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博士論文要旨

論文題目:中国の少数民族教育と言語政策
著者:岡本 雅享 (OKAMOTO, Masataka)
博士号取得年月日:2000年3月28日

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 現行の中華人民共和国憲法(1982年)は、序言で同国が多民族国家であることを謳い、第4条で各民族の一律平等、民族区域自治の実行や各民族語・文字の使用と発展の自由などを定めている。実際、人口10億4250万人の漢族(1990年)も2300人あまりのロッパ族(同年)も等しく民族として公認し、1998年現在、民族自治地方として5自治区、30自治州、120自治県・旗を置いている。民族語事業についてみると、80年代末の段階で17種の民族文字で84種の新聞を、11種の民族文字で153種の定期刊行物を発行し、中央人民放送局で5種類の民族語、地方レベルでは合計15種類の民族語によるラジオ放送も行っている。また95年現在、全国に民族小学校が2万2758校、民族中学が2965校あり、その前年の統計では29種類の少数民族語が学校教育で用いられ、小中学校約1万6千校が少数民族語と漢語の二言語教育を行っており、その対象は23民族の小中学生約600万人に及ぶ。こうした事象から、マイノリティの権利保障に消極的な国が少なくない現在の国際社会において、中国の少数民族政策は優れて見える側面がある。

 しかし前述したような政府の公的立場やハード面の情報が、対外的にも積極的に流される一方で、法規の現場レベルでの実施状況や、学校における教育の実態、関係者の考えなどソフト面での実状は、これまで中国外ではほとんど明らかにされることはなく、また中国内でも実態に即した体系的な研究は未だ行われていない。中国のマイノリティ政策を本質的に支えている理念や原動力は何なのかも、実は明らかにされているとはいえない。本書はそれを、筆者が現地調査で得たデータや諸資料などをもとに実証しようと試みたものである。

 民族的マイノリティの権利保障の中で、民族語の使用や民族文化、歴史の継承を目指す民族教育は重要な要素である。本書はこの点を中心に、中国の少数民族が置かれている状況とマイノリティ権利保障の実態およびその特徴を明らかにしようと考えた。具体的には少数民族の言語、教育をめぐる実状を、新式学校教育が始まった19世紀末頃から1990年代にかけて、民族ごと、あるいは地域ごとにとらえ、中でも民族語による教育や、それと漢語との二言語教育に焦点をあてている。中国少数民族教育の実状を、細部(ミクロ)と全体(マクロ)の双方から解明するに足る十分な情報を網羅的に集め、検証することは容易な作業ではない。本書では各種資料の中に断片的に散在する情報を、一つ一つ信憑性を識別しながら組み合わせ、つなぎ合わせることで、有機的な全体像をつかもうと試みた。

   構成と概要

 本書は2部からなる。第1部は総論であり、国家が少数民族に対して行う教育を中心にみた。第1章では、中国の少数民族の承認と、民族区域自治制度について検証し、第2章では20世紀における中国少数民族教育施策の変遷を、中華民国期から中華人民共和国期にかけて大まかに追った。第3章では現代中国、すなわち中華人民共和国における少数民族教育の特徴を、1980年代以降の現状を中心に項目ごとに挙げ、第4章は中国の民族語政策を実証している。

 第2部では、それぞれの民族が自らの言語や文化を維持するために行う教育にできるだけ光をあてながら、朝鮮族、モンゴル族、イ族、チベット族、雲南省、貴州省、新疆ウイグル自治区、広西チワン族自治区、海南省に分け、民族や地域ごとの実状を明らかにした。

 中国の地方レベルでの民族教育を捉える場合、主に2つのやり方が考えられる。1つは、省・自治区、自治州、自治県など行政単位で見ること。もう1つは民族ごとにみる方法である。ウイグル族のように、人口のほとんどが1つの自治区内に集中しているような(1990年現在で99.7%)場合、また中国内総人口が数千から数万人の民族で、1つの自治県に住んでいる場合、前者と後者の視点は合致するが、多くの民族は各省、自治区の境界で分けられ、「分散」している。特にモンゴル族や満洲族は、かつて広大な領域を支配した歴史的経緯から、現在もかなり広い地域にわたって住んでいる。

 行政区ごとに捉えると、その行政区の少数民族政策や重点、行政区内の各民族の関係などがみえてくる。民族ごとに捉えると、同じ民族の言語や教育をめぐる状況が、住んでいる行政区が違うことによって、どう異なっているかがみえてくる。後者の場合、その民族が自治民族である民族自治地方と、別の民族が自治民族である民族自治地方、民族自治地方ではないが少数民族の多い省、それらの都市部、漢族地域などに分けてみることで、民族区域自治を根幹とした少数民族政策の機能と特徴もみえてくる。

 本書では、モンゴル族、朝鮮族、チベット族、イ族についは、民族を単位として見る視点で捉え、その他については行政区を単位として捉えることにした。特に前3者の場合、それぞれ8省区、3省、5省区間の民族語による教科書の編さん協力機構があり、教科書面では比較的に民族内部の一致性が高いといえる。

 第2部第1章「中国朝鮮族の民族教育――二言語教育を中心として」では、中国における朝鮮人(族)教育の変遷を、朝漢両言語の学習比率や学習開始年齢を中心に、19世紀末から文革までを5つの時期に分けて追い(第1節)、朝鮮族の民族教育、二言語教育の現状や方式を、朝鮮族の自治地方である延辺と、黒龍江省、遼寧省、延辺を除く吉林省など民族自治地方外の朝鮮族の集住地域、他民族の自治地方である内モンゴル自治区、さらに漢族中心の首都北京に分けて検証し、その特徴や直面する問題を明らかにし(第2節)、朝鮮語の喪失が若い世代で、また都市部でより顕著に生じている状況をとらえ、その要因を考察した(第3節)。

 第2章「中国モンゴル族の民族教育」では、20世紀前半におけるモンゴル族の教育を内モンゴルを中心にとらえ、続いて中華人民共和国におけるモンゴル族の言語使用状況や民族教育の経緯・現状を、内モンゴル自治区、中国東北地方(遼寧、黒龍江、吉林省)、中国西北地方(新疆ウイグル自治区、青海、甘粛省)ごとに明らかにし、モンゴル語の維持率(学習率と使用率)が概して、東北地方より西北地方の方が高いことを実証し、その原因を東西の社会環境の違いなどから考察した。

 第3章「伝統イ文の復権――中国イ族の識字・民族教育」では、中華人民共和国成立初頭に公的文字の地位を否定されながら、文革後国務院の承認を得て復権を果たしたイ族の伝統文字に焦点をあて、当初なぜ伝統イ文が否定されローマ字式新イ文が導入されたのか、なぜ新イ文は普及せず伝統イ文が復権を果たしたのか、その経緯をまとめ、要因を考察した。また1980年以降の標準イ文の普及状況や伝統イ文興隆の雲南省、貴州省への広がり、全国イ文統一への動きを紹介し、その中で浮かび上がってくる問題を指摘した。

 第4章「雲南省における少数民族語事業と教育」では、1民族=複数の言語=複数の文字という場合も多く、伝統文字を持つ民族、1950年代につくられた文字が試行段階にあるもの、文字のない民族など、民族ごとの状況がさまざまに異なる雲南省の少数民族語事業の経緯を、よりマクロ的な視点からたどり、民族語の使用やその教育への取り入れ状況を明らかにし、さらに公的には評価されている雲南省における少数民族二言語教育が、小学校レベルの試行に止まっているのはなぜかを考察した。

 第5章「貴州省における民族語文教育」では、貴州省少数民族事業の主な対象であるミャオ族、トン族、プイ族などを中心に、同省の民族語教育事業の経緯と実状をとらえた。貴州省で行われている「二言語教育」は、民族地域において、義務教育の最初の数年間、少数民族の母語と漢語の二言語を学校における授業その他の教育活動の媒介とする教授方式を指し、民族語文で一般教科を教える形の授業は、中華人民共和国成立以降行われていない。その点で、民族地域の中でも、学校教育で民族語を使う程度が最も低い省といえるが、その要因は何かを、雲南省との比較なども交えながら考察した。

 第6章「新疆ウイグル自治区における民族教育」では、20世紀前半までのトルコ系ムスリムの教育をめぐる状況を整理し、中華人民共和国における新疆トルコ系諸民族の教育状況を、漢語教育や宗教と教育の関係などをポイントに検証し、さらにウイグル、カザフ新文字の導入と伝統文字復権の経緯やその評価を紹介することを通じて、中国の少数民族文字改革運動に内在した問題の一面を明らかにしようと試みた。

 第7章「チベット族の民族教育」では、まず20世紀前半のチベット族の教育を、社会史的にもかなり異なる経緯を持つウ、ツァンとカム、アムドのチベット3大地域――ウ、ツァンはイギリスの干渉を受けながら独立的状態を保ち、ほぼ旧態依然とした体制を維持し、カムはチベットと清朝、中華民国が対峙、衝突する交戦地帯であり、アムドのチベット族は中華民国の青海、甘粛省の下に置かれ、同国政府とある程度協調しながら自らの権益を図っていた――に分けてとらえた。20世紀後半、これらチベット3大地域は中華人民共和国に統合され、チベット自治区、青海省、四川省、甘粛省、雲南省の5省・自治区に分けられ、そのすべてに中国共産党主導の近代学校教育が導入される。現在も3つの地域差は依然としてみられるが、中華民国よりはるかに国家統合を達成した中華人民共和国の下で、各省・自治区の事情も、チベット族教育の新たな地域差を生み出している。同国におけるチベット族地域における教育の実態を、前述の5省・自治区別に明らかにした。

 第8章「広西チワン族自治区の民族語事業と教育」では、人口約1550万人(1990年)を擁する中国最大の少数民族で、モンゴル、ウイグル、チベット、回族と並ぶ5大自治区の1つをもつチワン族に焦点をあて、中華人民共和国がつくった新文字の中で唯一国務院が公式の文字と承認したチワン文字の普及事業が芳しくなく、広西自治区における民族語、民族語による教育の普及やその使用程度が、民族文字を持つ民族の自治地方の中でも目にみえて低いことを明らかにし、その理由を考えた。

 中華人民共和国が1950年代、南方の10の少数民族につくったローマ字式表音文字は、反右派闘争、大躍進、文化大革命の中で、ことごとく推進事業が中止されたものの、文革が終ると次々に再開されたが、リー文の推進事業だけが「停止」状態のままである。第9章「海南島リー族のリー文字」では、海南島のリー族の置かれた状況やリー文推進事業の経緯を整理・検証しながら、その要因を海南リー族ミャオ族自治州の廃止と経済特区化、海南島の民族状況などの点から考察した。

 以上各章の検証や考察をもとに、中国少数民族教育や言語政策の実態、そこからうかがえる中国のマイノリティ政策の目的を分析すると、以下のようになるだろう。

 中国における民族教育、二言語教育の特徴

 現在中国では、少数民族に対する民族教育が行われている。各地に民族学校がつくられ、民族教育を専門に扱う行政機関も設置されている。だが、その目的や具体的内容を一つ一つ検証していくと、日本でいう民族教育と異なる点もいくつか見えてくる。

 中国における民族教育は「55の少数民族に対して行う教育」であり、それ以外の民族的少数者――「未識別民族」(1990年現在で約75万人)、「外国人中国籍加入者」(約4300人)、外国籍のまま中国に生活の基盤を置く人々、並びにこれらの人々と漢族の間に生まれた子どもなど――は民族教育の対象とはならない。また日本で民族教育という言葉が想起させるものは、自己のアイデンティティを確立、保持できるよう、民族の歴史やことば、文化などを教えることだが、中国では、少数民族に対して行う教育=民族教育だとして、少数民族に一般教科や漢語を教えることも民族教育と呼ばれている。いっぽう各少数民族の歴史は「中国史」の一部だという理由で、民族学校ではほとんど教えられていない。朝鮮族の学校では中華人民共和国成立当初まで「朝鮮史」「朝鮮地理」の授業を行っていたが、1953年の国家教育部の指示で「祖国観念を培い、僑民意識を防ぐ」ため取り止めになった経緯がある。またチベット地域で使われている教科書は、チベット語以外はすべて全国統一編さん教科書をそのままチベット語に訳したもので、チベット族の子どもに李白や杜甫の詩を暗唱させる一方、チベットの伝説は教えないなど、チベット族の文化を反映した内容は少なく、チベットの暮らしからかけ離れている。中国では民族的アイデンティティの確立といった問題は、民族教育の課題として意識されていなかったり、それほど重視されていないといえる。本書が「中国の少数民族教育」の中で、民族語教育を中心に扱っているのは、日本で民族教育を構成するとみられている民族の歴史、言語、文化の教育のうち、中国で公教育として各地域、各民族ごとの比較ができるほど幅広く行われているのが民族語教育ぐらいだからでもある。

 次に、その民族語と漢語による二言語教育の実施状況を整理してみよう。

 中華人民共和国が成立した直後は、北方少数民族の間では初等中等教育のみならず、高等教育の一部の専門科目も民族語で教えていた。漢語の授業を設けていた学校もあったが、国家教育部が1950年8月、中学暫定教科課程(草案)の中で少数民族の初級中学で「国語と民族語を同時に教える」よう定め、漢語の授業時数を初級中学1年生から週3時間と指示し、ここから同国における少数民族二言語教育が公式に始められたといえる。

 北方少数民族の漢語教育の流れを大まかに見ると、50年代はじめに初級中学1年生から学習し始めるようになり、50年代後半から60年代初頭、小学校高学年からとなり、80年代以降現在のところ、2~3年生から始めるのが一般的になっている。南方では文字を持たない民族も多く、50年代文字を創ったがそれほど普及せず、少数民族は主に漢語・漢文で教育を行っていた。現在、西南地方の少数民族の二言語教育は小学校1年生では主に民族語の読み書きを習い、2~3年生から漢語を学習し始めるものもあれば、逆に小学校1年生から漢語を学習し始め、2~3年生になってから民族語の読み書きを教える所もある。

 現在の中国少数民族の二言語教育をみると、(1)モンゴル、朝鮮族型、(2)ウイグル、カザフ、チベット族型と(3)南方少数民族型の3種類に分けられる。(1)は、主に学校教育を通して民族語を保持しつつ、漢語を学習することを目的とする。二言語教育の重点は、民族語と漢語の両方に置かれており、圧倒的多数の漢族人口に囲まれる中で、あるいは反右派闘争・大躍進、文化大革命の民族語排斥という政治運動の結果として、民族語を喪失した子ども達に民族語を取り戻させるための教育も行われている。(2)は二言語教育=漢語教育という意識で行われている。二言語教育問題を語る時、民族語をいかに学習するかという点は出てこない。新疆ウイグル自治区のウイグル、カザフ族やチベット自治区のチベット族などは、民族語を喪失する心配は当面ほとんどなく、漢語のできないこれら民族の子ども達にいかに漢語を教えるかが問題とされる。(3)は民族語・文字を媒体として、第二言語たる漢語を学習させることを目的とする。民族語は漢語学習の補助的手段であり、民族語の授業は多くの場合、小学校低学年に限られている。

 中華人民共和国は、様々な問題をはらみながらも、55の少数民族を公認し、民族自治地方を設置し、多くの民族学校を設立し、民族語による各種の出版物を大量に発行してきた。その規模は中華民国時代をはるかに上回る。その成果は評価されるべきだろう。ただ客観的にみれば、両者の間には20世紀前半が戦乱期であったこと、国家統合の達成度の違いという前提条件の差があることも考慮しなければなるまい。中華民国期は、現在の中華人民共和国ほど国民統合は進まず、朝鮮人やモンゴル人、チベット人、トルコ系ムスリムなどの間では、自らのナショナリズムに基づいた独自の教育も行われていた。それが、少数民族教育という1つのカテゴリーに統合されるのは、1951年の第1回全国民族教育会議あたりだといえる。この少数民族教育の中には、国民教育と民族教育的要素が混在している。現状をみると、中国で今日ほど少数民族語が広範に学校の教授用言語となった時代はないが、同時に今ほど漢語教育が少数民族の隅々にまで浸透させられた時代もなかった。本書で検証してきた各地、各民族の言語教育における漢語と少数民族語の比重は、国民教育と民族教育のバランスを如実に反映している。そこからみると、この半世紀のうちに、少数民族教育における国民教育の比重が徐々に(時として一気に)高められてきたことも分かる。

 法規・政策と実施状況とのギャップ

 中国には少数民族に関する法規がたくさんあるが、政府の公的立場・法規と現場での行政執行状況の間には往々にして大きな隔たりがある。地方レベルの行政責任者が、国家レベルの法規と全く反する指示を平然と出している場合も少なくない。例えば1990年前後、貴州省(1990年現在、少数民族人口が32・4%)のある県では、児童の入学募集にあたって、教室、教師が足りないので、入学希望受け付けの時に、少数民族の子どもについては漢語で1から100まで数えさせ、数えられた者のみ入学させるという例も報告された。民族語を学ばない児童には奨学金を与えるが、民族語を学習する児童には奨学金を与えない、との方針を公にする学校もあった。こうした状況が憲法第4条、民族区域自治法第37条などに反するのはいうまでもない。

 中国で出される様々な報告が、現役指導者の中に大躍進以来の民族語無用論が根強く残っているなど、指導者の意識に問題があることを指摘している。チベット自治区では現在も「中国は統一された多民族国家であるから、言語と文字も漢語・漢文に統一すべきであり、各民族が別々の言語や文字を使うべきではない」「チベット語は先進的な科学や文化、技術を表現し得ず、使用範囲は狭く、発展する前途もない」などと言って、チベット語による授業の普及事業を推進したがらない指導者がいる。そのため、チベット自治区では、人口の95.5%(1990年現在)がチベット族だが、初級・高級中学ではほとんど漢語で教育をしている。吉林省の延辺朝鮮族自治州でさえ、「日常的な習慣になっているし、どのみち将来の趨勢は漢語一種だ」と言って、役所や企業の中で漢語のみを使い、朝鮮語をほとんどあるいは全く使っていない状況もあるという。

 行政機関の職務執行にあたっては、憲法、民族区域自治法、自治条例などがベーシックな規範とはなる。だが現状で、行政の執行力として実質的に作用しているのは、中国共産党や政府の機関が発する命令、決定、指示、通告、通知、報告、指導者講話、電報など20数種類に及ぶ「文件」と呼ばれる公文書である。各組織・機関の指導者(集団)には、その意思を伝えるため自らの名義で文件を出す権限がある。このため政策は時々の指導部の考えを直に反映するものとなり、一貫性は保たれにくい。

 こうしたことから、民族区域自治法や各地の自治条例をはじめとする各種法規が民族語の主体的地位を定めていても、役所や企業の中で実施されていないケースが多い。

 国民統合を促す民族教育

 中華人民共和国の少数民族政策を動かしてきたものは何か? 公的には社会主義国家の理念が掲げられるが、少なくとも今はそれが主要な原動力になっているようには見えない。

 建国間もない頃は、中国的文脈に置きかえらたマルクス・レーニン主義が、一定程度人々の原動力になっていたと思う。大規模な民族識別調査による少数民族の承認や南方少数民族などに対する民族自治地方、民族学校の設立、民族語による教育の普及などがポジティブな成果だとすれば、そのエネルギーが負の方向に向いてしまったのが反右派闘争・大躍進だったといえるだろう。これらは共産主義社会の到来を夢見た人々の理想のなせる技であり、近年西欧社会を中心に築き上げられてきた多文化主義的理念などとは異質なものだ。それゆえに、民族語の尊重とその否定という正反対の行為が同じ社会主義の名の下で行なわれたのである。ただし、こうした施政方針レベルで表れる社会主義国家の理念は、建前としては依然有効であっても、一般の行政幹部たちが、今現在この理想を追求するために行動しているようには見えない。

 地域レベルでは、少数民族自身の思いが、現地政府を突き動かしたことを示す事例もみられる。文革後、朝鮮族やモンゴル族の間では若干ながら民族語を取り戻す教育が始められた。貴州省における文革後の民族語事業も、学校が父母の要望に応えて民族語の授業を始めるなど、住民側のイニシャティブで始まっている。国務院が1980年、イ族の伝統文字を公式文字として認めた背景には、イ族の一般住民達が、政府がつくったローマ字式新イ文ではなく、固有の伝統文字を自発的に学習し、政府をつき動かして、伝統イ文を標準化した「規範イ文」が生まれるという経緯があった。

 だが最も強い原動力は、中央政府の行政執行レベルで現れる、国家統合というプラグマティックな目的だろう。民族自治地方は全国土の64.3%に及ぶ「広大で資源豊富」な地域を占め、またその多くは10数の国家と隣接する2万2千㎞に及ぶ陸地国境線沿いの地域に存在し、34の民族は国境線の外側にも同一民族が住んでいる。そのため中国政府は今も「民族教育の発展は民族の平等・団結と祖国の統一を守り抜く上で非常に重要な意義をもつ」(イスマイル・アマット、1992年3月15日、第4回全国民族教育工作会議における講和)との認識を堅持している。

 そもそも、中央民族学院の設立を指示した1950年の少数民族幹部育成試行方案がいうように、中国における民族教育の起点は「国家の建設のため……広く大量に少数民族幹部を育成する」ことにあった。1951年の第1回全国民族教育会議も「民族教育は少数民族幹部の育成を主要な任務とする」と明示している。その背景には「民族問題を徹底的に解決し、民族反動派を完全に孤立させるためには、多くの少数民族出身の共産主義幹部がいなければ不可能である」という1949年に毛沢東が発した指示がある。

 少数民族語の尊重や民族教育を一定程度保障することは、国家統合にプラスとなる限りにおいて認められていると考えられる。寺院教育の伝統がある民族の間では、学校教育で民族語が軽視されると、瞬く間に子ども達が学校から寺院に流れる。民族語教育は、少数民族の子どもを中国の学校制度に取り入れ、つなぎ止めておくという作用も果たす。中国における少数民族文字の創作・改革も、それぞれの民族語を忠実に表現することより、漢語ピンイン方案との一致性が優先されたし、イ、タイ、ウイグル、カザフ族などの伝統文字を廃止したのも、やはり漢語学習を促進するという目的で、漢語ピンインと同じ字母を使うという狙いがあったとみられる。

 不安定な民族政策  中国では、反右派闘争以前の1950年代が民族政策の黄金期、文化大革命以降が第2の黄金期と呼ばれる。少数民族政策が安定的に推進されたのは、この2つの時期だ。

 反右派闘争・大躍進(1957~60年)の時は、民族の融合を促進することによって、社会主義の発展を立証しようとする倒錯した発想の下で、多くの民族学校を漢族学校と合併し、その教授用言語を漢語にすり替える運動が展開された。この時、延辺朝鮮族自治州では、1950年に870時間だった民族小学校から高級中学に至る漢語の授業時数は、57年に2000時間、60年には2688時間に増やされ、いっぽう朝鮮語は高級中学で週6時間から2時間に減らされるなどして、漢語を約500時間下回るに至った。

 文化大革命期(1966~76年)には、民族問題はすでに消滅したとして、中央及び各地の民族教育行政機関が取り潰され、民族語による出版物もほぼ停止された。民族語の授業や民族学校そのものが廃止され、多くの少数民族教師が迫害を受け、死亡又は障害を負わされている。

 前述した第1の黄金期における推進力には、新国家建設へ向けた理想や情熱、中国共産党が国家権力を掌握する正当性をアピールするために、国民党より優れているというイメージを浸透させる必要性もあったであろう。いっぽう第2の黄金期の原動力となったのは、十年動乱=文革の反動であったように思われる。1980年代前半は、各少数民族の独自性を尊重して高める方向に相当なエネルギーが注がれ、各民族の歴史、言語、風俗習慣などに関する研究も勢いよく展開された。その方針は、80年代後半に実を結び、充実していった。しかし、90年代に入り、第2の黄金期は、既にその輝きを失いはじめているように思える。

 道布は、文化大革命終了後、各地で続々と民族文字の試行、普及事業が回復し、一定の成果をあげたが、その規模も勢いも50年代には及ばなかったと評している(道布「中国的語言政策和語言規劃」『民族研究』1998年第6期、52頁)。孫竹は、南方少数民族の言語文字事業は1980年代大きく発展したが、90年代に入ると低迷し、相応の対策を立てねば一気に下降し、再びだめになってしまう恐れがあると述べている(孫竹「再論関於使用和発展民族語言文字的問題」『民族研究』1995年第2期、17、20~21頁)。ポスト文革期の復興熱は冷め、89年の天安門事件、91年のソ連邦崩壊による危機意識によって、民主化運動や少数民族の独自性を求める動きは冷水を浴びた。当局の間には、80年代には見られなかった過敏で過度な対応も生じている。

 こうしてみると、中華人民共和国の半世紀における少数民族政策の原動力は、時々によって違い、上がり下がりが激しく、不安定なものだったことが分かる。そうした状況の中で、中国の少数民族の間で、アイヌ民族や在日韓国・朝鮮人と比べて、民族語の使用率が高かった第1の理由は、少数民族政策の成果ではなく、移動の制約によって人口の大多数を占める農村地域の閉鎖的社会が維持され、テレビなどのメディアが、少数民族社会に浸透していなかったためだとみるべきだろう。東京に住む在日韓国・朝鮮人の子どもの朝鮮語学習率と北京に住む朝鮮族の子どものそれとを比べれば、おそらく前者の方が高い。中国では、個人の民族的アイデンティティ尊重といった観念が形成されているとは言い難く、民族語の尊重などを支える普遍的理念が根底にないことが、政策に一貫性をもてない主な原因ではないか。この点が改善されなければ、中国のマイノリティ政策は今後も外的要因に左右されやすい脆弱さを免れ得ないであろう。

 また前述したように、中国の少数民族政策は依然として国家の統一を意図して行われているが、現在の中国社会を動かす最大のエネルギーが、社会主義理念の追求ではなく、金銭的・物質的豊かさの追求である中で、「祖国統一の大業」という切り札で、少数民族政策を支えていくことは難しくなっている。さらに90年代に入ると、人の移動の活性化が属地主義的な民族区域自治制度への疑義を生み、市場経済化による競争原理の導入は、社会権的措置の切り捨てをもたらしている。今後中国がマイノリティの権利保障を改善・充実させていくためには、少数民族保護を目的とした社会権的要素を切り捨てることなく、個性の尊重に基づく民族的アイデンティティの確立、発展を擁護し、また違いは豊かさであるという観念を培うなど、個人的権利、自由権的発想を取り入れていくことが不可欠であろう。

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