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博士論文要旨

論文題目:戦後日本の国際化と中南米地域の「日系人」―在外日本人の重層性にみるナショナル・アイデンティティ―
著者:崔 ミンギョン (CHOI, Minkyung)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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本研究では経済成長期にかけての社会変動の中、ディアスポラ日系人の位置付けがいかに変容してきたかを分析することで戦後日本社会のナショナル・アイデンティティを新たな視点から考察する。具体的には1950年代半ばから1980年代半ばまでの<日本からの人の流れ>を伴う国際化の動き、その中でも国際協力と企業の国際的な展開がいかに中南米地域の日系人と交差していったかを明らかにすることで「日本人の境界」がいかに認識されてきたのかを検証する。こうした問題設定は今日、ホームランドへ帰還した在日日系人の<外>としての位置付けを歴史社会学的に理解する端緒を提供し、戦前の出移民研究と1990年代以降の在日日系人研究に二分化されている日系人研究のミッシング・リンクを繋ぐ試みとしての意味も持つ。 
本研究は移民・ディアスポラ研究とナショナル・アイデンティティ研究を交差させたもので、各分野の先行研究と比較し、独自の側面を見せる。まず、移民・ディアスポラ研究としての独自性を挙げると、一つ、これまで移民研究と言えば、人の越境的な移動とその結果自体に焦点を当ててきたが、本研究では移民研究をより広義に捉え、一見しては移民と関係のないような領域(国際協力や企業の国際的な展開)と関連させることで狭義の移民現象(戦後移住や日系人)の総合的な理解を試みる。二つ、既存のディアスポラ研究は主にホームランドの危機と民族の離散、そして、その後のホームランド回復の志向性に焦点を当て、ホームランドの縮小に際したディアスポラ認識を主に考察した。しかし、本研究ではホームランドの国際社会における政治、経済的プレゼンスの強化、勢力拡大に伴われたディアスポラの位置付けの変化を検証する。特に、日本と日系人の事例は敗戦によってホームランドが一旦縮小した後の<再拡張>段階におけるディアスポラ認識を伺えるという特徴を持つ。
次にナショナル・アイデンティティ研究としての独自性は次の二点である。一つ、既存の戦後日本社会のナショナル・アイデンティティに関する研究では敗戦によって多民族国家から単一民族国家への変化を余儀なくされた局面において領土内に居住するが民族性を共有しないエスニック・マイノリティをいかに位置付けたかに焦点を当てた。しかし、本研究では未曾有の社会変動を経験する経済成長期において領土外に居住するが民族性を共有するディアスポラにいかなるまなざしが向けられていたかを見ていく。二つ、これまでのナショナル・アイデンティティ研究はマクロなレベルから<一つの>ナショナルな認識が生産され、それが一方的に受容されるプロセスに焦点を当てる傾向が強かった。しかし、本研究ではマクロレベルの考察に加えて、社会集団を分析単位とすることでよりミクロなレベルからの議論を試みる。
以上のような視角の下、本研究では次の二つの問いに答えていく。第一に、戦後の<日本からの人の流れ>を伴う国際化の動き、具体的には国際協力と企業の国際的な展開に関わる政策、制度、組織において日系人の位置付けはいかなるものだったのか。この問いは本研究の問題関心をマクロ、メゾレベルから考察するために設定したもので、多角的な文献資料の調査に基づく。関連統計資料を通して経済成長期にかけての<日本からの人の流れ>の実態を明らかにするとともに、国際協力関連行政機関と多国籍企業といった組織のレベルにおいて戦後の社会変動とともに日系人の位置付けがいかに変容してきたかを検討する。第二に、経済成長期において<日本からの人の流れ>に直接関わっていた人々の社会集団としての特徴は何で、彼らと日系人の<出会い>はいかなるものだったのか。これは本研究の問題関心をミクロレベルで検証するための問いで、「戦後世代」である<JEMIS出身>元JICA職員と元駐在員のライフストーリーを分析対象とし、それぞれの中南米地域での滞在経験を日系人との<出会い>を中心に考察する。
本研究は大きく次の三つのパートで構成される。一つ目のパートは本研究の問題関心と分析視角、背景を検証するパート(序章、第一章、第二章)である。まず、序章では上述したように先行研究のレビューを踏まえた問題提起を行った。次に、第一章では吉野耕作の現代日本のナショナリズムに関する議論を基本軸に本研究の分析視角をまとめた。本研究で分析対象とする経済成長期は<外>との直接、間接的接触が活発になった時期で、この時期にかけてのナショナル・アイデンティティの変容は「創造型ナショナリズム」ではなく、「差異の体系化、意識化を通して『我々』と『彼ら』のシンボリックな境界線を引く」動き、即ち、「再構築型ナショナリズム」の産物として捉えなければいけない。そして、「再構築型ナショナリズム」は「様々な社会集団のそれぞれのナショナリズム(fragmentary nationalisms)」としての特徴を持つため、「文化仲介者」である社会集団を単位とした分析を同時に行う必要がある。本研究ではこうした吉野耕作の議論に海外移動という要素を加え、最終的な分析視角とした。海外移動という直接的な<外>との接触が「再構築型ナショナリズム」の動きをより活発にしたことは間違いなく、この要素を取り入れることで<JEMIS出身>元JICA職員と元駐在員という社会集団の特徴を浮き彫りにすることもできる。
第二章では本研究の背景を検証する。最初に本研究の重要なキーワードの一つである国際化は戦後日本の社会変動と関連付け、その連続性と断絶性を踏まえた形で理解されるべきだと指摘した。そして、経済成長期にかけての国際化のあり方を伺える動きとして<日本からの人の流れ>に注目し、その実態を把握した。敗戦後、<日本からの人の流れ>は大きく制限され、高度経済成長初期においては移住が代表的な動きだった。人口問題の解決策として1952年中南米地域向けに再開された戦後移住事業は関連行政組織を整備しながら、1960年まで大きく増加した。しかし、高度経済成長を受け、この移住者という<日本からの人の流れ>は急減し、1960年代以降、在留邦人に取って代わられる。そして、こうした移住者から在留邦人への<日本からの人の流れ>の変容は中南米地域において<日本出身者>の重層化を生み出す。戦前からの移民に加え、戦後移住者、そして、政府関係職員や駐在員から成る在留邦人が流入することで中南米地域の<日本出身者>は内部の同質性の高いいくつかの社会集団によって構成されるようになるが、この構造の下で日系人の位置付けも規定されていった。なお、この時期、日本政府による日系人の定義はその厳格性が減少し、より多くの者を含むと同時に彼らを<外>に位置付けることで「国籍離脱者や外国籍者に対する外務省の消極的姿勢」が強化された。
二つ目のパート(第三章と第四章)では国際協力と日系人の交差について検証する。まず、第三章ではマクロ、メゾレベルからの考察を試みた。経済成長期にかけて日本のODA額は激増するが、技術協力の占める割合が極めて低いことは国際的な批判を招いた。ところが、中南米地域だけは例外として技術協力が活発に行われたが、これは日本からこの地域への歴史的な人の流入、移民の存在に起因したもので、戦後、移住事業が技術協力と連動していった結果だった。そして、こうした特徴的な側面をより詳しく考察するに当たって国際協力関連行政機関の変遷は示唆に富む。1963年設立されたJEMISは移住事業を一層積極的に推進するが、高度経済成長の真っ只中にいた日本から移住者を送り出すプッシュ要因は乏しかった。そのため、JEMISは移住に人による経済協力という新たな意味を付与し、移住者をその主体として位置付けた。興味深い点は日系人もこうした移住者の位置付けを共有し、特に、現地援護においては移住者と日系人の区分は曖昧だったことである。一方で、技術協力の更なる推進のために1962年設立されたOTCAにおいて移住者と日系人は中南米地域向けの事業と密接に関連しながらも、その存在は非公式的なものだった。技術協力が二国間関係を前提にするが故に移住者と日系人はあくまでも日本の技術協力の客体とされた。そして、JEMISとOTCAが統合し、1974年発足したJICAではOTCAと同様のディアスポラの位置付けが一段と強化された。JICAの発足は移住事業が国際協力の一環として技術協力の論理に回収されることを意味し、その結果、ディアスポラを被援助国の構成員と見なす傾向は一層強まる。そして、中南米地域への新規移住者の流入がほぼ途絶え、既移住者の世代交代も進む中、移住者と日系人を区分付ける必要性は弱まり、日系人は「日本人の境界」の<外>の存在としてより広い範囲を人々を含む存在となる。
第四章では第三章で検証した戦後の国際協力関連行政機関の変遷を各組織の構成員として経験した人々の語りを分析し、国際協力と日系人の交差をミクロなレベルから考察する。<JEMIS出身>元JICA職員は「戦後世代」の「文化仲介者」として高度経済成長初期、海外移動を経験した人々で、戦後日本社会の「再構築型ナショナリズム」を伺う上で適切な対象である。彼らは海外への憧れの下、移住事業を職業として選択したが、これは当時の不安定な社会状況の中、より良い将来を求める若者にとって合理的な選択で、特に、政府による移住の積極的な意味付けは職業上の誇りだった。インタビュイーは移住事業に従事することで長期間、中南米地域で滞在し、様々な<日本出身者>と出会っていたが、この<出会い>は彼らに戦後の国際化に伴う<日本からの人の流れ>の変容を実感させた。<JEMIS出身>元JICA職員は戦前移民、戦後移住者、そして、駐在員、全ての<日本出身者>と交流していたが、それは多様な関係性を見せた。戦後移住者を含む日系人との間には密接な相互交流があり、移住への思いを共有していた一方で、「エリート意識があって贅沢な生活をする」駐在員は否定的に語られ、移民と関わり合う自身とは一線を画して認識した。駐在員との<出会い>の他、インタビュイーに戦後日本の社会変動を実感させた出来事はJICAの発足だった。経済成長期にかけて移住という海外移動の持つ積極的な意味が失われ、技術協力が国際協力の主流として浮上する中、日本社会における<内>と<外>との関係は大きく変化したが、インタビュイーは違和感を持ちながらも<外>と繋がる職業に従事する者、具体的には<移住畑>の国際協力の担い手としてこうした転換を敏感に認識した。その結果、彼らは戦後日本の国際化を歴史的に理解する力を持ち、それは今日、海外移住資料館でのボランティア活動に繋がっている。
三つ目のパート(第五章と第六章)では企業の国際的な展開と日系人の交差について検証する。まず、第五章では時系列的な変化を念頭に置き、マクロ、メゾレベルからの分析を行う。第一次進出ブーム(1950年代後半から1960年代初め)において日本企業の中南米地域への進出は国際的な営みとして移住と重複する実施領域及び意味を有していた。そして、日系人との交差もホームランド企業とディアスポラ、両者のニーズを同時に満足させるものとして調和的な側面が大きかった。当時、日本企業の中南米地域での事業展開は農村部や郊外における製造業が中心で、日系人は特に欠かせない協力相手だった。海外進出のノーハウを持たない日本企業にとって日系人は現地社会への参入及び適応を助ける存在だった一方で、世代交代と都市部への移動が活発だった日系人にとって日本企業の進出は社会的上昇を成し遂げる機会の一つだった。その結果、日本企業からの駐在員と日系人の関係も日本人としての同質的な側面が強調された。ところが、第二次進出ブーム(1970年代以降)になるとこうした関係はよりニュアンスに満ちたものへ変化する。経済大国の国際化を担っていた日本企業は海外進出のノーハウを習得していたし、都市部での非製造業を中心とする事業展開は日系人への依存を弱めた。同時に日本企業が日系人の社会的上昇の達成において持つ絶大な意味も減少し、結果的に両者の補完的な関係性は弱まり、進んでは、葛藤的な側面が浮き彫りになる。特に、現地雇用制度をめぐる駐在員と日系人の関係は興味深く、民族性の共有に一定の意味を付与し行われたディアスポラの現地雇用は、同時に国籍に基づき彼らを「日本人の境界」の<外>の存在として明確に位置付けた。具体的には現地雇用制度がはらむ駐在員と現地雇用職員の間の差別的な待遇構造が両者の分断や軋轢を進めていった。
第六章では第五章の議論を踏まえ、経済成長期、中南米地域へ派遣された駐在員と日系人の<出会い>から日本企業の海外進出と日系人の交差をミクロなレベルから考察する。元駐在員は<JEMIS出身>元JICA職員同様、「戦後世代」の「文化仲介者」としての特徴を有するが、一方で彼らの海外移動は経済大国日本を直に背負うという特有の意味を持っていた。なお、ここでは第二次進出ブームの時期、非製造業の大手企業の駐在員として都市部で比較的短い期間滞在した人々の語りを分析する。駐在員が中南米地域へ移動し、まず出会ったのは「ジャポネーズ」としてのカテゴリー化で、彼らは日系人と民族性を共有する者と見なされるが、これは日系人への現地社会の肯定的な評判を共有できることを意味し、受容される場面もあった。しかし、駐在員にとっての<内>は著しい経済成長を成し遂げる当時の日本社会の構成員を意味し、特に、国際化の先鋒にいる自分たちと対比すると日系人は「ジャポネーズ」だが、「日本人の境界」の<外>の存在だった。そして、こうした認識は職場において一層顕著になる。現地雇用日系人の日本語能力や日本文化の理解力は駐在員との「社会的距離」を一部縮めても、日系人が<内>と見なされることはなかった。現地雇用制度がはらむ格差構造が駐在員と日系人を分断させ、両者を隔てる国籍は国家への帰属だけでなく、企業という組織における位置付けや日常的な行動様式、価値観にも影響を及ぼした。日系人はあくまでも<外>とされ、彼らと共有する民族性は副次的な機能しかしなかった。興味深い点はこうした過去の<出会い>が現在の<出会い>において新しく意味付けられていることだ。インタビュイーは退職後、在日日系人に関わる社会活動を行っているが、過去の<出会い>では副次的な意味しか持たなかった日系人との民族性の共有が現在の<出会い>において顕在化し、今日の日本社会という文脈の中で彼らとの「社会的距離」を近いものにしている。元駐在員は個人的な経験に基づき日系人と日本社会の関係を歴史化して理解し、在日日系人を専ら<外>とみなす日本社会一般の認識を相対化している。
 以上のような分析から経済成長期にかけて日系人は益々「日本人の境界」の<外>に位置付けられてきたことがわかった。そして、本研究では戦後日本の国際化と連動させることでこうした日系人の位置付けの原因を探ることができた。経済成長期における日本の国際化の動きは当初敗戦国として国際社会への復帰に焦点が当てられていたが、未曾有の経済成長を背景に敗戦国の<再拡張>という固有の意味を持つことになる。それ故、戦後日本の国際化はとりわけ1970年代以降、<多くを望まない適度なもの(modest)>であること常にアピールしながら進めざるを得なかったし、その延長線上でディアスポラへの拡張主義的な態度は慎むべきものとされた。こうしたホームランド日本とディアスポラ日系人の固有の関係はホームランドの国民国家としての歴史がディアスポラ研究の射程を設定する上で大きな役割をすることを示唆する。ディアスポラ研究は領土の喪失、植民地支配、分断など国民国家としてのホームランドの危機的状況、即ち、ホームランドの<不足>と越境的な人の移動を交差させるもので、日本と日系人の事例はユダヤ人的な経験から最も自由でありつつ、敗戦というホームランドの<不足>の歴史を持つが故、ディアスポラ研究の外延を決める役割をするのだ。
そして、こうしたホームランド日本が国民国家として持つ固有の歴史とそれに規定された日系人との関係は戦後日本社会のナショナルな認識を新たな視角から照らし出す。本研究で検証したように中南米地域への国際協力や企業進出は実際、日系人と密接に交差していたにも関わらず、「日系」としての共通点を前面に出すより、常に彼らとの距離を取ることで成立していた。つまり、ディアスポラとの繋がり、即ち、民族性の共有は一定の意味を有しつつも、彼らとの関係は結局、国籍に基づき、国際関係の論理に回収されていったのである。そして、ここから戦後日本のナショナル・アイデンティティに関する既存の研究で焦点が当てられてきた縮小局面における他民族の排除が決して日本民族の無条件的な包摂を意味するのではないことがわかる。言い換えれば、戦後日本の社会変動とともに「日本人の境界」は民族性を共有しない者だけでなく、民族性は共有するが日本国籍を持たないディアスポラも除外する形で厳格化されてきたのであり、包摂の対象とされるのは日本民族であると同時に日本国籍者である人々のみである。そして、これは今日、日本社会における在日日系人の位置付けを考察する上でヒントとなる。日系人は「日本人の子の実子(の実子)」としてホームランドへ帰還するが、明確にすべき点はここでいう日本人は日本民族ではなく、あくまでも日本国籍者を意味し、これは本研究で考察したように「日本人の境界」を規定する上で国籍の果たす決定的な役割と同じ文脈で理解できる。更に、帰還そのものは特権的に行われたとしても日本で実際、生活を営む在日日系人自身は日本国籍者ではないため<外>と見なされ、領土外の民族共同体をめぐる乏しい想像力の下、彼らは日本人と外国人の二分法的な対立図式に回収されてしまうのだ。
 ただ、本研究での考察がマクロ、メゾ、ミクロレベルへと多層的に行われたことによって、上述したような日系人の位置付けは日本社会全体において統一的に共有されているのではなく、日本社会と日系人の関係の歴史的な理解に基づき、それを相対化する力を持つ社会集団が存在することが同時に明らかにされた。本研究でインタビュー調査の対象とした<JEMIS出身>元JICA職員と元駐在員は「戦後世代」の「文化仲介者」として経済成長期にかけて海外へ移動し、ディアスポラと出会った経験を持つことで、日系人に対した固有のまなざしを有する。もちろん、両集団は異なる背景の中、日系人との<出会い>を経験したため、それぞれのディアスポラ認識には相違点もあり、例えば、元駐在員の場合、経済大国のビジネスマンとしての自己認識の故、過去の<出会い>では日系人との民族性の共有が顕在化されなかったが、現在の日本社会の文脈の下で行われる<出会い>ではかえって積極的に意味付けられていて、過去から現在まで一貫してディアスポラとしての日系人の存在を認識する<JEMIS出身>元JICA職員とは異なる。しかし、彼らの語りに注目することで戦後日本社会のナショナル・アイデンティティは決して一枚岩的なものとしてのみ理解されるべきではなく、パッチワークの断片を繋げていく作業を通して、その内部の多様性をミクロレベルから考察する必要があることを指摘することができた。

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