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博士論文要旨

論文題目:マルクスの労働概念とエコロジー
著者:韓 立新 (HAN, Lixin)
博士号取得年月日:2000年3月28日

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1.問題意識

 この論文は、マルクスの労働概念とエコロジーの関係にかんする一つの研究である。

 現代のエコロジーは、自然環境がすでに破壊されたという厳粛な現実にもとづき、近代社会の有り方およびその思想的伝統に対する批判や反省として登場してきたものである。それは、近代の機械論的世界観や資本主義の産業文明とは根底的に対立しており、その中に近代的産業文明の様式を変革する理論的志向を秘めている。マルクスとエンゲルスの哲学と経済学は、資本主義社会の不合理性を徹底的に究明して資本主義の克服と人間の解放を目指す社会変革の理論として、1840年代以降巨大な影響を及ぼしている。現代のエコロジー思想とマルクス主義は、未来社会の構想や理念においては異なるかもしれないが、近代社会の批判やその超克などの多くの面においては共通しており、両者は論理的にも「同盟」が結べるはずである。

 ところが、実際には、エコロジー思想とマルクス主義の間には、「同盟」が結ばれていないだけでなく、逆に大きな裂け目が現われている。この裂け目は、おもにマルクス主義に対するエコロジーのサイドからの不信や誤解によって生じたものである。多くのエコロジストは、マルクス主義を近代主義の枠内にとどまっているものとしてとらえ、マルクス主義のエコロジー的な可能性を認めず、あるいは、それを現代のエコロジー思想とは両立できないものと描いてしまっている。さらに、一部の極端な論者は、「マルクス主義的理論ほど生態学上、有害きわまるものはない」1、あるいは「絶望の哲学である」2と断罪し、マルクスとエンゲルスをまるでエコロジーの「敵」のように扱い、マルクス主義との「同盟」の可能性を断固として否定している。

 もちろん、エコロジーからの批判とその一方的な拒否の態度は、エコロジーの問題に積極的に取り組もうとするマルクス主義の側にとってはけっして受けいれられるものではない。エコロジーからの挑戦に応じるために、マルクス主義のサイドからエコロジーとの接点を見出そうとする動きが現われている。「エコ・ソーシャリズム」という言葉が示すように、エコロジーと社会主義との結合、あるいは「緑」(グリーン)と「赤」(レッド)との「同盟」が試みられ、環境問題に対するマルクス主義の独自なアプローチも議論されている。

 本論文は、大きく言えば、この流れの中で行われるマルクス主義とエコロジーとの関係にかんする一研究である。しかし、本研究は、マルクス主義とエコロジーとの関係のすべてにわたる網羅的な研究ではなく、マルクスの労働概念に焦点を合わせ、それとエコロジーとの関係を考察するものである。このテーマ設定あるいは研究法を採用する理由はおもに次の二点にある。

 まず第一に、エコロジー問題は、その問題の性格からすれば、労働概念からアプローチする必要があるからである。周知の通り、エコロジー問題は、資源枯渇と自然破壊が深刻になってはじめて提起されたものである。資源枯渇と自然破壊の原因は、人々の自然観や宗教観および社会歴史観などに密接に関わっているが、根本的には人間の労働あるいは生産の有り方にあるに違いない。哲学のサイドから環境問題を扱う場合、人間の労働とエコロジーとの関係は、つねに解決が求められている核心的な問題とならなければならない。

 第二に、マルクスは、労働概念を深く研究した最大の思想家であり、彼の哲学も、その理論的な性格からすれば、人間と自然とのあいだの対立と統一をテーマにし、労働、実践を中心的な概念とする「実践的唯物論」だからである。まさにその理論の影響の大きさと「実践的唯物論」の性格の故に、マルクスの哲学と経済学は現在、大いに注目を集め、エコロジー思想から厳しい批判を浴びている。この批判は簡単にまとめると、以下の通りである。

 マルクスとエンゲルスは、自然を単なる労働の対象や手段と見なし、自然を功利的に利用することを認めている。この見解は、人間と自然との二元対立をもたらすばかりでなく、自然と人間にそれぞれ異なった評価を与えることとなる。人間は、能動的な主体として、技術の力で自然を完全に支配できる「自然の主人」と見なされる。これに対して、自然は、もっぱら受動的な客体として、「固有の価値」と経済的価値(交換価値)をもたない「粗雑な混沌とした塊」と低く見なされる。マルクス主義は、「無限の自然」と「無限の発展観」という仮定のもとで、「自然の限界」および技術と生産力による否定的影響をまったく認識できなかったがゆえに、社会観においては資本主義とは異なるが、その労働観と自然観においては、「自然の支配」、「技術楽観主義」、「生産力主義」などの環境破壊の思想的原因を共有する、と。

 以上から分かるように、エコロジーからの批判は、その内容から見れば、自然観、技術観、生産力理論、経済理論、社会理論および哲学観などの領域まで及んでいるが、何れもマルクスの労働概念に密接に関わり、ほとんどその労働概念に凝縮されうる。したがって、エコロジーからの批判がマルクスの労働概念に妥当するかどうかは、今日、マルクス主義に解決が迫られている鍵となる課題である。この課題の解明は、マルクス主義とエコロジーがいったいどのような関係なのか、またマルクス主義とエコロジーとの「同盟」がどこまで可能なのか、という問題の最終的な解決に直接つながる。

 本論文は、この課題の解決を意図するものである。

2.本論文の方法

 以上の問題意識にもとづき、本論文では、基本的には労働概念をエコロジー的視角から検証し、この検証を通して、最終的にマルクス主義とエコロジーとの関係の問題について結論付けるという視座を採用する。

 エコロジーからの批判の対象は、その内容を見るかぎり、労働概念に凝縮されるが、これは概ね哲学と経済学の二つの視角に分けることができる。それゆえ、エコロジーからの問題提起に応えるためには、オリジナルのマルクスの労働概念にさかのぼって厳密に考察すると同時に、マルクスの労働概念を哲学と経済学の二側面に分け、それぞれにエコロジーの視点から検討を加える必要がある。また、エコロジーからの批判の多様性と、労働概念についてのマルクスの叙述を考えると、哲学と経済学の二側面をさらに細分化し、哲学的労働概念を<人間と自然との物質代謝>と<人間の対象化活動>に分け、経済学的労働概念を<使用価値の生産としての労働>と<価値生産としての労働>に分けてとらえ、そのうえで、各々の側面をエコロジーに対応し検討する必要もある。これが本論文の方法論である。

(1)労働概念の哲学的側面

 労働概念の哲学的側面、つまり労働一般とは、おもに『経済学・哲学草稿』、『資本論』の「労働過程」論で展開された労働概念を指す。

 マルクスは、1844年の『経済学・哲学草稿』において、「人間と自然の連関」を「自然と自然自身との連関」と見なすと同時に、人間の労働を「対象化」、「人間の自己産出行為」としてとらえている。『資本論』の「労働過程」に至ると、労働概念は具体的な形で規定されるようになった。「労働はまず第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。すなわち、人間がその自然との物質代謝を、彼自身の行為によって媒介し、規制し、制御する過程である」3。この規定から、マルクスの労働概念が物質代謝と対象化活動という二つの側面から成り立つと見ることができる。人間の労働は、物質代謝と対象化活動という二側面の統一である。これが、初期の『経済学・哲学草稿』から成熟期の『資本論』までマルクスの一貫した立場である。

 労働概念をこの二側面の統一と見るという捉え方は、広く受けとめられている。例えば、尾関周二は、「労働を人間と自然の物質代謝の媒介活動とみる観点と、主体―客体関係における対象化活動という観点、この二つの観点」4があると述べているし、島崎隆も、労働を「(1)目的実現(テロスレアリザチオン)の、対象化の活動、(2)質料転換(シュトッフヴェクセル)としての、自然的過程」としてとらえている5。

 このように労働概念を二側面に分けて考えることは、エコロジーからの問題提起に対応するには有効である。物質代謝の側面の強調によって、我々は、マルクス主義が近代の極端な「人間中心主義」の思想とは明確に区別され、今日の環境問題への射程をもっていることを証明することができるし、それがリサイクル思想や「環境経済学」などの現代の具体的な解決策に対応する可能性を確認することもできる。また、対象化活動の側面を明確にすることによって、「自然の支配」、「技術楽観主義」などの批判とマルクス主義との関係をいっそう見極めることとなろう。

(2)労働概念の経済学的側面

 経済学の労働概念は、おもに『経済学要綱批判』や『資本論』などのマルクス経済学の著作で使われている労働概念を指す。マルクスは、『資本論』の第1章で「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」を区別し、その第5章で「労働過程と価値増殖過程」の問題を論じている。このことから、労働概念を、「使用価値の生産としての労働」と「価値生産としての労働」という二側面に分けて見ることができる。前者は、哲学の労働概念における対象化活動の側面と重なっており、どの時代にも行わなければならない使用価値の生産である。後者は、交換価値の基準となる抽象的人間労働であり、資本主義的生産関係のもとでは、剰余価値の生産となるのである。この二側面も多くの研究者によって論じられている。例えば、内山節は、以上のように労働概念を二つの側面に分けて考えている。つまり「ひとつは歴史貫通的な使用価値をつくりだす労働=労働過程における労働であり、もうひとつは歴史段階的な価値をつくりだす労働=資本制生産様式のもとでの労働である」6というのである。

 使用価値の生産と価値生産を区別することも、エコロジーからの批判に対応するためである。この批判は、おもにマルクスが①土地、自然を労働の対象や手段としてしかとらえず、生態系や自然の意義を過小評価したこと、および②労働を価値の唯一の源泉として、自然の価値を認めなかった、という二点である。この二点は、実にエコロジーがマルクス主義に対して問うている難問である。

 経済学の労働概念を使用価値の生産と価値生産に分けてとらえる場合、一般には、①の問題は、使用価値の生産の問題をおもに扱う「労働過程」論にあてはまり、②の問題は、価値生産を中心的な課題とする「労働価値」説にあてはまると考えられる。実際にも、マルクス経済学の労働概念に対するエコロジーの批判は、「労働過程」論と「労働価値」説に対して行われているのである。

3.展開の順序と各章の内容

 上述の問題意識と方法論にしたがって、本論文では、以下のような順序で論文の内容を展開していく。まず第1章で、エコロジーからの問題提起と「エコ・ソーシャリズム」の理論をとりあげる。その後、3章(第2、3、4章)にわたって、『経済学・哲学草稿』における自然と人間の規定、労働概念の二側面(物質代謝と対象化活動)とエコロジーとの対応関係を考察する。第5、第6章では、「労働過程」論と「労働価値」説に対するエコロジーからの批判を検討する。そして結論を提示する前に、「中国の実践的唯物論」および「高清海の実践哲学」という二つの補論を付して、マルクス哲学の実践的唯物論の性格を明らかにする。最後に本研究の結論を示す。各章の内容は以下の通りである。

<第1章 エコロジーからの挑戦>

 この章では、おもに三つの問題を総括的に取り扱う。第一は、エコロジーからの一般的問題提起である。エコロジーからの批判は、機械論的世界観と、近代経済学と産業文明に集中している。機械論的世界観のもとでは、人間と自然が徹底的に分裂し、人間は目的をもつ能動的な主体とされ、自然は単なる受動的な対象、「死せる機械」と見なされる。その結果、近代的「人間中心主義」が生まれてきたのである。近代経済学は、交換価値および経済の成長を限りなく追求する経済学である。それは、「大量生産――大量消費――大量廃棄」という産業文明を作り上げたが、この産業文明は、有限な資源を容赦なく食いつぶしているため、「共有地の悲劇」に陥らざるを得ない。

 第二は、エコロジーからのマルクス主義批判である。多くのエコロジストは、マルクスとエンゲルスは、近代資本主義社会の不合理性を最も厳しく批判したが、根底においては近代の機械論的世界観および近代的産業文明の思想と共通し、マルクス主義には、「無限の自然」、「無限の発展観」、「技術楽観主義」、「生産力主義」、「自然の支配」、「人間中心主義」などの問題があると主張している。なかでもマルクスの「労働過程」論と「労働価値」説は、エコロジーとは相容れない悪例としてエコロジー思想から批判を浴びている。

 第三は、「エコ・ソーシャリズム」の問題である。エコロジーからの批判に反論し、マルクス主義とエコロジーを結び付けようとするのは、エコ・ソーシャリストたちである。彼らの多くは、マルクス主義が、「自然の支配」を主張するが、自然への破壊的な支配および極端な「人間中心主義」ではないと弁護する。それと同時に、環境問題の原因を資本主義の生産様式のなかに求め、環境問題の解決の可能性を社会主義のなかに見出そうとする。しかし、「エコ・ソーシャリズム」は、肝心のマルクスの労働概念、およびエコロジーとの関係の検討が不十分であり、その労働把握も「人間主義」の側面に偏っている。したがって、マルクス主義とエコロジーとの関係が未解決のまま残っている。

 この章は、いわば本論文における問題の導入にあたるものであり、筆者の問題意識に対する説明でもある。

<第2章 『経済学・哲学草稿』における自然と人間>

 この章では、マルクスの1844年『経済学・哲学草稿』に遡って、「自然の一部」、「自然と自然自身との関連」、人間の「非有機的身体」など、マルクスにおける一連の有名な命題を取り上げて検討することによって、マルクスの自然概念と人間把握、および「人間主義」と「自然主義」の統一などの諸問題を吟味する。

 マルクスにとっては、人間は、「自然の一部」、「自然的存在」であると同時に、他方では、対象に働きかけ、自己形成と自己確証を行なう活動的な存在でもある。自然は、根源的な「母なる大地」であり、「人間の助力なしに」存在する客観的な存在であると同時に、人間の労働対象、手段および人間の自己確証のための素材でもある。人間の労働は、それ自体が生命活動であると同時に、生活活動、つまり自然を使用価値あるものとして獲得する対象化活動でもある。人間や労働は、いずれも受動的・自然的な側面と能動的・人間的側面の二側面から規定され、さらにその二側面の融合、統一として捉えられている。これがマルクスの人間、労働把握の特徴をなしている。

 これらの二側面の統一は、もちろん無媒介の統一ではない。その根底には、1. 「活動的な自然存在」、2. 「受苦的な存在」だからこそ「情熱的な存在」となること、および3. 人間の「非有機的身体」としての自然、という媒介の論理が存在する。この媒介の論理を通して、人間の主体性が受動性・自然性によって根拠づけられ、唯物論と弁証法も哲学史においてはじめて統一されるようになった。

 マルクス哲学観の基本的な立場は、「人間主義」と「自然主義」との統一を強調するところにある。この立場は、現在、マルクス主義がエコロジーの問題へアプローチするにあたっての基本的視座となる。

 この章は、マルクスの労働概念とエコロジーとの関係を解明するための前提である。

<第3章 物質代謝とエコロジー>

 この章では、まず労働概念の物質代謝の側面をエコロジー的視点から検討する。この検討は、主として次の三つの内容から成り立っている。

 第一は、物質代謝概念の研究状況およびその概念規定である。筆者は、マルクスの物質代謝概念の由来にかんするモレショットやビュヒナーらの説と化学者リービヒ説を紹介し、そしてこの概念にかんするシュミット、椎名重明、吉田文和らの従来の研究を踏まえて、物質代謝における生理学的な意味を確認する。

 第二は、マルクスにおける人間と自然との物質代謝の意味である。人間と自然との物質代謝の概念は<生理学的な意味での物質代謝>と<労働によって媒介される物質代謝過程>という二つの側面から成り立つ。<生理学的な意味での物質代謝>の視角から人間社会を見る場合、人間社会そのものが一個の巨大な有機体となり、その労働過程および生活過程も生態系の受容限度内におさえられなければならない。また、森田桐郎の「労働過程」論への反省および生活過程の物質代謝把握は、労働過程と生活過程が自然物の獲得という一方的な過程ではなく、人間と自然の物資の循環過程と見なす重要性を改めて示している。

 第三は、現代から見る物質代謝論のエコロジカルな意義である。マルクスは、現代の環境問題を意識した上で物質代謝論を提出したわけではないが、しかし、都市と農村との分離によって引き起こされた物質代謝の撹乱に対する彼の批判から見れば、マルクスの物質代謝概念には、現代のエコロジー問題に対処しうる可能性が秘められている。それは、現代の廃棄物の問題、リサイクルの思想、「環境経済学」に対して重要な視点を提供しうる。 総体的に見れば、マルクスの物質代謝概念は、現代のエコロジーの問題に直接結びついている。

<第4章 対象化活動とエコロジー>

 この章では、労働概念のもう一つの側面、すなわち対象化活動の側面をエコロジー的視点から検討する。この側面は、現在、物質代謝の側面と異なり、環境破壊につながるものとされている。このため、この章では現在議論の焦点となっている三つの問題を取り扱う。

 第一は、マルクスの人間中心的な立場の問題である。対象化活動は、自然対象に働きかけ、自然物を使用価値として獲得する過程である。それは、対象変形の普遍性、使用価値としての自然、目的意識性の実現という三つの特徴をもっている。この三つの特徴から見れば、マルクスの労働概念は、明らかに人間中心的な側面をもっている。したがって、マルクス主義は、環境倫理における自然の「固有の価値」を認めることはなく、極端な「生命中心主義」ではありえない。

 第二は、マルクス主義における「自然の支配」の問題である。「自然の支配」は、現代のエコロジーの側がマルクスとエンゲルスを非難する論拠の一つである。パーソンズとグルントマンによれば、マルクスとエンゲルスは、確かに「自然の支配」を主張しているが、その「自然の支配」は奴隷を支配する主人のような、通常の意味での「自然の支配」とは異なり、むしろ自然の利用と自然の制御に過ぎない。パーソンズは、マルクス主義の「自然の支配」と資本主義の「自然の支配」とを厳密に区別して、資本主義の「自然の支配」を環境破壊の原因ととらえている。また、グルントマンは、「自然の支配」の思想をマルクスの「自由の国」、共産主義の構想に結び付けて解釈し、「自然の支配」の増大こそ環境問題の解決につながると、エコロジーからの批判とは反対の結論を打ち出している。

 第三は、マルクスの「技術楽観主義」の問題である。筆者は、武田一博によるマルクスの技術論への批判、中村静治と加藤邦興のその技術論弁護、グルントマンの技術分析および資本の文明化作用による自然の「搾取」と「自由の国」などのテーマを検討することによって、この問題の解明を試みるのである。

 結論的に言えば、技術そのものには確かに環境を破壊する要因が含まれ、生産力の発展と技術の進歩によってもたらされる結果には人間の認識を超える部分がある。マルクスは、生産力の発展と技術の進歩による環境への否定的影響を十分に見ておらず、したがって環境問題を配慮する現代の「緑の技術」、「人間の顔をもつ技術」を提示していない。この意味で、マルクスは「技術楽天主義」をもっていると言える。

 しかし、ここから、マルクスの主張が今日のエコロジーの問題に妥当しないと言うことはできない。マルクス主義は、少なくとも次の二点で現代のエコロジーへのアプローチを提供できるのである。第一は、環境問題の原因を分析する方法論を提供していることである。マルクスは、資本の支配による技術と生産力の発展の必然性、資本主義的生産のもとでの技術の悪用および自然破壊の発生の必然性、さらに資本の文明化作用による自然の「搾取」と「資本と自然の矛盾」を明らかにした。第二は、環境問題を解決する基本的な方向を示していることである。マルクス主義は、エコロジー問題に対して、技術の進歩と生産力の発展を放棄するいかなるユートピアをも拒否する。そのアプローチは、資本主義的生産関係を超えると同時に、自然の合理的利用を是認することによって、人間と自然との物質代謝や技術を合理的、意識的に制御するという現実的でかつ積極的な方向に向かうのでなければならない。

<第5章 玉野井とベントンの「労働過程」論批判>

 この章から、エコロジーから問題とされるマルクス経済学の労働概念の検討に入る。エコロジーからの批判は概ね「労働過程」論の批判と「労働価値」説の批判に分けられる。この章は、その「労働過程」論批判の検討にあてられる。

 「労働過程」論批判は、マルクスが土地、自然を労働の対象や手段と規定し、生態系や自然の意義を過小評価したという批判である。この批判は、対象化活動の特徴に関わっているゆえに、この章では、「労働過程」論に対する玉野井芳郎とベントンの批判を、二つの典型的な研究例として取り上げる。

 玉野井とベントンの批判は次の二点にまとめることができる。第一は、「労働過程」論においては、土地、自然が「仕事場」、「原料の貯蔵庫」、「労働手段の根源的な武器庫」、あるいは「根源的な食料倉庫」とされ、その全体的で生態学的な意味が見失われたということである。第二は、「労働過程」の規定が「製作」、工業生産をモデルとする規定であり、マルクスが農業と工業の本質的差異、とくに農業のエコロジカルな意義を十分に認識しなかったということである。

 これに対して、筆者は、自然を対象、手段と見なすことが現代のエコロジーの視点から見てもけっして間違いではないと考える。問題となるのは、土地、自然を対象、手段として把握したということではなく、マルクスがまた土地、自然のもつ生態学的意味を認識したかどうかにある。結論から言えば、マルクスはこの問題を意識したが、それを充分に展開しなかった。また、マルクスは農業と工業の区別を意識したが、その「労働過程」規定のモデルは、確かに工業生産のモデルであり、農業のエコロジカルな意義を現在のエコロジストほど強調しなかった。

 現代のエコロジーの視点から見れば、マルクスの「労働過程」論には確かに未解決な問題、あるいは少なくとも誤解されやすい叙述があるが、否定されるべき理論ではない。

<第6章「労働価値」説における自然問題>

 この章では、エコロジーからの「労働価値」説批判を検討する。筆者は、その代表的な論者ハンス・イムラーの所説を中心に取り上げ、その批判がマルクスの「労働価値」説の批判に当たるかどうかを検証する。

 イムラーによれば、マルクスが価値形成の根拠を労働のみに求めたため、その「労働価値」説には「自然の忘却」および「自然の消失」があり、現代的観点から見れば、「労働価値」説はエコロジー思想と対立する。彼の批判は、次の4点にまとめることができる。第一は、自然が経済学の研究対象から締め出されたことである。第二は、価値形成における「抽象的労働の自然喪失性」7問題である。第三は、自然の「消失」によって生じる「マルクス自身の矛盾」である。第四は、自然が価値を直接に形成するという「自然価値理論」からなされるマルクス批判である。

 イムラーの批判に対して、使用価値の観点と価値形成の観点という二つの観点から反論がなされうる。使用価値の観点から見れば、自然は労働とともに使用価値と富の源泉であり、「商品体」という言葉が示すように、自然は、商品のボディ、価値の担い手である。また、価値形成の観点から見ても、「労働価値」説における価値形成への自然の非関与性などのイムラーの非難は、マルクスの「労働価値」説批判としては妥当せず、マルクス理論への誤解である。「労働価値」説においては、自然は、労働生産力を通して、労働をより効率的にあるいはより無効にすることによって、価値形成に影響を与えるのである。マルクスの「自然の落流」理論は、その例証となる。

 しかし、自然が価値形成に関与するためには、労働という媒介が絶対必要なのである。この意味で、自然は、価格がつかないが条件づきで価値形成に関与するものである。これが「労働価値」説における自然の位置づけである。この位置づけから、筆者は、1.「労働価値」説と資本主義批判、2.「労働価値」説と「環境経済学」、3.「労働価値」説の評価の問題を検討する。

 結論的に言えば、「労働価値」説の問題は、自然の「忘却」、「消失」、「喪失」にあるのではなく、実は自然の無償性にあるのである。しかし、自然に価格をつけることは、これまでの理論の枠組では不可能である。しかも環境問題は、自然に価格をつけることによって解決される保証はない。自然を保護するために、自然を有償にすべきかいなかについては、結論はまだ出されていない。したがって、「労働価値」説に対する性急な批判はひかえるべきであろう。

<補論一と補論二 中国の「実践的唯物論」と高清海の実践哲学>

 中国は、社会主義国であるため、膨大な数のマルクス主義研究者がいるが、マルクス主義の立場から行われたエコロジー問題の研究は意外に少ない。

 ところが、中国では、1980年代からマルクス主義の哲学原理と哲学教科書の改革をめぐった論争が行なわれ、その論争のなかで労働の構造、マルクス哲学における意義などが議論されている。その議論のなかで、労働、実践概念は、人間の本質と人間的世界を形成する主体的な対象化活動と規定されているだけでなく、さらにマルクス主義哲学全体の第一の、基本的な観点ともみなされている。したがって、マルクス主義哲学も、この議論を通して人間の労働概念を中心とする「実践的唯物論」として規定されるようになった。

 「実践的唯物論」の議論は、エコロジーとは直接関係しないが、方法論の面では筆者の研究に大きな影響を与えている。とくに、労働概念をマルクス主義哲学の中心的な概念およびマルクス主義の本質として把握することは、本論文のテーマ設定にあたっての理由の一つである。したがって、補論一では、中国の「実践的唯物論」を紹介し、補論二では、「実践的唯物論」の一例として高清海の実践哲学を検討する。

4.結論:「自然主義」と「人間主義」との統一

 以上、本論文の内容を各章ごとにまとめてきた。ここでは本論文の結論を示す。

(1)「自然主義」と「人間主義」との統一

 マルクスは、『経済学・哲学草稿』においては、自然概念、人間概念を受動的・自然的な側面と能動的・人間的側面という二側面から規定し、この二側面の融合、統一として捉えている。この捉え方は、マルクス自身の言葉を借りて表現すれば、「自然主義」と「人間主義」との統一である。この観点は、現代のエコロジー問題を検討するにあたってのマルクス主義の基本的な視点となる。

 マルクスの労働概念は、自然界の物質運動の一部としての生命活動であると同時に、他方では、自然を使用価値あるものとして獲得する人間の主体的活動でもある。それは、物質代謝と対象化活動との統一である。物質代謝の側面においては、「自然の一部」としての人間、人間の労働の「自然の限界」が強調され、マルクスの自然主義、あるいは唯物論的な立場が端的に示される。このことは、現在の「循環」、「共生」などのエコロジー的視点に直接つながる。対象化活動もしくは使用価値の生産の側面においては、労働の人間的本質が強調され、マルクスの人間主義、あるいは人間中心的な立場が表明される。

 エコロジー問題を扱うにあたっては、<自然の根源性と物質代謝>と<対象化活動もしくは使用価値の生産>という二つの観点を切り離すことはできない。自然の根源性と物質代謝の観点から離れて、もっぱら対象化活動を強調するならば、マルクス主義は、自然の「支配」、「征服」などの近代的な「人間中心主義」につながり、近代主義と同じ道をたどることになる。これと同様に、労働の対象化活動の観点から離れて、もっぱら物質代謝の側面を強調するなら、マルクス主義は、「自然への帰還」や「農業文明に戻る」などの「生命中心主義」となる。この場合、マルクス主義は確かにエコロジー思想となるが、現実から離れたユートピアともなってしまう。

(2)マルクス主義のアプローチ

 マルクス主義は、自然主義と人間主義を統一する哲学である。この点からすれば、エコロジー問題に対するマルクス主義のアプローチは、「自然中心主義」ないし「生命中心主義」でもなければ、極端な「人間中心主義」でもありえない。マルクス主義が生産力の発展による共産主義の実現という未来社会の構想をもつため、それは、積極的かつ批判的なアプローチである。つまり、第一に、マルクス主義は、自然を使用価値へと形成されるものと見なし、そのため人間の労働を積極的に是認する。しかし、自然の利用、人間と自然との物質代謝は、共同的、意識的な制御のもとに置かれなければならず、技術と生産力の発展も自然界の受容範囲内におさえられなければならない。第二に、マルクス主義は、社会関係における人間の搾取を認めないと同様に、自然を剰余価値の獲得、利潤の追求の目的に服従させ、自然環境を「搾取」することを認めることはない。生産力の発展と資本主義的生産関係の克服による共産主義の実現は、現代のエコロジー的問題においても、依然として放棄できる理念ではなく、むしろ有効な理念である。

 さて、本論文のテーマとしてのマルクスの労働概念とエコロジーとの関係はどうなっているのか。総体的に見れば、マルクスの労働概念は、基本的に現代のエコロジー思想に対応できるものであり、けっしてエコロジストによって批判されているような、エコロジーと対立する理論ではない。確かに技術と生産力の発展の問題においては、「技術楽観主義」のような観点が多少見られ、「労働過程」論と「労働価値」説には、未解決の複雑な問題が残っている。しかし、ここから、マルクスとエンゲルスが自然の掠奪的利用を認め、自然を排除したというような結論は導き出されない。むしろ、「自然主義」と「人間主義」との統一という観点、およびその積極的かつ批判的なアプローチは、エコロジーに有益な視点を与えている。

 この意味で、マルクス主義とエコロジーとの「同盟」は十分可能である。しかし、現在、マルクス主義とエコロジーとの間には大きな「裂け目」が依然として存在する。この「裂け目」を埋めるためには、マルクス主義は、「技術楽観主義」のような弱点の克服、および現代の環境問題に対する具体的な対策の積極的な提起など、自らの理論を「緑化」8する必要がある。しかし、「自然への帰還」や「農業文明に戻る」ようなユートピアを主張したり、あるいは人間の解放と社会の進歩などの理念の放棄によって、自分の立場を「緑化」する必要はない。「同盟」を成立させるためには、エコロジーのサイドも積極的になるべきであろう。

 1 J. Passmore, Man's Responsibility for Nature, p.185. 『自然に対する人間の責任』322頁。

 2 ヘンリック・スコリモフスキー『エコフィロソフィ――21世紀文明哲学の創造』間瀬啓允・矢嶋直規訳、法蔵館、1999年、159頁。

 3 Marx, Kapital I, S.192.『資本論』①、234頁。

 4 尾関周二『遊びと生活の哲学――人間的豊かさと自己確証のために』大月書店、1992年、81頁。

 5 島崎隆『ポスト・マルクス主義の思想と方法』こうち書房、1997年、209頁。

 6 内山節『自然と人間の哲学』岩波書店、1995年、97頁。

 7 H. Immler, Natur in der okonomischen Theorie, S.251.『経済学は自然をどうとらえてきたか』323頁。

 8 メアリ・メラー『境界線を破る!――エコ・フェミ社会主義に向かって』壽福眞美・後藤浩子訳、新評論、1993年、254頁を参照。

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