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博士論文要旨

論文題目:18世紀後半パリのポリスと反王権的言動
著者:松本 礼子 (MATSUMOTO, Reiko)
博士号取得年月日:2013年6月28日

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 本論文は、18世紀後半のパリをフィールドとし、「豊かで安全な都市生活と公共秩序の維持」という大きな任務を負ったポリスが具体的な事件のなかでみせる対処方法や実践を明らかにすることで、その政治的・社会的機能、および同時代的意義を検証するものである。その具体的事件として、本論文は民衆層による反王権的言動を考察対象とするが、反王権的言動そのものを分析することで、民衆層の国王観・権力観を明らかにし、いわゆる「公共圏」から排除される彼らが権力と取り結ぶ関係に明らかにすることも目的としている。

 本論文は二部構成をとる。第1部では18世紀パリのポリスの制度および理念を明らかにすることを課題とする。第2部ではポリスの理念が具体的な事件のなかでどのように反映されるのか検証するとともに、反王権的言動の具体的様相を明らかにし、その意義を考察することを課題としている。

 第1部・第1章ではポリスの制度について検証する。パリという都市の一円的な統治を目指す王権によって主導された17世紀後半のポリス改革(1666‐1667)により、パリには警視総監を頂点とし、現場のポリス担当官である警視や捜査官、そして彼らが非公式に雇い入れるスパイ等で構成される一大組織が誕生した。1667年の王令が警視総監の任務を「公私の安全を確保し、騒擾を起こす者を都市から一掃し、豊かに物資を供給し、住民にその地位と義務に即した生活を営ませること」と宣言するように、ポリスとは統治一般を意味するものといっても過言ではなく、王権はそうした包括的ポリスの権限を警視総監という一人の官僚に集中させるのである。そうしたポリスの理念を第2章で明らかにする。具体的にはシャトレ警視ニコラ・ドラマールの『ポリス論(1705‐1738)』、イル・ド・フランス騎馬警備隊隊員ギヨテの『フランスのポリス改革に関する覚書(1749)』そしてシャトレ警視ルメールによる『1770年パリのポリス(1770)』のポリス論を取り扱い、これらのテクストからポリスの理念を析出する。18世紀初頭に『ポリス論』をあらわしたドラマールにとって、ポリスとは「人間をその生において享受しうる最も完全な幸福へと導く」ことを目的とし、人々に「法」を遵守させるため様々な規制をかけつつ、都市の日常生活に多面的に介入していく存在である。また18世紀半ばにポリス改革論を著わしたギヨテは、ポリスの任務を「詳細で些末な物事の監視」と定義づけ、社会の現状を尊重しつつ、ポリス業務の合理化を図りながら、秩序維持と混乱の予防を提案する。そして18世紀後半にメモワールを作成したルメールは、ポリスを「人々を統治し彼らに善をもたらす術」であり「社会の利益一般のためになる存在にさせる技」と定義する。そうした統治にポリスが用いる方法とは、ルメールによれば、全体最適の視点で抑圧と寛容がもたらすバランスを考慮しながら、無秩序の予防を図るものである。
以上の三者のポリス論を時系列で考察すると、秩序維持におけるポリスの予防的性格というのは18世紀を通して明確に意識されていたものであることがわかるだろう。だが、18世紀半ば以降、よき秩序における治安の重要性がより強調され、ポリスの予防的措置も主に治安の領域で大きな進展を見せたと言えるだろう。社会の流動化を前に、ポリスにはさらなる機動性が求められ、迅速で柔軟な対応が必要とされるようになったのである。一方で、そうしたポリスの対応の迅速性を保証していたもののひとつが、18世紀後半に顕著となる情報の収集・記録・分類・運用という実践方法であった。
一方、1667年の警視総監職新設に関する王令を含め、18世紀のポリス論に共通するのは、ポリスの役割が各人にその身分(地位)と義務に即した生活を営ませることだという認識である。ポリスは各人に単に「快適な生活」を営ませるものではない。それは、「身分相応」の幸福をもたらすことで、あるいは「身分相応」の義務に立ち返らせ、社会一般の役に立つ存在にさせたうえで、という前提があってはじめて実現されるべきものである。そこには各自を自らの役割や義務に専念させることで、社会の秩序や平穏を守ろうという身分制の原理を、日常的に多面的に介入することで社会に貫徹させていくというポリスの理念が垣間見られる。

 第2部では、このようなポリスの理念が具体的な事件の場でどのように反映されるのか検証するとともに、反王権的な言動の具体的様相を明らかにし、その意義を検証する。第3章では国事は君主の専権事項であるという絶対王政の理論に反し、王権の政策に介入しようとして逮捕された犯罪者/被疑者の事件を取り扱う。具体的には1757年に発生した家内奉公人ロベール=フランソワ・ダミアンによるルイ15世襲撃事件と、ジャン=アントワーヌ・ルフェーヴル、ピエール・デリヴィエという人物の事件である。1750年代から1760年代はジャンセニスムや税制・国制のあり方をめぐり、王権側と高等法院の対立が激化した時期であり、それはパリの広範な層の人々の大きな関心を引いた。国王暗殺を試みたダミアンがその後の裁判で、その動機を国王に政治的なアドヴァイスをすることだったと述べたように、本章で扱う他の2名の囚人も、同様の意図をもって国王に近付こうとした。バスティーユで展開される彼らの尋問から、国事を君主の専権事項と位置付ける王権のイデオロギーに対し、「悪しき臣民」たちは、国事に介入することは、「良き臣民」の義務であり、さらに国王への愛や尊敬をそうした義務を果たす際の根拠に据えていることが明らかになる。一方、王権を支える理論から逸脱するような彼らに対し、王権/ポリス側は彼らを「陰鬱」「悪魔」「狂人」と形容し、個人的な性質の邪悪さ、あるいは狂気でその行動を説明する。犯罪者/被疑者を政治・社会的なコンテクストから引き離し、一人の民衆が国家の秘儀である政治に介入しようとしている、あるいは国王に不満をもっているという解釈を封印しようとする王権側の実践方法を垣間見ることができる。こうした犯罪者の表象は単に王権/ポリス側が押し付けようとしたものではなく、周囲の人々もこうした言説をある程度受け入れており、本論文が考察の対象とした時期においては一定の影響力をもっていたことが明らかになる。
 第4章では、ダミアン事件の直後から頻発する、国王暗殺をモチーフとした反王権的言動に焦点を当てる。存在しない国王暗殺計画を告発し、報酬をはじめとした何らかの利益を得ようとするこうした犯罪は、国王を「神の地上における代理人」とする絶対王政の理論的基盤を「国王の死」という究極的な形で傷つけるものである。本章では1761年と1762年に発生したヴァレリー・ド・ブリュル事件およびド・ラ・ショー事件を取り上げ、類似した犯罪を起こしつつも、全くことなる顛末を迎えた両事件の比較のなかから、ポリスの実践方法の特徴とその政治的・社会的機能を検証する。本章のブリュル事件をはじめとし、反王権的言動でバスティーユに連行された被疑者の多くは、その後裁判を経ずに、封印王状で秘密裏に釈放、追放、あるいは施療院(監獄)に移送されている。そこでは秩序を脅かす可能性のあるものの社会への露出を最小限に抑制しようというポリスの予防的実践が大きな役割を果たしていたと考えられる。他方、ド・ラ・ショー事件が示すように、事件が公になってしまった場合には、ポリスは判決を正式で唯一の見解として流布させることで、その他諸々の憶測を非公式の見解として位置づけることができる裁判に活路を見出していたのではないかと考えられる。つまり、ポリスは秩序に亀裂を生じさせるような犯罪に対し、それぞれの状況に巧妙に対応しながら秩序の維持に努めていたと言えるだろう。
 続く第5章では身分制社会への不満から、外国の君主に自らの能力をアピールし、結果的にフランスを裏切ることとなった二名の犯罪者の事例を取り上げる。具体的には1757年のダミアン事件直後に発生したジャン=バティスト・マナン事件、そして1764年に発生したジャン=フランソワ・エロンの事件である。両事件は1756年から1763年にかけてヨーロッパの大国を巻き込んだ七年戦争を背景にしており、被疑者たちは特にフランスの敵国だったプロイセンとの関係が疑われた。自分の意見や才能を正しく評価しない既存権力への不満を募らせた両被疑者の尋問から、「君主への近づきやすさ」を原則とする古典的な国王観が18世紀後半にも息づいているのと同時に、18世紀後半に顕著になる「公共の役に立つこと」を重要な価値基準とする意識の台頭や、メリトクラシーの主張が垣間見ることが出来る。そうした「社会的有用性」やメリトクラシーの観念自体がポリス側から否定されていたわけではないが、それは絶対王政の理念や、出自と知性の相関関係という想定に基づくヒエラルキー原理、そして、各自がそれぞれの役割に専念することで社会の秩序を保つことを目指す身分制の原理に抵触しない限りにおいてのみ認められるものであり、それが身分を超え、既存の秩序を脅かすものであればポリスによって容赦なく断罪されるのだった。
 終章では前章までの分析の総括および、本論文の考察対象時期の反王権的言動に関するポリスの対応の独自性、あるいは歴史的位置づけについての若干の考察を試みる。第1部のポリスの制度・理念、そして第2部の具体事例の考察から、反王権的な言動に関するポリスの政治的・社会的機能は、絶対王政や身分制といった王権を支える理論から逸脱する個人に対し、各人にふさわしい役割や義務を全うするように立ち返らせること、そうすることで社会秩序を維持し、平穏な社会を実現することだったと言うことができる。このような目的を達成するためにポリスはそれぞれの状況に応じて最適と判断される方法で秩序の回復に努めるのであり、それは迅速で柔軟なポリスの対応に支えられていた。具体的な方策として、それは秘密裏の投獄・追放であり、犯罪者/被疑者を政治的・社会的なコンテクストから切り離す言説を作り上げることだったのである。こうした処置は、犯罪者/被疑者への処罰や矯正であると同時に、彼らを取り巻く周囲ひいては社会一般への悪影響を最小限に留めようというポリスの予防的措置なのである。 
 本論文の考察を通して明らかとなるもう一つの点は、君主への尊敬や忠誠心、身分制、出自を根拠としたヒエラルキー秩序といった諸要素をめぐり「悪しき臣民」とポリスはその解釈において齟齬をきたしていることである。このことは、被疑者たちは王権が押し付ける規範を、ある意味で独自の方法で読み替えている可能性を示すものだといえるだろう。尋問のなかで、逮捕という不測の事態に説明をほどこし、自分の「罪」を位置付ける被疑者たちからは、王権やポリスの提示する規範に対し、独自の意味を見出すという一種の能動性や操作性が浮かび上がるのである。こうした独自の方法は、いわゆる「公共圏」や「公論」とは別の次元で、ポリスにとっては伝統的な王権の理念を傷つけるものとして決して見逃すことはできないものだったといえるだろう。
 だが、1770年代半ばに至り、反王権的言動を単なる狂人の所作に還元することが困難なのではないかという不安がポリスにおいて生じていることを感じさせる言説が出現する。時の宮内卿マルゼルブの発言が象徴するように、王権/ポリス側は反王権的な言動を見せる者を良識の欠けた人物と見なしながらも、それだけで「狂人」という枠組みで理解し、監禁し続けることに明らかな戸惑いを見せるのである。1770年代半ばにおいて、「悪しき臣民」と「狂人」との間には亀裂が生じ始めているのである。同時に、1770年代はポリスの迅速性・柔軟性・機動性を担保していた重要な実践のひとつである封印王状が本格的に批判の対象となる時期でもある。逮捕や監禁は確固たる証拠に基づいて遂行されるべしという主張は、迅速・柔軟な対応で社会秩序を守ろうというポリスそのもののあり方に異議が申し立てられたことを示している。
 こうした変化はやがて反王権的言動が「異常」であることをやめ、批判精神が自らの全く正当な権利として認識する「市民」の誕生を予感させるものである。以上の考察から、1750年代・60年代とは国事が君主の専権事項であるという建前が揺らぎ始め、そうした中でポリスが懸命に揺らぎかけた建前を維持するという任務を果たそうとしていた時期だと解釈できるであろう。

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