博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:グリニッジ天文台と英国近代—経度の測定から標準時の発信へ—
著者:石橋 悠人 (ISHIBASHI, Yuto)
博士号取得年月日:2011年3月23日

→審査要旨へ

 本論文の目的は、近代英国におけるグリニッジ天文台の社会的役割を解明することにある。近世・近代英国では、「航海」・「地図」・「時間」といった言葉と結びつく社会的に有用な数学研究が確固たる地歩を占めており、その取り組みによって商業・海運を発展させ、ひいては国家の繁栄をもたらすことができると認められていた。 17世紀末の設立から 19世紀後半まで、同天文台は政治情勢や経済的な利害と連動するかたちで、経度測定法の改良や標準時の伝達に代表される実用的な科学技術の研究と応用を担った。それらの活動は英国社会および帝国の歴史に少なからぬ影響を与えており、科学の社会史や帝国史の観点から考察すべき貴重な研究対象となる。
 グリニッジ天文台と英国社会との関係を究明する際には、「経度測定法の開発・普及」と「標準時の発信」に関連する活動に焦点を絞ることが有効である。その第 1の理由は、グリニッジ天文台の主たる社会的機能が、経度測定法の開発( 17世紀末から 19世紀前半)から標準時の発信( 19世紀後半以降)へ変遷したからである。第 2に、これらの業務に従事することを前提にして、国営の同天文台に公的資金が投下され続けたからである。それゆえ 19世紀以前の同天文台では、純粋な天文学上の成果をあげることよりも、具体的な利益を社会にもたらす研究・企画が重点的に遂行されたことが第 3の理由である。つまり、上記二つの活動がグリニッジ天文台の特徴を明示しているだけではなく、その存在意義にかかわっていると考えられる。よって本論は経度測定法の開発・普及と標準時の発信に着目し、国家による数学研究のパトロネイジの実態、およびグリニッジ標準時を告げる時報が社会に浸透する経路の再構成を課題とする。
 第1部の主題は、グリニッジ天文台(長)と経度測定法の開発と普及問題である。従来の研究が、 18世紀後半に実現する二つの測定法(クロノメーターと月距法)の成立過程と科学的な特徴を解明してきたため、本論はそれらの手法が活用される現場を検証する。まず第 1章において、グリニッジ天文台の設立からクロノメーターと月距法の完成までの状況を辿ったうえで、次に第 2章は経度測定法の開発奨励機関である経度委員会の役割を究明する。歴代のグリニッジ天文台長がその業務をけん引した経度委員会は、一般に向けた航海術の公募を通じて、国家のもとに優れた数理技能者の科学知を結集させた。加えて、先端的な航海技術の提案、月距法のための『航海年鑑』の出版と配布、クロノメーターの管理、探検事業に対する天文学者の派遣を通して、同委員会は英国海軍における経度測定法の導入を促進した。
 第3章では、経度問題における天文台長ネヴィル・マスケリンの事績が再検証される。 18世紀後半の英国学術界において独自の地位を確立した彼は、西欧諸国の数理技能者と広範な人的ネットワークを構築していた。このマスケリンの情報網は、数学・天文学の知識を共有する回路としてのみならず、経度測定法によって世界各地の座標を正確に確定し、地図上の空白を消し去る作業にも精力的に利用されていた。続いて第 4章では、 19世紀前半にグリニッジ天文台が海軍のクロノメーターの保管場所となり、その供給体系の中核に位置した事情を検討する。 1800年頃までの海軍内では、クロノメーターの普及が限定的な程度でしか進行せず、それらは探検事業や植民事業などの遠洋航海に優先的に割り当てられた。そのため 1820年代には、海軍省がグリニッジ天文台長とともにクロノメーターの管理システムを設計し、水路測量局長、時計メーカー、海軍基地の担当者たちと連携することによって、その利用を大幅に拡大することに成功した。
 第2部では、 1850年から 1880年という時期を対象にして、国内における時報システムの普及実態を検討する。本論は科学技術の進化という要因だけではなく、社会経済的要因と心性という文化的要因を射程に入れるアプローチを用いることで、時報サービスの普及・受容が成立した複合状況に迫る。それに加えて、時報装置の技術移転、時報導入にかんする中央・地方関係、時報に対するイメージと認識の次元、時報の受け手の個別事情というこれまでの研究で看過されてきた諸論点に注意を払いつつ、時報システムの浸透過程を全体的に描くことが課題となる。
 第5章では、天文台長ジョージ・エアリが、 1850年代初頭に時報事業を開始した契機を考察する。エアリは政府科学者であるという自己意識のもと、同天文台を大規模な研究施設へ変容させたうえで、標準時の発信を新たな社会的活動として設定した。この章ではさらに、エアリが電信会社、時計職人、電信技師と連携しながら、時報システムを開発していく経緯を示す。第 6章では、標準時の伝達回路がどのように稼働し、国内でどの程度時報が利用されていたかを解明する。グリニッジ天文台の役割はロンドンに向けた時報伝達に限定されており、電信網によってそれを全国に転送したのは鉄道会社・電信会社・郵政公社だった。地方都市における時報システム(報時球、公共時計、大砲による時刻の通知技法である時砲)の設置という脈絡では、都市自治体や中間団体による資金提供はもとより、一般市民の運動や寄付集めなどの主体的な行動が不可欠だった。
 ここまでの議論で、 19世紀後半の英国に存在した時報システムの大きな枠組みが表れてくるが、これを踏まえて第 7章では、時報事業がどのように評価されていたかを論じる。時報装置が社会に浸透していくなかで、それに付与されるイメージが重要な意味を持ったからである。グリニッジ天文台長、水路測量局長、そして電信会社は、時報システムの社会的意義と信頼性/正確性を積極的にアピールしなければならなかった。それが 1850年代に確立された新たな科学技術であり、また時報の受け手がその正確性を判定することが困難だったからである。その際に、彼らは「水路通報」や新聞・雑誌、各種のパンフレット、公開講座といったメディアを用いたイメージ戦略を展開した。時報を転送・受信する組織・個人は、とりわけ時報事業の権威/象徴であるエアリの言説を正確性や信頼性の証左と据えていた。一方で、実態とは異なるエアリの権限と活動範囲にかんする認識が、広範に流布していたことも明らかになった。本論は、その想像と現実の乖離から派生する諸問題にも光を当てている。
 第8章では、航海術としての時報の価値を解き明かすために、英国海軍の基地における時報システムの設置について考察する。 1850年代からエアリは、海軍基地における電信による時報伝達と報時球設置を当局に訴え続けていたが、ようやく 1870年代になってその要求の一部が実現した。約 20年にわたる交渉のなかで、エアリと海軍省は商務省や保険会社、船主組合・協会、海軍の船長たちから、時報と報時球の評価にかんする情報を収集した。それらの情報を分析した結果、当時の海軍関係者や海運・商業の担い手たちは、概して報時球と時報システムが航海術に大きく貢献するという見方を共有していたことが判明した。
 第9章では、国内の商業・海運でロンドンに次ぐ繁栄を享受する海洋都市リヴァプールにおける報時球と公共時計の設置問題を取り上げる。同市ではエレクトリック・テレグラフ社とリヴァプール天文台にそれぞれ報時球が設置されていた。本論は二つの報時球の信頼性と正確性をめぐって、同社と協力関係にあるエアリとリヴァプール天文台長ジョン・ハートナップが激しく対立していたことに着目する。エアリとハートナップが交わした書簡に基づいて、時報の正確性と信頼性にかんする責任の所在をめぐる議論と彼らが時報の正確性を公衆に示す際に用いた方策が分析される。この章ではさらに、ハートナップが技師 R. L.ジョーンズとともに開発し、同市に導入した独自の公共時計同調システムの歴史的意義についても検討する。このジョーンズ方式の時計装置の有用性を高く評価したエアリは、それをロンドンのシティの公共時計やウェストミンスター・クロックにも適用しようと計画した。そして彼がジョーンズにインド植民地に輸出する公共時計を製作させた結果、同方式はリヴァプールからロンドン、そして植民地へ技術移転された。
 以上の分析結果から、本論は政府による科学研究の後援と時報サービスの拡張にかんする次のような視角を提起する。英国の科学研究の体制は民間主導を基調とするが、グリニッジ天文台と経度委員会の存続、そして 19世紀に開花する海軍による科学研究の精力的なパトロネイジが示すように、商業・海運や領土の拡大に応用可能な実用的な学術研究に対する公的資金の投下は連綿と継続されている。国家/帝国の繁栄・拡張や国益の増進に貢献する科学研究を選別して、政府・議会が豊富な資金を提供する姿勢は、近代英国史を貫く特質であったと解釈することができる。
 次に、英国社会における時報伝達技法の埋め込みは、科学者・技術者による装置等の開発・改良に加えて、全国的なレベルで政府・都市自治体・民間企業・個人が一体となって推進された。その過程では、信頼性と正確性を保証しようとする時報の発信主体の戦略とそれに対する公衆の眼差しが重要な意味をもった。時報装置の技術進化は単線的な経路において生起したものではなく、中央と地方の科学者たちの相互交渉・情報交換から導出されたものである。したがって、ロンドンにおいて設計されたモデルが地方に伝播したという枠組みに加えて、地方における独自の時報技術の発展と普及の経路、ひいては地方モデルの中央への影響の可能性を解明することが、国内におけるグリニッジ標準時通知事業の普及を総合的に解釈できる枠組みの構築に寄与すると考えられる。
 17世紀末から 19世紀後半にかけての英国において、グリニッジ天文台は経度測定法の開発・実践・普及を通して、帝国の拡大と商業・海運の活性化に貢献し、標準時の発信によって時間制度改革と時間意識の「近代化」を促進した。近代英国に存在した科学研究にかかわる組織のなかで、グリニッジ天文台に匹敵するほど重要な社会的役割を担ったものはごく僅かであろう。これに世界標準時としての意味が付け加わるとなると、専門研究のみならず概説的な英国通史のなかでも、このように大きなプレゼンスを誇る同天文台の歴史に、より多くの注意を払う必要があることは明白である。

このページの一番上へ