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博士論文要旨

論文題目:マルクス物象化論の核心 ―素材の思想家としてのマルクス―
著者:佐々木 隆治 (SASAKI, Ryuji)
博士号取得年月日:2011年3月23日

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 本論文の目的は、マルクスの物象化論の理論的核心を明らかにすることである。本論を規定する最も根底的な問題意識はマルクスの経済学批判の「実践的・批判的」意義を明らかにすることである。とはいえ、本論文においてマルクスの経済学批判のすべてを検討することは、もちろん、不可能である。それゆえ、本論文では課題を、マルクスの経済学批判にとって決定的な理論的重要性をもつと考えられる、物象化論の理論的核心を明らかにすることに限定する。また、その理論的核心を明らかにするという課題に関連する限りで、所有論、疎外論、価値論、直接的生産過程論などを扱う。
 第一部では、マルクスの「新しい唯物論」について扱った。というのは、マルクスの経済学批判の営みにとって、「新しい唯物論」の確立は決定的に重要であったからである。44年以降のマルクスは経済学やフランス革命の歴史などの実証的な文献しか読んでいない。もはや、なにか哲学的な抽象理論を構築することが問題になっていたのではなかった。そして、ヘーゲル左派の論争をつうじて、変革のための批判を徹底的に遂行しようとしたとき、いかにそれが感性や実践を認めていようとも、哲学的に問いを立てること自体から脱却しなければならないことが明確になったのである。この「新しい唯物論」の確立によって、すでに「啓蒙主義」批判として始められていた経済学研究のための方法もいっそう深められ、マルクス独自の経済学批判の基本的構えが形成されていった。ここで目指されるのは、もはやたんなる世界の正しい解釈ではなく、変革実践の可能な領野を明らかにするための理論的批判であり、それは変革実践と不可分に結びついていた。
 第二部では、マルクスの物象化論とその意義について扱った。
 第四章では、物象化論の基本的な理論構成について明らかにした。マルクスの物象化論は重層的であり、三つの次元から明らかにされなければない。
 第一の次元の狭義の物象化は、私的労働にもとづく社会的分業を前提する限りは必然的に生起する。直接的には社会性をもたない私的労働が社会的総労働の一分肢をなすためには、労働生産物に価値という社会的力を与え、社会的連関に入っていくことが必要になるからである。この次元の物象化には二つの契機が存在した。私的労働にもとづく社会的分業を前提するなら、諸個人の意志や欲望と関わりなく、物象化は不可避であるが、さらにこの物象化は価値表現を不可避とする。価値表現なしには価値は存立しえず、したがってまた物象的連関は現実には存立しえないからである。ここにおいて諸個人の意志と欲望と関わりなく、無意識のうちに価値形態規定が成立し、そこにおいて形態と実体との必然的連関が成立する。この無意識の形態的論理こそが、商品語の論理にほかならなかった。要するに、私的労働にもとづく社会的分業を前提するかぎり、商品語の論理が不可避的に成立する。もうひとつの契機は、この無意識の形態規定が諸個人にたいして現れるところの現象形態であり、この転倒した現象形態をそのまま頭脳に反映する人間たちにとっては、この現象形態の内実は覆い隠される。だが、この現象形態は物神崇拝とは区別されなければならない。
 第二の次元は物神崇拝であり、現象形態がその転倒のままに現れるため、認識の次元でもさらなる転倒が起こる。すなわち、労働生産物がそれじたいで価値という属性をもつものとして現実に現象するのだから、この関係の内実を知らなければ、労働生産物がもつ価値という属性が労働生産物自身の自然属性であるかのように錯覚する、という認識論的な転倒が起こる。諸関係の隠蔽はよりいっそう深化する。
 第三の次元は、物象の人格化である。物象化された関係においては、物象の運動が諸個人の行為を制御するという転倒が起こるが、にもかかわらず、物象はその人格的担い手を必要とする。すなわち、物象の論理だけでは物象的関係は生成しえないのであり、それを補う人格的要素、すなわち素材的要素に対する具体的欲望が必要となる。諸個人は物象の人格化としてのみ行為しているにすぎないが、諸個人の諸欲望なしには実際に物象的連関は形成されえないのだから、諸個人の人格的契機が重要な役割を果たす。物象の人格化は物象的連関の形成における人格的契機を導入し、物象化による素材的次元の変容および所有について考察することを可能にする。もちろん、狭義の物象化においても素材の次元は考慮されたが、それは素材が経済的形態規定の担い手である限りで、あるいはまた、抽象的人間的労働という素材的労働の一契機が価値の実体をなすという限りで考察されたにすぎなかった。そこでは、無意識のうちに成立する形態的論理と素材的次元との関わりが抽象的に論じられたに過ぎず、素材的次元そのものが問題となっていたわけではない。しかしながら、物象の人格化によってまさに素材的次元に焦点があてられるのである。
 第五章では物象化論と疎外論の関係を扱った。疎外論は、平子友長が指摘するように、物象化論の主体的捉え返しにほかならない。とはいえ、それは物象化論において主体的契機が扱われないという意味ではない。物象の人格化においては、まさに具体的な意志と欲望を持つ諸人格が問題とされた。しかしながら、そこでは諸人格は物象の担い手としてのみ扱われただけであり、物象の主体にたいする関わりも、物象が主体を物象の担い手として適合的なように変容させるという文脈でのみ論じられたにすぎなかった。しかしながら、疎外論においては、物象がその人格的担い手を必要とし、しかも無意識のうちに形成された物象の論理が人格の論理と完全に一致することがない以上、物象の論理が人格にたいして敵対的に現れるという事態が存立せざるをえない、ということが主題となる。それゆえ、そこでは、諸個人はそのような客体的諸条件の疎外を感受しうるのであり、これをつうじて諸個人はたんなる物象の人格的担い手であることやめ、それを変革する主体へと生成する可能性が存するのである。
 第六章は物象化論と所有論の関係を扱った。マルクスの所有論の根本は、資本主義的生産様式においては人格的関係がなによりも物象の担い手として形成されるという転倒した関係性を批判するところにある。そのような転倒ゆえに、近代的所有は、非人格的で排他的な所有形態、すなわち本源的無所有の形態をとるのである。既存の所有論の誤りは物象化論の徹底的な理解に欠けていたところにあったと言って良いだろう。共同体の所有形態の考察において、その核心を捉え損なってきたゆえんである。物象化論はたんに物象が生産関係を覆い隠すという点にその眼目があるのではない。むしろ、人格ではなく物象が社会的な力を持って社会を編成すること、さらには、そのような社会が本源的無所有として、人間の大地からの切り離しによって成立するということが根本問題である。
 この理解が不十分であることから、さらには「領有法則転回」論と「本源的蓄積」論ないし「歴史的傾向論」というまったく異なる両者を、同様のロジックで捉えようとする発想が生まれてくる。この両者を同一視するならば、マルクスが主張したかったことはまるで見えなくなり、その反対物が現れざるをえない。その反対物こそが、近代的諸関係において実現される「人格的自由」にたいする幻想である。このような幻想こそが、物象の人格化としての「自由」を不当に高く評価し、「個人的自由」を近代的自由と同一視するという解釈を生み出してきたのである。
 しかしながら、近代における人格的自由、たとえば「自由なプロレタリアート」の人格的自由は無所有と裏腹の自由でしかない。彼らは人格的な紐帯を破壊され、土地を収奪されたからこそ、人格的に自由なプロレタリアートとして、無所有者として自らの労働能力じたいを自発的に商品として切り売りすることを迫られるのである。このような「人格的自由」を賛美する発想はマルクスにはどこにもなかった。むしろ、自由は一定の共同性を前提とした素材への能動的な関わりにおいてのみ実現されうるのであり、その意味で前近代的なものをマルクスは高く評価した。むろん、無批判的に過去を賛美する反動的な、ロマン主義的傾向にたいしては反対したが、前近代的なもののなかに新しい社会を形成するための示唆を見いだしていたことは間違いない。
 『要綱』以降のマルクスはもはや近代的自由に解放の契機を見いださなかった。たしかに、近代的自由はアソシエーションを可能にする条件ではあるが、近代的自由そのものは物象化された関係に依存しているのであり、アソシエーションの対立物でしかない。つまり、近代的自由はアソシエーションのための消極的条件でしかない。マルクスは、むしろ、自由の可能性を共同性と素材的関わりのうちにみたのであり、それにもっとも適合する社会形態としてアソシエーションが展望されたのであった。
 第七章においては、価値の主体化である資本による素材的世界の編成について扱った。
 資本の飽くなき価値増殖衝動は絶対的剰余価値を獲得するために、労働日を最大限延長することを追求する。当然のことながら際限のない労働日の延長は労働者の文化的生活や健康を破壊し、最終的にはその生命すら消耗し尽くす。「労働日」で問題にされるのは、けっしてたんなる剰余価値の絶対量の拡大ではなく、際限のない資本の増殖欲求が形態的包摂の次元で素材的世界にどのような影響を与えるのかということなのである。この素材的軋轢が労働者の側からの抵抗として現れ、この反作用が国家権力に反映し、法律的規制というかたちで労働日の延長にストップがかけられ、形態的包摂に一定の限度が設けられる。まさに「労働日」は、形態が素材をいかに編成し、素材からの反作用によって形態がどのような修正を受けるかという、形態の論理と素材の論理の衝突を主題にしているのである。ここでは、素材的論理にもとづく抵抗こそが、物象的論理を修正し、そこに物象的論理を抑制し、乗り越えていくための条件を作り出す(「それなしには、いっそう進んだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件は、労働日の制限である」(MEGA, I-20, 229))。このように、マルクスの剰余価値生産論のポイントは、剰余価値量にあるのではなく、より多くの剰余価値量を獲得しようとする資本の運動がいかに素材的世界に影響を及ぼすのかを問題にしているのである。
 資本はより発展した生産力を実現し、規律化された従属的な賃労働者を生み出すことによって、たんに素材を形態に従わせるだけではなく、素材的世界じたいを自らに適合させようとする。「生産関係、カテゴリー-ここでは資本と労働-の特殊的な規定性は、特殊的な物質的生産様式の発展と産業的生産諸力の発展の特殊な段階とともにはじめて真実となる」のである(MEGA, II-1, 217)。このことは、一方では人間たちの素材的世界への抵抗を困難にし、資本により適合的な素材的担い手を形成するであろう。しかも、本節のように、生産過程だけに限定するのではなく、流通過程、総過程における物象化の重層化、それにともなう物化の進展を考えるならば、形態の論理は素材的世界にいっそう深く浸食していく。
 しかしながら、他方、資本はそのような素材的世界の変容を、素材的世界の一契機でしかない抽象的人間的労働をいかに効率的に吸収するかということだけ問題にして行うのであり、そのことは素材的世界に軋轢、矛盾をもたらさずにはいない。資本の論理そのものはもちろん、この傾向に歯止めをかける動機を持たないし、資本の人格的担い手である資本家も、競争による外的強制によって、彼の意志にかかわりなく、最大限の価値増殖を追求することを余儀なくされるのであり、この傾向に歯止めをかけることはできない。素材的世界の破壊がやがて資本の存立すら危うくするにもかかわらずである。
 それゆえ、資本はけっして世界を完全に包摂しきることはできない。あるいは形態的に包摂するだけならば可能かも知れないが、素材的世界そのものを形態の論理に完全に従属するよう実質的に包摂することなどできない。このような、形態的論理によってはけっして包摂することのできない素材的世界の論理こそが、形態的論理の主体化としての資本の運動に歯止めをかける力となる。それは、過度の長時間労働に悲鳴を上げる人間の肉体と精神から、たとえ規律訓練されようとも空疎化された工場労働において疎外を感じざるを得ない賃労働者の感性的欲求から、絶えず生み出されるだろう。また、たとえ一時的には近代科学の統制に服したようにみえても、長期的にはけっして形態に従属させられることのない土壌やその他の自然環境も、それじたいが資本の運動を妨げる抵抗となるとともに、人間たちに資本への抵抗を促す契機ともなる。
 以上のような素材的世界からの抵抗の諸契機を基礎にしてこそ、賃労働者たちが物象の力によって生み出された仮象をみやぶり、「生産物が自己自身のものだと見抜く」、そのような「並外れた意識」が生まれてくるのである(MEGA, II-3, 2287)。「並外れた意識」は、たんなる啓蒙や「正義についてのお喋り」から生まれてくるのではない。根源的には、素材の論理から生まれでてくる。したがって、それは資本が生み出した素材的世界の軋轢、矛盾そのものに基礎を置いているという意味で、「それ自身が資本主義的生産様式の産物」なのである。
 結論においては以上の議論を総括し、マルクスが形態の思想家であったばかりではなく、「素材の思想家」であったことを示した。
 マルクスは、これまで形態についての思想家(関係主義、経済学)、あるいは人間という素材の一側面についての思想家だと考えられてきた。しかし、マルクスの「実践的・批判的」な理論的実践の営みを総体で捉えるならば、マルクスはなによりも「素材の思想家」であったと考えるべきであろう。経済学だけではなく、農業化学や歴史学を含む膨大な事実資料を書き留めた、マルクスの浩瀚な抜粋ノートはそのことを裏付けている。
 経済学批判における形態への着目もつねに素材との連関で捉えられなければならない。マルクスは素材的次元での軋轢とその原因を理解するためにこそ、形態の論理を分析したのである。マルクスが商品章、とりわけ価値形態論において徹底的に意志や欲望の契機を排除して私的労働を前提とする限り必然的に発生せざるえない無意識の形態的論理を明らかにしたゆえんである。この無意識の形態的論理は、一定の諸条件を前提するならば、素材じたいの論理とは関わりなく成立するのであり、素材的次元において様々な軋轢や矛盾をもたらさざるをえない。無意識の形態的論理が貫徹する物象化された関係においては、所有のあり方は根本的に変容し、人間の欲望も変容させられ、人格の物象化と物象の人格化の絡み合いのなかで価値の主体化としての資本が素材的世界を編成する決定的な力として現れる。資本の運動は、抽象的人間的労働という素材的世界の一契機だけを反映するのであり、この一面的な論理にしたがって素材的世界を自らに適合的なように編成し、変容させていく。しかしながら、資本による形態的および実質的包摂はまさに価値増殖という一面的な論理にしたがってなされるのだから、さらに深刻な困難に必然的に直面することになる。マルクスは、このような物象の運動、価値の運動によってもたらされた素材的次元での軋轢を根拠にしてこそ、資本主義的生産様式を変革しようとする「並外れた意識」がもたらされると考えたのであった。第五章で考察した疎外論は、じつはこの素材的次元での軋轢を人格が形成する主体的関係(あるいは「自己関係」)の側面から、捉え返したものにほかならなかった。その意味では、疎外論は、マルクスが素材の思想家であったことの一側面を表現する思想であるにすぎない。
 言うまでもないが、マルクスが「素材の思想家」であったということを、理念的、哲学的な意味に誤解してはならない。マルクスはフォイエルバッハのように人間と自然との統一を理念的に提唱したのではないし、あるいは封建的ロマン主義者のように過去に回帰せよと主張したのでもない。マルクスは、けっして眼前の現実的諸前提を手放さなかった。あくまで、マルクスは物象によって編成された眼前の素材的世界において変革を展望したのであって、現実の物象化された世界に素材を理念的に対置したのではない。
 商品章においてマルクスが明らかにしたのは、私的労働のもとでは無意識の形態的論理が必然的に成立することであり、これを克服するには私的労働をアソシエートした労働に置き換えることが必要である、ということであった。また、資本の成立の考察にあたっては、資本主義的生産様式=全面的物象化は生産者と生産手段との本源的統一の解体によってのみ成立するのであり、この克服はアソシエートした諸個人による本源的所有の回復によるほかない、ということが示唆されていた。しかしながら、そこではまだいかにしてアソシエーションが可能なのか、あるいは、アソシエートした諸個人による本源的所有の回復が可能なのかは示されていない。それを可能にする客体的および主体的条件は、無意識の形態的論理が資本として編成する素材的世界じたいに見いださなければならなかった。この条件についてマルクスは非常に多面的に言及しているが、端的に言うならば、マルクスはそれを、一方では、物象化された形態においてではあるが人間の欲求が多面化され、潜在的には人間の本源的富である「自由時間」が拡大されること、他方では、素材的契機の一側面しか反映しない価値の運動が人間及び自然という素材的世界の再生産を破壊し、その存立自体を危うくし、長期的にはこの矛盾を解決せざるを得ないことに見いだしたのである。
 だから、マルクスが素材の思想家であるという意味は、マルクスが素材を理念的に重視したということでは決してない。形態と対立する素材という契機にマルクスが常に着目し、素材じしんの具体的なあり方に常に注目していたということにほからない。マルクスが関心を持っていたのは、素材という理念ではなく、その具体的な有り様である。これを把握するためには、もちろん、形態を素材から分離し無意識の形態的論理を掴むことが必要であるが、それだけではなく、素材そのものの論理をその具体的な対象に即して具体的に把握することが必要となる。だからこそ、マルクスは素材的世界における様々な差異により深く分け入り、それぞれの具体的な論理を捉えようとしたのである。晩年になるに従って強まっていく素材あるいは素材と密着した社会形態への関心(農業や共同体への強い関心)も、物象に対抗する力として、マルクスがより素材の力に着目するようになっていることを示していると思われる。

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