいかに変化したのかを分析した。服部武兵衛が代官手代に、武兵衛の子三郎右衛門が割元役に就任するなど、服部家は地域運営体制の中で重要な地位を占め、領主を同じくする村々に対して地域権力として力を持つようになった。しかし地方直しにより本牧領では領主の錯綜が進み、割元役という存在は見られなくなっていった。領主交代・錯綜が激しい本牧領では、村や地域の既存の秩序や権益が侵される可能性を多分に含んでおり、領主支配機構との結びつきにより上昇させた地域権力としての地位は一時的なものとならざるを得なかった。
終章では、本論文の内容をまとめ、研究史への位置付けを明示する。さらに、今後の課題と展望について言及する。

5、本論文の研究史上の意義
 本論文の研究史上の意義について、①土豪の性格変容、②関東における村落・地域社会の形成・展開と土豪、の二点から述べる。
①土豪の性格変容
 第一に、土豪特権のうち、特に土地特権を取り上げて分析した点である。
関東各地で行われた近世初期の検地では、村や地域における戦国期以来の地位に基づく土豪土地特権(屋敷地除地・名主免・分付関係)が認められ、土豪は既存の権益の一部を引き続き保証された。
従来の研究では、関東における土豪の土地特権については、検地帳の分析により土豪と小百姓たちとの分付関係の解消により、小農自立が達成されると評価されてきた。本論文では、分付主(土豪)と分付百姓(小百姓)の間で争われた分付記載をめぐる出入から、動態的な分付関係の分析を行うことができ、土豪の分付地の所有が土豪としての自己意識の源泉であったことが明らかになった。また、土豪の屋敷地除地は、土豪の先祖の「忠節」により与えられており、土豪の領主に対する功績を象徴するものであったことを解明した。ここでは、土豪の土地特権の喪失は、経済的な影響や分付百姓らとの社会関係の変容を土豪にもたらすのみならず、彼ら自身の自己意識にも大きな影響を与えていたことを強調したい。
中世から近世への連続面を強調し、土豪がその性格を変えることなく、近世社会へと存続するという見方もあるが、本論文が明らかにしたように、土豪が土豪であるがゆえに所有する土地特権は、17世紀後半には確実に変容していた。
第二に、近世後期に至るまで旧土豪家が独自の地位を保ち得た、社会的要因を明らかにした点である。
本論文により、戦国末期以来の旧土豪家は、ⅰ自らが居住する集落に強力な経済的・社会的基盤を有したこと、なかでも、集落構成員の大半と擬制的親子関係をむすぶ、強力な本家―分家関係を有したこと、ⅱ村落寺院の開基に由来する、格別な戒名を通じて、宗教的序列の上で独自の地位を占め続けたこと、などが明らかとなった。
以上のことから、旧土豪家は近世においても、戦国期以来の村内の社会関係を濃密に維持し得ていたと総括できる。その背景には、土豪が中近世移行期に村落の開発・整備を中心的に進めてきたという事実が存在した。本論文が指摘したⅱは、そうした土豪の活動が、後世の社会関係にも大きな規定性を与えた典型例と言えるだろう。
領主により与えられた土豪土地特権は否定され、土豪を優遇するような制度は廃絶される傾向にあった。一方で、戦国期以来の村落開発・整備に伴って、土豪を中心とする新たな社会関係が形成されることにより、近世中後期に至るまで旧土豪家は地域の有力な家として広範に存在し続けた。

②関東における村落・地域社会の形成・展開と土豪
近世初期の土豪は、生産性の低く、共同体が未成立な関東村落において、優れた経済力により村内の基盤整備・開発を急速に進めていった。
本論文が明らかにしたように、生産力の低い関東では、融通を通じて村の成り立ちを支えることのできる存在は土豪のみであり、畿内村落のように村内から新たな権力が次々と生まれてくるような動向はあまり見られない。関東の世襲名主の先祖は、優れた経済力を持つ彼ら土豪であることが多い。旧土豪家が世襲名主となることは、永田村で見たように、彼らが年貢や小作料の未納に対応するような、小百姓の生産基盤が脆弱である状況を考えると必然的な動向であった。
しかし、小百姓は一方的に土豪家に支配されるような存在ではなかった。永田村の事例(第二章・第四章)では、土豪の名主役交代・馬草場の割り方に関する議定、旧土豪家の名主役の相続などは、惣百姓が相談の上で取り決めている。関東各国では、名主を除外した「惣百姓」の相談にも村全体の意志を決定する機能があることが指摘され、その組織形態は、畿内近国で見られる名主を含む「村惣中」とは性格を異にするとされている。社会的・経済的に卓越した力を持つ土豪の存在こそが、対抗軸としての惣百姓という存在を生み出したのではないだろうか。さらに言えば、このような近世村落社会の形成過程の中で、旧土豪家と惣百姓が、緊張関係を孕みつつも相談をもって円滑な村政運営を行う、関東独自の村政運営構造ができあがったのである。

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