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博士論文要旨

論文題目:中国文法学の形成期についての研究:『馬氏文通』に至るまでの西洋人キリスト教宣教師の著作を中心に
著者:何 群雄 (HE, Qun Xiong)
博士号取得年月日:2000年3月28日

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 西洋文法学の方法を用いて中国語を研究したのは『馬氏文通』が最初であったというのが、これまでの学界の通説であった。しかし、拙稿で論述せんとするものはそれ以前の事柄であり、中国文法学説史の領域の中で長期間にわたって放置されてきた「盲点領域」に光を当てて読み直した結果である。これらの文献が無視された原因はさまざまであるが、philology 時代のものであり、「科学的水準は低かった」と思われがちであったのが主な原因であろう。

 拙稿の全体は「19世紀以前のカトリック宣教師の中国語文法研究」、「19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法研究」、「宣教師とかかわりがある晩清中国人の文法学研究」の3部よりなり、『馬氏文通』に至るまでの歴史的な発展という時間の軸を経線とし、それぞれの文法書に表れた著者の「目的、理論、方法、概念」などの理論構造を緯線として構成したものである。

 中国語が初めて文法学の方法で考えられた時期を、拙稿では一応、元朝ごろと推定している。これはマルコ・ポーロの『東方見聞録』の中の「七芸に練達した」「賢者百名ばかりを教皇のもとから派遣してほしい」という記録に基づいて推定したものである。「七芸」というのは「文法、論理、修辞、音楽、算術、幾何、天文」の七つの教科であり、中世ヨーロッパの大学の基礎教養をなすものであった。「七芸に練達した」というが、まず、「七芸」の首位を占める文法学の教養は身につけていたであろう。このような学者たちは東洋に来て、中国語を習うに際して、母国語やラテン語と比較しながら、文法学の体系を活用し、中国語を分析したり、系統的に覚えたりしたというのもごく自然なことであった。

 中国語文法書が作成された背景として修道院における語学教育があり、拙稿ではその歴史的な概略を述べた。論述の重点は「マカオのサン・パウロ学院」、「マニラの托鉢派僧侶」、「初期中国人留学生と文法学研究とのかかわり」、「ナポリの文華学院」などに置いている。

 1493年コロンブスが新大陸を発見し、その翌年、スペインとポルトガルが世界分割の「トルデシリャス(Tordesillas)条約」を結んで、ヴェルデ岬西方の370レグアのところに走る西経46度37分線を境界に、その西に発見された異教徒の土地をすべてスペイン領、東をポルトガル領と決めた。中国は東にはいるので、ポルトガル国王に忠誠を誓ったイエズス会士が「ゴア ⇒ マラッカ ⇒ マカオ」の航路を通って続々東来し、17世紀の半ばまで中国での布教をほぼ独占していた。一方、「新スペイン( = メキシコ) ⇒ フィリピン」航路を通って、スペインからフランシスコ、アウグスティン、ドミニコなどの諸会派の僧侶たちはマニラに控えて、中国への進出を狙っていた。その後、マカオとマニラは次第に宣教師の中国語学習の2大拠点となった。マカオのサン・パウロ学院だけでも200人あまりの語学修学生を送り出したし、マニラの托鉢派僧侶からはM. ラダ(Mart(n Rada 1533~1578)やJ. コボ(Juan Cobo ? ~1593)のような中国語の達人が現れた。M. ラダの『中国語の文法と語彙(Arte y Vocabulario de la lengua China)』は恐らく最初の中国語文法書であったが、不幸にして本書の所在は未だに不明である。このような蓄積の上に現れたのがF. ウァロ(Francisco Varo ? ~1686)の『官話文典(Arte de la lengua Mandarina;Canton 1703)』とJ. H. M. de プレマール(Joseph Henrg Marie de Premare 1666~1736)の『漢語札記(Notitia Linguae Sinicae;ms. 1728)』であった。前者はドミニコ会士の著作であり、後者はイエズス会士によるものであった。

 19世紀以前の中国語文法書において、F. ウァロの『官話文典』とJ. H. M. de プレマールの『漢語札記』は重要な著作であるので、拙稿では論述の重点としている。その理由として、ウァロはかなり忠実にE. A. de ネブリハ(Elio Antonio de Nebrija 1441~1522)の『カスティーリャ語文法(Gram(tica sobre la lengna castellana 1492)』を踏まえているが、一方、プレマールは「ラテン語文法学者たちがやってきたような従来の方法から離れ、ヨーロッパ人がそれまで全く知らなかった新しい方法を採用した。既成の規則をあてはめるのではなく、そのかわりに中国語自体から規則を見い出」したのである。中国固有の虚字論を中心に、中国語の性質と構造を正確にヨーロッパ人に伝えた最初の専門書の『漢語札記』を書き上げた。中国語文法学研究とは、最初からこのような相反する二つの道、二つの可能性が存在し、或いはこのようなジレンマの前に立たされていたのである。

 中国キリスト布教史は19世紀初頭を一つの転換点として、ふつう前後2期に分けられている。前期はイタリア、フランス、スペイン、ポルトガルなどのロマンス系の国々のカトリック宣教師が主力であったが、後期は英米系のプロテスタント宣教師が多数を占めた。第2部の論述の重点はR. モリソン(Robert Morrison 1782~1834)の『通用漢言之法(A Grammar of the Chinese Language;1815)』、J. マーシュマン(Joshua Marshman 1768~1837)の『中国言法(Clavis Sinica;1814)』、J. エディキンズ(Joseph Edkins 1823~1905)の『上海方言文法(A Grammar of Colloquial Chinese, as Exhibited in the Shanghai Dialect;1853)』と『官話文法(A Grammar of the Chinese Colloquial Language, Commonly Called the Mandarin Dialect;1857)』などにおいている。なぜなら、モリソンとマーシュマンは19世紀に再び始まった中国語文法研究の創始者であり、その二つの文法はそれぞれの特徴を持ち、学説史にふさわしい地位を与えるべきであるし、エディキンズは19世紀に入華した宣教師の中で最後の中国学の碩学であり、その口語文法は相当のレベルに達していたものだからである。

 モリソンの『通用漢言之法』は実用文法であり、彼は「本書の目的は中国語の学習者に実用的な援助を与えることである。中国語の性質に関するあらゆる理論的な論考はわざと避けた」という認識に基づき、宣教師たちがすでに身につけていた文法学の知識を生かし、「英-漢」あるいは「漢-英」対訳の意味上における対応関係を基礎として、自らの文法書を書き上げた。彼の文法書は品詞論から見れば、後の『馬氏文通』や現在の通用体系などと大差がないが、ただ統語論についての論述は充分とは言い難いと思われる。

 マーシュマンの『中国言法』は漢文文法の書である。本人の説明によれば、初期学習の段階でカトリック宣教師の学恩を受けたため、ついにその中国語観もカトリック宣教師の影響からぬけだすことができなかったという。漢文は中国語の最優秀な作家によって書かれた最も洗練されたスタンダートな文体であり、本格的な中国語文法を書くとすれば、このような著作から例文を取るべきだと彼は語っている。したがって、彼の文法書の例文は殆ど『論語』や『孟子』などの漢文の著作から取り、その全体は漢文の文法書となっている。彼の漢字論はギリシア語の構詞法と比較しながら、漢字はwordであり、部首はmorphemeである、漢字の「人偏」や「女偏」などは性のなごりである、「手偏」や「足偏」などの字は動詞が多い、「木偏」や「石偏」などの字は名詞が多いなどと思考を展開し、その中国語文法研究は漢字の造字法に深く掘り下げた。独自性を持ち、中国語分析、研究の一つの方向、可能性を示していた。

 アヘン戦争以降、宣教師は天津や上海などの開港都市での長期滞在が許されるようになった。布教のため、彼らは各地の方言を調査し、多くの口語文法を著した。エディキンズの『上海方言文法』と『官話文法』はまさにこのような成果の1例であり、19世紀半ばの中国語の実情を知るには貴重な資料として今後も長く利用されるであろう。

 最後の第3部では、まず、エディキンズが高く評価した畢華珍という晩清の学者の生い立ちについて筆者の近年調査した結果を報告し、エディキンズの引用から畢氏の文法学についての見解を紹介した。ついでに東西学者の虚字研究の流れを整理し、西洋人の虚字研究に対する貢献を述べた。『馬氏文通』以前の文法学研究における中国人と西洋学問とのかかわりについては空白の研究領域であり、畢華珍を一つの糸口として晩清中国人の文法研究と宣教師との関連から、その空白を埋めたいと思う。

 また、人物と学説の両面から馬相伯、建忠兄弟とイエズス会の関係を論及した。『馬氏文通』が上梓されて百年、いつも注目の対象になってきたが、研究者たちの主な関心は『馬氏文通』が如何に中国伝統の「小学」を継承したかに集中している。『馬氏文通』の文法体系はラテン文法の引き写しに過ぎないとしながらも、実際にはどのようなラテン文法であったかはずっと不明のままであった。拙稿は馬相伯の『拉丁文通』を手がかりに、その系譜をA.ゾットリの『拉丁詞芸』を通して、中世教会ラテン文法であろうと推定している。また、『馬氏文通』の「文同理同」という重要な概念について、筆者自らの見解を述べ、中国文法学の成り立ちにとっては、学問的な背景よりも、時代と社会情勢がより重要であると指摘した。

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 拙稿ではまた文法学の理論体系の諸要素を緯線として、それぞれの文法書の特徴に応じて、目的、理論、方法、概念などの諸方面に重点をおきながら論述した。

 「宣教師文法」は新しく入華した宣教師たちに中国語を教えるために作られた、1種の実用文法として始まったものであった。したがって、その基本的な発想は宣教師たちがすでに身につけていた文法学の知識を生かし、印欧諸言語と中国語の間における意味上の対応関係を指し示すのを主な方法としていた。

 中国語文法の研究法は最初から二つの相反する方向に分かれていた。そのひとつはラテン語文法を忠実に引き写す方法であった。これもそれなりの理由があり、批判すべきものではなかった。この時代はヨーロッパの知識人のあいだで共通学問言語として圧倒的な権威をもっていたのがラテン語で、単に文法といえばラテン語文法を意味していたのであり、中国語文法を記述するにあたって依拠できる手本となりうるものは、ラテン語文法の他にはなにもなかったのである。しかもこれは中国語や東洋諸言語において特殊な例ではなかった。「実質的にはポルトガル最初の文法書とも言うことのできるバロス(Jo(o de Barros)の『ポルトガル語文法(Gram(tica da L(ngua Portuguesa;Lisbon 1540)』にしろ、これに続く他のいくつかもの文法書にしろ、基本的にはラテン語文法の枠組に随ったもので、このような事態は長いあいだ変わらなかった。しかもこれはポルトガルのみにみられた特殊な現象ではなく、他のヨーロッパ諸国においてもその事情はポルトガルと大きく異なるところはなかったのである」。

 しかし、このような時代の学問的な背景の下での中国語に対する研究の中にはかなり特殊な例外も存在した。これはすなわち、プレマールの「既成の規則ではなくて、中国語自体から規則を引き出そう」という努力であった。その結果として『漢語札記』という興味深い著作ができた。彼は中国語の古典と「小学」などの研鑽を積み、初めてヨーロッパに中国語の性質を正確に伝えることができた。

 その後19世紀に至って、プロテスタント宣教師たちは両方の要素を共に取り入れ、中国語文法の特徴を重視した文法書を作り出した。中国語の性格について、「英語はヨーロッパの古典諸言語とアジアの孤立語である諸言語の中間に位置している。英語は時制や格の語尾変化などの点で、前者に関わっているが、語順と助詞などでは後者と似通っている」と認識した。中国語文法の内容について、「普通の文章を検証すれば、通常その中に2種類の単語が含まれている。その一つは意味があり、いかなる文章においても単独に使用できるものである。もう一つは、文章や文節を連結し、意味と文章を完全に整える役割を果たすものである。」すなわち「実詞」と「虚詞」である。中国語の中で最もはっきりした下位区分は「実字」と「虚字」しかない。「中国語の単語にはこのような簡単な分類しかないことを認識するのが非常に重要である。ここに多くの中国語の単語の性格がとらえられる。同一の単語は、名詞や、形容詞、動詞にも使える」からである。すなわち中国語には音韻屈折に類する語形変化がないのである。中国語の「組み合わせ規則は語と語の結合の中にある」。語及び語の組み合わせは虚字によって連結され完結した文になる。「語及びその組み合わせを検証することはその大部分が品詞論の領域にはいる。これらのものは虚字の助けによって文になり、これを説明するのは統語論の役目である。」すなわち「実字論 + 虚字論 = 中国語文法」という認識であった。しかも、プレマールの『漢語札記』のように「たくさんの用例及びその使用法をまとめた虚詞辞書である」のレベルにとどまらず、「言葉の法則を捜し出し、最も自然かつ便利な方法でこれらを並べる。」結果は、英語あるいはラテン語文法を枠組みとした虚詞や実詞の結合の規則などの分類、排列などであった。

 文法学の理論はラテン語から欧州俗語やその他の中間状態の言語を経て、中国語に至り、研究対象に適応するためにその理論体系自体も大きな変貌を遂げた。ラテン文法の主な内容は、音韻屈折によって表れた品詞の形態変化とシンタクスの中での品詞同士の「支配-対応」関係である。虚詞と語順はそれほど重要なものではなかった。近代欧州俗語やユーラシア大陸の中間地帯にわたる遊牧民族のいわゆる膠着語の諸言語では音韻屈折が少なくなるにつれて語順と虚詞が次第に重視されてきたが、中国語ほどではなかった。中国語には音韻屈折がないので、虚詞と語順は文法学の最も重要な内容となった。このような言語状況に対応し、文法学の内容及びその研究方法は次第に変わっていき、結局はラテン文法とはかなり違うものとなった。文法学は単なることばの組み合わせの規則を研究する学問としてだけ名前を留めた。

 中国語文法学の基本用語は『馬氏文通』から確立したというのは学界の通説である。「宣教師文法」を読めば、そもそも substantive / particle の対立をもって「実・虚」を解釈し、noun / verb の対立をもって「死・活」と「静・動」と解釈しはじめたのはおそらく宣教師からではないかと思われる。

 「虚・実・死・活」といった術語はすでに宋代からしばしば作詩法などを教える書物で単語の性質を説明するために使われていたが、それらの術語の表している意味は確定していなかった。多くの場合「実・虚」の対立は、意味のある語と、実在的な意味のない、ただ文法上の役割を果たす単語の対立として使われていたが、時々、このような対立は「動詞・名詞」の対立として使われていたこともあった。「死・活」と「静・動」は意味の分析によって「名詞・動詞」として使い分けられていた場合があるが、「本音と借音」の面から品詞の役割分担の変化を説明するために使われていた場合もしばしばあった。

 プレマールは、「中国の文法家たちは中国語を構成している漢字を、『虚字』と『実字』、つまり『実義のない字』と『実義のある字』の二種に分けている。構文の中で、非基本成分を成す字は『虚字』という」、「漢字はparticlesに似たような使い方で使用される場合は『虚字』と呼べるようになる。」「実字は中国語の基本成分であり、さらに『活字』と『死字』、『生きている字』と『死んでいる字』、つまり『動詞』と『名詞』に分けられる」と指摘している。

 『通用漢言之法』の中で、モリソンは「中国人はverbを『生字』と呼ぶ、その意味は『生きている言葉』である。それはnounと区別するためである。nounは『死字』と呼ぶ、『死んだ言葉』の意味である。」「verbはまた『動字』ともいい、『動く言葉』であり、nounは『静字』といい、『動かない言葉』である」と述べている。また、『英華字典』で「虚字」を「起語、接語、転語、歇語」などに分類している。

 馬建忠のラテン語の啓蒙師であったA. ゾットリ(Angelo Zottoli 1826~1902)は『中国文学教程(Coursus litteraturae sinicae;1879)』の中で、虚字を「起語、接語、逆接、転語、劃語、嘆語、歇語、疑語、束語、詩語」の10種類、「推開、転関、転正、反渠、順転、順溶、約略、虚擬、総結」などの36語気に分け、詳しく説明している。『馬氏文通』はこのような業績を踏まえた上、一層精密化して定着の道へと導いた、と考えたほうがもっと歴史の事実に近いであろう。

 本質的に言えば、grammarは「書く技術」の「文字学」であるので、「宣教師文法」にはしばしば漢字のことも含まれていた。漢字は「耳よりは目に訴える文字」であるとプレマールや、マーシュマンなどは言っている。これはローマ字と漢字との根本的な違いをとらえている。ローマ字はただ一つの音の記号にすぎないが、その手順としてはまず意味があって、その意味を伝えるために音があり、その音を記録するために文字を使っている。すなわち、「意味 ⇒ 音 ⇒ 文字」のような手順である。しかし、漢字は音が読めなくても直接目でみれば意味が通じる。音の仲介よりむしろ直接意味とつながっている。「意味 ⇒ 漢字 ⇒ 音」のようにローマ字の手順とはちょうど逆になっている。ここから問題が生じた。Grammarは「書く技術」の「文字学」である。アルファベット文字はすなわち音であり、文字の規則はすなわち音声変化の規則である。漢字は音声だけではない面がある。一体、中国語文法の基礎は文字と音声のどちらにおくべきか。最も短絡的な方法は厄介な漢字を捨てて音声に着手することであるが、音声だけでは中国語文法が説明できないところが多くて、むしろ漢字から着手して「実字論 + 虚字論 = 中国語文法」のようなやり方ならまだ実用できる。

 宣教師たちは東洋に来て、漢字で書かれた漢文が民族と言語の違いを超えて、東アジア地域の共通文語となっていた事実を発見して驚いた。しかし、このような事実をどう受けとめるかは、時代と東西勢力の消長によって、かなり違っていた。初期においては、ヨーロッパのばらばらな言語状況より、東洋の方がむしろ優れていることを認め、漢字を基礎に世界共通の「普遍言語」を造ろうという発想まで生まれた。ところが、アヘン戦争以降、「中華帝国」の没落につれて、東洋のものはすべて劣っていると見られてしまった上、西洋人にとって漢字が学びにくいという厄介な面もあり、漢字を廃止してローマ字に替えようではないかと騒がれた。言語文字の価値は、その担い手の政治的、経済的地位によって上がったり、下がったりするのは、昔も今も変わっていない。

 最後に説明しなければならないのは、19世紀以前の人々が考えていたgrammarは現在われわれが考えているものとはかなりの差があることである。多くの文法書には品詞論を中心に、音韻から統語論まで、さらには漢字の常識と文体論の一部までもが含まれており、ほとんど現在の「中国語概論」に相当する広さがある。当時の実情をありのままに示すため、現在のある学説をものさしとして、歴史文献を都合よく「切り盛り」することはあえてしない方針としたいので、本テーマの「文法学」は事実上、現在の「言語学」にほぼ相当しているものの、拙稿では資料として扱っている書物の大部分がgrammarと名乗っているから、拙稿のタイトルもそのままgrammaticalにした次第である。

 また、拙稿を認めるに際しての資料に対する基本的な取捨基準として、宣教師たちがもっていた中国人と同じような考え方或いは中国人の著作から編訳したものは、概ねに除外した。すなわち、われわれの考え方と違うところにだけ焦点を絞って検討したのである。その理由は、このようなところには、普段気づかない問題点が含まれている可能性があり、これを検討すれば中国語研究の新しい視点が見い出せるからである。仮に、先人の論述に誤りがあったとしても、決して軽蔑してはならない。現代を基準として過去を過小評価するのは、現在の研究にとってなんの役にも立たない。学説史は現代の正当性を証明するより、むしろ現代の「盲点」を指し示すところに意義があると考えるからである。なおこのような資料に対する、このような視点からの研究は今まで殆どなされてこなかったので、拙稿には不備な点も多いと思うが、この予備的研究を土台として、今後さらに本格的な調査研究を進めて行きたいと考えている。

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