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博士論文要旨

論文題目:移動する身体の管理と指紋法 ― 満洲国における労働者管理から戦後日本へ ―
著者:高野 麻子 (TAKANO,asako)
博士号取得年月日:2011年12月14日

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■ 本研究の目的・意義
 「指紋法」とは、個人の指紋の「終生不変」・「万人不同」という特性を利用して個人の異同を識別する方法である。これによってはじめて「完全に」個人の識別が可能になっただけでなく、採取した10本の指の指紋を、紋様の種類や隆線の数にもとづいて数値化することで、個人を分類・登録・検索することが可能になったのである。
 指紋法がはじめて実用化されたのは、1890年代のイギリス統治下インドであった。植民地統治下で生み出された技術は、その後、本国イギリスを経由して、ヨーロッパ諸国や他の植民地へと広がり、1908(明治41)年、後発の帝国である日本にとって「文明化」と「近代化」を意味する道具としてもたらされた。その後、1924年に南満洲鉄道株式会社(以下、満鉄)の撫順炭鉱における労務管理への導入を皮切りに、満洲の日本企業へと広がり、さらに、満洲国において指紋法は労働者を対象に大規模に使用されていく。
 こうして19世紀末から20世紀初頭にかけて、指紋法は国民国家や植民地における統治の技法として、地域的な差異を超えて同時代的に世界各地で導入が進められていった。なぜ近代において、個人を識別・分類する技術が必要とされたのであろうか。そして指紋法が果たした役割とはいったい何だったのであろうか。つまり、指紋法の同時代的な導入の背景にある国民国家形成や植民地統治が抱える共通の課題とは何であったのだろうか。
 この問いを出発点に、指紋法が使用された背景に存在する「移動する人びとの管理」に焦点を当て、近代における移動の管理の意味を明らかにすることが本研究の目的である。なぜなら、インドを起点に大英帝国から日本帝国へと指紋法が伝播していく背景には、共通して、移動の管理という「問題」が関係していたからである。放浪生活を営むとされてきた「ノマド」、偽名を使って移動を繰り返す犯罪者、苛酷な労働環境から逃げ出す労働者、季節や労働条件によって国境を越えて往来する移民というように、そこには移動する人びとが存在していた。指紋法はこうした移動する人びとを、国家や植民地統治者が把握・管理可能な状態に置くための道具として、使用されてきたのである。
 そして、指紋法による移動の管理を考察することで、定住を基盤とした統治形態の構築において、定住による生活形態にない人びとの移動を前近代的な移動とみなし、取り締まりの対象とするとともに、制度化された移動、つまり移動の「自由」が構築されるプロセスが浮かび上がってくる。常態としての定住と制度化された移動の構築は、あらゆる移動を把握・管理する必要性を生み出し、身体の管理は、ある一定の土地に囲い込むという技法だけでは、そもそも手に負えない課題だったのである。そして、指紋法による個人識別は、移動する人びとを管理可能な主体へと変換する装置であった。まさに、近代は移動する人びとの把握と管理に格闘し奔走した時代であった。
 本研究では、指紋法による移動の管理を考察する具体的な場として満洲国を取り上げる。満洲国を考察の場とすることの意義は三つある。一つ目は、満洲国建国以前の1924年から満鉄・撫順炭鉱で指紋法が使用されていたことはじまり、満洲国が移動を繰り返す労働者を対象に、大規模な指紋登録を実施した場であり、それによって指紋法と移動の管理の関係性を鮮明に描き出せる点にある。コンピュータ技術がなかったこの時代、手作業による指紋原紙の登録・分類・照合、さらに技術者の養成には莫大な労力と時間を要したにもかかわらず、1939年には「指紋管理局」という指紋原紙を専門に扱う部局が設置され、年間100万枚にも及ぶ労働者指紋原紙が収集・分類・管理されていたのである。満洲国における指紋法と移動の関係を考察することで、移動の管理が近代化を志向する場に共通して生起し、そこに指紋法の需要が創出される点を、大英帝国から日本帝国への指紋法の軌跡を通して明らかにする。
 二つ目は、満洲国が日本の植民地的性格を帯び、傀儡国家であったとはいえ、対外的には独立国家を標榜し、国民国家という制度を選択した場であった点である。満洲国は敗戦まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味での国民は存在しなかったが、建国当初より、国籍法制定に向けた議論が繰り返し行なわれていた。そして、日中戦争を契機とした総力戦体制下で、1940年頃より建国以来懸案となっていた国民把握・形成に向けた取り組みが新たな展開を見せる。たしかに日中戦争以後の新たな動きは、建国当初から国籍法が抱えていた問題、つまり独立国家として対外的な承認を目的とし、日満関係の特殊性と満洲国の独立性の間にある矛盾を解消する形で進められたわけではなかった。むしろその矛盾が留保されたまま、総力戦体制下における国家総動員体制の要請のもとで進められたのである(浅野 1999: 222)。つまり、国内労働者数とその所在の把握、効果的な労働者需給体制の確立、さらに国民意識の涵養を目指し、国民形成は労働統制と軌を一にしていくのである。そのため、1940年以降、次々と発せられた法令が、国籍法制定へと辿り着くことはなかった。こうした事実は、一方で満洲国が日満一体の矛盾に満ちた傀儡国家であり続けた結果として結論づけることも可能である。しかし、本研究で注目したいのは、1940年以降の国民把握に向けた諸実践が、労働者管理と密接な関係に置かれたことで、国民登録は満洲労働界が抱える移動する人びとの把握という課題を背負うことになっていった点である。それゆえ、民籍法(戸籍法)による定住を基盤とした国民登録は実情に合わず、一時的な居所の移動を寄留法で補完し、さらに指紋登録をともなう国民手帳の常時携帯へと展開していくのである。こうした一連の制度的変遷から、満洲国が移動にもとづく統治を選択せざるをえなかった状況が浮かび上がってくる。こうした論点は、満洲史研究においても比較的新しい研究テーマとして登場している満洲国における国民登録をめぐる議論(浅野 1998, 1999)(田中 2007)(遠藤 2010)に、指紋法による労働者管理と国民登録(国民手帳法)との関係性から新たな論点を提起できる。さらに、1940年代の国民把握・形成をめぐる動きは、労働者の複雑な移動を抱えた満洲国の独自の文脈を明らかにするだけでなく、定住による統治と移動の管理が国民国家形成の根本的な課題と結びついている点をより鮮明に描き出すことができる。
 三つ目は、指紋登録をめぐる動きが満洲国にとどまらず、戦後日本にも引き継がれていく点である。戦後、おもに旧植民地出身者を対象とした外国人登録法(以下、外登法)の指紋押捺は言うまでもなく、同時期に国民指紋法構想や県民指紋登録の実施など、国民を対象とした指紋登録もまた、議論されていた。国民指紋法が施行されることはなかったが、1950年頃から各地で散漫的に県民指紋登録が開始されたのである。本研究で扱う愛知県では、約20年にわたって継続していた。これまで、外登法の指紋押捺をめぐっては、1980年代の指紋押捺反対運動の展開のもとで、詳細な調査と分析が行なわれてきたが、戦後の国民指紋法や県民指紋登録の動きはあまり注目されてこなかった。そのため、本研究では戦後の日本における国民の指紋登録にかんする動きとその背景を明らかにするとともに、外登法にかんしても、同時期に進められていた戸籍法改正と住民登録法の制定過程と対比させながら、戦後日本の再編過程を考察する。そこから、戦後日本がいかなる国民国家の物語の(再)構築を目指してきたのかが見えてくる。
 さらに、本研究は上述の指紋法と移動の管理をめぐる考察を近代のみならず、現代を分析する視座へと広がりを持つものとして位置づけている。なぜなら、インドでの実用化を起点に世界各地に普及した指紋法は、約一世紀の時を経て、ふたたび「生体認証技術(biometrics)」として近代国家の変容やグローバリゼーションが議論される現代において、同時代的な需要を創出しており、こうした状況もまた、移動と深く関係していると考えるからである。今日、輸送技術の革新とともに人の移動が増大し、移動する人びとを管理する必要性が高まっているだけでなく、これまでのような定住を基盤とした管理ではなく、個人を移動する主体として管理する傾向が強くなっている。つまり、国境を越えた移動をはじめとした場所間の移動のみを指すのではなく、個々人の日常生活の営みそのものが、移動するものとして管理されているという視点が新たに必要なのである。IDカードの提示をはじめとした個人認証、クレジットカードでの買い物、街に設置された監視カメラなど、身体は各々の局面で監視・識別され、そして各局面での認証が、個人の痕跡として記録されていくとともに、データとして収集されていくのである。現代における個人識別と生体認証技術の拡大を、これまでの本研究の議論の延長線上に置き、移動や身体の管理との関係性から捉え返していくことで、今日的状況を現代社会論の枠組みとして切り離すのではなく、近代における指紋法(生体認証技術)と移動をめぐる歴史的文脈のなかに位置づけ、現代に至ってもなお絶え間なく存在しつづける移動の管理という問題を通じて、「移動」という概念の問い直しへとつなげていくとともに、現代社会を「監視社会」として分析するこれまでの研究に対して、移動研究との接合のなかで新たな分析的視座を提起できると考えている。

■ 本研究の構成
 本研究は三部構成である。以下、各部・各章の概要を説明する。
 第Ⅰ部「大英帝国から日本帝国への指紋法の軌跡」(第1・2章)では、指紋法が大英帝国において実用化されるプロセスと、その後、指紋法が満鉄の労務管理に導入されるまでを考察する。第1章「指紋法の実用化と移動という『問題』」では、指紋法が実用化に至る経緯を辿りながら、二つの点を明らかにする。一つ目は、指紋法が大英帝国における植民地統治下インドを中心に、大英帝国内の緊密な人的ネットワークを介して実用化された技術である点である。そして二つ目は、個人認証技術が求められる背景には共通して、「移動する人びとの管理」という課題が大きく関係している点である。さらに指紋法の実用化プロセスにおいては、同時期にフランスで開発されていた人体測定法(ベルティヨン方式)との技術面での比較を通じて、指紋法が近代における個人識別法のスタンダードになった背景もあわせて論じていく。
 第2章「日本への指紋法導入と満鉄による労務管理」では、まず、指紋法が大英帝国の他の植民地や西欧諸国を経て、1908年に後発の帝国である日本に「近代化」と「文明化」の道具としてもたらされた経緯を、指紋法導入において中心的な役割を果たした大場茂馬の著作(大場 1908)を通じて描き出す。そのうえで、その後、1924年に開始された満鉄・撫順炭鉱における労務管理への指紋法導入を取り上げるとともに、その背景に、移動する人びとを把握・管理という課題が存在していた点を明らかにする。
 第Ⅱ部「満洲国における指紋法の使用」(第3・4・5章)では、指紋法が大規模に使用された場として、満洲国を取り上げる。第3章「満洲国の理想と現実」では、建国当初から日中戦争前までの時期に焦点を当て、この時期、国民登録、住民把握、労働者管理といった人の把握・管理をめぐる議論がどのように進められた(進められようとしていた)のかについて、当時、施行または議論されていた法令や政策を通じて明らかにする。さらに、建国当初より、国民指紋登録構想や労働者指紋登録構想が繰り返し登場しており、これらの議論が登場した背景や目的、さらに当時これらの構想が実現しなかった理由についても考察する。
 第4章「政策転換と労働者指紋登録の開始」では、1937年の産業開発五ヵ年計画の開始と日中戦争勃発による深刻な労働者不足のもとで、満洲国政府がこれまでの華北労働者の入満制限政策から入満奨励と国内労働者管理へと労働政策を180度転換するなかで、新たに実施された労働統制を考察する。とりわけ1938年より開始される労働者の指紋登録については、指紋登録の対象者、手順、登録地域、さらに1939年に設置された「指紋管理局」の業務内容を通じて、実態を明らかにする。そのうえで、指紋登録実施の背景に存在する労働者の移動を取り上げ、満洲労働界が抱える複雑な移動が、どのような産業構造のもとで生み出されていたのかについても検討する。
 第5章「労働者登録から国民登録へ」では、1940年以降ますます深刻化する労働者不足のかなで、労働力の国内供出を目指して労働統制が強化されるとともに、建国当初より懸案となっていた国民把握・形成への動きが再始動していく状況に注目する。具体的には、1940年に施行された三つの法令、「国兵法」・「臨時国勢調査法」・「暫行民籍法」を皮切りに開始される国民範囲の確定と把握に向けた取り組みとその内容、さらにその翌年の1941年11月より開始される「労務新体制」との関係を考察する。これにより、建国当初とは異なり、総力戦体制による労働力動員のもとで国民登録が緊要であったことが明らかとなる。そしてこうしたなかで、指紋法による労働者登録を規定していた「暫行労働者登録規則」は労働者管理を敷衍した「国民手帳法」へと形を変え、労働者管理は国民管理へと移行していくのである。
 第Ⅲ部「戦後日本の指紋法」(第6・7章)では、戦後、約10年間に焦点を当て、警察の指紋制度改革、国民指紋法構想・県民指紋登録、外登法の指紋押捺を考察する。第6章「警察の指紋制度改革と国民指紋法の浮上」では、戦後、警察主導で進められた指紋法の二つの動きに焦点を当てる。一つ目は、戦後日本の警察制度改革のもとで、指紋法の適用範囲が拡大する様子と一指指紋法という新たな指紋法の誕生に焦点を当て、この指紋法の技術的革新がもたらした個人識別の新たな局面を考察する。二つ目は、1948年頃から浮上し、翌年には衆議院法務委員会でも議論された国民指紋法をめぐる動きと、その後、複数の県で独自に開始された県民指紋登録の実態から、この時期に突如として住民の指紋登録が加熱した理由について明らかにする。また、ほとんどの県が本格的な実施に至らないなか、例外的に約20年間にわたって県民指紋登録が継続した愛知県を、具体的な事例として取り上げる。
 第7章「根づかせない道具としての指紋法」では、おもに旧植民地出身者を対象とした外登法の指紋押捺制度を取り上げる。数度の延期を繰り返しながら1955年より実施された指紋押捺制度は、外国人登録の際に一指指紋(左手のひとさし指)登録を義務付けるものであり、発給された外国人登録証は常時携帯が義務づけられていた。書類と個人を指紋という紐帯で結びつけて管理する技法、それはかつて満洲国において移動する人びとの管理に使用されてきた。そこで本章では、同様の技法が戦後、日本国籍を保有する国民に対してではなく、外国人に適用された理由について、同時期に改正された戸籍法・住民登録法と外登法の対比を通じて考察する。その際、再び「指紋法と移動の管理」という点に着目し、戦後日本の再編を定住と移動の物語から読み解いていく。
 終章「生体認証技術の拡大と移動の多様化」では、本研究の総括に加え、指紋法を含む生体認証技術が拡大する現代へと議論を展開していく。とりわけ9.11以後に世界的な高まりを見せる個人認証については、近年欧米の地理学、社会学、政治学の分野から登場している生体認証技術をめぐる議論を参照しながら、再び移動の管理との関係性から議論を組み立てる。今日の個人認証技術の拡大は、コンピュータ・テクノロジーに依拠しており、近代と単純に並列して論じることはできない。しかし、近代国家形成期とその変容という異なる時代状況に絶え間なく存在しつづける移動の管理を通じて、「移動」という概念の問い直し、さらに身体の管理の変容を読み解く作業へとつなげていく。

■ 引用文献
浅野豊美, 1998「『満州国』における治外法権問題と国籍法」『渋沢研究』第11号: 17-40.
――――, 1999「蜃気楼に消えた独立――満州国の条約改正と国籍法」『岩波講座 近代日本文化論2 日本人の自己認識』岩波書店, 199-230.
遠藤正敬,2010,『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍――満洲・朝鮮・台湾』明石書店.
大場茂馬,1908,『個人識別法』忠文社.
田中隆一,2007,『満洲国と日本の帝国支配』有志舎.

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