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博士論文要旨

論文題目:東京裁判の史的研究―検察側・弁護側の裁判準備と審理過程に関する分析から―
著者:宇田川 幸大 (UDAGAWA, Kota)
博士号取得年月日:2015年3月20日

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本稿の課題は、極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)の審理が、如何なる特徴や問題点を抱えていたのか、その一端を具体的に解明することである。また、分析に際しては、これらの特徴・問題点が、戦後の日本社会や世界に如何なる「課題」を残すことに繋がったのか、という戦後史との接点・連続性にも着目している。
本稿ではかかる課題を追究するため、軍部(陸軍・海軍)、文官(外務省)、そして、アジア太平洋戦争の被害者である他の「アジア」の観点から、裁判審理を総合的に分析することを目指した。また、法廷で必ずしも開陳されることのなかった、各被告人の「本音」(戦争観・戦犯裁判観・戦後社会観)についても分析を加え、裁判の持った特徴・問題点を幅広く析出することとした。
なお、本稿の主たる関心は裁判審理の特徴・問題点の解明にあるが、審理は飽くまでも裁判前になされた検察側・弁護側の立証・反証方針の延長線上で展開されていたという点も看過出来ない。即ち、審理の特徴・問題点の解明に際しては、裁判開廷前の段階で検察側・弁護側が如何なる問題(事件)を重点的に扱い、逆に何を軽視していたのかをも含めて検討する必要があるのである。本稿では、裁判審理の検討のみならず、検察側・弁護側の裁判準備過程に関する分析も重視している。
第1章では、東京裁判における日本海軍に関する審理を、陸軍側と比較しつつ検討した。嶋田繁太郎(元海相・軍令部総長)は、東條英機(元首相・陸相・参謀総長)とともに、日本の戦争責任を負わされることが不可避の情勢にあり、ジョセフ・B・キーナン首席検察官や裁判対策を行っていた海軍側も、嶋田の極刑を予想していた。また、捕虜虐待を厳しく問うという連合国側の姿勢もあり、海軍側による捕虜虐待や撃沈商船生存者の殺害なども厳しい追及が行われることになった。検察側は、審理が終了するまで海軍関係の証拠・証言を提出して、その責任を問うている。しかし、実際に下された判決は終身禁錮刑、残虐行為に関しては無罪の判定を受けている。同じく、海軍関係の被告人として裁かれた岡敬純(元海軍省軍務局長)も、残虐行為については無罪の判決が下され、量刑は終身禁錮刑となっている。海軍側から極刑者が出なかったことは、裁判関係者にとって予想外の出来事であった。第1章では、こうした事態がなぜ生じたのかを、陸軍側のケースと比較検討することを通して、裁判審理の持つ特徴を析出することとした。
なお、本章で海軍側に関する分析を中心としたのは、海軍が、審理過程で予想以上に裁判対策を「成功」させた集団であり、審理や弁護側の裁判対策が裁判結果に与えた影響を分析する上で最適な事例であること、及び、近年公開された日本側の裁判関係資料、とりわけ弁護関係資料のうち海軍側のものが最も体系的に残されていること、の2つの理由による。
第1章における検討では、大きくいって2つの事実が解明された。第1は、連合国側の追及が成功するか否かは、証拠・証言という要因にも左右されていたということである。検察側が如何に厳しく追及しようとした事件や被告人があったとしても、被告人による事件への関与を示す証拠・証言が提出され、それが判事団から証拠量・証拠力の上で充分なものだと認定されない限り、追及を貫徹することは困難であった。審理では、検察側が海軍中央と各地域での「通例の戦争犯罪」(残虐行為)とを結びつける決定的な証拠・証言を提出することが出来なかった。海軍中央の戦争犯罪への関与を仄めかす証言が行われても、弁護側の反対尋問によって証拠力が減じられて判決では言及されないケースも生じている。法廷での検察側の立証方法や内容が、結果として海軍側に有利に作用するケースもあった。裁判は、追及を達成する場としてだけでなく、日本側の反証を後押しする場としても作用していたのである。第2は、裁判に以上のような側面が存在したため、日本側が事件の隠蔽工作を含む裁判対策を積極的に行うことで、戦争責任回避や極刑回避を行う余地が残されていたということである。海軍側は、連合国側の追及意図を的確に予想しつつ裁判対策を行い、こうした余地を最大限に活かした。自衛戦争論による弁明は法廷で受容されないという認識の下、海軍側は議論を各事件の事実関係に収斂し、検察側の反発を回避しながら弁明を行っている。更に、海軍側は検察側の証拠不在に乗じて、海軍中央の「通例の戦争犯罪」への関与を隠蔽することにも「成功」した。海軍は戦争回避に努めていたという主張も、その多くが判決で認められることになった。
これに対して陸軍側は、裁判を云わば「歴史観の披瀝の場」として位置付け、典型的な自衛戦争論や「大東亜戦争肯定論」に基づく弁明を展開したため、検察側や判事側から極めて大きな反発を受けることになった。裁判における「余地」を陸軍側は殆ど活かすことがなかったのである。
第2章では、外務省本省や外務官僚の観点から、裁判審理が如何なる特徴・意義を持っていたのかを検討した。外務省については、捕虜虐待、日本側による無通告開戦(真珠湾攻撃)、日独伊三国同盟が主な追及事件となった。また、広田弘毅(元首相・外相)については、「国策ノ基準」など首相在任時の政策決定に関する追及がなされている。
外務省関係の審理における特徴は、戦前・戦中の日本外交の責任が、専ら革新派の外交官や陸軍側に帰せられたことである。一方、欧米派・伝統派の外交官は「平和努力」をした人々であるという位置づけがなされることになった。裁判審理に関するマス・メディアの報道も、革新派外交官や軍の暴走を、重光葵(元外相)などの欧米派・伝統派外交官が抑制しようとしていたという像を示すものが多い。裁判は、欧米派・伝統派の外交官が「潔白」であったことを、周知する効力を持っていたのである。
しかし、こうした裁判が「日本側の反証を後押しする場」にもなり得るという側面を、広田の弁護は全く活用することが出来なかった。検察側の立証では、広田の「通例の戦争犯罪」に関する証拠は提出されなかったなど、広田にとって有利な条件が存在していた。だが広田の弁護には、弁護人の辞任や、弁護団と出廷証人の打ち合わせ不足など、弁護体制の不備が目立った。法廷では、「通例の戦争犯罪」に対する広田の「不作為」を示唆する証言が弁護側から出されている。判決も、弁護側の証言を引用しつつ、広田の「通例の戦争犯罪」への該当を認定している。広田のケースは、弁護の重要性を逆説的に示すものであったといえる。だが一方で、広田の極刑は「軍人でもない文官が極刑にされた」という同情論を生むことになった。広田への峻厳な裁きは、欧米派にとっての「イメージダウン」に必ずしも結びつくものではなかったのである。
外務省関係の審理のもう1つの特徴は、審理で外務省本省の問題が充分に追及されなかったことである。審理では、残虐行為の責任が専ら陸軍に帰せられ、外務省は本問題ついて無権限であったとする位置づけが定着することになった。日米開戦時における対米通告遅延についても、外務省本省側の事情が不明瞭なまま、現地の在米大使館に遅延の原因があったと判定されることになった。自衛権の拡大解釈に基づく無通告開戦論や、捕虜は「生きていてはならない人」という捕虜観の存在など、外務省本省の国際法認識の問題も、審理では問われていない。
これらを要するに、外務官僚の観点からみた場合、裁判の審理は革新派以外の外交官や外務省本省の正当性を担保し、彼らの戦後政治・外交への「復帰」を容易ならしめる「土台」を用意した側面があったのだといえる。だがこうした流れと表裏一体の形で、外務省本省や外務官僚をめぐる多くの問題点が、闇に葬られていたのである。
第3章では、「日本側―連合国側」という枠組みを超え、裁判の特徴・問題点を幅広く検討するため、「アジアからみた戦争犯罪追及」の観点から分析を進めた。膨大な戦争被害を蒙った、他のアジア諸国・諸地域の観点からみた場合、審理がどのような特徴と問題点を持っていたのかを、「通例の戦争犯罪」を主な分析対象としつつ検討した。
第3章での検討では、次の2点が明らかとなった。第1は、「検察側の追及準備→審理過程→判決」というプロセスの中で、アジア人住民の被害が一貫して軽視若しくは無視されたということである。法廷には、中華民国とフィリピンが検察官を派遣しており、南京事件やフィリピンでの住民虐殺など、戦争犯罪の追及に一定程度成功したことは事実である。しかし中国のケースは、検察側の戦争犯罪追及全体の中で、1941年12月8日以降に生じた、欧米諸国に対する戦争犯罪の「前史」として位置付けられていた側面が強かった。判決も、欧米諸国に対する日本の戦争については、これらが侵略戦争であったと明言したものの、中国については明確な記述を行っていない。フィリピンも、戦争当時は独立国ではなかったという理由から、判決書では「アメリカ合衆国の一部」として扱われている。
検察官を送り込むことの出来なかった地域の戦争被害は、旧宗主国によって追及が「代行」されることになった。このため、東南アジア地域での戦争犯罪については、連合国の軍人や民間人の被害が中心に扱われることになった。中でも、戦時中から連合国側が繰り返し日本政府に抗議を行っていた、日本軍による捕虜虐待は、審理における戦争犯罪追及の最重要課題として位置付けられた。捕虜問題について検察側が提出した証拠は約680件である。これは、残虐行為以外の証拠も含めた検察側証拠全体の約4分の1を占めている。なお、審理で論点となったのは、アジア人捕虜についてではなく、「白人」捕虜に関する事件が中心であった。同じ「捕虜」や「民間人」でも、アジア人の被害は充分に扱われていない。彼らの被害が個別に言及されることは極めて稀であり、証拠の件数も「白人」の捕虜や民間人に関するものに比べて圧倒的に少なかった。
第2は、植民地支配の問題性が全ての局面で無視されていたということである。検察側は、朝鮮総督を経験した南次郎と小磯国昭の追及準備に際して、植民地支配に関する情報(創氏改名、陸軍特別志願兵令など)を幾つか入手していた。しかし、これらの情報は検察側の追及に全く反映されていない。また、管見の限りではあるが、弁護側でも植民地支配に関する対策は殆ど行われていなかった。植民地支配の問題性は、裁く側と裁かれる側の双方の意識から欠落していたといえるかもしれない。
裁判における戦争犯罪追及は、帝国主義・植民地主義の残存の下で、①「白人」捕虜、②「白人」民間人(日本軍に抑留された「敵国人」、いわゆる民間人抑留者が中心)、③アジア住民、④論点にすらならなかった植民地支配、という厳然とした「序列」の中で行われていたのである。法廷で論点となった「アジア」とは、現地の人々にとっての「アジア」というよりも欧米諸国や旧宗主国の「視線」を介してみた「アジア」に限りなく近いものであった。
第4章では、被告人が裁判の審理をどのように受け止めたのか、そして、彼らが如何なる戦争責任観・戦争観・戦後社会観を抱いていたのかを検討した。比較の意味で、BC級戦犯についても分析を行っている。
法廷で、多くの残虐行為が明るみに出たため、被告人も事件の存在そのものを完全否定することは困難となった。しかし、彼らの認識には多くの特徴・問題点があった。即ち、①A級戦犯の戦争責任観が、敗戦責任と開戦責任を中心としたもので、その責任の対象とされたのは天皇と国民であったこと、②A級戦犯が日本軍の残虐行為を、他国への加害行為として認識することが殆どなかったこと、③A級戦犯が、東京裁判や日本国憲法の制定には否定的であった反面、旧来秩序である天皇・天皇制の存置に大きな安堵感を抱いていたこと、④A級戦犯の中に、他のアジアへの優越意識と「帝国意識」が根強く残存していたこと、以上の4点である。敗戦や戦犯裁判を経て、戦争犯罪に対する責任を自分なりの角度から自覚する者や、反軍意識、「平和主義」を形成する者は、苛酷な戦争・軍隊経験を持ったBC級戦犯の一部にみられた。
以上のような検討を経て、終章では本稿の総括を行った。東京裁判の審理には、如何なる特徴・問題点があったのか。この結果、戦後の日本社会や世界には如何なる「課題」が残存することになったのか。かかる課題について、終章では、裁判審理に2つの大きな特徴・問題点があり、このことが多くの「未完の課題」を残すことに繋がったことを指摘した。
第1の特徴は、裁判が流動的な側面を有していたということである。占領期、東京裁判は連合国側による日本の非軍事化政策の一環として重要な位置を占めた。だが、裁判は対日占領政策の一環であると同時に、「裁きの場」としての側面を有していた。それ故、法廷を設置した連合国側自身が、証拠・証言という裁判特有の要因に拘束されることになった。連合国側が厳しく追及しようとした被告人や事件があったとしても、証拠・証言が、量と質の両面において、充分なものである必要があった。審理には、被告人が極刑回避や戦争責任回避を行い得る「余地」があったといえよう。
陸軍側がこうした「余地」を放棄して弁明を行っていた一方で、日本海軍はこの「余地」を最大限に活用し、裁判対策を「成功」させた。欧米派・伝統派の外交官たちも「余地」の「恩恵」を享受し、自身の「免罪符」を与えられる形となった。
こうした「免責」と表裏一体の関係で、海軍中央の戦争犯罪への関与や、外務省の国際法認識の問題など、多くの問題が積み残された。裁判の流動的な側面は、海軍と外務省本省が本来問われるべきであった戦争責任の曖昧化、若しくは希薄化という「課題」が残存する要因となったといえる。
第2の特徴は、審理が、帝国主義国間の合作裁判としての側面を有していたということである。裁判では裁く側と裁かれる側の双方が、植民地支配やアジア人の戦争被害を無視若しくは軽視していた。審理での戦争犯罪追及も、第3章で指摘した厳然とした「序列」に基づいて行われたものであった。この「序列」は、サンフランシスコ平和条約にも引き継がれている。被告人の他のアジアに対する優越意識や「帝国意識」も根強く残った。帝国主義国間の「合作」としての裁判は、対アジア観や「帝国意識」を克服する契機とはなり得なかったのだといえよう。裁判は、植民地支配責任や「帝国意識」の未清算という、重大な「課題」を残すことになったのである。
以上のような、裁判審理を貫く特徴・問題点が、「未完の戦争責任」、ある戦争犯罪の事実上の「不処罰」、そして「継続する帝国主義・植民地主義」など、重大な「課題」を裁判後の世界と日本に積み残す大きな要因となったのである。

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