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博士論文要旨

論文題目:ヘーゲルの判断論とその人間論的解釈 —ヘーゲルの「真理の学問的認識」に関する一研究—
著者:赤石 憲昭 (AKAISHI, Noriaki)
博士号取得年月日:2012年6月29日

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【本論文の課題と視角】
 本研究は、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)の判断論を主たる考察対象として、その特異な議論を『論理学』に即して徹底的に解明するとともに、その抽象的な議論の現実的な意味をわれわれ「人間」に即して具体化することを試み、これらの作業により、ヘーゲルが生涯の哲学的課題とした「真理の学問的認識」の具体的解明にも寄与しようとするものである。
 ヘーゲルの判断論は非常に独特である。それは、判断の基本的な捉え方からしてそうであり、一般に「AはBである」と定式化される判断を、形式論理学は「二つの概念の結合」と捉えるのに対し、ヘーゲルはそれを「一つの概念の根源的分割」と捉える。そもそもヘーゲルにおいては、判断の基礎となる概念からしてその把握の仕方が根本的に異なっており、形式論理学が概念を、諸規定が捨象された「抽象的普遍性」として捉えるのに対し、ヘーゲルはそれを普遍性、特殊性、個別性という三契機の統一である「具体的普遍性」として捉える。判断は、本来あるべきその三契機の統一が「個別的なものは普遍的なものである」という形で分裂してしまったものと解釈され、そして判断論全体の課題は、その分裂した統一を、概念自らの自己規定によって回復することにあるとされるのである。判断の類型についてみると、ヘーゲルもカントの判断表を踏襲して四つのグループそれぞれ三つの計十二の判断規定を扱うのであるが、それらを単に分類・整理するにとどまらず、判断諸規定を概念の自己規定の進展段階を示すものと位置づけ、概念を十全に表現しうるのかという観点から判断規定そのものの真理性を吟味し、序列化する。しかも、ヘーゲルによれば、判断は、たんに主観的な認識の作用ではなく、「あらゆる事物は判断である」と言われるように、客観的な性格を持つものとされるのである。
 このような独特な性格を持つヘーゲルの判断論は、その評価以前に、まずもって、それが一体どのようなものなのかが明らかにされるべき考察対象である。実際、ヘーゲルの判断論は、ヘーゲル論理学の他の部分と比べても比較的多くの研究がなされ、様々な解釈が提示されてきた。例えば、判断論の議論をキリスト教の論理を示したものと捉える解釈、認識発展の論理を示したものと捉える解釈、自己連関の論理を示したものと捉える解釈、コミュニケーション的自由の論理を示したものと捉える解釈等である。しかし、このように多様な解釈が提示されているにもかかわらず、ヘーゲル判断論の議論を、ヘーゲルの自己理解に即して解釈しようとするまとまった研究はまだ見られない。上述のように、ヘーゲルの判断論は、概念が自己規定によって三契機の統一体としての自らの本来の姿を回復していく過程を示すものであり、そのような形で、概念とは何かを真に明らかにしようとするものである。したがって、判断論研究においては、何よりもまず、この概念の解明が根本に置かれなければならないのであるが、これらの解釈は、その出発点において、ヘーゲルのそもそもの意図からずれてしまっている。その上、判断論の議論の展開を、『論理学』に即してテキスト内在的に、厳密かつ詳細にたどった研究も今のところまだ見られない。また、昨今のヘーゲル哲学研究においては講義録研究が盛んとなっており、論理学について言えば、1817年の講義録に続いて、1831年の講義録が公刊された。この1831年講義は、われわれが利用している現行の『エンツュクロペディー』(第3版)をテキストとした唯一の講義であり、また、ヘーゲルの最晩年の理解を知る上でも非常に重要なものであるが、現在の論理学研究ではまだあまり活用されておらず、特に判断論研究においてはまったく利用されていない。以上のような研究状況は、そもそもヘーゲル判断論に関して基礎的な研究がいまだに不十分であることを示すものであり、これは、ヘーゲルの判断論がどのようなものであるのかということがいまだに明らかにされていないことを意味する。そこで本研究では、ヘーゲル判断論について、ヘーゲルの自己理解に即した内在的な解明を行うことを第一の課題とし、このために、『エンツュクロペディー』や1831年の講義録の叙述も援用しながら、主要テキストである『論理学』の該当箇所の全文を取り上げ、その逐条的な解釈を試みた。この作業により、ヘーゲル判断論の理解のための基礎を提供することが、その目指すところである。
 しかし、本研究は、ヘーゲル判断論のこのようなテキスト内在的な解明で立ち止まることはできなかった。というのも、このような解明によっては、ヘーゲル判断論の議論、すなわち、判断を概念が自己規定によって三契機の統一体という本来の姿を、十二の判断規定に拠りながら回復していく過程と捉えることの具体的、現実的意味を明瞭にすることはできないからである。たしかに、ヘーゲル自身、論理学は純粋な思考規定を対象とするものだと述べており、具体的な意味内容をそこに読み込むべきではないとする主張にも一理ある。しかし、その一方で、ヘーゲル自身が、自らの論理学を説明する際に、現実的な具体例を随所で提示しており、また、哲学が経験や現実と一致することを「哲学の真理の少なくとも外的な試金石」であると明言してもいるのである。そもそも判断を、単なる主観的な意識作用ではなく、客観的な事物の存在を示すものとして捉えるところにヘーゲル判断論の大きな特色があるのであった。テキストに書かれたことをただ単に解釈することのみならず、それを現実に適用したり、さらに展開させたりすることも哲学研究の重要な仕事である。事実、先にも挙げたような様々な具体的な解釈が実際に提示されているのである。とはいえ、これまで提示された具体的解釈はどれも、ヘーゲル判断論の論理の忠実な具体化とはなっていないという欠陥を持っている。このことは、上述したように、そもそもヘーゲル判断論の論理がいまだ未解明であることにも起因するのである。これまでの研究では、一つの具体的概念に即して、それが十二の判断規定によって示される諸段階を経てどのように自己を規定・回復していくのかということを示したものはなく、このことは、ヘーゲル判断論全体の論理展開の現実的意味がいまだ明らかにされていないことを意味するものである。もちろん、これは、当のヘーゲル自身が、一貫した事例で判断論全体の論理展開を説明しなかったことにも原因がある。ヘーゲルの判断論は、あくまでも「一つの概念」が、自己を規定し、回復する十二の過程を示すものであり、その内実を具体的に理解するためには、ぜひとも「一つの事例」に基づいて、それを説明していかなければならないのであるが、それを行うのは、残された研究者の役目である。そこで本研究では、ヘーゲル判断論の具体的内実を明らかにすべく、ヘーゲル判断論全体を一貫した事例で解釈することを第二の課題とし、そのために、ヘーゲルが度々、概念および判断において具体例として挙げている「人間」の事例に基づいて、十二の判断規定を一貫して解釈することを試みる。この作業により、十二の判断規定に基づく概念の自己規定の進展によって三契機の統一体としての概念を回復するという特異な性格を持つヘーゲル判断論の論理を、その論理性を維持しながら、具体的な理解を得られるようにすることが、その目指すところである。
 ヘーゲル判断論研究はさらに、ヘーゲル哲学研究全体にとっても重要な意味を持つ。ヘーゲルが自らの哲学的課題として生涯追求したものは何であったか——それは、「真理の学問的認識」である。この「真理の学問的認識」こそ、ヘーゲルを突き動かした根源、ヘーゲル哲学のアルファでありオメガである。したがって、この「真理の学問的認識」とはどのようなものなのかを明らかにすることは、ヘーゲル哲学研究において第一級の価値を持つと言うことができる。判断論の研究は、この「真理の学問的認識」の解明に特権的な地位を持つ。というのも、「学問的認識」は、ヘーゲルによって「概念的把握」とも言い換えられ、普遍性、特殊性、個別性の統一体として示される独特の「概念」によって対象、すなわち、「真理」を捉えることであるとされるのだが、この「概念」の何たるかを詳細に規定するものが「判断」だからである。したがって、判断論の解明は、「学問的認識」の解明にとってもきわめて重要な意味を持つのである。また、「判断」は、一般的にも「真理」が問題とされる場所である。「判断」に議論を定位することによって、通常のわれわれの真理把握と対比することができ、これにより、ヘーゲルの真理把握の特質を最も明瞭に浮かび上がらせることができるのである。本研究は、このように判断論を解明することによって、ヘーゲルの生涯の哲学的課題であった「真理の学問的認識」の解明にも寄与しようとするもので、これが本研究の第三の課題である。

【本研究の構成】
 本研究は、五部構成となっている。第一部では、ヘーゲルの生涯の哲学的課題であった「真理の学問的認識」とはどのようなものかを概観し、本研究の主題である判断論の考察との関係を示している。第一章では、「真理の学問的認識」の特質を明らかにすべく、「真理の学問的認識」を「真理」と「学問的認識」とに分けて考察することからはじめ、それが真理である「神」に対する「概念的把握」という特殊な意識の仕方であり、従来の哲学における真理把握の批判の上に立ち、「対象の運動そのものを表現するもの」であることを明らかにする。その運動の論理構造の要諦を示したものが論理学における「概念」であり、第二章では、この「概念」について『エンツュクロペディー』の規定に基づいて考察している。ヘーゲルにおける「概念」は、形式論理学におけるように諸規定を捨象して得られる「抽象的普遍性」ではなく、普遍性、特殊性、個別性の三契機の不可分の統一体である「具体的普遍性」として示されるのであるが、そこには父、子、聖霊からなるキリスト教の三位一体論も表現されている。しかし、ヘーゲルの議論は、「神」の把握に尽きるものではない。第三章では、ヘーゲル自身が「真理」や「概念」の把握を「人間」に即しても示していることを確認し、ヘーゲルの「真理の学問的認識」を「人間」に即して解釈する可能性を示す。しかし、「概念」が何であるかが示されるのは「判断」においてであり、こうして本研究の焦点は、判断論の考察に当てられることになる。
 第二部では、先行研究の検討を行っている。第四章では、ヘーゲル論理学研究のあり方そのものを取り上げる。ヘーゲル論理学研究は多くの問題を抱えているのであるが、その中でも、特に日本のヘーゲル論理学研究において先行研究がなかなか参照されない現状、および、文献学的研究と現実志向的な研究との分裂状況を取り上げて本研究を位置づけた。第五章では、本研究が扱う「真理」、「概念」、「判断論」、「人間論的解釈」に即して国内外の先行研究との関係を示した。
 第三部では、ヘーゲルの判断論がどのようなものであるかを明らかにすべく、ヘーゲルの自己理解に即したテキスト内在的な解釈を試みる。第六章では、その導入として、一般的な判断の議論と対比させながら、ヘーゲルの判断論の基本的性格を明らかにし、第七章では、その判断諸規定について、『エンツュクロペディー』の規定をもとに、新資料である1831年の論理学講義も援用して考察する。この二つの章で、ヘーゲル判断論全体の概要を確認した後、第八章では、『論理学』に即して、ヘーゲルの自己理解に基づく徹底してテキスト内在的な解釈を行っている。
 第四部では、判断論の中でも「仮言判断」を中心とした考察が収められている。ヘーゲルの仮言判断の具体例が1831年の講義録によって初めて示されたのであるが、それはこれまでの研究者が考えていたものとは異なるものであった。第九章では、この仮言判断の具体例をめぐる先行研究を整理するとともに、正しい具体例把握によって仮言判断のテキストがどのように解釈されるのかを示している。第十章では、この仮言判断の正しい把握のもとで、仮言判断が属する必然性の判断のグループ全体がどのように解釈されるのかを示した。第十一章では、ヘーゲルが挙げる具体例に即して、判断論全体をわかりやすく解説することを試みた。
 第五部では、ヘーゲル判断論の「人間」に即した解釈を試みる。第十二章では、「人間論的解釈」の予備的考察として、1831年の論理学講義から、ヘーゲルの「人間」に関する記述を取り上げて検討している。この講義録を見ると、ヘーゲル自身が、自らの論理学の抽象的な思考規定を説明する際に、随所で「人間」を例に出して説明を行っていることがわかる。第十三章では、ヘーゲルが「概念」の具体例として「自我」を挙げていることに着目して、とくに『法哲学綱要』やその講義録の叙述を手がかりにして、「概念」の人間論的解釈を行っている。そして第十四章では、それを「判断」の議論にまで応用して解釈を行う。判断論の人間論的解釈によって得られる結論は、人間の、そのあるべき姿の実現であり、これは、当然のことながら、概念論の人間論的解釈によって得られた結論と一致するのであるが、それが12の判断諸規定と関係づけられることで、その過程が詳細に規定されるのである。
 また、ヘーゲルの具体的な人間把握の一例として、ヘーゲルの男女観を考察した論考を参考のため補論とした。

 真理の学問的認識が、対象そのものの運動を示すものである時、それを人間に適用するならば、それは必然的に人間自身の運動を示すものとなる。人間が人間であるためには、それこそ、神がこの世の中に姿を現し、その力を示さなければならないように、この世の中に姿を現さなければならないということである。しかも、その最初に現れた直接的な姿においてそれが完成されているわけではなく、自らその本来あるべき姿へと自己を形成しなければならない。そのあるべき姿との一致がヘーゲルにおいては厳密な意味で「真理」と呼ばれるわけであるが、この文脈で言えば、これがまさに、人間が人間となることなのである。
 生まれたばかりの赤ん坊は、もちろん、生物学的に見れば、「人間」と捉えられる。しかし、人間の本性たる理性的な存在へと形成されていないという点から見れば、それはまだ「潜在的に」人間であるに過ぎないのであり、「顕在的に」も人間たるべく、自らを形成していかなければならないものである。もし形式論理学的な、「抽象的普遍性」によって捉えられるならば、このような「子ども」と「大人」の質的差異も同じ「人間」として捨象されてしまうだろう。しかし、ヘーゲルは、普遍性、特殊性、個別性の三契機の統一体としての「概念」を構想し、概念自体を生成的に形成されるものとして捉えることで、この両者の違いを、「単に規定的に存在しているにすぎないあり方と」と「本性としての普遍性が現実的に規定されたあり方」として明確に区別する。この論理的表現が、「直接的個別性」と「概念による個別性」であり、この区別は、先行研究においてはあまり取り上げられないのであるが、ヘーゲル自身はことのほか強調したものであり、この重要性はその現実的意味を考えれば明らかである。しかし、ヘーゲルはまた、この両者の区別を固定的に捉えるのではない。「子ども」も潜在的には「人間」なのであり、「大人」になっていくわけである。これはもちろん、周りからの教育などに助けられてのことではあるが、最終的にその努力を行うのは自分自身であり、この過程は、対象自身の主体的な営みとしてある。また、理性を形成したはずの大人であっても、道を踏み外して盗人になってしまうことがあるように、ともすると我々はいつでも後戻りしてしまうものであり、それは個人の主体的努力によって継続されなければならないものなのである。ヘーゲルの主体的真理把握については、これまでの研究でもその重要性は指摘されているのだが、その一つの具体的意味をここに見出すことができるだろう。
 ヘーゲルは、「判断」において、この生成過程を四つのグループそれぞれ三つの十二の判断諸規定に位置づけながら詳細に展開する。この四つのグループは、「全く感覚的な普遍性、直接性における普遍性」、「反省あるいは総数性における普遍性」、「類としての普遍性」、「概念としての普遍性」という普遍性の特質によって区分され、「普遍性」と一口に言っても、ヘーゲルは大きくこのような生成過程を示すのである。この過程を「人間」に即せば、「まだ自らの本性である理性が潜在的で感覚的な段階」、「自らの本性を反省しはじめ、理性を形成していく段階」、「自らの本性を自覚し、理性的となった段階」、「その理性的あり方を現実的に行為として実現させる段階」への進展と捉えることができ、厳密には、各段階内でもその進展が見られ、その最後の段階も、単にその実現のみならず、その自覚の有無が問われ、その自覚的実現の状態が、その判断における完成状態、すなわち、「真理」とされるのである。このように、「概念」において捉えられた生成構造が、この「判断」においてより詳細に展開されるのであるが、この内在的な歩みは、「人間」という事例に基づき、一貫した解釈を行うことによってはじめて具体化され、合理的に理解可能なものとなるのである。しかし、事物の発展をあくまでも「具体的普遍から具体的普遍へ」とのみ理解する認識論的な解釈においては、具体的普遍の生成過程を示したこのような存在論的な発展段階の区別は、捨象されてしまうのである。そして、自己の本性への「反省」や「自覚」が進展の契機となっていることからもわかるように、存在の発展には「認識」が不可欠なのであり、存在論的側面と認識論的側面を統一して捉えなければならないということも、このように「人間」に即すことによってはっきりとわかるのである。

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