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博士論文要旨

論文題目:メシアの救出 ―ヴァルター・ベンヤミンのメシアニズムをめぐる研究への一寄与―
著者:白井(南波) 亜希子 (SHIRAI(NAMBA), Akiko)
博士号取得年月日:2012年6月29日

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・問題関心の所在
本論文の主要課題は、ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)の歴史哲学的思索を特徴づけているメシアニズムに光をあて、その特質を浮かび上がらせることである。<ベンヤミンのメシアニズムがいかなる特質を持つものであったか>という問いをめぐっては、これまでしばしば、それに多大な影響を与えたと目される様々な要素を指摘することで答えに代えようと試みられてきた。しかし、ベンヤミンに影響を与えたと思しき思想潮流や人物や書物をいくら列挙しても、ベンヤミンがほかでもないそれらに惹きつけられた内在的理由が推し量られず、彼がそれらから汲み取った諸要素を自家薬籠中のものとしていった道筋も究明されないのであれば、籠で水を汲もうとするようなものである。また、ベンヤミンの記述が他の誰それという論者の記述と類似しているとか、類似していないなどということは、ベンヤミンの思想を理解するための補助手段とはなりうるが、その理解の妥当性を主張するための十分な根拠とはなりえない。ベンヤミンのメシアニズム的発想がいかにして芽吹き、どのように伸展していったかを跡付ける作業にとって、真のよりどころは、彼自身が遺したテクスト以外のどこにも見出されえない。
しかしながら、そもそも、メシアニズムというテーマに焦点を絞って複数のテクストが横断的に検討された先行研究は多いとはいえない。しかも、それらにしばしば見受けられるのは、ベンヤミンの記述の意味を説明しようとする際、何かと言えば<伝統的なユダヤ教的メシアニズムの教義ではかくかくしかじかだ>と注解を加えることで問題を解決しようとする、いささか安易な傾向である。しかし筆者は、こうした手法によっては、ベンヤミンのメシアニズムが持つ射程の広さを十分に捉えることができないと考える。
本論文は、こうした問題意識から出発し、ベンヤミンの複数のテクストを検討する作業を通じて彼のメシアニズムの解明に寄与せんとするものである。具体的目標としては、大別すると三つの論点について、最終的に一定の説得力を有する解釈を得ることが目指される。第一の論点は、ベンヤミンの考える救済とは何(どのような状態)から何(誰)を救済するものであるか、そしてその救済はわれわれの世界にいかなる変化をもたらすと確信されているかである。また第二に、その救済はいつどのようにして訪れると考えられているかが問われる。そして最後に、ベンヤミンの考える幸福とは、また希望とはいかなるものかが、第三の論点となる。ただし、この三つの論点はその本性上きわめて複雑に絡み合っているので、本論文中においても、それらを切り離して順に検討するのではなく、一体のものとして各章で繰り返し俎上に載せ、最終章において概括するという方法が採られる。

・序章
序章では、前半部において本論文の課題および方法について説明を行ったうえで、後半部において、本論文の議論全体の出発点としてベンヤミンの博士論文『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(1919年成立、1920年刊行)を取り上げる。
ベンヤミンはこの論文において、ドイツの初期ロマン主義者たち(主にフリードリヒ・シュレーゲルとノヴァーリス)の芸術批評概念を分析し、それは彼らの反省理論に依拠して構築されていると論じた。ベンヤミンによれば、初期ロマン主義的反省理論の画期的特徴は、有限的自我が己の限界を次々に乗り越え、反省の器とも呼ぶべき反省媒質である絶対的なものへと自己を解放してゆく過程として、反省が把握されている点にある。そして、この認識論的図式を芸術理解に導入した場合、個々の芸術作品が有限的自我(個物)に相当し、芸術という理念が絶対的なものに相当する。ベンヤミンは、こうした対応関係に基づき、初期ロマン主義的芸術批評概念の意味を芸術作品による反省的自己認識と規定する。
そしてベンヤミンは、初期ロマン主義者たちの歴史哲学も同じ認識論的図式に依拠していたと考え、その本質を「ロマン主義的メシアニズム」と名付けたのだった。ベンヤミンは、この博士論文の中では「ロマン主義的メシアニズム」について本格的に議論を展開してない。しかし、彼が考えていた事柄を推し量ることは可能である。歴史における個々の出来事や個々の集団や個人の営みは、反省における個々の有限的自我、批評における個々の作品に相当しよう。そして歴史過程は、空間的・時間的に切り離されてあった世界内の万物やすべての出来事同士が実は連関しあっており、本質的には一体のものであるという認識の明澄さの高まりそれ自体として、理解されるはずである。注目すべきは、第一に、このような歴史理解に、歴史を点から点への単線的進行と見なす進歩主義に対する批判が含まれている点である。そして第二には、このような立場を「メシアニズム」と呼ぶベンヤミンの語法が通常の語法とかけ離れているということも、見逃すことはできない。

・第一章
第一章では、序章で取り上げたロマン派論と隔絶した地点にではなく、ロマン派論の着想を進化させた地点に「暴力批判論」を位置付け、そうすることによって彼の「神的暴力」なる概念を従来の解釈とは異なる仕方で把握することが試みられる。
ベンヤミンは、「暴力批判論」において、法秩序が持つ暴力的本質を鋭く指摘した。彼によれば、「神話的暴力」を祖形とする法は、生死を支配する運命的暴力としてあらゆるものを服従させ、そうすることでますます自らの特権的地位を強化する、という本質を有する。つまり法は、人間の生を守るために機能するのではなく、根本的に自己目的的であり、人間の生を自己顕示の道具的手段に貶める暴力性を持っているというのである。そしてベンヤミンは、そのような法の暴力から人間の生を救い出すであろう「神的暴力」の概念を提示し、法秩序を打倒する――つまるところ国家権力を打倒する革命の必然性を説く。
 ベンヤミンの「神的暴力」概念は、テロルを容認する危険思想とも受けとられかねない側面をたしかに持っており、この点が従来の研究が「神的暴力」概念を持て余す原因の一つであった。しかし、ロマン派論において示されていた媒質という概念を借り受けて改めて解釈するならば、世界は「神的暴力」がそこにおいて顕現する媒質であり、歴史上の個人や個々の集団、個々の出来事すべてに媒介項の役割を果たし得る可能性が備わっているのだ、と見ることができる。それら媒介項が法の暴力に囚われている以上、「神的暴力」は、現世の法秩序を打ち砕く破壊的暴力として現われざるをえない。だが、それが顕現するということは同時に、われわれに潜勢的にそなわっている可能性の開花でもある。以上のように理解するならば、「神的暴力」概念を、既存の法秩序を排撃すべしという意図で持ち出された過激な概念と見なす短絡的解釈を退けることができる。

・第二章
第二章では、ベンヤミンの1920年前後におけるメシアニズム的思考の基本構図が凝縮されたかたちで示されている、「神学的‐政治的断章」を取り上げる。その基本構図が持つ時間論的構造は、一方ではすでにロマン派論において論じられていた反省理論のそれと相通ずるものであり、他方では後の「歴史の概念について」で展開される歴史主義批判へと結びついてゆくものである。なお、この時間論的構造の特異性を説明するために、本章では、エルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』、ヤーコプ・タウベスの『パウロの政治神学』、ジョルジョ・アガンベンの『残りの時』が一部参照される。
「神学的‐政治的断章」の要点は、以下の通りである。第一に、ベンヤミンの考える神の国は、地上の国が遠い未来に改良され終わって変化したところの状態、すなわち歴史の目標を指すものではない。第二に、地上的なもの一切によるますますの幸福追求という営為は、それ自体としては没落という定めをまぬがれえないものであるが、しかし同時にメシア的な力の緊張をいや増すことに寄与しうる。そして、ここから導き出されるのが、幸福とは実は移ろいすぎてゆく自然のリズム以外のなにものでもない、という大胆な命題である。第三に、こうした逆説的状況をわが身に引き受けるニヒリズムによって移ろいやすさを追い求めることが、世界政治の使命であるとベンヤミンは主張する。
この章で筆者は、詳細な読解により、この断片における神政政治批判の本義が進歩主義的世界観(近代科学という看板を掲げ、客観的必然性が自動的に歴史を最終段階まで発展させてくれると吹聴するような世界観)に対する拒絶であることを示す。また筆者は、ベンヤミンの考える幸福とは、そして幸福を追い求めるとは何の謂いであるかを、以下のごとく明らかにする。その場合の幸福とは自然万物の運動を貫いている律動の謂いであり、幸福を追い求めるとは、移ろいやすいこの世のすべてを原理的に規定しているそうした律動に、耳を澄ませることである。そしてそれは同時に、滅びの定めが持つ真義を認識し、この世においてメシア的な力の徴を見出そうとする、われわれにとって唯一可能な方法に他ならない。メシアとは、少なくとも世俗的秩序との関係においてみるかぎり、メシア的な力と同義であり、それは、一方では歴史を終わらせる一回的で超越的な力である。しかし他方でそれは、滅びの定めという形で、歴史の隅々にまで浸透している内在的な力でもある。だがしかし、そのような力の働きないし律動としての幸福を聴き取ることはいかにして可能となるのかが、この断片では明確に論じられていないことも、筆者は指摘する。

・第三章
第三章では「ゲーテの『親和力』」を取り上げ、ベンヤミンの「神話的自然」観と、救済や希望といったテーマについての彼の叙述を検討する。
ベンヤミンは、ゲーテの長篇小説『親和力』を吟味し、まずはその事象内実なる「神話的なもの」を析出する。「神話的なもの」とは作中で登場人物たちを翻弄する人知を超えた力のことであり、その現れは、一方では法的関係として彼らを拘束する婚姻のうちに見出され、他方では自然のうちに見出される。ベンヤミンの定義では、こうした「神話的なもの」の呪縛圏内にただ留まり続けるということは、一方的に罪をおし着せられるがままになるということであり、こうした運命から抜け出すためには死を賭した決断が必要となる。ここまでのベンヤミンの議論は、かつて「暴力批判論」において示されていた救済のプログラム、すなわち、人間の生がそれを囲繞する運命的暴力から抜け出すためには、これと正面から対決する決定的契機が必要である、という二項対立図式と極めて近い。
しかし筆者は、この批評はその後ベンヤミンのメシアニズム的歴史哲学が飛躍的に伸展してゆくための、重要な転機となった作品であると強調したい。なぜならばこの批評の最終段では、さきに述べた二項対立図式に収まりきらない、きわめて重要な主張が展開されているからである。それは、決断することができずに「神話的なもの」の暴威によって破滅へと追い込まれてゆく『親和力』の主人公たちにもまた、窮極的希望がのこされている、というものである。このような第三の道が提示されたということは、「神学的‐政治的断章」において具体的には示されていなかった、幸福という理念に基づいて世俗的秩序を構築するために必要な具体的方法が、少なくとも一つ、示されたということにほかならない。つまり、決断によって運命的暴力との対決がなされるべきであるのみならず、そのような運命的暴力に膝を屈することによって何が見失われてしまうのかを正しく認識し、今は亡き者たちを想いの中で救済することが必要だと明らかにされたのである。

・第四章
第四章では、改めて法や暴力というテーマが見出される批評「フランツ・カフカ――没後十年を迎えて」を分析し、とくにそのなかに登場する<せむしの小人>というモティーフに着目する。なお本章では、いま述べたカフカ論の分析に先立つ予備作業として、ヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』と、ヤーコプが弟ヴィルヘルムとともに編んだ『ドイツ伝説集』とを参照し、それらにおける、侏儒やコーボルト(人家に住む小人)の存在規定が整理される。
ヤーコプ・グリムによれば、北欧神話における白い精霊と黒い精霊がキリスト教における天使と悪魔とに似ているのに対し、侏儒(Zwerg)は同じく北欧神話に出自を持ちながら、白とも黒とも、善とも悪ともつかぬ曖昧な存在であり、キリスト教の伝播によって居場所を失った存在である。またグリム兄弟によれば、コーボルトは幽霊であるともされており、強者によって通常の生活圏の外へ締め出された人間でありうるという点で、人間でありながら人間ではない、奇妙な存在である。
さて、ベンヤミンのカフカ論においては、<せむしの小人>が、忘却によって姿形を不恰好に歪められてしまった者たちの原像として登場する。では、何が忘れられているというのか。ベンヤミンの解釈によれば、カフカの小説の哀れな登場人物たちがしばしばそうであるように、に知らず知らずのうちに不文律を犯して罪を宣告されるというのは、偶然の不幸ではない。それは、太古の掟が持っていた本質的な意味に照らせば、必然的運命なのである。書かれざる掟はつねに、自らに背く者を生み出しながら姿を現し、その者を自らの支配下へと縛りつけることによってその力を誇示する。ところが、こうした掟の前に被告人として立たされる人間は、自分がそのような暴力的運命にすでに捕らえられているという自覚がない。したがって、そこから抜け出すためには何が必要であるかも知らず、またそのような状態に甘んじることによって自分がどのような可能性を失っているかも忘れているのである。この章では、こうした忘却をめぐってベンヤミンが展開している議論を丁寧に跡付け、また侏儒やコーボルトが担わされているイメージについて整理することによって、破滅してゆく希望なき者たちのための救済はいかにして可能であるのかという問題について、最大限の解決のヒントを獲得することが目指される。

・終章
終章では、第四章の議論をうけ、『1900年頃のベルリンの幼年時代』のなかから<せむしの小人>が再登場する部分を取り出して検討し、さらに、第一テーゼにおいて<侏儒>が重要な役割を果たしている「歴史の概念について」に論及する。そしてその作業を通じて、希望なき者たちのための救済はいかにして可能であるのかという問いをめぐるベンヤミンの考究が、彼の晩年にどのような地点へ辿りついたのかが、見届けられる。
『幼年時代』末尾におかれた随筆「せむしの小人」でもやはり、小人は時の流れの中で忘れ去られ、姿を歪められてゆく存在として描かれる。その限りにおいて小人は、在りしものすべての代表である。小人があまりにも深く忘却の内に囚われた存在であるため、われわれは、容易には見ることができない。また別様に表現すれば、小人とは完全なる記憶の化身でもある。ベンヤミンは、死に臨む者には、小人が持っているわれわれの一生分の記憶が見えるのだという。しかし、死の間際にあらゆる記憶が甦るのだとしても、そのときまでは、われわれには刻々と記憶を失ってゆくことをとめられない。では、メシアは一体いつ到来するのか。第二章で論じたように、メシアが歴史を切断する超越的力であるのみならず、歴史のうちに――それを終わりへと導きつつ――内在している力でもあるとすれば、この文脈においては、そのメシア的力はどのように作用すると考えられるのか。
この問いを解決するための仮説として筆者は、<せむしの小人>こそが、忘却のなかで矮小化され、真の姿を見失われてしまったメシアなのではないかという仮説を提出する。われわれの忘却によって歪んだ姿のなってしまった小人=メシアは、忘却という過誤が正されるときにははじめて、本来の姿でもって現れる――つまりアガンベン的な言い回しを用いるならば、メシアの到来が完了するのである。
「歴史の概念について」第一テーゼには、人形(=史的唯物論)を密かに操り勝利に導く侏儒(=神学)、という比喩が示されている。<侏儒>という比喩が<せむしの小人>というモティーフのそれと重なり合う意味を込めて用いられているとすれば、それは、いかがわしいイデオロギーや内容空虚な形而上学といったような、われわれが捨て去るべき何かを指しているとは考えられない。むしろ<侏儒>とは、われわれがその本質を見失ってしまったことにより歪められてしまったもの、そして、われわれが自分たちを取り巻いている運命的暴力を直視せずにいるがために、その罪の代償を支払わされているものだと考えられる。そして、ここまでの議論に基づいて<侏儒>=神学が意味するものをさらに明確に同定するならば、それは、移ろいすぎていったすべてのものたちであり、彼らに残された窮極的な希望である。そしてその希望とは、現在を生きるわれわれによって抱かれる強い想いのなかで――つまり「あのものたちにも、別の可能性がありえたかもしれない」という想いのなかで、救われることである。したがって史的唯物論が自身の内で神学を働かせるとは、まずは忘却によって蔑ろにされ歪められてきた過去に想念のなかで本来の可能性を取り戻させ、自身の駆動力とする、という意味にほかならない。
おそらくベンヤミンにとっては、逆説的にも、われわれがいつかどこかでメシアによって救済されることが問題なのではなく、われわれがメシアを、<せむしの小人>を、侏儒を、いまここで救済することが問題だったのである。われわれの救いとなるべきものが原型をとどめぬほどに歪められ、それゆえ力を封じられているのであるとしたら、ただ手をこまぬいて待っていても誰も救われはしない。否、それどころか事態は悪化するばかりだろう。そうであるならば、何よりもまずわれわれ自身が、われわれの救いとなるべきものを自らの胸に取り戻さねばならない。

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