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博士論文要旨

論文題目:ハンナ・アーレントにおける私的なものの再解釈―否定性に立脚する自己の持続と世界疎外―
著者:阿部 里加 (ABE, Rika)
博士号取得年月日:2011年3月23日

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 本論文の課題は、ハンナ・アーレントの思想においてネガティブなものとして理解されてきた私的なものをめぐる概念を、アーレント思想の積極的側面として新たに呈示することである。具体的には、私的なものの概念の有効性を論証すべく『人間の条件』、『アウグスティヌスの愛の概念』、『精神の生活』といった主著の理論的接続点へとアプローチすることにより、私的なものと自己とのかかわりを解明することが目指された。
 アーレントの定義にしたがえば、人間の正体(who)すなわち人格(Person)といったものは行為(action)や言論(speech)においては触知されえない(intangible)。この点に着目し第一章では、行為における人格の不在(触知不可能性)という側面について考察した。物語作家として世間で知られるディネーセン像を本名のカレン・ブリクセンが拒絶するのは、語り手の人格を物語から遡及して確定することは不可能だからである。イサク・ディネーセンにとって、物語るという行為は社会や世間のためというよりもむしろ、それが「価値あるものであることを〈自分に示す〉ことにより自分自身が十分に生きたいため」になされる。目的と手段を立てて製作される作品と異なる物語は現在性の営みであり、演劇における模倣も人格に近づくことはできても人格そのものを把持することはできない。このような、人格や正体を触知しえないという言論のジレンマは、語り手が自分について語ろうと意志してもそれを実行できないという「意志の無力さ(incapacity)」からくる。アウグスティヌスが「意志することとできることは同じではない(Non hoc est velle quod posse)」とした、意志と行為の非連続性としての「無力さ」は、言論においては障害となる一方で言論に人間的有意性を与え、隠されて語られざるものの存在を保護するとアーレントは考える。
 第二章では、行為において触知されえない人格(Person)や自己は社会において触知しうるということを論じた。人格や自己のリアリティが浮き彫りとなるのは、上流社会にルソーの内奥(intimacy)の心が抗議し、苦悩や葛藤する場面である。『人間の条件』におけるルソーのintimacy of heartはこれまで「魂の親密さ」と訳され他者とのつながりという意味での親密圏として理解されてきたが、『革命について』のheartに関する叙述も考慮に入れると、intimacyは「親密さ」ではなく「内奥」のものを指示しているという見解に至った。J.スタロバンスキーの「透明な自己」のように、社会に抗議するルソーは誰も伴わずただ一人であり、その憤りや悲しみといった心のありようは他者と容易に共有しうるものではなく、ルソーは自己と向き合わざるをえない。アーレントがルソーの内奥の苦悩と葛藤に言及する背景には、『全体主義の起源』の「反ユダヤ主義」で考察されたドイツ社交界の歴史や例外ユダヤ人の「意識的パーリア」がある。ドイツ社会の画一性に抗議しつつ自己を維持しようとする「意識的パーリア」の心理は、たんに内的生活の問題にとどまらず、社会に対する抵抗という点でアーレントの「私的領域」概念と密接である。
 第三章では、私的なものをめぐる概念が公的なものとは全く異なる要素から構成されているということを示した。私的なものという言葉で指示されているものは、私的生活の非欠如的特性、私有財産、前政治的領域であり、これらに共通する要素としての神聖さや家族、暗闇である。『全体主義の起源』では家族に加え、人種、唯一性、個体性、人格といった概念も私的領域ないし私的なものとして叙述されており、これらは「全体主義的支配において根絶の対象」とされた。次いでアーレントの「私的」という概念は、労働の営みを分析した結果、無世界性(Weltlosigkeit)/反世界性(Unweltlichkeit)という位相として構造的に把握しうるということを提示した。この位相は世界からの追放と逃亡とを意味しており、世界から追放されたものとして消極的に把握されている労働と私的領域には、この世界の中に生きつつ、この世界から遠ざかるという能動性が含意されているということが明らかとなった。すなわち、労働における無世界性の経験とは苦痛や労苦により生命が自らを感じ取る様式であり、その際の激烈さや衝撃は根源的なもので、そのようにして生命の重荷を人間が引き受ける限り生命力は保持される。この無世界性の引き受けという経験と、生命から遠ざかろうとする反世界性の経験は「世界の中で生きる力」の両側面として捉えられる。「私的(private)」という言葉はなるほど「人間的に大事なものが欠落している」状態を意味してはいるものの、その「私的」な場所や暗闇においてこそ公的空間や言論によって触知されえない人格や自己があるということを論じた。
 第四章では、上述した反世界性の経験をより明らかにすべく、私的領域において指摘されてこなかった善の概念をM.カノヴァンの再解釈の問題点を通して検討した。カノヴァンは、私的な良心や善、愛、感情といったものはアーレントにとって心の闇にしまっておくべきものであったという。すなわち、自己というものは常に不明で当てにならないものであるため、アーレントは私的な個人の関係あるいは個人の自分自身への関係に関心をもってはおらず、他者の前に現れることのできる偉大さや栄光の領域である公的な世界と公的原理に関心があったという。この再解釈で見落とされている重要な点は、『人間の条件』で語られる善の「否定的性格」である。アーレントは宗教経験にみられる反世界性は、実際には愛という営為の経験であり、世界そのものの内部に現われていると述べる。愛の営為は世界を去らずに世界の内部で実現されなければならず、他のすべての営為と同じ空間に現れる。ただし、その現われ方はきわめて「否定的な性格」をもっており、愛の営為は、世界を見捨て、世界の住民から身を隠す。世界が人々に与える空間を拒否し、あらゆる物とあらゆる人が他者によって見られ聞かれる世界の公的な部分に抵抗し拒否する。隣人愛や来世など宗教経験に固有にみられるそうした否定性とは、この世界の中で関係を「積極的に否定する」という反世界性の営みであり、善のもつ積極的側面として理解しうる。
 第五章および第六章では、上述した私的なものの「位相」および善の否定的性格、すなわち人間がこの世界の中で他者とともに生きると同時に、この世界を否定してそこから遠ざかるありようは、初期の著作である『アウグスティヌスの愛の概念』において描かれているということを論じた。キリスト教の隣人愛の構造が考察されているこの著作では、アウグスティヌスの思想を「哲学的に解釈すること」が試みられている。アウグスティヌスにとっての根源的関心は、隣人や他者への問いが同時に「自分自身へと向けられている問いである」ということにあった。それを端的に示しているのが、「私が私自身にとって問題となる(quaestio mihi factus sum)」という言葉であり、この言葉にアーレントは関心を持ち続け、初期から晩年に至るまで考察している。自己への問いかけにおいて重要となるのが自己愛において生じる「自己否定(Selbstverleugnung)」という契機である。「自己否定」は秩序付ける愛(dilectio)により可能となり、その際世界は使用(uti)と享受(frui)の対象となるが、世界の使用(uti)とは、そこに住む人々をたんに手段として扱うということではなく、この世界のためにこの世界を超えた永続性を配慮するということを意味している。世界を超え出る問いかけは、人間の生がその中に組み込まれている二重の否定性に「もはや…ない」と「いまだ…ない」の二重の否定性に根拠をもち、世界における人間の生の前と後の双方とが示される。アウグスティヌスのいう世界の使用(uti)は、ギリシアの世界概念や自足(sibi sufficere)の考え方に由来するものであるが、ハイデガーが世界の二重性に言及しながらも軽視していたのは、このギリシアの世界概念であるとアーレントはいう。また、この世界を超えることにより可能となるもう一つは自己探求(se quaerere)であり、それは永続性への配慮とは全く異なる文脈において展開されている。アウグスティヌスは愛において自己探求するとは、すなわち「孤立化(Isorierung)」であり、「孤立化」を可能にするのは「自己否定」ないし「自己への立ち帰り(redire ad se)」であるとしている。「自己否定」による「孤立化」は、自己犠牲とも共同性とも異なる間接性や客観性に基づいており、客観性こそが自己探求の営みを可能にする。このことは「孤立化の責務」であるとアーレントは述べる。「孤立化」は、自己がこの世界の中で自己に問いかけることで可能となる個体化を意味すると考えられる。
 個体化としての自己探求の議論は、晩年の『精神の生活』の意志論でも展開されている。第七章では、意志論のなかで主にアウグスティヌスとハイデガーに関する叙述を検討した。アウグスティヌスによれば人格(Person)というものは人間以前には存在せず、個体性は意志に表現されている。またハイデガーによれば反抗意志(Widerwillen)ではなく「意志しない意志」が自己を維持させる。反抗意志と「意志しない意志」は、それぞれ〈意志する意志〉と「そのまま放置しておくこと(Gelassenheit)」としての意志とに対応し、違いは後者が意志の「無力さ(incapacity)」を踏まえている点にある。〈意志する意志〉は、自己への問いかけを社会から引き出す際に発せられるが、良心から引き出す際には「意志しない意志」が発せられる。アーレントは、ハイデガーが本来的な自己存在(Das eigentliche Selbstsein)は世人(Das Man)から引き出され、「個体化の原理(principium individuationis)」の実現をもたらすのは〈意志する意志〉であると述べたことに同意しつつも対峙し、『存在と時間』によれば、本来的な自己をもたらすのはむしろ「意志しない意志」であり、世人からではなく「良心の声」から引き出されると述べる。「良心の声」は人を日常の世人のしがらみから呼び戻し、人間の罪深さを暴くのであるから、人間は良心によって負い目を受け入れなければならない。受け入れるとは、アーレントによれば、自己が一種の内的行為(handeln/acting)をすることを意味するのであるが、負い目や罪(Schuld)は行為を誤らせ(act is error)、意志の「無力さ」を浮かび上がらせる。しかし、そのように負い目や罪をめぐってうつろう思想こそが意志であり、個々の人間において存在の歴史を可能にする。「良心の呼び声」が成し遂げることとは、それゆえ、記憶に残される歴史の歩みと人々の日常生活をも決定する出来事に巻き込まれた状態から離れて、個別的なものになった(individualized/vereinzeltes)自己を再発見することである。意志論によると、こうした自己の再発見は、「言語は存在の住処」であるとした『ヒューマニズムについて』よりも、「真理は隠された存在からやってくる」とした『アナクシマンドロスの箴言』において描かれている。ハイデガーの「意志しない意志」により得られる本来的自己は、自己の持続としてアウグスティヌスの「存在し続けたいという意欲」やミルの「永続的な私の感情の状態(permanent state of my feelings)」にも表現されている。ここでは自己の持続のために自身の行為の一貫性の無さ、すなわち、意志と行為の非連続性を経験する具体的場面としてアイヒマンの言動を指摘した。
 最終章の第八章では以上の考察をふまえ、「世界疎外」という概念が、私的なものの位相を考慮すると単に世界から追放されているのみならず、他方で世界から遠ざかるという能動的な契機を含意する概念であるということを指摘した。次いで、私的な暗闇にかんし、アーレントが語りえぬものを捨象しているという批判についてはアガンベンの思想を検討し、そうした批判は必ずしも妥当しないということを論じた。アガンベンの場合、証言不可能なものや体験は閾や宙吊りの圏域に保存されているが、アーレントの場合は語られざるものの多くを私的領域において叙述する。私的領域とは、生と死、神聖さ、家族の空間であり世界から隠されていると同時に「避難所」であり、言論や公的な場において触知されえない人格(Person)は、世界の中で生きることにより公的なものを積極的に否定し世界に抵抗する場に存在するということを指摘した。
 さらに本章では、『教育の危機』や『権威について』に言及し、現代の家族における教育問題にたいしアーレントの教育観が有効な観点を差し出しうるという見解を示した。一つは、未来や永続性へのまなざしが、私的な家族から立ち上がるということであり、もう一つは、家族のような私的な場が人間の精神の回復と治癒にとって不可欠であるということである。「新しい庇護性」を論じたO.F.ボルノーは1950年代にアーレントの私的なものに注目している。アーレントいわく、現代家族においては権威、保護、保守これら三つが十全に機能しておらず、これらの機能低下により子どもは自己を肯定できず自分を不要(superfluous)な人間だと感じている。こうした不要さの感覚は「政治的な迫害や制約よりもずっと耐え難い」ものであり、親や保護者は、「子どもの生命および成長に対する責任と、過去や伝統を担う世代として世界の存続に対する責任」これら双方を負わなくてはならない。この責任のために親と子どもの間に不調和や苦悩が生じることはあっても、そうした家族の複雑さを通してこそ、異文化や歴史、生命を理解しようとする能力の基盤や自立的判断が形成されうるということをアーレントの教育観に即して論じた。ただし、多様化し家族という単位そのものも成立しなくなっている現代家族に対してアーレントの私的なものが寄与しうる点は限られているということも認識として得られた。
 本論文の考察から、アーレントの私的なものについては以下の結論を導出しうる。すなわち、行為と言論において触知しえない自己および人格(Person)は、「私的なもの」において存在している。人間が「私的」であるということは、人間がこの世界の中で自己を持続させるために、この世界に抵抗し、この世界から遠ざかることを意味しており、自己を持続させることは善、愛、意志のもつ否定のはたらきによって可能となる。初期の『アウグスティヌスの愛の概念』から晩年の意志論まで貫かれているこうした積極的な「否定性」は、アーレントが他者ではなく、むしろ自己に立脚して論じる場面で浮き彫りとなっている。
 この結論は発展的には、倫理的な判断、現代家族とケア労働といった問題を扱うことになるであろうが、今後の課題として、アーレント思想における私的なものと個的なもの、公的なものとの関係性がテクスト分析を通じて詳細に説明される必要があり、また具体的事例を検証する作業も挙げられる。

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