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博士論文要旨

論文題目:原子爆弾による惨禍と苦しみの意味をめぐる制度と体験者—広島市行政・日本政府・社会運動・被爆者—
著者:根本 雅也 (NEMOTO, Masaya)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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1. 論文の目的
本論文の目的は、広島に投下された原子爆弾がもたらした破壊や人びとの苦しみの意味をめぐり、広島市行政という制度と体験者である被爆者が、互いに常に対立するというよりも、対立もすれば、相互に共鳴し協調もする関係にあることを明らかにすることにある。
広島市に投下された原子爆弾は、圧倒的な破壊力でもって、都市を壊滅させ、多くの人びとを殺し、生き残った人びとをその後も苦しめてきた。この想像を絶する、人類にとって未知の暴力の経験に対して、様々な組織や人びとは、意味を見出そうと試みてきた。本論文において、「意味」とは、「原子爆弾の投下によってもたらされた惨禍や惨状、そして人びとの苦しみといった諸々の事象が何を意味しているのか」という、「解釈」として定義する。そして、原子爆弾によってもたらされた破壊の経験に対して積極的に意味を見出していったのが、広島市行政という制度であった。広島市行政は、折に触れ、原子爆弾がもたらした惨禍や人びとの苦しみの意味について言及し、その意味にもとづいて施策を行ってきた。そのため、原子爆弾を体験し、広島市で暮らす被爆者たちは、自身の生活を送る中で、広島市行政が提示する意味に触れてきたことになる。
原子爆弾がもたらした惨禍についての社会学・人類学的研究に加え、戦争などの集合的暴力の経験を扱った人類学的研究は、上述のような暴力的な経験の意味をめぐる制度と体験者について言及する際、両者の間に二項対立的な関係性を想定してきた。つまり、これらの研究は、基本的に国家という制度を一方の極に置き、体験者(個人・集団)という一般の人びとをもう一方の極に置いて、両者を権力による支配と被支配、あるいは支配と支配に対する抵抗という対立的な構図を強調したのである。
しかし、本論文は、次の理由から、この二項対立的な構図に対して批判的な立場をとる。まず、制度は、必ずしも常に支配的あるいは抑圧的な立場にあるとは限らない。また、体験者も常に被抑圧的に服従したり、また必ずしも制度に対して抵抗を試みたりするわけでもない。さらに、制度と体験者は、常に対極に位置し、互いが対立する関係に固定されているわけでもない。つまり、制度は意味を探す過程で自らの立場を変容しうるし、体験者という人びともまた自らを変容させうる。そして、互いに変容する中で、両者の間には、対立的な関係だけではなく、協調的な関係も生まれることがある。
以上を踏まえ、本論文は、二項対立的な構図に顕著な、制度(権力)による支配と服従(あるいは抵抗)という対立関係のみを強調する視点ではなく、制度と人びとの間に対立と協調の動態的な関係性を認める制度論的な視点をとる。本論文において、「制度」とは「ルール」を指し、それは「コミュニティを構成するとともに、個々人が他者との関係においてどのように自らを捉えるかを方向付け、目的ある行為を形作る土台(foundation)を提供する」ものと定義する(Ashiwa and Wank 2009: 8)。この定義にもとづく制度は、法や政策といった国家などの権力が関わる公的なものから慣習や社会通念のような公的ではないものも含むが、本論文では、広島市行政という公的な制度に焦点を合わせる。そして、広島市行政という制度を軸にして、日本政府、全国的な社会運動や広島という地域における社会運動、体験者である被爆者をアクターとして設定し、次のことを具体的に検討する。第一に、制度が変容し、体験者に対して常に抑圧的であるわけではないということを示すために、広島市行政が原子爆弾による惨禍の意味を探求していく過程を探る(第Ⅰ部)。この過程を辿ることで、市行政が、日本政府や社会運動を徐々に差異化しながら、被爆者という体験者の立場を重視し接近していくことを明らかにする。第二に、体験者の立場に接近した制度に対して、体験者がどのように関わるのかを探るため、被爆者による体験を語る活動(語り部活動)を事例として、市行政による意味と被爆者の関係について検討する(第Ⅱ部)。以下では、この二つの課題に沿って各章を整理しながら、本論文が明らかにしたことを説明する。

2. 本論の要約と結論
2.1. 制度の変容と体験者への接近(第Ⅰ部)
 第Ⅰ部では、広島市行政という制度が原子爆弾による惨禍や人びとの苦しみの意味を探求していく過程を辿った。それを通じて、市行政という制度が、徐々に日本政府や社会運動を差異化しながら、被爆者を重視する立場へと変容していったことを明らかにした。
 第一章は、1945年から1951年までの占領期に焦点を当て、広島市行政が、この時期、原子爆弾の投下の意味として「平和」を強調していく過程を辿った。市行政は、GHQや日本政府の見解をもとに、原子爆弾が戦争を終結させ、また将来的な戦争を抑制すると捉え、原子爆弾が平和をもたらした兵器であると主張した。また、広島市行政は、このような平和という意味をもとに平和都市としての復興を目指し、平和国家・日本の象徴として自らを位置づけていった。しかし、市行政によって掲げられた平和という意味や平和都市という都市像は、必ずしも市民の意に沿うものではなく、また社会運動とも対立していた。このように、占領期において、広島市行政は、原子爆弾による戦災に対して平和という意味を見出し、それを強調していく過程で、日本政府やGHQに協調関係を築きつつ、社会運動や市民からは距離を取っていた。
 第二章は、1950年代半ばにおいて、広島市行政が、原子爆弾がもたらした惨禍に対する意味として、核兵器反対と「原子力の平和利用」を掲げていく過程を検討した。第五福竜丸の水爆実験被災を契機として全国的に盛り上がった原水爆禁止運動(以下、原水禁運動と略記)は、広島・長崎・ビキニにおける核兵器被害を国民の経験として捉え、被害者の苦しみの意味として核兵器反対を訴えていった。この原水禁運動の高揚を背景として、広島市行政も核兵器反対を掲げていく。しかし、一方で、同時期に、広島市行政は、原子爆弾がもたらした惨禍や人びとの苦しみの意味として、原子力のエネルギーを非軍事的な目的のために利用していくこと、すなわち「原子力の平和利用」の推進を掲げていった。「原子力の平和利用」は、もともとアメリカ政府の方針であり、それに協調した日本政府の施策であった。このように、広島市行政は、原子爆弾による戦災の経験の意味として核兵器反対と「原子力の平和利用」を掲げていくことで、全国的な社会運動に協調しつつ、日本政府(ひいてはアメリカ政府)に対しても協調的な関係を続けていった。
原子爆弾がもたらした惨禍や人びとの苦しみの意味をめぐって、広島市行政と他のアクターの関係性が変容する一つの転換点となったのが、1960年代前半から半ばであった。広島市行政が、広島という地域における社会運動とともに、地域の独自性を強調し始めたからである。第三章は、1950年代末から1960年代前半における原水禁運動の混迷と分裂の過程を辿り、この混乱に対する広島の原水禁運動関係者の批判的な反応について検討した。全国の原水禁運動の中心組織であった日本原水協は、政党の強い影響下に置かれるようになり、混乱と内部対立を抱えるようになった。これに対して、広島市長を含む広島の原水禁運動関係者は、原子爆弾による惨禍の「原体験」を強調し、そこにイデオロギーや政治的立場を超えた人道主義的な立場を見出して、日本原水協を批判するとともに、広島という地域の独自性を主張していった。つまり、原水爆禁止運動の混乱と分裂が進展する中で、広島市行政や広島における原水禁運動は、原子爆弾による惨禍の「原体験」を国民的な経験というよりも、自らの地域が持つ集合的な体験として強調していった。そして、「原体験」の地域性を強調することで、広島市行政は、広島という地域における社会運動と協調しながら、全国的な社会運動から離れていったのである。
原水禁運動の分裂後、広島市行政は、「原体験」に見出された地域の独自性と人道主義的立場という意味をさらに推し進めていくようになる。第四章は、1960年代後半から1970年代前半において、広島市行政が、都市の使命として、原子爆弾による惨禍の「原経験」の継承や核兵器反対、そして被爆者援護といった施策を独自に行っていく過程を辿った。原水禁運動の分裂後、「原体験」の記録と継承を試みる社会運動が行われた。広島市行政は、継承の取り組みに関わることで、社会運動とは別に、地域を代表して原子爆弾による惨禍の経験を対外的に訴え、行動する存在として自らを形づくるようになった。そして、広島市行政は、イデオロギーを批判する人道主義的な立場と広島市民や被爆者の立場を重ねながら、都市の使命として、平和や核兵器禁止の推進に独自に取り組んでいった。その結果、市行政は、全国的な社会運動だけでなく、広島という地域の社会運動からも一定の距離を取るようになった。一方、市行政は、被爆者の立場を重視して、日本政府に対して被爆者援護の推進を求めていった。このように、市行政は、独自の施策を展開することを通じて、全国および広島の社会運動や日本政府を差異化する一方で、自らの立場として、被爆者や広島市民の立場を重視していったのである。
以上のように、第Ⅰ部は、広島市行政による意味の探求の過程を辿ることで、その過程において、市行政という制度が自らを変容し、被爆者という体験者の立場に接近していったことを明らかにした。このことは、原子爆弾による惨禍の意味をめぐり、広島市行政という制度が、被爆者という体験者に対して常に抑圧的であるわけでもなければ、必ずしも対立的な関係に固定されているわけではないことを示している。つまり、制度は変容し、体験者に対して協調する位置をとることもあるのである。

2.2. 意味をめぐる制度と体験者の響き合う関係(第Ⅱ部)
 被爆者や市民の立場を重視するようになった制度に対して、被爆者の一部は共鳴していくことになる。このことを検討するため、第Ⅱ部では、語り部活動を事例として、広島市行政によって提示される意味と被爆者の関係性について探った。第Ⅱ部では、市行政が提示する意味(制度的な意味)が、被爆者に対してどのように影響していくのか、また被爆者が市行政の提示する意味に対してどのように関わっていくのかについて、歴史的な視点(第五章)及び個人の視点(第六章)から検討した。それを通じて、原子爆弾がもたらした惨禍と人びとの苦しみの意味をめぐって、被爆者が、広島市行政という制度に対して、常に対立しているわけではなく、協調し共鳴する側面も持つことを示そうとした。
第五章は、被爆者の立場を重視するようになった広島市行政に対して被爆者もまた接近していくことを示すため、語り部活動の形成と展開の歴史的過程を辿った。そのために、まず、語り部活動の源流となる「被爆体験の継承」という理念に着目し、1960年代後半以降に広島市行政が実施した継承の取り組みについて検討した。広島市行政は、原子爆弾による惨禍の経験を地域の集合的経験と捉えつつも、人類にとっての教訓という意味を見出した。そして、その継承を目指し、記録の作成と平和教育に取り組んだ。市行政による平和教育の実施は、教職員組合による平和教育へと派生し、教育という文脈で、被爆者は、体験の語り手という役割を求められることとなる。このような時代状況を背景として、一部の被爆者が、自身の体験の教訓的な意味を自覚し、それを語ることにイデオロギーを超えた人道主義的な立場を見出して、語り部活動を組織化していった。このように、語り部活動の組織化は、広島市行政が「原体験」に見出した意味を反映したものであった。つまり、語り部活動の組織化は、広島市行政や社会運動が「原体験」に見出した意味に対する被爆者の共鳴でもあったのである。また、逆に、組織化された語り部活動に対して、広島市行政も共鳴し、自ら語り部活動を実施したり、語り部活動全体のネットワークを創り出したりするなど、都市の重要な活動として推進していった。このように、語り部活動の形成と展開の過程は、原子爆弾による惨禍と苦しみの経験の意味をめぐって、広島市行政という制度と被爆者が、歴史的に、互いに反響し合ってきたことを示すものであった。言い換えれば、被爆者の立場を重視するようになった市行政に対して、被爆者の一部が共鳴し、体験を語り始めた。そして、語るようになった被爆者に対して、市行政もまた共鳴し、協調していったのである。
 第六章は、語り部となった被爆者を事例として、個々の被爆者の視点から、原子爆弾による惨禍や苦しみの体験とそれを語ることの意味をめぐる広島市行政という制度と被爆者の関係性を探った。市行政は、1980年代以降、被爆者が体験を語ることの意味として、被爆者が苦しみや憎しみを乗り越えて、平和や核兵器廃絶のために、人類に対する教訓として体験を語ってきたと主張してきた。このような市行政が提示する意味(制度的な意味)に対して、語り部活動に参加する個々の被爆者は、一方で共鳴していった。彼らは、制度的な意味にそれぞれのやり方で関わり、それを操作することで、自身の体験や苦しみの意味を定めたり、自身の思考や行動を練り上げていったりした。このことは、制度による意味に対して、体験者が必ずしも対立するわけではなく、共鳴し協調する側面を有することを示していた。しかし、他方で、語り部となった被爆者は、制度的な意味との間に齟齬やズレといった不協和音も抱えていた。彼らは、体験を語ることに意味を見出し、それゆえに制度的な意味に協調しつつも、なおも、制度的な意味とは異なる悔悟や怒りといった感情や昇華することのできない死者の存在を抱えていた。この点において、意味をめぐる制度と体験者の間には、協調だけではなく、齟齬やズレという対立も存在していたのである。つまり、市行政という制度と被爆者個人は、原子爆弾による惨禍や被爆者の経験の意味をめぐり、対立すれば協調もするという動的な関係、つまり協和音も不協和音も奏でる相互に響き合う関係にあった。

2.3. 全体の結論
以上のように、本論文は、広島市行政・日本政府・社会運動・被爆者をアクターとしながら、原子爆弾がもたらした惨禍の経験の意味をめぐる広島市行政という制度と被爆者という体験者の関係について探った。まず、第Ⅰ部で明らかにしたように、市行政という制度は、原子爆弾がもたらした惨禍や人びとの苦しみの意味を探求する過程で、日本政府や社会運動との関係性を変容しながら、被爆者の立場に接近していった。つまり、制度は、体験者に対して常に抑圧的な位置をとるのではなく、自らを変容し、体験者の立場に自らを重ね合わせていったのである。そして、体験者の立場に接近した制度が提示する意味に対して、体験者である被爆者もまた、一方で共鳴していった。本論文では、語り部活動を事例として、被爆者と市行政が歴史的に反響し合ってきたこと、そして市行政による意味に対して、被爆者個人が共鳴していったことを示した。しかし、両者の間の共鳴は、完全な協和音のようなものではなく、齟齬やズレといった不協和音を生み出してもいた。つまり、市行政という制度と被爆者という体験者は、原子爆弾による惨禍や被爆者の経験の意味をめぐり、対立すれば協調もするという、相互に響き合う関係にあったのである。


参照文献
Ashiwa, Yoshiko and David L. Wank, 2009, “Making Religion, Making the State in Modern China: an Introductory Essay,” Ashiwa, Yoshiko and David L. Wank eds., Making Religion Making the State, Stanford: Stanford University Press, 1-21.

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