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博士論文要旨

論文題目:ウィリアム・ジェイムズの思想における自己の概念と自伝の倫理
著者:清水 由希江 (SHIMIZU, Yukie)
博士号取得年月日:2013年9月30日

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 本論文はアメリカの心理学者・哲学者ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)の思想において、自然科学としての心理学を通じた認識論とジェイムズ自身が常に関心を持ち続けた倫理への道徳的問いがいかに結びつき相互に深められていったのかを明らかにすることを目的とする。ジェイムズが心理学研究を通じて問い直した「自己」概念の枠組みを検討し、そのための題材・資料となった様々な自伝的テクストの使用方法を研究することで、「自伝」の倫理的意義を読み解こうとするものである。すなわち、ジェイムズの心理学研究と哲学的考察における連続性をみることによって、自然科学の認識論としてのプラグマティズムが人文科学の認識論へと拡張されさらに認識論が倫理的性格をもつに至る思想形成の過程を辿るものである。
進化論により科学的認識のパラダイムが変容しつつあった時代に、ジェイムズはC.ダーウィンの自然選択説を受容してアメリカでの実験心理学を主導しながら『心理学原理』(1890)を完成させる。だがジェイムズの関心は自然科学としての心理学の領域では扱うことが困難な精神現象や道徳の問題において一層深まっていった。学問の進展において、各学問領域が固有の方法をもって固有の対象に専念し分節化することが必至であると理解していた一方で、ジェイムズ自身は、生理学、心理学、哲学、宗教への関心をもとに、異なる領域を軽やかに越境しつつ議論を積み重ねた。そのような思考が可能であった理由には、研究の対象は領域横断的に存在しているがゆえに、学問間で対象化の手続きが異なりはしても共通の題材となるものもあり、それらを通じて連携しているとの理解があった。また、ジェイムズの場合は心理学における内観にはじまり、自伝的テクストの分析にもとづく『宗教経験の諸相』(1890)まで、第一人称による経験としての自伝的テクストが一貫した題材であったこともあげられる。その心理学研究の成果が導く道筋は、晩年の多元的宇宙論・根本的経験論において形而上学的議論として新たに経験論が論じ直されるまで、個々人の経験へのジェイムズの一貫した関心を示している。
今日では、「私」について記述する仕方は、旧来の自伝という名のもとにひとつの伝統としてまとめ上げることが困難な、そしてまた、そのように統合されることに抵抗する多様な語りのかたちが存在する。一人称によって語られる形式の「自伝」の営みが道徳実践としてみなされるのは、たとえば、近代的自伝が自らの出自や変遷をたどり、私のアイデンティティを確認することで道徳的主体を確立していく物語として理解されることなどにもみることができる。様々な領域での経験を記録し物語ることのなかでは、一個人の生において、日常的なものから職業的・専門的なものまで、異なる次元での実践が重なりあう。自伝の倫理とは、多様な規範が同時に働く状況にある生に基づいて要請される倫理と考えられる。心理学から哲学的考察の変遷を辿ることによって、本論文は「自伝」の以下三つのアスペクトがあるとの前提のもと分析を進めている。即ち、(1)ジェイムズが「人間の記録(documents humains)」と呼ぶ資料としての自伝、(2)観察者、分析者の主観の位置づけを明確化する「主観的方法」としての自伝、(3)主観的方法の実践として用いられるジェイムズ自身の伝的内容としての自伝である。この各アスペクトがジェイムズの思想のなかで相互に関連し合いながら、ジェイムズの経験への関心は多元的なかたちで探求される。そして、ジェイムズ自身の研究史・思考の経過は、自己」を論じながらその方法論的展開をもって、自ら「自己」の多元性を現し証すことになる。一心理学者の思想のなかで、認識論と道徳的観点が実践のなかで結びつくことを明らかにすることで、自伝を書くこと・読むことをめぐる自伝の倫理の考察が可能になると考えられる。

各章の内容

第一章では、はじめに1860 年代にヨーロッパへ教育のために一家で留学したジェイムズがその見知らぬ場所への旅のなかでの自己形成がいかに主観への問いを深めたのか、また観察し記述する能力を培うことになったのかを説明した。ジェイムズはその後、アメリカに戻り創造論を支持する地質・古生物学者のL.アガシが主導したアメリカの自然史教育を受けながら、C.ダーウィンの『種の起源』(1859)の出版によるハーバードでの進化論争のなかで生物学を学んだことによって、進化論を受容していくプロセスを明らかにした。ダーウィニズムの影響は、世界観の変更を迫るものであったが故に、既存の科学探究に蓄積された知識とのすりあわせの過程でもあった。ジェイムズは、アガシが率いたブラジルでの調査探検に参加したことで、自然史のフィールド・ワークにおける科学者のまなざしが対象を制御しまた抑圧的に扱うという矛盾を経験する。この経験は、いかにして自然を記述することができるのか、対象としての自然が経験によって認識される以上、いかに経験を記述できるのかという認識論的問題へと思考を進める契機となったといえる。この気づきは、後の章で論じるように、その後の心理学における探求や道徳についての議論にも少なからぬ影響を与えている。アメリカ社会もまた大きな変動期にあった。ヨーロッパから帰国してまもないジェイムズ家は、R.W.エマソンらと交流を取り戻しながら、奴隷制廃止を唱えるニューイングランドの社会へと戻りつつ、南北戦争を体験することになる。ジェイムズ家の兄弟のうち年少の二人だけが参戦し、長兄ウィリアムとその弟で小説家となるヘンリーは、彼の同世代の若者が戦った厳しい戦場を直接経験することはなかった。しかしながら家族や友人が傷つき喪われた戦争体験は歴史家L.メナンドが示したように、アメリカの哲学としてのプラグマティズムの形成において決定的な影響をあたえることになった。戦争の大義がもたらした悲惨な結果は、進化論による自然史のパラダイム変革とならんで、プラグマティズムの思想形成の背景をなす。すなわち、1860 年代ジェイムズが科学を学んだ時代の経験は哲学における経験概念そのものを問い直し、理想や真理を検証する方法の探求へと導くものとなった。
第二章では、ジェイムズ家のなかで、あまり注目されることのなかった妹アリスが残した日記を読みとき、さらにジェイムズの心理学研究の伝記的側面について考察を進めた。アリスは、当時の診断でヒステリーとされたが原因不明な体調不良を長年煩っていた。晩年におよそ3 年間に密やかに書かれたアリスの日記は、ジェイムズ家の会話が育んだ彼女自身の世界観をもとに病床の日常生活がみつめられている。アリスについてのこれまでの研究は伝記を書いたJ.ストラウスの研究に代表されるが、その他の文学的な評価や後のフェミニストのへの影響についての研究もみられる。その際に、アリスの世界観は家父長的な家族観に抗うものとして論じられる傾向があり、とりわけ心理学者であり医者でもあった兄ウィリアムに対しては厳しい批判的視線が向けられてきた。父と娘、心理学者・医者と患者、兄と妹、という対立的な関係は、他者のまなざしによってアリスが自分自身を語ることを妨げるような力関係として説明される。本論文は、そのような議論枠組みを理解しつつも、アリスとウィリアムは一方で重要な対話者でもあったことを示したうえで、アリスの自己意識を分析した。アリスの自己記述と兄の心理学における自己論との共通性、また心理学史におけるジェイムズの位置づけを検討することで、両者の関係はより複雑なものとして把握できる。アリスによる自己の多元性や「自己の自己に対する関係性」についての記述を分析することで、他者のまなざしに対するアリスの自己防衛的な巧み態度をよりアリスの自身の文脈のなかで理解できることを示した。
第三章では、ジェイムズの心理学においてイギリス経験論が積み上げてきた自己の概念がいかに検討され、「思考の流れ」あるいは「意識の流れ」を観察し概念化していったのかを論じた。ダーウィン進化論の受容以後、さらにジェイムズの認識論的問いを深める契機となるのがH.スペンサーの思想である。なかでも、心理学を論じたスペンサーが前提とした世界の写す鏡としての受動的な心の概念である。ジェイムズによれば、心の受動性には、心的事象を所与の事実として客観的な対象を見なす実証主義の立場が映し出されており、むしろ観察者の関心を考慮する必要が求められる。そして、心が自然のなかにあるならば、ダーウィンが個体の自発的変異を考えたように、心はむしろ自発性を有し固有の関心を持つと考えられる。ジェイムズはこの信念あるいは確信をもとに、実験心理学のなかで心の能動性ならびに受動性を観察していくことになる。結果として、ジェイムズの心の自発性への関心は、科学史家R.J.リチャーズが示したように、心は外的刺激を生じる対象が不在であっても内的にその対象の観念を想起されるだけで自動的に生理的反応を引き起こすうること(ideo-motor action)を示し、心理学史において「心の独立性」を示す生理
学的発見も成し遂げたのである。ジェイムズによれば、心は身体経験をその一部とし、また、心と脳の関係において心は脳に機能的に依存している。ダーウィンの自然選択説の受容に大きな影響を受けているジェイムズの心理学であるが、ダーウィン自身は脳の機械論的な見方にとどまっていた。ジェイムズが心に対して自然選択説を適用する観点は、当初よりダーウィンを支持していた気象学者・数学者で初期プラグマティストのC.ライトによる意識現象を自然選択説により説明した議論の影響が大きいといえる。ライトの影響を受けながら、ジェイムズの「関心」の概念の探求は、さらに「注意」の概念へと発展していった。ダーウィンの自然選択説には、「維持する力」と「作り出す力」の二つの別の過程があるとされる。後者は盲目的な過程であり偶然性をもつものであり、ダーウィンは二つのプロセスを分けてかつ、後者についてはその原因を問わずにおいたことをジェイムズは評価した。そのうえで自然選択説を心に適用するにあたっては、心の自発性のなかに後者の偶然性をも読み込むのである。したがって、「注意」という一般的に有意的な意識と理解される心のはたらきは、心身の依存関係ゆえに精神のみにとどまらず同時に身体化されており、それ故に自然選択説を考慮するならば、単に能動的なだけでなく、派生的であったり受動的であったりする。むしろ「注意」の大部分、あるいは「注意」を含む「意志」の大部分を非有意的なものとしてジェイムズは論じたのである。以上から自己意識は、意志的なものだけではない次元を取り込み、自己の統一という哲学上の理念を否定しつつ、常に変化し続ける多元的なものとして記述されるに至ったことを示した。
第四章では、『心理学原理』の完成を経て自然科学としての心理学の可能性と限界をみたジェイムズが、心理学の成果を用いて「宗教」と「科学」の接点を再検討した『宗教経験の諸相』をとりあげた。ジェイムズは心霊現象を含めたより広範な心理現象への関心を抱きつづけながら、信仰による経験について「宗教の科学」の可能性が模索される。そこでは、個人の信仰により救いをもたらす宗教がひろく議論可能なものとなるように、様々な宗教経験の記録をとりあげ、再読し、再記述を試みられる。その際、用いられる「人間の記録」と呼ばれる自伝的テクストは、「極端な事例」であると同時に「範型」となって読み継がれてきたものである。個々の宗教経験に固有な心理学的コンテクストを与えることにより、宗教の教義的理解や宗教経験への医学的唯物論の存在論的議論ではなく、宗教が個人の生にたいしてもつ価値を論じていくことになる。このコンテクストを与える作業が再記述といえる。ジェイムズは宗教感情を他の感情・情動と同様にひとつの感情であると理解し、心理学的説明を与え、信仰が個人に与える動力発生的な生物学的な意義を読み解きながら、宗教を「自然の構成物」としてとらえてゆく。同時に、信仰状態が可能にする神的なものとのつながりをもつ自己を描き出すことで、意識的自己は「より広大な自己」に接続されているという心理学的事実を導き出す。ジェイムズの宗教論は宗教感情における宗教の独自性をさぐりつつ、その成果を再び心理学へと送り返しさらなる探求を促す。両者の相互関係は多元論へと導かれる。また、宗教経験の分析にジェイムズはよく知られる「健やかな心」と「病める魂」という個々人の性格的傾向により宗教経験のタイプを分類する。この分類の観点は、心の認識能力、すなわち見知らぬもの事を既知の事柄から類推し分類し理解する「統覚(apperception)」に由来する。ジェイムズはドイツの心理学者・教育学者のJ.F.ヘルバルトによる統覚の概念を用い、そのようにして認識しつつ認識されたものとしての分類集合「類化集合(appercerciving mass)」の概念に従って上記の分類を行う。この分類が示すのは、宗教経験を分析するジェイムズの視点から、各々経験がいかなるかたちで自らの経験として語られるのか、すなわち、経験を記述した著者の個々人のコンテクスト化をたどる再記述のプロセスである。それはまた、一見すると例外的に扱われる宗教経験を自らの経験と結び付けて理解するひとつの道筋を読者に示す方法でもある。そこでは、自伝的テクスト内における著者個人の統覚と分析者としてのジェイムズの統覚、さらにジェイムズの読者のそれが重なりあう。さらに宗教経験の語りが道徳を議論するものである以上、その心理学的認識にとどまることはもはやできず、その認識論は倫理的性格を有するようになる。ジェイムズの宗教経験の研究は、自伝的テクストがいかなる倫理的関係のなかにあるか示唆している。それゆえに、ジェイムズ自身は多元主義の立場をより明確していくことになるのである。

以上の認識論と倫理・道徳的関心が重なり合いは、ジェイムズ根本的経験論へと発展してゆく。第一に、ジェイムズは概念的に知ることや表象によって知るといった間接経験と、自身をとりまく環境のなかでの感覚世界における直接経験とのあいだに決定的な相違をみない。心の独立性は前者からも直接経験が生み出される。また知的な認識も感情的な反応も純粋になりたつのではなく相互に補完しあいまた新たな行動を生み出していく。孤独な信仰における宗教経験のように間接経験と思われるものが生き生きとした経験をもたらし、逆に感覚的経験であっても、理念や規則によって制度化された行動がもたらすものは、色褪せ形骸化したものにもなりうる。第二に、経験は通時的な観点によって積み重ねられるわけではない。ジェイムズは、経験世界はモザイク状に形成されると理解する。そのような経験世界にある個々の経験を共有するという可能性は、同一の出来事を同時に体験することや、自己の経験をもとに他者の経験を類推によるのではなく——ジェイムズはその可能性を排除しないが——経験の共有という課題は、各経験のコンテクストを共有することにある。ジェイムズが心理学研究を礎に論じた純粋経験の概念は、主客未分な経験として経験の素となる状態を想定することで、経験はつねに新たな意味づけとその機会へと開かれているという事実を描き出そうとしたものである。個人の経験が他の文脈との関連におかれていることを前提に自伝をみるとき、自伝の道徳的意義はただ私自身が望まれる道徳主体となり得たか否かによって見いだされるのではない。自伝は、自伝として経験を語る者も、またその自伝によりその経験へと関係づけられる読者も、協同の作業を通じてある経験に同様に関係づけられているがゆえに倫理を要請する。この関係性がなすものは、ジェイムズがやがて「存在の作業場」と呼ぶものである。ジェイムズは経験の価値的判断から自伝的テクストの読解を通じて経験の有様を示し、読解・分析のための方法から認識論を問い直し、さらにその認識論を形而上学的に発展することで、純粋経験の世界の多元性を描き出してゆくのである。この多元主義にはしたがって心理学者・哲学者としてのジェイムズ自身の道徳実践が含まれているのである。以上から本論文は、ジェイムズの思想は、自伝的テクストと自伝的方法を通じての自らの思考を進めていったプロセスであり、そこにこの三つのアスペクトが絡み合う自伝の倫理が模索されると同時に実践されていたことを示すものであると論じた。

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