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博士論文要旨

論文題目:観光地ケアンズの生成と日本企業—イメージ戦略をめぐる政治過程と地域社会変動—
著者:小野塚 和人 (ONOZUKA, Kazuhito)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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戦後、特に1980年代において加速化したオーストラリア(以下、豪州とする)のアジアへの参画にむけた社会変動を、観光開発の観点からいかに解明できるのか。観光開発と観光広報は豪州社会におけるアジアとの関係進展の上で、いかにして用いられていったのか。アジアへの参画にあたって、豪州はその国家のイメージをどのようにして改変し、アジア諸国に対して広めようとしたのか。アジアとの関係進展の中で、豪州社会は観光をどのようにして位置づけていったのか。さらに、観光開発という行動の背景に潜む、近代性とグローバルな空間編成の変化が、豪州における具体的な場所の変化と「異質な他者」の到来において、いかに関わるのか。観光開発は都市社会学的にいかに定義できるのか。観光開発に関連した社会変動によって引き起こされる、グローバルな勢力としての「異質な他者」の到来は、場所をいかに変え、その地域社会変動からいかなる社会空間の編成が生産されるのか。観光開発を通じた社会変動に対して、住民はいかなる反応を示し、観光開発を受け入れる側にいかなるインパクトがもたらされ、いかなる構造変動が訪れるのか。観光業を通じた地域活性化策は当該社会の経済的・社会的危機を回避するための手段としていかなる意味を持ち、いかなる効果と影響を観光開発の受入社会に与えるのか。
本論文の研究目的は以下の通りである:第一に、観光開発とそれに伴う資本と人の移動を題材とし、近代性の変遷と資本主義の編成の変化の中で社会空間がいかに変動していくかを考察する。そして、観光開発によって生起する空間編成を理論的に考察する。第二に、特に1980年代からのクインズランド州最北部地域(以下、FNQ地域とする)における、ケアンズという場で日本というアジアとの関係において生起した観光開発をめぐる地域社会変動と政治過程の考察から、連邦政府の行動と南部地域を対象としてきた豪州のアジア化をめぐる豪州社会の研究に対してFNQ地域における社会変動の考察から貢献する。特に、観光業が豪州とアジアとの関係進展において、豪州社会において持つ政治経済的な意味を解明する。第三に、「異質な他者」としてのアジアからの資本と人の移動の結果として生起した都市景観の変化、受入社会への影響、地域住民の反応、「異質な他者」との関係進展を、ケアンズという具体的な場所から歴史社会学的に、都市社会学的に考察する。そして、ケアンズの地域社会変動から観光開発の社会学的考察に対する理論的なインプリケーションを探る。観光開発がもたらす受入社会への影響とインパクト、観光開発による産業再編以後の受入社会が持つにいたった特色を都市社会学の視座から、定性的、定量的に解明する。そして、生産者の視点から観光開発に至る過程とその帰結について、考察することにより、観光開発を通じた都市化という観点から、都市社会学への貢献を行う。
 本論文は、FNQ地域に位置するケアンズにおける観光開発事業を題材とし、観光開発によって生まれる空間の生起と豪州社会とアジアとの関係進展を、1980年代後半における日本企業の投資活動と地域社会変動からの解明を意図した。ケアンズの近代社会としての歴史は約150年程度と浅く、そこでの社会編成と主流文化は常に外部から持ち込まれている。1980年代は豪州社会がアジア太平洋地域との政治経済的な交流を進展させようとした時代であり、この時期に日本というアジアからの勢力によってケアンズの観光開発は達成された。ケアンズは、地理的にもアジアに近接し、歴史的にアジア人労働者がこの地域で活動を展開してきた。従って、観光開発による空間編成の転換、豪州のアジアへの参画に伴う「異質な他者」との交流といった以上の問題関心を考察する上で、本主題は適している。
 本論文における研究方法は、第一に、定性的な方法として、資料調査、豪州国内と日本国内の新聞記事検討、社会学領域と経済地理学領域に位置する理論的考察を行った。そして、地元議会の観光開発推進者、運動家、日本国内と豪州国内のクインズランド州(以下、QLD州とする)政府関係者と日本企業関係者、ケアンズ地区における観光推進派(市議会関係者、前市長、議会議員、議会コンサルタント、ケアンズ観光局職員、各観光アトラクションの経営者と職員[アボリジニの職員を含む]、その他の観光業関係者)、反対派と予想される人々(環境保護運動家、デモ行進等の反対運動に参加した住民、反日・反アジア運動家)、さらに、アボリジニ共同体長老、ケアンズ歴史研究会(Cairns Historical Society)会員らに対する聞き取り調査を実施した。第二に、定量的分析方法に関しては、本論文では統計分析を実施した。本論文では豪州統計局による国勢調査、QLD州地域統計、QLD州財務省、QLD州政府統計局、ケアンズ商工会、ケアンズ市議会のデータを用いた。データ比較の必要性に応じて、1970年代のデータも参照しつつ、主に観光開発が開始される以前の1981年に実施された国勢調査の年度から、産業再編後であり、かつ、最新の国勢調査の結果が発行されている2006年までを分析の対象とした。
 以下、本論文の章構成に従い、内容を要約する。第1章では、ウルリッヒ・ベックによる近代性の展開をめぐる議論を批判的に検討することにより、本稿の対象となる非都市部における観光開発を通じた社会変動がいかにして意味づけられるかをめぐっての議論の下地を形成することを目的とした。第1章では、「第二の近代」すなわち再帰的近代への転換によって、地元住民にとっての「統御不能(uncontrollable)な状態」が拡大することを示した。特に、その変化は、領域、社会学的な個人の理解、単線的な成長モデルの問い直し、という三つの領野において現れることを示した。「古典的なモデル」としての「第一の近代」から、「第二の近代」としての再帰的近代を通じ、その深化によって、現在は、「コスモポリタン的近代」という「第三の近代」に突入している状態にある。コスモポリタンという語は、世界市民主義というよりも、移民、資本、さまざまな風物の到来に見られる「統御不能な状態」が、ある領域内に増大する中で、そうしたものとどう向き合っていくか、を説くものである。この議論は新たな社会編成のあり方を先駆的に示しているという意義が存在するものの、以下の問題点が存在することを示した。第一に、「他者」を食物にたとえるような思考は、他者を客体として扱い続けることを意味し、ガッサン・ハージのいう「白人国家幻想」、すなわち、管理する主体としての我々と、異質な他者の存在、という図式と変わるところがほとんどないことを示した。第二に、こうした理論的な陥穽を打破する示唆を与えている論考としてデヴィッド・ハーヴェイによる空間に対する認識に関する問題提起を分析した。
 第2章では、観光開発によって、受入社会にいかなる社会変動が発生し、いかなる空間編成が生まれるかをめぐって、主に都市社会学領域の理論的成果を応用して考察を行った。第一に、本章では、観光開発における投資あるいは政府側と住民との間での関係性をデレク・グレゴリーとアンリ・ルフェーブルによる「権力の目」という図式に基づき、多国籍企業や各政府による開発事業は、「空間の表象」として、住民の間での生きられた空間に対して、改変を迫ることになり、抑圧的な効果をもたらす場合があることを示した。そして、住民の側からは、そうした動きに対して、「表象の空間」とする対抗的運動が生起する。それは、ハーヴェイの言う「場所の神聖性」を守るための運動である。住民と開発推進勢力との間での再帰的な過程を経ながら、観光開発を通じた社会変動は進行を続ける。第二に、観光開発の生起をめぐる社会経済的な背景に関して、フォーディズムからポストフォーディズムへの転換という社会編成の区分図式に拠って説明を行った。フォーディズムにおける社会編成が、中央政府のような一元的な権力による均質な領土形成を志向していたのに対して、ポストフォーディズムにおいては、統治をめぐる権力が多元化するとともに、中央政府的な権力は、均質的な領土形成からは手を引き、民間とパートナーシップを結ぶと共に、自治よりも企業家(起業家)主義的な発想によって、各自治体を競争させ、「魅力」のあるところにのみ資本投下を行う形式へと変更していった。観光開発の推進に向けて、各自治体は資本や観光客にとって、「魅力的」な場所となるべく、自らを卓越化させようとする。「時間—空間の圧縮」の過程によって、後背地の脱統合化、「原野」の消滅、それらと並行した都市化の世界的進展による、都市と農村の区分の曖昧化、といったニール・ブレナーとクリスチャン・シュミッドのいう「全球的都市化」の過程が進行する。第三に、観光開発を通じた場所の卓越化を目指しても、生起する空間は場所ごとに大差はないことを、ジョージ・リッツアーによる「マクドナルド化」、そして、「無のグローバル化」命題を用いて示すとともに、場所は商品と同じ盛衰を辿ることを「観光地ライフサイクル論」を援用して示した。
 第3章からは、ケアンズにおける観光開発を通じた社会変動の考察を行っている。第3章では、観光地としてのケアンズがいかなる歴史社会学的な背景によって生成されてきたのかをめぐって、ヨーロッパ系住民が入植した1850年代から1930年頃までを対象とし、ケアンズにおいて経済活動を展開した中国人労働者と日本人労働者の現地社会との社会過程を考察した。ケアンズを含むFNQ地域は、南からの「ヨーロッパ的」な勢力と、北からの「アジア的」な勢力による継続的な「発見」によって、その場所の性質が形作られている。1850年代から1930年代頃にかけては、ケアンズの「第一の発見」がなされた。まず、中国人労働者は1860年代から主に金鉱労働に従事し、その後は近隣の農場開拓に従事していった。現在のグラフトン・ストリートにチャイナタウンを形成した彼らは、明示的に地元住民との関係、あるいは、広報活動(public relations)を重視しながら、ヨーロッパ系住民との関係を構築していった。そして、1890年代からは郊外のサトウキビ農場において日本人労働者が年季労働に従事したが、これは中国人労働者による現地社会との良好な関係性の構築が成熟した後である。こうした社会過程によって、ケアンズはチャイナタウン、アジアンタウンとして、「エキゾチックなオリエント」として南部地域の文筆家や芸術家を媒介として、南部住民に認識されていった。豪州南部地域の文筆家や芸術家達は、ケアンズをあたかも自らがヨーロッパ人であるかのような目線で描写し、「極東」の一部としてのケアンズの描写を南部地域に広めていった。こうしたアジア人の明示的な社会的プレゼンスと、彼らが従事した「下層労働」によって、ケアンズの草創期における開拓事業、そして町の発展は可能になったのである。
 第4章では、観光開発が推進された1980年代の政治経済的な状況を、日豪貿易の文脈、豪州国内の開発をめぐる政策的状況から解明を行った。第一に、観光開発は筆者の聞き取り調査によって研究協力者が広く用いていた「貿易(trade)」という観点からの理解が有効である。本章では、主にFNQ地域と日本との関係に焦点を当て、この地域から生産される砂糖、さらに日本とQLD州の貿易に関する様相を顕著に表す牛肉を事例として取り上げ、主に品質に関する問題に焦点を当て、貿易としての観光業、観光開発の背景となる過程の分析と、市場としてのアジアに対する態度の析出を試みた。牛肉と砂糖の貿易では、一貫して貿易相手としての日本の優先順位は低く、当初は良質ではない製品が日本市場に持ち込まれた。しかし、意図せざる日本側の需要増大から、日本資本という外資と提携しながら、品質改良が行われ、日本との貿易関係が拡大していったことを示した。そして、第二に、QLD州並びに豪州連邦政府による国土開発、そして、外資による投資受け入れをめぐる政策的状況を分析した。豪州では、「宗主国」として英国をはじめとした欧州諸国からの社会的諸制度や資本、さまざまな風物の輸入によって、国を成立させてきたため、外資の活動を規制するという概念が育たず、豪州現地法人と50%までの共同出資、さらに、「国益」を著しく損なわないことを除けば、各国資本は実質的に自由に活動することが可能であった。こうして、1980年代において、日本企業は、観光業関連諸分野にとどまらず、鉱業などの様々な分野において、QLD州内にて、自らの構想する計画に従って投資を実行することができた。確かに、土地開発や都市計画をめぐる体系的なプログラムは1972年から1975年にかけて在任した連邦政府ゴフ・ウィットラム政権によって構想が進展した。しかし、当時のQLD州首相ジョー・ビエルキー=ピーターセンらの批判に起因する政治的混乱によって、ウィットラム政権は連邦総督に罷免され、その計画が実現されないままに終わった。豪州においては外資の受入や国土開発をめぐる体系的な規制が存在しないことから、開発事業に関しては、実地の変化に基づいて検証を行う必要があり、政策分析は適切ではない。第三に、在来産業であるサトウキビ栽培産業の相対的な衰退を受けての代替産業として、観光業による地域活性が構想され、現地の観光業推進派の住民らが観光開発に向けて行った試みを考察した。1984年のケアンズ空港の国際空港化に向けた試みとその実現により、その後の日本企業による投資を通じた観光開発の実現への基盤が整備されることになる。
 第5章では、ケアンズにおいて1980年代から発生した観光開発の過程を日本企業大京による投資活動を軸に、民族誌的に考察を展開した。日本企業大京による開発事業により、ケアンズは「単なる農村」から「無国籍的なリゾート地」へとその場所の性質を転換させていった。日本の「テンミリオン計画」に代表される海外旅行推進プログラム、そして、日本円の高騰によって、海外への不動産や観光関連分野での投資が増大すると共に、海外旅行客が増加する波に乗り、ケアンズにおける観光客は増加していった。1980年代後半において、日本企業による急速な投資活動に対して、豪州全土で対日本との関係をめぐる人種差別意識を明示的に含んだ論争が展開され、同州内のゴールドコーストにおいては、反日運動の要素を含んだ日本企業の投資に対する反対運動が展開された。ケアンズにおいては、環境保護という観点からの反対運動が発生し、他の日本企業らの開発事業を中止させるに至った。大京は、現地住民の反発感情に対して、自らのリゾート施設に現地住民を招待し、関係諸団体に寄付を行うなどの広報活動を明示的に行うことで、現地社会との関係性を築いていった。この点は戦前の中国人労働者が行った住民への広報活動と一致する。そして、このプロセスは、ケアンズの北からの「第二の発見」として位置づけられる。1990年代初頭の日本社会のバブル崩壊を経て、多くの日本企業が世界各地からの不動産並びに観光分野での投資から撤退する中、大京は2005年まで現地にて活動を展開し、ケアンズのリゾート施設運営、宅地開発、港湾設備の改良など、公共事業ともいうべき分野にまで、その活動を展開させていった。2005年の大京の撤退以後は、日本からの直行便の便数が減少すると共に、主たる顧客である日本人観光客が急速に減少するに至っている。
 第6章では、一連の観光開発を通じた社会変動が、観光開発の受入社会にいかなる影響を与えたのかを、統計分析を用いて考察を行った。ただし、日本と異なり、豪州で公開されている統計情報の範囲は限定されている。本章では、第一に、観光開発を通じた社会変動に伴う産業構造の再編、第二に、人口動態の変化を考察した。第三に、住民の社会経済的状況の変化の評価としての所得格差の動向を、ジニ係数の計算とローレンツ曲線の描写によって評価した。まず、産業構造の再編に関しては、観光開発を通じた社会変動により、在来の第一次産業と、第二次産業は一定の雇用機会を維持しながらも、当該社会における地域総生産と雇用機会の割合を減少させた。その一方で、観光業の動向と人口の増減に依存する建設業、そして、観光業に直接関連する分野での第三次産業の占める地域総生産と雇用機会の数と割合が増大した。次に、人口動態では、ケアンズは豪州国内の主要都市と比較して高い人口増加率を有する。かつてケアンズは、QLD州内の非都市部の一部として、非英語使用地域出身者(以下、NESBとする)に関しては低い割合を有していた。しかし、観光開発を通じた社会変動により、QLD州内の主要都市であるブリスベンとゴールドコーストの位置する南東部と同程度にまでNESBの割合が増加した。また、ケアンズにおける特徴ある変化として,日本人人口の割合が高いことが挙げられ、総人口あたりの日本人の割合は世界の各都市の中でも最も高い都市の一つとなった。そして、住民の社会経済的状況の変化の評価に関し、ジニ係数の計算とローレンツ曲線の描写による住民間の所得格差の動向をめぐる考察では、観光開発以前ではジニ係数は増加し、かつ所得平均値も減少傾向にあったのに対し、観光開発が行われた1980年代後半以降は、一貫してジニ係数は減少し、住民間の所得格差は改善する傾向にある。
 観光開発は、アジアとの関係進展に向けた国家像の改変を意図したというよりも、資本の誘致と政治経済的な問題の対処を意図した。国家的なイメージ戦略よりも、資本を誘致する戦略であり、意図せざる結果として豪州の国家像の改変に向けた契機がもたらされた。観光開発を通じた社会変動によって、ケアンズにおいては「時間—空間の圧縮」の過程が急速に訪れ、日本資本という「異質な他者」の力によって経済成長を遂げ、「無国籍的なリゾート地」、あるいは、「第二のハワイ」の生成に向けた開発事業によって、町の景観は大きな変化を遂げるに至った。1980年代以前の観光開発以前においては、「異質な他者」としての移民の割合は現在よりも低く、観光業の地域経済に占める割合は少なかった。観光開発による日本企業と日本人観光客の到来は、ケアンズの住民にとっての「統御不能なもの」を拡大させる過程であり、ベックの言う「第一の近代」から「第二の近代」への転換を意味するものである。確かに、開発の結果生まれた高層建築物群は、その地域の観光開発の成功を意味する。しかし、急速な開発から25年を経過する現在において、観光設備は老朽化し、かえって、そうした建造環境が観光業に代わる産業の興隆を困難にさせている。観光客数も送出社会側の情勢に影響され、現地住民の統御範囲内にはない。ケアンズでは観光開発の意図せざる結果として、人口が急速に増大し、そして、日本人移民をはじめとしてNESBの割合と絶対数が増加するなど、再帰的近代化の進展に加えて、コスモポリタン的近代としての「第三の近代」の到来を見て取れる。日本人人口をはじめとしたNESBの増大と観光開発を通じた成長が限界を迎えているケアンズでの「第三の近代」における将来の変動は、今後の研究の課題となる。

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