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博士論文要旨

論文題目:日本近世における「闇斎学」の受容と展開
著者:綱川 歩美 (TSUNAKAWA, Ayumi)
博士号取得年月日:2012年3月23日

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1. 問題意識
 本研究は、十七世紀後半~十八世紀の時代に、「闇斎学」が近世社会に受容されていく過程を、受け手となる主体の思想形成に即して明らかにするものである。ここでいう「闇斎学」とは山崎闇斎(1618~1682)を創始者とする、崎門儒学と垂加神道との範囲を合わせた学問・思想の総称として用いる。
 本論で対象とするのは闇斎その人ではなく、いわゆる「泰平の世」と呼ばれる時代に、「闇斎学」の影響下で共鳴と決心をもって思想的選択をしていった人々である。闇斎の思想の独創性ではなく、再生産される個々のあり方に関心を持つ。
 かつて、歴史の大きな変化に焦点を当て、変革に注がれた意志と情熱を分析しようとする思想史研究が意味を持っていた。そこでは近世思想のジャンルや流派ごとに論じられ、その変遷が構造論的に取り上げられてきた。すなわち、仏教やキリスト教、儒学(各流派)、国学などの各思想が、どのように信念をもって立ち上がり、なにを主張して、時代の主役の座を入れ替えていったかが重要な研究課題であった。当然ながら、変革の鍵となる思想的特徴、発想の新しさが論点となった。
 そして山崎闇斎も、こうした研究動向の中では、十七世紀の著名な思想家のひとりとして取り上げられていた。時代と思想が一体的に考えられ、思想家の言葉は、そのまま時代を代表する思想であった。いわゆる頂点的思想家の著述(テキスト)が、時代の思想の最先端をいく言説のひとつとして研究対象とされてきたのである。
 以上のような思想史の動向と比較したときに、本論が取り上げる「闇斎学」の受容者たちは、主たる研究対象にはなりにくい。彼らは闇斎の独自性を継承・拡散する存在とみられていたからである。闇斎の思想には画期性を認めても、それに続くのは単なる再生産か、亜流化とされるからである。
 しかし、どんな思想も単独の個人にあるだけては、社会的な意味は少ない。時代を動かすのも、ひとつの先鋭的な理念だけが作用するわけではなく、ゆるやかだが大勢の意志と行動が背景にあってのことである。人々が思想や信念を受け取り、咀嚼して行動の指針としていく過程の総体こそが、社会的な影響力の根拠として顧みられるべきである。思想が影響力を持ち、また失っていく過程も、主体の思想形成から論じることでリアリティを持つはずである。その場合、おそらく主体において思想が再生産される過程は、単純な思想の複製などではなく、異化を含みながら増幅されるものであろう。主体と思想との動的な関わり方が想定できるはずで、そうでなければ、思想史の叙述はあまりにも単純化されることになろう。闇斎ではなく「闇斎学」の受け手を論じる意味もここにある。
 本論では、「闇斎学」を受け取り(受容)、咀嚼して(享受)、自らの信念として発信する(展開)という、主体における段階の全体を「受容史」として、思想の社会的機能や存在形態を考察する視角とする。それは一個の思想主体を通じて見えてくる、近世社会像を叙述することにもなるはずである。

2. 先行研究の整理と課題の抽出
 冒頭にものべたように、ここではでは儒学と神道とを含めた山崎闇斎の学問の全体の意味で「闇斎学」という言葉を使用する。というのも、本論で中心的に論じる跡部良顕は、儒学は崎門、神道は垂加というようには区別していないからである。よって良顕の認識を基準に、両方の学問分野に関わる場合は、「闇斎学」の表記を使い、分析概念としてそれぞれを個別に指すときは、崎門儒学、垂加神道を用いることとする。あくまでも、対象とする受容者の認識を重視したい。
 これまでの「闇斎学」に関する研究は、崎門儒学と垂加神道という二つの方面でそれぞれに蓄積がなされてきた。戦前、戦後を通じてその量は、決して少ない。そしてひとことで言えば、崎門儒学も垂加神道も、良くも悪しくも時代の関心に強く引きつけられてきた研究領域であった。
 近代の最も早い段階の明治期では、国体についての議論や尊王思想をその教説の中に含むため、政治的な意図からそもそも学問的研究対象の範囲から外れたところにあった。
 その後、一九三〇年代以降の垂加神道研究の主流は、尊王思想や国体喧伝の源流を闇斎にもとめ、その思想内容から幕府への対抗意識があったことを強調する。儒学方面からも、闇斎の突出した人格を根拠に歴史上の影響力を推察し、結果として明治維新へといたる、社会全体を巻き込んだ事件・運動を誘引したと積極的な因果づけを行う。とりわけこの時期の研究は皇国史観の影響を受け、「維新勤皇説」の起源を近世の崎門儒学や垂加神道に求め、評価を加える傾向がきわめて強い。現実の政治に要請された皇国主義に応じるかたちで、双方の研究の目的がそこへ集中していたことは否めない。
 ところが戦後になると、一転して研究は戦前の華々しさを失っていった。自明であった研究上の大きな目的を失い、また皇国史観への反動と忌避意識もあって、とりわけ神道方面の研究は低調であった。それでも徐々に、戦前の政治的意図との癒着を反省して、あらためて神道思想の内容分析を精緻行い、その本質を明らかにしようとする思想研究が行われている。神道の祭祀や秘伝の持つ意味を明らかにする研究は、神道史研究においても重要である。だが本質論への偏向は、かえって超歴史的な理念的なものに終始してしまうようにも思う。
 崎門儒学については、戦後に近世の支配思想をめぐる論争の過程で、儒学思想のひとつとして取り上げられた。論争自体は、一九八〇年代の半ばまで続いた、朱子学の江戸幕府政権への適合・不適合論がそれである。
 発端となった丸山眞男の行論は、十七世紀段階での朱子学の政治的位置の確立を前提にしていた。その朱子学を体現していた内の一つが崎門儒学で、荻生徂徠の古学によって塗り替えられる思想であった。丸山は近世における「近代的萌芽」を徂徠の思惟様式に求めるため、崎門儒学は、乗り越えられるべき徳川政権の封建教学そのものとされたのである。
 一方、特殊中国的な朱子学の日本近世への影響を限定的とする不適合をとる側においても、崎門儒学は本来の朱子学が持つ変革性を変質させて受容されたことによって、かえって徳川政権を支える思想として機能したとされる。そして権力を下支えするような思想としての崎門は、体制変革の能動的思想とはなりえなかったとする。
 いずれにしても日本近世の体制教学をめぐる議論のなかでは、崎門儒学は克服されるべきもの、反動的なものとして位置づけられてきた。こうした立論は、日本の近代を捉え返す必要から、その前史としての近世とその思想の究明を研究目的としていた。そのため近世の思想は、近代を論じるための前提とはなったが、それ以上に独自の対象としての研究の深化は期待できなかった。
 このように「闇斎学」はそれぞれの次元で、時代の関心に強く牽引されてきた。「闇斎学」研究の趨勢それ自体が、時代を反映し現在につながる研究史となりえるともいえる。その一方で、思想の同時代的な分析のほうは十分に展開されてきたとはいえない。
 この点、H.オームスは、思想史研究において、歴史的な個々の物事をその時処に位置づけることを主張し、その法方でもって闇斎に接近した。思想的テクストの語る内容がどんなに普遍的話題であっても、その話題が向き合うのは歴史的文脈であるとし、テクストのもった同時代的な意味を観察することが必要になるとする。こうした視点を引き継いで、闇斎の門下の人々の蔵書形成や、書物出版、また神職としての諸活動など、受容者の活動を社会史的に位置づけ、思想性との関連をさぐる研究がなされていった。同時代性を重視した社会的文脈にもとづいて闇斎その人だけでなく、個々の思想主体や社会的関係に対しても蓄積されてきている。
 一方、個別具体的な議論ではなく、新たに近世思想を俯瞰する立場から朱子学(崎門儒学を含む)や垂加神道を位置づける研究もなされてきている。前田勉は、近世の四つの思想(兵学・朱子学・蘭学・国学)の特徴を抽出し、その対比の構図を描く。そこから、近世全体の思想的潮流をあきらかにするものである。こうした鳥瞰的な見取り図は、非常に刺激的で興味深い。しかしながら、その実態部分との整合性において疑問が残る。やはり、同時代的な視点で、思想史以外の分野の関心や成果を活かしつつ、実体と構図の隙間を埋めていく作業が必要だと考える。
 筆者は、そうした実体部分での思想のあり方にこだわりたい。そのために十七世紀から十八世紀への世紀転換の時期を中心に、とりわけ武士身分の受容について焦点を当てる。これまでの研究でも崎門儒学や垂加神道の主な受容層として、武士身分があげられてきた。しかしながらその具体相については、ほとんど言及されていない。
 そこで本論では、近世の文化的成熟との関連で、武士身分は儒学をはじめとする学問、中でも「闇斎学」とどう向き合っていたかを明らかにしたい。また、垂加神道の特徴とされる尊皇思想と、十八世紀の武士身分の人々の認識との関係を探ることとする。全体として武士身分における「闇斎学」の受容の諸相を明らかにするもので、十八世紀の武家思想の一端の解明ともなろう。
 以上の論点に従って本論で具体的に、幕臣・跡部良顕(1658~1729)の思想形成を取り上げる。また良顕から広がる「闇斎学」のありようを併せて解明することで、「闇斎学」の社会的意味の解明を目指すものである。

3.本論の構成と概要
 本論の構成は次の通りである。
序章
第一章 跡部良顕の思想形成-その儒学受容をめぐって-
第二章 跡部良顕の「闇斎学」と武士意識
第三章 垂加神道と出版
第四章 鹿島神宮における垂加神道の受容をめぐって
第五章 垂加神道と北野天神社-栗原家の由緒をめぐる意識-
補論一 十八世紀前半の学問受容と闇斎学派の役割-佐藤直方とその門人の活動を通じて-
補論二 近世節の学問受容と社会意識-尾張藩士平岩元珍の主体形成をめぐって-
終章
 各章の概要は以下の通りである。
本論は第一章から第三章までと、第四章・第五章の大きく二つの部分から成る。まず前半では、「闇斎学」の受容主体として跡部良顕の思想形成と学問的な諸活動を考察する。第四章と第五章は、十八世紀における良顕の「闇斎学」以降の広がりを、具体的な対象のもとに分析し、その社会的意味を考えたい。
 第一章は、まず良顕の幼年期から青年期にいたる学習過程を追い、良顕の生まれた家の環境と両親からの影響について考察する。その後闇斎の直門であった佐藤直方(1650~1719)から本格的に崎門儒学に触れ、教養的な学問受容から一歩抜けだして、人格形成の問題として捉えていく様子を明らかにする。それはまた、十七世紀末の武士身分と学問との関わりを考える試みでもある。本章の初出は、「元禄期幕臣の思想形成―跡部良顕の儒学受容をめぐって」(『日本歴史』七四三号、二〇一〇年)である。
 第二章は、良顕が儒学から垂加神道へと思想的に拡大していく過程を、直方との講談内容から考察する。良顕は直方の「太極講義」を受け、朱子学の核心的な両域へと学問的に深化していく。そこでは朱子学な的宇宙生成論(cosmogony)が問題となり、良顕の学問受容の画期であるとともに、その後の思想的展開の根拠になるような〈気づき〉であることを論じる。また、良顕の学問受容を可能にした時代背景との関連についても言及している。
 第三章では、神道への確信から良顕が行っていく知的活動、主に神道書の出版をとりあげる。正徳四年(1714)に良顕が中心となった闇斎の文集出版と、それをめぐる闇斎門下との対立を論じる。主に、京都の公家である正親町公通(1653~1733)の周辺にあった垂加派の人々(京都派)との、出版や秘伝とされた知識の公開についての考え方の相違を明らかにする。そして京都派に対する考え方が良顕個人のものだけではなく、江戸垂加派のものとして展開されてくる様子を考察する。なお本章は「垂加神道の出版―跡部良顕を中心に―」(『一橋論叢』一三四(四)、二〇〇五年)をもとにしている。
 第四章と第五章は、良顕を中心にした広がりを具体的に考える。対象とするのは江戸近郊の地域にある神社とそれに関わる人々である。神社とのあいだに神道思想を考えるのは、「闇斎学」のうちの垂加神道が直接的に関わった近世社会との接点の解明でもある。各章はそれぞれ、常陸国鹿島神宮にと武蔵国北野天神社において垂加神道が必要とされていく過程を考える。
 第四章では、良顕へ直接師事して学んだ、大宮司・鹿島定則の垂加神道受容とその目的を論じる。特に鹿島神宮において行われた、垂加霊社(山崎闇斎)と光海霊社(跡部良顕)の勧請を取り上げ、この垂加流に則った儀式が定則と鹿島神宮にもたらした意味を、近世神社組織が抱える問題との関わりで明らかにする。本章は、「鹿島神宮における垂加神道の受容―神体勧請をめぐって―」(澤博勝・高埜利彦編『近世の宗教都社会3 民衆の〈知〉と宗教』吉川弘文館、二〇〇八年)に若干の修正を加えている。
 第五章では、北野天神社の大宮司・栗原正名と正精父子と江戸垂加派との関わり方を論じる。垂加神道の思想的隆盛の時期とされてきた享保から元文に、受容する側が必要としていく実相を明らかにする。地域社会との関わりのなかで存在した、北野社と大宮司の問題意識が「闇斎学」の言説へどのように繋がろうとするのかを分析する。とくに垂加神道が人的な関係によって、幕府権威の入り口になるような状況を素描する。本章は、「平成二十二年度皇學館大学神道研究所公開シンポジウム」の報告をもとにしており、『皇學館大学神道研究所紀要』二七に掲載予定である。
 また関連して補論一では、「闇斎学」とりわけ崎門儒学の受容過程を組織的な観点から考える。そのため佐藤直方を核にした門人集団の学問的活動を明らかにする。直方の周辺で主に武士身分を対象に展開され、良顕も与した儒学の再生産の過程を解明することでもある
 そして補論二では、闇斎作と仮託される『盍徹問答』をもとに崎門儒学を受容し、政治や学問への自覚を形成していく十八世紀後半以降の一藩士を取り上げる。ここでの関心は、崎門儒学の思想内容というよりも、コード化された崎門の道徳主義がどのように現実と関連していくのかという点にある。
 補論の初出は、それぞれ「十八世紀前半の学問受容と闇斎学派の役割―佐藤直方とその門人の活動を通して―」(『一橋社会科学』二、二〇一〇年)と、「近世武士の学問受容と社会意識―尾張藩士・平岩元珍の主体形成をめぐって―」(東京歴史学研究会四二回大会個別報告、『人民の歴史学』一七八号、二〇〇九年)である。
 終章では、本論をまとめ、残された課題と今後の展望を述べている。
 まず良顕にとっての「闇斎学」は、自己の感情や行動を自らの意志でもって制御するための規範であった。そうした道徳的規範が、確信できたのは、朱子学と神道とが妙契する、宇宙生成論の存在である。良顕の場合は、この宇宙生成論への到達により、「闇斎学」が自らの武士としての生き方に適応され、あるべき理想が描かれていくことになる。同時に、「闇斎学」の社会的な還元の方法が模索され、実行されていくのである。
 また良顕の思想形成に見るように、「闇斎学」は、十七世紀後半以降の儒学受容の深化・成熟をうけて、武士身分の道徳的な自己確立の法方として成立し機能していたのである。そして鹿島神宮や北野天神社の「闇斎学」受容のあり方にみたように、社会的受容といういう意味では、この良顕の時代に確立したのである。また社会的受容には、受容する側の現実的な問題が色濃く反映したものであった。実効性を求める受容者にとって、「闇斎学」の内に内包する尊皇思想にもとづく天皇や朝廷の権威は自明のものではなかったのである。

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