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博士論文要旨

論文題目:在日朝鮮人の「帰還」に関する研究(1945-1946年)
著者:鈴木 久美 (SUZUKI, Kumi)
博士号取得年月日:2014年6月30日

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 本論文では、1945年8月15日の日本敗戦から1946年12月末にかけて、日本から南朝鮮に「帰還」(以下、括弧を外す)した朝鮮人に対する、日本政府とGHQ/SCAPによる帰還政策の立案と実施過程を明らかにすることが検討課題である。
 この課題を検討するために、研究方法として重視した点は次の2つである。1つ目に、できるだけ日本政府に焦点をあてたことである。2つ目に、日本側の行政関係の一次史料を使い個別実証を積み重ねたことである。これらにより、具体的な論証の中心としては、日本政府とGHQ/SCAPによる朝鮮人帰還の取り組みと、実際に帰還が実施された送出港や送出港に送り出す側の地域、そして帰還先である南朝鮮における状況についても取りあげ、それぞれ第1部と第2部に分けて論じた。

 第1部では、敗戦直後の日本政府とGHQ/SCAPによる朝鮮人帰還政策を中心に、政策が形成され実施されていく過程を検証し、そこで日本政府は、どういう意図で朝鮮人の帰還を進めようとしていたのかを論じた。
第1章では、先行研究と日本側の行政史料を精査し、日本在住朝鮮人数、朝鮮人帰還予定者数、帰還終了後日本に残留した朝鮮人数、そして日本の主要な送出港から帰還した朝鮮人数などを整理・分析した。これにより、敗戦直後の間もない時期に、日本政府は朝鮮人を、「軍人・軍属」、「労働者」、「炭鉱労働者」、「一般朝鮮人(この内の4割が帰還)」などに分けて、優先順位(労働者の中でも炭鉱労働者は最後とする)をつけ、1946年3月には朝鮮人の帰還は終了すると想定した帰還計画を立てていたことが明らかになった。
第2章では、主に2つの課題を分析した。1つ目に、日本政府が立てた帰還計画の中でも、帰還の優先順位が最後である炭鉱労働者を取りあげ、これまでの研究を踏まえ、北海道と福島県における炭鉱労働者の抗議行動に着目し、日本政府とGHQ/SCAPはどう対応したのかを整理した。そうしたところ、日本政府とGHQ/SCAPは、炭鉱労働者についても早期に帰還させる計画に変更したことを確認した。この後、これまで日本政府が主導しておこなってきた帰還は、1945年11月1日、GHQ/SCAPから初めて帰還に関する覚書が出されたことで、日本政府とGHQ/SCAPの双方によって進められていくことになった。
 2つ目の課題としては、日本政府は帰還計画を進めるために、敗戦前には在日朝鮮人を統制管理してきた組織である興生会を「活用」するとした。興生会に関しては、これまでほとんど研究がなされておらず、組織の実態についても不明な点が多い。そこで敗戦前までさかのぼり、そもそも興生会とはどのような役割を持った組織だったのか調べた。その結果、敗戦前の日本帝国により、国策として進められた「一般処遇改善」の中の「興生事業」をおこなう場合に、日本の各地域の現場において、実際に業務を担う役割であったことが確認できた。すなわち、朝鮮人社会の統制を図る組織であったということである。
戦後においては、日本政府の指示により、帰還する在日朝鮮人を「援護」する立場に立たされた。その現場で興生会はどのような業務を実施し、その後どうなったのかを検証したところ、例えば大阪府における興生会は、在住朝鮮人と帰還者に対して援護を実施していた。組織については、ただちに解散をしたのではなく、「大阪府日鮮協会」という後継団体が設立された。だが、その後この団体は解散となった。
 第3章では、1946年に入り実施された帰還希望登録調査に関して、この調査に関する具体的な業務内容や実施過程を整理し検討した。この他にもこの調査が実施されている間に、警視庁によって朝鮮人の動向が調査され報告書としてまとめられている。この報告書から、警視庁はどのように朝鮮人の動向を分析していたのかについても考察した。
 この警視庁の調査報告を見ると、警視庁は敗戦直後の1945年8月の時点で、すでに朝鮮人および朝鮮人団体の状況を独自に調査していたことがわかった。調査内容について端的にいえば、朝鮮人団体に対してはかなり厳しい見方をしていた。朝鮮人の帰還については、警視庁は日本国内の食糧不足や失業問題を理由に、できるだけ帰還させたいとの意向を示していたことが明らかになった。
帰還希望登録調査に関しては兵庫県神津村を事例にあげ、調査の実施過程を整理し検討した。朝鮮人団体による動きについてもあわせて見た。結果、神津村では、この調査を約2週間という短期間のうちに実施から集計までおこなったことが明らかとなった。その理由は、朝鮮人団体が組織をあげて「活動」したことによるものであった。
最後に、この「計画輸送」がどのように実施されていったのか、その過程について分析した。先行研究でも指摘されているように、南朝鮮におけるコレラの流行や、帰還者向けの住宅・就職・食糧などの不足が主な原因となり帰還者は減少し、「計画輸送」は1946年12月末に不振のまま終了となった。この間に、日本政府による朝鮮人団体の排除や、帰還を希望していながら帰還をしない朝鮮人に対する措置などについて、日本政府は帰還促進会議を開いて話し合っていたことが明らかになった。
 以上を総合すれば、日本政府が当初立てた帰還計画は、見通しが甘く、すぐに破綻した計画であった。その後の、1946年3月から開始された「計画輸送」も、帰還する朝鮮人の数は減少し不振に終わった。それにかかわらず先行研究や日本側の行政関係史料を集計し、日本政府が想定していた帰還予定者数と実際の帰還者数を比較してみれば、数字の上では日本政府が想定していた数を上回る朝鮮人が帰還したことになる。

 第2部では、日本において帰還が実施された「現場」と、帰還者が帰還した先である南朝鮮における朝鮮米軍政庁の帰還政策と援護や支援の展開過程を実態に即して分析した。
 第4章では、敗戦前から関釜連絡で結ばれていた山口県下関港と、日本敗戦後には米軍の機雷により使用できなくなった下関港に代わって送出港となった仙崎港を取りあげ、帰還するためにやってきた朝鮮人と、山口県に在住する朝鮮人の状況について整理し、山口県や山口県警察、そして朝鮮人団体などが、具体的にどのような対応をしたのか、文献史料と当事者の証言により内容を検討した。結果、敗戦直後かなりの朝鮮人が滞留しており、敗戦後第一船の公式船が出航する前や、公式船に乗ることができなかった者は、非公式の船で帰還した者が多数いた。このことは、聞取りをした証言者も非公式の船で帰還したと証言しているため、史料と証言の双方から確認することができた。山口県と警察は、このような混雑した港の状況に対して、興生会や民生課の職員とともに独自の対策を立て対応にあたっていた。ただし、山口県側による朝鮮人帰還者への対応は、県内の治安維持のためという側面もあったことがわかった。
下関や仙崎では山口県側の職員以外にも、朝鮮人団体による支援活動も実施されていた。朝鮮人団体による活動は、日本国内の団体だけでなく、釜山からやってきた団体もいくつかあった。しかし、朝鮮人団体による支援活動は、日本政府とGHQ/SCAPにより、次第にその活動は制限され解散させられた団体もあった。
 第5章では、日本における送出港の中でも、最も多くの朝鮮人帰還者が利用した港である博多港を持つ福岡県を取りあげ、福岡県在住朝鮮人の状況も含め、それぞれの内容について整理し検討した。
まず、敗戦直後、日本政府がまだ具体的な帰還政策を出していない時期に、一般の朝鮮人や労働者以外にも、朝鮮人の軍人・軍属が帰還するために博多港へやってきたことを確認した。軍人・軍属の帰還については、福岡県が対応したのではなく、軍側の対応により、他の帰還者と離されて帰還したことが明らかになった。
労働者や一般の朝鮮人の帰還については、福岡県の職員と民生課が中心となって帰還の業務を実施していた。福岡県における朝鮮人団体は、山口県と同様に帰還者に対して支援をおこなっていた。その他にも、朝鮮人帰還者に向けて南朝鮮の状況を独自に発行した新聞によって情報を発信していた。
 第6章においては、日本の送出港から、帰還者が帰還した先である南朝鮮における帰還者の受入体制について、朝鮮米軍政庁が進駐する以前から整理し内容を分析した。
朝鮮米軍政庁が進駐する以前の南朝鮮では、朝鮮総督府や朝鮮人団体が帰還者に支援をおこなっていた。朝鮮米軍政庁が進駐した後は、帰還者受入担当の部署として朝鮮米軍政庁内に外事局が設立された。これを機に、1945年9月末頃から南朝鮮における帰還者受入体制が開始された。外事局がまず実際におこなったことは、朝鮮人団体による連合会を結成させ、これらの団体によって、医療や福祉施設、食糧などの供給を現場で実施させることであった。
南朝鮮における受入港の状況については、釜山港と群山港の状況をみた。双方とも敗戦直後の1945年9月半ばまでは、朝鮮人帰還者に対してほとんど支援や援護はなかった。外事局による釜山港や群山港での帰還者への援護が開始されたのは、1945年9月末以降と思われ、ここでも外事局は朝鮮人団体を使っていた。
外事局はこのような帰還者への援護対策のほかにも、無駄な列車を運行させないためか、各港における帰還した朝鮮人数と帰還した者がどこの地域に向けた列車に乗車したのかなどについて統計を取り分析していたことがわかった。しかし、外事局がおこなったこの調査内容を分析すると、帰還者をどのように扱おうとしていたのかその意図がよく分からない。つまり、朝鮮米軍政庁は南朝鮮において、朝鮮人帰還者を受入れる体制を事前に準備していなかったといえる。
第7章では、一度南朝鮮へ帰還した者が再び日本へやってくる再渡航者の問題について取りあげた。再渡航者に対しては、日本政府はどのような対応を取ったのか、「海上」と内務省による対応を整理し、さらに当時者の側である朝鮮人団体が作成した報告書から、当時の「密航者収容所」の様子もあわせて、それぞれの内容について整理し検討した。
「海上」においては、当時、南朝鮮のコレラ問題もあり、日本政府とGHQ/SCAPにより監視体制がひかれていた。例えば、不審な船舶を監視し、発見し逮捕者が出ると「強制送還」させる措置を取っていた。この監視体制は次第に強化されていった。
内務省については、「密航朝鮮人」を取り締るための予算を日本政府に申請していたことが明らかとなった。申請予算の内容は、例えば、沿岸や海上における取り締りのための人件費や、「密航者収容所」の新設のための建設費、これまでの収容所の改造費などであった。この内務省の予算内容だけ見ても、先の「海上」の監視体制と一帯となって取り締りに力を入れていたことがわかった。
朝鮮人団体により作成された「密航収容所」に関する調査報告書からは、南朝鮮から日本へ向けて再渡航した船が日本の海岸に到着し、収容所に収容された時の状況や、日本の主な「密航者収容所」の「管理」の在り方が推測できる内容であったことがわかった。
第8章においては、戦前から日本国内の中でも朝鮮人の人口が多い地域である大阪府を取りあげ、大阪府と大阪府警察による帰還希望登録調査による計画輸送を中心に、その実施過程を実態に即して分析した。分析内容は、この調査を実施するにあたり、大阪府が日本政府に臨時の予算を申請していたことから、その申請した予算書の分析を試みた。その結果、大阪府が帰還希望登録調査を実施するために申請した経費と、実際にかかると思われる経費を精査したところ、不透明な箇所が見られた。この調査費以外にも大阪府は、例えば「朝鮮人援護協議懇談会関係計画書」を作成し、1か月に約11回の会議を開催するとして経費を申請していたが、実際にこの会議を開いたのかどうかを確認することはできなかった。
大阪府による帰還に関する取り組みは、この他にも、1946年になると再渡航者が増えることから、この問題についても警察とともに取り組んでいく。そのために臨時の「密航者収容所」の建設費や、再渡航者取り締り強化のための警察署員増員費などを計上し、予算を申請していた。しかし、大阪府や大阪府警察がこのような予算を申請して取り組んだ「計画輸送」は、結果として不振のままに終了したのである。大阪府という一地方を事例に見た限りではあるが、帰還を実施する「現場」でも、日本政府の帰還政策と同様に、帰還者側の意向を汲んだ帰還ではなかったことが明らかになった。
以上の第2部を総合すれば、朝鮮人の帰還を実際に実施した地域における帰還者への対応と南朝鮮の状況について、その特徴を整理すると次の2点を指摘できる。
第1に、敗戦直後、日本政府から帰還に関する政策が各地域に出される以前から、すでにそれぞれの地域では、独自に帰還者への対策を立て帰還を進めていたという点である。もちろん、日本政府が各地域へ指示したことも「現場」(例えば、興生会や民生課の職員を使うなど)では実行されていたが、現場では、より具体的な対策を立て帰還を進めていたのである。ただし、その対策は現場が率先しておこなったというよりも、対応を迫られて実施したものであった。
第2に、各地域における朝鮮人団体の「活動」である。帰還が実施される地域の現場によって、行政側の職員や警察と朝鮮人団体との関係は異なっていた点である。それでも各地域の現場では、帰還を実施するには朝鮮人団体の「協力」がなければ進めることはできなかった。

以上で検討した個別実証の成果を総合して、本論文のテーマである、日本政府とGHQ/SCAPによる在日朝鮮人の帰還政策の形成についてまとめておこう。
 敗戦直後、日本における在日朝鮮人の帰還政策の形成に必要不可欠な主な条件は次の5つに整理できるだろう。第1に、帰還を担当する組織の設置と、帰還先の南朝鮮情勢の把握とそれぞれの「現地」(日本と南朝鮮の「現場」も含めた意味で)との連携である。第2に、日本国内にいる朝鮮人の把握と帰還方法(例えば、どのようなルートを使用し、どのような方法によって帰還を実施するのか)である。第3に、帰還者の援護と支援である。第4に、日本政府と朝鮮人団体との協力関係である。最後に、これら4つの条件を整えるうえで必要不可欠なものは、これまでの支配と被支配の関係を「解消」することである。
 本論文では、これら5つの問題については概ね全編を通して各章の中で言及した。それぞれの内容についてはここでは繰り返さないが、敗戦直後、日本人の外地からの引揚げとあわせて、日本政府主導の下で朝鮮人の帰還は開始され、本格的なGHQ/SCAPの介入は、1945年11月1日の覚書からとなり、翌年の1946年2月17日の帰還希望登録調査による、「計画輸送」が開始されるという覚書が出されることによって、全体の帰還政策が形成され、1946年12月末をもって終了となる。
 以上に述べたことをふまえて、敗戦直後における、在日朝鮮人の帰還政策形成過程に見られる特徴は2つある。1つに、日本政府は朝鮮人帰還者にできるだけ合った政策を策定し、実行することはできなかった。第3章でもみたとおり、1946年2月初旬、日本政府は「対策8項目」の中に盛り込んだ、朝鮮人を早期に帰還させるための「計画輸送」を実施したのである。結果は失敗に終わったが、そもそも敗戦直後に日本政府がおこなう「帰還」とは、このような目的ではないはずである。
もう1つは、帰還を実施する現場では、今回扱った史料によるものか、常に「警察」が関わっていたことである。この特徴は、朝鮮人の帰還政策が開始された当初から見られ、再渡航をめぐる動向とも関連するが、第3章でも述べたように、警視庁の調査報告書では、警視庁は敗戦前から朝鮮人の動向を調査し、とりわけ敗戦直後は朝鮮人団体に対して厳しい見方をしていた。その上で、食糧不足と失業問題を理由に治安の安定を図るため、朝鮮人をできるだけ帰還させたかったというのである。また地方においても、第8章で述べたが、1946年に入ると大阪府警察は残留労働者も含めた再渡航者対策をしていた。
つまり、帰還政策は、敗戦直後から1年も経たないうちに本来意味する「帰還」から「再渡航者対策」へ転換し、日本国内にいる朝鮮人を「排除」する目的となったのである。しかし、ここで重要なのは、その一方で日本政府は敗戦直後から朝鮮人帰還を進めるために朝鮮人団体を「利用」し、そのうえ敗戦前からある興生会を活用していたという事実であろう。そうだとするならば、このような帰還政策が策定され実施されたことは、単に日本政府の「帰還政策の不備」を指摘するだけではない。むしろ、日本政府は「解放」された朝鮮人に対して、敗戦後もなお支配者と被支配者の関係を「保持」し、ときには前者が後者を「協力」させ、また「弾圧」しながら帰還を進めたという事実である。このことは、本論文が目指した日本政府とGHQ/SCAP(とりわけ日本政府という意味で)が朝鮮人をどのような意図で帰還をおこなったのかという、1つの結論ではないかと考える。
今回、このように実態に即して導き出せたということは、本論文の大きな意義であるといっても過言ではないだろう。それはまた、繰り返しになるが、日本側の行政関係の一次史料をできる限り使い、詳細に検討し分析したことによるものといえよう。

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