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博士論文要旨
論文題目:ケニア海岸地方の一地域における秩序をめぐる実践と語り
著者:浜本 満 (Hamamoto, Mitsuru)
博士号取得年月日:2000年3月8日
論文の目的と射程
この論文は、ケニア、コーストプロビンス、クワレ・ディストリクトの一地域の住民であるドゥルマの人々(aduruma, sing. muduruma)が、彼らの生活の場である「屋敷(mudzi)」の維持と修復をめぐって行っている儀礼的実践とそれについての知識に関する研究である。どのような手続きや注意によって「屋敷」の安全とそこに暮らす人々の健康と豊饒性が保たれるとされているか、どのような行為や出来事がそれらを台無しにし、屋敷を危険にさらすと考えられているか、どのようなやり方でそれらを「治療(ku-lagula)」し修復することができるとされているのか、これらをめぐる知識と実践について記述し、こうした実践や語りを通じて可視化され対象化されている秩序の独特の性格について明らかにする。
私はそれが「構造的な比喩」(Lakoff & Johnson 1980)の語り口のなかにたち現れる秩序であることを示すだろう。その比喩性の故に、この秩序の内部で意味を与えられた一連の実践が現実に実行される際に、それらが特定の具体的な実行形態をとることの根拠を示すことは、原理的に不可能になってしまう。両者の結つきは構成的規則(Searle 1969)の表現しかもちえない、恣意的な結つきであると判明する。同時にその接合の空隙が、さまざまな象徴的動機付けがその網の目を張り巡らすことのできる空間を提供していることも示されるだろう。この論文の中心的な作業は、フィールドワークから得られた具体的な民族誌的資料のなかに、こうした諸特徴をそなえた秩序の姿を確認していく作業となる。それは同時に、人々の用いる比喩的な語り口によりそいつつ、それを私自身の語り口につなぎ合わせることによって、その語り口が対象化する世界を私自身にとって理解可能なものにするという作業でもある。
さらに、ウィトゲンシュタインが『金枝篇についての覚え書き』(Wittgenstein 1979)のなかで示した観点を布衍しつつ、儀礼的実践の中核に位置する恣意的な接合部にとりわけ焦点を合わせることによって、私は同様な儀礼的実践を取り扱う際に人類学がおかしてきた誤認のいくつかを慎重に取り除いていく作業も並行してすすめていくことになるだろう。具体的には、それはコスモロジー研究における主知主義的バイアスであり、あるいは儀礼研究における象徴解釈的な傾向である。また近代以降の社会学的想像力を呪縛してきた、自然/社会という二分図式も、この秩序の性格を理解するうえでの障害であることが判明する。こうした誤認や障害を取り除いたときに、我々の対象ははじめてその正確な姿をはっきりと現わすだろう。結論においては、不確定な未来に向けて開かれた出来事の場で、この恣意性が示す逆説的な相貌に注目し、いわゆる『儀礼的』実践のみならずすべての人間的実践が、出来事の不確定性の中に投げ出されているという共通の条件をかかえているという事実について考察する。
地球上のあるきわめて限定された局所的な社会空間における、同じくきわめて個別的な問いを問うことを通して、実際には私はおそろしく一般的な問いを問おうとしているのだと言うことができる。根元的に無根拠で恣意的な秩序をリアリティそのものとして生きるということがどのようにして可能なのか、あるいは人がリアリティとして生きている秩序の原理的無根拠性という事実は我々の実践にとっていかなる意味をもっているのか、という問いである。思うに、人類学はこうした問いの立て方において、ちょうどエスノメソドロジーの問いの立て方とは正反対の方向を向いている。主に自社会を対象とするエスノメソドロジーが、自分たちが現実として生きているもの、自分たちにはリアリティそのものとしか見えないものが、実は作り上げられたものであり虚構的なものであるという事実を暴き出してみせるとすれば、他者の社会空間を相手にする人類学は、自分たちの目には現実離れした虚構的なものにしか見えない秩序が、人々によってまさにリアリティそのものとして生きられているという逆の事実に直面するところから出発するからである。いかに現実が虚構であるかをではなく、いかに虚構が現実であり得るかを問わねばならぬことになる。リアリティとして生きられうる虚構にそなわる諸特徴について研究しているのだと言ってもよいだろう。リアリティなど虚構に過ぎないとか、人は虚構をリアリティとして生きているだけだとか、リアリティは社会的に構築されたものであるとか、こうしたことを指摘するだけなら実にたやすいことである。問題はいかにしてそれが可能なのか、いかにして虚構をリアリティとして生きるなどということがそもそも可能になっているのかを明らかにすることなのだ(see e.g. Taussig 1993:xv)。私の探求は、その解答に向けて一歩を進めようとするものである。
なお本研究のもととなった資料は、1983年より15年間にわたって断続的に行なってきた、通算で約4年間を越えるケニア、クワレ・ディストリクトでのフィールドワークにより得られたものである。
論文の構成
本論文の構成は以下の通りである。
序章 i
付記 vi
第一部 1
第一章 フィールドの概要 2
キナンゴ 2
地域 5
生活 7
住民 11
クラン・システム:父系クラン 13
クラン・システム:母系クラン 16
屋敷 18
第二章 秩序の位相 24
コスモロジー概念の問題点 25
理論的知としてのコスモロジー 25
実践の主知主義的構図 28
集団がもつ知識 32
語りにおける陳述と文 35
第二部 儀礼という問題系 41
第三章 寡婦を「巣立ち」させる方法:儀礼をめぐる二つの問題系 42
儀礼をめぐる想像力の構図 42
<すること>としての儀礼 44
寡婦を「巣立ち」させる方法 47
接合の唐突さ 50
「巣立ち」の意味 52
行為とその「やり方」の結び付きの恣意性 54
儀礼における「象徴的」秩序 56
結語 60
第四章 ウィトゲンシュタインの儀礼論 61
フレーザーというコンテキスト 61
『所見』第一部 65
『所見』第二部 70
結語 74
第五章 妻を「引き抜く」方法:諸関係の配置 76
水甕の禁止 76
象徴論的解決 78
象徴論的解決の問題点 80
妻と屋敷をめぐる語り口 81
隠喩的論理性と構成的規則 87
有縁性の領分 89
諸関係の配置 92
第三部 秩序の語り口 95
第六章 人をとらえる規則 96
キドゥルマ 96
<異>性提示の構図 97
規則と神秘的制裁 99
自然の秩序 101
構成的規則 103
自然と規約 105
比喩的な秩序 108
第七章 屋敷の壊し方(1):屋敷を「まぜこぜにする」方法 111
屋敷が「まぜこぜになる」という観念 111
マブィンガーニと『近親相姦』 113
「まぜこぜ」をもたらす性関係 116
二つの語り口 119
マブィンガーニの治療 122
区別とまざりあい 129
マブィンガーニとミメシス的欲望 133
マブィンガーニという語り口 135
第八章 屋敷の壊し方(2):「追い越す、後ろに戻る」 137
はじめに 137
人の序列-二者関係としての 137
序列の全体像 143
(1) 結婚順 144
(2) 屋敷の移転における序列 147
(3) 服喪後の性関係の再開 152
結論 154
第九章 屋敷の成り立たせ方:子供を「産む」方法 158
「産む」ことと「追い越す」こと 158
「産む」という手続き 158
婚資の「産」み方 162
「産む」目的 166
「死を投げ棄てる」方法 169
「冷やしの施術」と「事故」の投げ棄て 172
「産む」ことと「投げ棄てる」こと 174
「追い越し」と性の禁止 179
新生児のキルワ 181
屋敷の秩序をめぐる語り口の比喩性 187
秩序の語り口と性 190
第十章 「外」の想像力:子供を「外に出す」方法 199
はじめに 199
キルワの治療と「外に出す」こと 200
家畜を「外に出す」こと 206
「ムラー」の施術 209
「産む」ことがすべての間違いのもと 210
「まぜこぜ」の予防 213
ムラーの施術:お前自身を「外に出す」こと 217
「外」にいる人々 222
「薬」という語り 228
結論 232
第四部 時間と規約性 233
第十一章 出来事と因果性 234
知識の欠落 234
錯誤の遡及的発生 237
未然の結果の消去 244
「ドゥルマのやり方」と不確定性 247
現在の開口部 249
第十二章 正しさの問題:「悪い死」の冷やし方 254
はじめに 254
ンドゥリャ老人の死 254
「悪い死」の処置 257
マハナの死を処理する手続き 259
ンドゥリャ老人の埋葬 261
正しさの根拠と知識の組み替え 269
経験的根拠 269
合意形成のパラドクス 272
創意と即興 273
伝言ゲーム 274
施術師の知識 277
変異と反復 279
第十三章 結語:時間と規約性 282
『儀礼的』な行為の特徴 283
比喩的なリアリティ 284
比喩的な行為の実行方法 285
有縁性の領域 287
秩序の可変性 290
息子の結婚順の正しい矯正法 292
恣意的な秩序の二面性 297
註 301
参考文献 325
各章の内容
第一部では、具体的な民族誌的作業にとりかかる前に、作業が遂行される二つのコンテキストが示される。
第一章では調査地の概要を紹介した後に、最後にこの論文の中心テーマである人々の生活の基本的な舞台である「屋敷」という単位とそれをめぐる観念について概観する。
第二章では儀礼的実践と秩序という問題の理論的コンテキストとして、人類学におけるコスモロジー研究を批判的に検討する。既存のコスモロジー研究の主知主義的なバイアスを取り除き、秩序の問題を、認識の対象として立ち現われる観念世界のようなものとしてではなく、生の営み自身に内蔵された体系性と、それを可視化する語り口の問題として提出しなおすことがその課題である。
三つの章からなる第二部は、恣意性=規約性と有縁性という儀礼における二つの問題系を正確に提示することを目的とする。
第三章では従来の儀礼論の批判の上に、ドゥルマで服喪の終了時に寡婦に対して行われる「巣立ち(kuuruswa)」と呼ばれる手続きを例にとって、儀礼的実践を主題化する際の問題の所在を明らかにする。ある実践を観察者の目に「儀礼的」に見せる特徴として、その実践の内部の恣意性=規約性と、その実践をとりまく象徴的な動機付けの網の目の存在(有縁性)の二つが指摘される。
第四章ではウィトゲンシュタインが、そのフレーザー批判の中で人間の儀礼的実践について考察する際に、すでにこの二つの問題に焦点を合わせていたことを検証する。
第五章は、二つの問題系の配置を、ドゥルマにおける一つの禁止規則の分析をつうじて、より具体的かつ正確に描き出す試みである。水甕を夫が動かすことは、彼の妻を「引き抜く」ことであり、彼女に死をもたらしうる行為として禁止されている。なぜ水甕を動かすことが、妻に死をもたらす行為になっているのだろうか。この問いを検討する過程で、儀礼的実践についての一つのモデルが提出されるだろう。諸慣行がおりなす意味論的な相関関係の網状組織(有縁性)と秩序についての比喩的な語り口とが、行為の二つ異るレベルの記述のあいだのの恣意的・規約的な関係によって接合しているというモデルがそれである。
第三部はおそらく通常の意味での民族誌記述にもっとも近いものとなる。人々が一連の構造的比喩によって組織された語り口によって、どのように屋敷の秩序を可視化しているか、その語り口の体系性が明らかにされる。
第六章は五章において提示された比喩的な語り口で組織された秩序という領域の性格をさらに明らかにすることを目的とする。「ドゥルマのやり方」として知られている一連の規則を破ると、人はさまざまな災厄に見舞われると考えられている。この章では、違反と災厄とのこうした結び付きの性質について検討を加える。人類学でタブーや規範が論じられる際の常套概念である『神秘的制裁』という概念を批判することを通じて、こうした結び付きが属している秩序の性格が明らかにされる。それが、自然と社会を対置させる想像力がまさにとらえ損なう領域であることが示されるだろう。
続く諸章は、ドゥルマの屋敷の秩序を構成するこうした比喩的な語り口についての記述的な研究である。
第七章は「まぜこぜ」という構造的比喩で語られる領域の分析である。一見したところ日本語でいうところの『近親相姦』とその禁止に対応しているかのように見えるこの領域が、それとは共約不可能な異る語り口によって編成されていることが示される。
第八章では、「追い越す」「後ろに戻る」などの屋敷の内部の序列をめぐる語り口を分析する。兄弟でのベッドや小屋の使用をめぐる規則や、結婚順、服喪の後の性関係の再開順などのなかに示される序列に対する拘りの意味を明らかにし、これら屋敷の序列を踏まえた諸実践が、いかにその序列を可視化し、再生産していくかを示す。また一連の序列をめぐる比喩的な語り口が、序列へのこだわりを屋敷の人々の健康と豊穣性にたいする憂慮につなげる語り口となっていることが示されるだろう。
第九章は人や物を屋敷に編入する手続きとも見ることができる「産む」という行為をめぐるさまざまな語りの相互関係を明らかにする。息子が初めて妻をめとる際に、あるいは家畜を新たに購入した際に、などさまざまな機会に「産む」という手続きが必要とされる。具体的には屋敷の長がその妻を相手に無言の性交を行うことによって、息子の妻や購入した家畜を「産む」のである。一方、夫に死なれた未亡人たちは、服喪の最終日ブッシュの地面の上でよそ者を相手に同様な無言の性交を行うことによって夫の死を「投げ棄て」なければならない。この章ではこれら「産む」あるいは「投げ捨てる」という行為をめぐるさまざまな語り口が、屋敷の内部と、危険と混沌によって特徴づけられるその外部との境界をいかに可視化しているかを示す。
第十章は「産む」行為の失敗に対処する操作である「外に出す」という観念について検討する。屋敷の秩序に対する一連の比喩的な語り口自体の内部に、それが描き出そうとする秩序そのものを否定しようとする想像力が宿っているという事実を明らかにすることができるだろう。秩序の「外」なるものを現実的に想像可能なものにしている条件が明らかにされるだろう。
この4つの章で、屋敷内部の秩序をめぐる諸実践と語りの領域をほぼカバーすることになる。この一連の分析の過程で、ある恣意的な秩序を現実として生きるということが、ある構造的な比喩的語り口に絡みとられていることであるということの意味が示されるはずである。
第四部は儀礼的実践とその知識が、時間とのからまりあいのなかで示す不確定性について考察する。第三部の記述が、恣意的な接合の体系の非歴史的な体系性についての眺望を提出しているものであるとすれば、第四部は、恣意的な秩序のもう一つの側面であるところの歴史への屈服--偶然的な変異への服従という意味での--を描くものとなる。
第11章では現実の出来事の展開と屋敷の秩序をめぐる比喩的語り口の内部の帰結との絡みあいを示す。儀礼的な知識が内蔵する因果性の捩じれを分析し、不確定の未来に対して投げ出されれているという儀礼的実践のあり方を明らかにする。しかじかのドゥルマのやり方に従わなかった場合、しかじかの禍が起こるという因果関係の主張が、未来の不確定性の前に現在の意味が決定不能であるような、あらゆる人間的実践の条件との関係でいかなる意味をもっているのかがあきらかにされる。と同時に、「未決の過去をいくつもひきずった現在」という人々の生の状況に照明が当てられる。
第12章では、具体的な「ドゥルマのやり方」の知識自体の中にひそむ不確定性と、その実践上の曖昧性を「悪い死」の処理において実際に見られた事例を中心に検討する。ある行為の正しいやり方が何であるかを根拠づけることが原理的に不可能であるとき、いったん知識に不確かさが忍び込むと、それは一気に決定不能に陥る。この章では、そうした状況の中で人々がどんな風にそれぞれの知識をすりあわせて「正しいやり方」の知識に到達するのか、そしてこうして到達された正しい知識が現実にどんなふうに実施されるのかを、一つの具体的な事例のなかで検証し、まさにこうした仕方で正しいやり方が決定されるという事実自体のパラドクスを明らかにする。知識の生産と流通が「伝言ゲーム」のモデルでとらえ直され、比喩的な秩序を生きるということが、こうしたパラドクスを繰り返し生きるということに他ならないことが示される。
本論考全体の結論にあたる第13章では、全体の議論を要約すると同時に、比喩的な語り口と実践される行為とのあいだの規約性がもつ意味を、時間性との関係において考察する。最後に一連の考察の帰結が、ソシュールが言語のなかに見出した二重性(慶田 1999)との関係において再評価される。恣意的な体系のもつ、自己完結性と自閉性そして変化不可能性の相貌と、現実の予測不可能な可変性との一見した矛盾が、恣意的な体系の本質に根ざしたものであることが明らかにされる。
引用文献
慶田勝彦, 1999,「ソシュールの<二重性>-人類学的対象に関する一考察-」『文学部論叢』第64号, pp.1-19, 熊本大学文学会
Lakoff, G. & M. Johnson, 1980, Metaphors We Live By, Chicago: The University of Chicago Press
Searle, J.R., 1969, Speech Acts, Cambridge: Cambridge University Press
Taussig, M., 1993, Mimesis and Alterity: A particular history of the senses, New York and London: Routledge
Wittgenstein,L., 1979, "Remarks on Frazer's Golden Bough ( transl. by J. Beversluis)," In Luckhardt ed., Wittgenstein; Sources and Perspective. pp.61-81, Ithaca: Cornell University Press