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博士論文要旨

論文題目:近世後期における地域指導者層の学問受容―宮負定雄を中心に―
著者:小田 真裕 (ODA, Masahiro)
博士号取得年月日:2014年3月24日

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 本論文は、近世日本の地域指導者層にとって学問が持った意味を、宮負(みやおい)定雄(さだお)(寛政9〈1797〉~安政5〈1858〉)に焦点を当てて検討するものである。宮負定雄は、下総国香取郡松沢村(現千葉県旭市〈旧干潟町〉)で名主を務めた平田篤胤生前の気吹舎(いぶきのや)門人で、「草莽の国学者」の一人として、あるいは近世後期の村役人や豪農の位置付けを考えられる人物として、多くの研究で取り上げられてきた。そうした研究の蓄積を踏まえ、本論文では、宮負定雄の生涯に渡る思想形成・変容の過程を、彼を取り巻く人々との影響関係に着目して検討することを試みた。
近世日本の中間層については、1980年代以来、中間層による公共性の体現や行政能力の獲得を評価する見解が示されるようになった。しかし、従来の中間層論では、中間層の課題意識が十分に明らかにされず、村役人層以外の人々が地域社会の成り立ちに果たした役割が注目されることも少なかった。そこで、本論文では宮負定雄だけでなく、松沢村の神職宇井(うい)包(かね)教(のり)(寛政11〈1799〉~万延元〈1860〉)、定雄と縁戚関係にある万力村(現千葉県旭市〈旧干潟町〉)の百姓金杉(かなすぎ)貞(さだ)俊(とし)(天明元〈1781〉~文久元〈1861〉)についても思想形成・変容の過程を検討し、彼らが生きた時代の松沢村・万力村周辺の地域社会における学問をめぐる状況を解明しようとした。そして、地域社会の成り立ちを担った、あるいは担うべきとされた存在を、当時の地域社会に生きた人々の視座から考えた。
 近世日本の地域社会における学問の展開については、本論文の直接の対象である国学の他、儒学・蘭学(洋学)に関する研究蓄積がある。しかし、先行研究は、人々が受容した学問の中身について、頂点的思想家あるいは「国学者」「儒者」「蘭学者」等の著述を読んだ事実や、そうした人々の著述との論理の近さを指摘するに止まるものが多かった。そのため、それぞれの学問のどこが人々を惹きつけたのか、彼・彼女たちがなぜその学問を学んだのかといった点が不明であった。そこで、近年の書物・出版に着目した研究および平田国学研究を踏まえ、「国学」など学問の枠組みを自明のものとすることなく、宮負定雄たちが求めた知識や情報の具体的な中身と、彼らの学問観を追究した。

本論文は、以下の各章から構成した。

序章 
一 「地域」への着目
二 「地域指導者層」の捉え方
三 「学問受容」の捉え方
四 本論文の構成

第一部 宮負定雄の思想 
第一章 気吹舎門人研究の方法―宮負定雄研究を手掛かりに―
はじめに
一 宮負定雄はどう取り上げられてきたか?
二 平田国学研究の現在
おわりに
第二章 宮負定雄の生涯
はじめに
一 松沢村と宮負家
二 宮負定雄の生涯―出生から名主退役まで―
三 宮負定雄の生涯―名主退役から死去まで―
おわりに
第三章 「民家」の学問―『民家要術』の形成過程―
はじめに
一 『民家要術』の諸本
二 『民家要術』の成立―『民家要術 下巻』―
三 気吹舎への持参―天保二年本―
四 「民家学」の形成―天保四年本―
おわりに
第四章 「農師」への志向―『農業要集』から『農事窮理考』へ―
はじめに
一 『農業要集』
二 名主在任時の農業論
三 『農事窮理考』の形成
おわりに
第五章 幽界への眼差し―宮負定雄と金杉貞俊―
はじめに
一 気吹舎における『神界物語』
二 弘化・嘉永年間の宮負定雄
三 安政年間の宮負定雄
おわりに

第二部 宇井包教・金杉貞俊の思想
第六章 松沢村熊野神社神主宇井包教の思想
はじめに
一 気吹舎への入門
二 大原幽学への入門
三 平田国学への復帰
おわりに
第七章 下総万力村金杉貞俊の思想形成
はじめに
一 万力村と金杉家
二 幼少期からの学び
三 自著の執筆
四 天保年間以降の学び―「医書」「軍談縁起」を中心に―
五 宮負定雄との交流―「神祇古道 家相」を中心に―
おわりに
第八章 金杉貞俊の飢饉認識―「餓饉(ききん)書」に着目して―
はじめに
一 天保飢饉以前の意識
二 天保四年の意識―『餓饉憂之事』―
三 天保八年の意識―『心の鏡 かまどの種』―
四 最晩年の「餓饉書」―『餓饉ばなし追加』―
おわりに

終章
一 宮負定雄という人物
二 東総の「地域指導者層」
三 平田国学の捉え方
四 「村長」の学問
  
第一章では、宮負定雄と平田国学に関する研究の現状を確認した。そして、宮負定雄について、①具体的行動、②思想形成・変容の過程、③彼に対する人々の反応という三点を解明する必要があること、平田国学について、地域社会や気吹舎で展開した学問の総体を把握した上で平田国学の位置付けを考える必要があることを指摘した。
第二章では、気吹舎と松沢村の同時代的状況に留意して、宮負定雄の生涯を検討した。そして、先行研究で明らかにされてこなかった平田国学受容の段階性と二度目の名主退役以降の行動を解明し、村人たちの認識と自身の志向との間で葛藤する定雄の姿を浮かび上がらせた。
第三章では、名主在任時の定雄の思想を、『民家要術』諸本の異同に着目して検討し、『民家要術』が、松沢村での読み聞かせに用いる書物から、出版を想定した書物へと性格を変化させていることを明らかにした。そして、気吹舎での校閲を経た天保四年本では情報量が激増し、文人評判記や談義本を模した形式になっていること、『民家要術』の変化が、定雄の「身に行い安き教誡に便利なる真の道」への一貫した志向に基づくものであったことを指摘した。
第四章では、『農業要集』と同書の改訂版である『農事窮理考』という、執筆時期に約三十年の開きがある二つの農書の関係を、「農師」という存在に着目して検討した。二つの農書は、農書執筆の根底にある課題意識や撰種重視の農業論などが共通しているものの、『農事窮理考』には、南方の遠国の種子を植えることが「天理」や「地理」に適うという見解や、『陳旉農書』を参照した「農師」設置の提言がある。そうした異同から、定雄が『農業要集』の「誤り」と見做した点が撰種の仕方や理論化の不完全さであること、定雄が当時の実例や書物を参照して「農師」構想を変化させており、「農師」のあり方を自身の行動の指針にしていたことを指摘した。
第五章では、定雄の幽界への関心を、金杉貞俊との関係に着目して検討した。そして、定雄の幽界への関心の強まりが、「農師」への志向や農業研究の方向性と密接な関係にあったことを明らかにした。また、定雄以外の気吹舎門人や地域の人々の反応を取り上げ、幽界に関する話題への関心と反応の多様性を指摘した。
第六章では、松沢村の鎮守熊野神社の神主宇井包教の思想を検討した。そして、彼と松沢村や周辺村落の地域指導者層が、地域社会の状況に関する認識や「修身・斉家」に関する課題意識を共有していたこと、包教の学問観の特徴として、神職の職分に関する知識への志向が見られることを指摘した。
第七章では、万力村の百姓金杉貞俊の思想形成・変容過程を、彼が知識や情報を得た媒体に着目して検討した。そして、「地方」に関する知識を重視していた貞俊が、親族の死去を契機として医薬に関する知識への関心を強め、天保飢饉以降は飢饉に関する書物を読んで「餓饉書」執筆に活かしていったという、彼の関心の推移を明らかにした。また、貞俊の学問観の特徴として、書物からだけでなく口承による学びを重視しつつも、知識を文字化して後世に伝えていくことの重要性を認識していたこと、自家の相続と「人の為」という観点に立脚して学問を学ぶべきと捉えていたことを明らかにした。
第八章では、貞俊の著述を、天保飢饉の影響に着目して検討した。そして、被害の深刻化に伴って、食物の蓄えや飢饉の前兆を窺うことの重要性を認識するなど、飢饉認識に変化が見られること、飢饉に関する知識や情報を様々な媒体から得ていたことを明らかにした。

これまで、国学を受容したという事実を前提として検討されてきた宮負定雄だが、彼が平田国学を学んでいったのは、平田国学を学ぶ以前から抱いていた「身に行い安き教誡に便利なる真の道」への志向によるものであった。その志向に基づいて定雄は、平田篤胤の著書『霊(たま)能(の)真柱(みはしら)』の読書、篤胤による『玉襷』などの講釈の聴講、『古史伝』の読書というように、平田国学を段階的に受容していったのである。篤胤が説く幽界と現界の関係についての議論に感銘を受けた定雄は平田国学に傾倒し、気吹舎と深く関わるようになっていく。そして、自身の著述が気吹舎に集う人々に好意的に受け止められる一方、実際の村政運営に行き詰まりを感じていた名主在任時に『民家要術』を推敲していく。村人たちとの齟齬は、「農師」への志向に基づいて『農業要術』や『民家要術』の改訂に取り組んだ弘化年間以降も解消しなかったが、安政元(1854)年以降に深化する三沢明との親交によって自身の論への確信を深め、自説の集大成を目指していった。先行研究は、村役人としての宮負定雄の思想を、天保2(1831)年の著述に依拠して論じてきたため、名主宮負定雄の姿を静態的にしか描けてこなかった。しかし、名主在任時の葛藤と試行錯誤に注目しなければ、村人たちや定雄と親交があった人々の営為は視野に入ってこない。また、村役人としての定雄の位置付けは、周囲からの否定的評価を自覚しつつも「農師」への志向に基づいて活動した晩年を視野に入れてこそ可能になる。宮負定雄の思想形成・変容の過程からは、村役人を取り上げるには、①村役在任時の思想を不変的なものと捉えるのではなく、現実を踏まえた変化の側面に着目すべきこと、②対象とする人物の生涯を踏まえ、村役人としての当人の位置付けを行うべきことを指摘できる。
また、本論文では宮負定雄が生きた時期における東総の地域社会像を、人々の意識面に着目して描こうとした。定雄が気吹舎に入門し、名主に着任した文政末年の東総地域では、百姓の風俗の悪化や「浪人体のもの」の徘徊が問題になっていた。そして、定雄が名主を務めていた天保4(1833)年からの飢饉は、村役人たちの村政運営を一層難しくさせた。この頃の東総地域では、「師匠をとり文字をならわせ」る者や書物を読む人々が増え、平田国学や大原幽学が説く性学の展開も見られた。しかし、金杉貞俊が苦言を呈したように、自村のことに不案内な者や学派・流派の権威性を自明視するような者も多く、家に伝わる書物を売ってしまうような者もいた。そのような地域社会の学問をめぐる状況のなかで定雄は、「礼儀ハ富足に起り、盗賊は貧賤に出」という理解に基づき農業について考え、松沢村の「村方政事改革」に取り組んだ。そして、「村方政事改革」で読み聞かせに用いた自著『民家要術』を気吹舎に持参し、出版を目指して推敲した。
名主在任時の宮負定雄は、「あるべき村役人の資質」が村役人たちの側から設定されていく18世紀後半以降の時代性を象徴する存在として注目されてきた。しかし、松沢村の「村方政事改革」が村役人層と神職の協働で行われていたこと、自著の校訂を希望する村役人層・神職と、彼らの著述に関心を寄せる領主層からの知識や情報が気吹舎に集まり、様々な人々の知識源・情報源となっていたことは、地域社会の成り立ちや「修身・斉家」についての課題意識が、村役人層以外にも抱かれていたことを示している。また、宮負定雄の「村長」論が、実在の「贋名主」や寛政期の「名代官」を意識していることは既に指摘されてきたが、本論文ではさらに、立野良道『役儀家言』・和泉利愛『御世の恵』など気吹舎門人あるいは後に門人となる人々の著述や、口承や書物で知った「農師」の事例を参照していることを明らかにした。金杉貞俊も自著で「村長」のあるべき姿について論じているが、彼の「村長」論は、村役人だけでなく郡奉行や代官、医者や僧侶といった存在の実例を参照して構築されている。「あるべき村役人の資質」は、村役人以外の「あるべき資質」が意識化されるなかで設定されていったのである。近世後期の東総地域に着目すると、「地域指導者層」について考える際には、①村役在任者のみを検討対象とするのではなく、対象とする時期・地域に即して、地域社会の成り立ちを担った人物・担うべきとされた人物を明らかにする必要性、②「地域指導者」たる存在に求められた資質や役割が、どのような事例を参照して考えられたのかという点を明らかにする必要性が浮かび上がる。
また、本論文の題目に掲げた「学問受容」という観点からは、宮負定雄が『民家要術』天保四年本で示した「民家学」構想が注目される。この「民家学」は、平田国学受容の根底にあった「身に行い安き教誡に便利なる真の道」への志向に基づき、自身の見聞や気吹舎を介して得た知識・情報を参照して見出されたもので、引用あるいは推奨されている書物の分野は多岐に渡る。しかし、定雄自身が「民家学」を「平田流の国学のずつと直段の安い処」と位置付けているように、そうした書物の内容は平田国学と必ずしも矛盾するものではなかった。また、叙述のスタイルが当時気吹舎で読まれていた『妙々奇談』や『しりうごと』を模していること、未出版の平田篤胤や気吹舎門人の著述が参照されていることは、気吹舎門人の著述の内容分析を行う際には、その著述が作成された時期における気吹舎の話題や篤胤・門人たちの関心を押さえることが重要であることを示している。先行研究では、気吹舎以外の出版物に対する気吹舎の関心や、気吹舎門人個々が学んだ学問の総体は明らかにされていない。奥州相馬の気吹舎門人高玉安兄宛平田銕胤書簡からは、篤胤没後の気吹舎において、大橋訥庵『闢邪小言』や山田維則『蘭学弁』が蘭学(洋学)批判の観点から推奨されていることを確認できる。また、筑前の気吹舎門人に対しては、門人が注文していない書物が気吹舎側の判断で送られている。気吹舎における話題の具体的内容と話題になった時期を、「国学」という学問の枠組みを自明のものとせずに明らかにしていくこと、その上で、気吹舎における話題と「国学思想」との関係を問うていくことは、平田国学研究に有効な視角といえるだろう。
第一部で取り上げた宮負定雄と第二部で取り上げた金杉貞俊の学問・「村長」についての考え方には、重なる部分も多い。しかし、貞俊が、「古人」が書いた書物を読んで発する言葉が「人の為にはいかゝあたる」かを考えることが重要であると強調している点には、定雄との学問観の違いを看取できる。また、貞俊は自著で、江戸の高名な学者の門弟となった「嗇名主が忰」のことを、「人の手本ニハ無益」で、「国郡村方の益にもなら」ない「娑婆ふさぎ」であると批判している。こうした観点は、宮負定雄による気吹舎への出金を否定的に捉えた松沢村の村人たちと通じるものである。文政末年の東総地域における村役人たちの地域運営は容易ではなく、天保飢饉以降は、さらに困難さを増した。そして、百姓の風俗悪化や「浪人体もの」の徘徊など広域の村々に共有された課題だけでなく、村々固有の課題への対応も求められた。そうした困難さにも拘わらず、本論文が対象とした時期の東総地域では、「地域指導者層」に対しては「一村の先達」としての資質や責務に基づく行動が、広範な人々から求められていた。だからこそ、彼らは課題を克服するための学問を模索したのであり、名主在任時の宮負定雄の平田国学への傾倒も、「村長」の責務と自他共に認識していた百姓の教諭のために「身に行い安き教誡に便利なる真の道」を学んでいったことによるものと位置付けられる。
本論文では、宮負定雄・宇井包教・金杉貞俊の学問観を追究し、彼らが「村長」や百姓の学問のあり方についての意見を持ち、自身の学問観に基づいて知識や情報を得ていったことを明らかにした。こうした学問との向き合い方を、国学・儒学・蘭学・洋学といった学問の受容史として捉えては、彼らの個性が埋没してしまう。地域社会における学問の展開を検討する際に、何が学ぶべき学問と考えられ、なぜそのような学問が求められたのかを明らかにすること、そして、実際に学ばれた学問の内容を明らかにすることが重要であると指摘したい。

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