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博士論文要旨

論文題目:象徴天皇制の形成過程―宮内庁とマスメディアの関係を中心に―
著者:瀬畑 源 (SEBATA, Hajime)
博士号取得年月日:2010年11月30日

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 日本国憲法第1条に定められた「象徴天皇制」とは一体何であるのか。これは、未だに良くなされる質問であり、これに明確に答えることは、憲法学者であってもなかなか困難をともなう。天皇制研究者の筆者にとってもそれはまた同様である。
 ではそもそも「象徴」とは一体なんであろうか。憲法学の教科書として現在最も良く使われている芦部信喜の『憲法』によれば、象徴とは「抽象的・無形的・非感覚的なものを具体的・有形的・感覚的なものによって具象化する作用ないしはその媒介物」を意味する。具体的には平和の象徴は鳩といったようなことである。
 そして、この象徴の機能は、「象徴が象徴されるものに存する意味内容を表現し、具体化する」ことにある。つまり、「象徴」と「象徴されるもの」との間の関係は、「象徴されるもの」の意味内容を基礎とし、「象徴」はただそれを忠実に具体化するというものである。鳩が先にあってそれが平和を意味するのではなく、平和が先にあって鳩がそれを象徴するのである。
 だが、ここで問題となるのは、象徴が「人間」である天皇であったことである。日本国憲法においては、主権者である国民が国の性質や国民統合の姿を決定しなければならない。よって、その国民が決めるはずの「象徴されるもの」に対して、「象徴」が影響力を行使するというのは、憲法の原理に反していることになる。だが、新憲法施行時の天皇は、明治憲法下で統治権総攬者の地位にあった昭和天皇だった。そのため、「象徴」という概念には、明治憲法の影響が色濃く残る昭和天皇のパーソナリティが大きく反映されていくことになり、昭和天皇に対する認識が異なる人毎に解釈が変わるという、統一した見解を持たないものとなった。
 にもかかわらず、この明確な定義の難しい象徴天皇制は、多くの国民の支持を獲得している。たとえば、全国紙による世論調査の結果を見ると、1960年代後半以降現在に至るまで、管見の限り、天皇制への支持率は70%を下回ったことがない。しかし、具体的に設問を見てみると、その多くは「現状のままでよい」という選択肢を選んでいることがわかる。つまり、「象徴」という言葉の意味を理解した上で選択したというよりは、むしろ現状の天皇制への不満が少ないということを示しているといえよう。
 では、このような象徴天皇制への支持基盤は、どのように国民の中に形成されてきたのであろうか。この分析を行う上で今なお参考になるのは、松下圭一の「大衆天皇制論」(中央公論』37巻4号、1959年4月)である。松下は1958年から59年にかけてのいわゆる「ミッチーブーム」を分析し、この現象が戦後の新憲法下での大衆社会状況によって起きたものであると主張した。そして、マスメディアの報道が価値を決定する主要な条件になったため、皇室自体が大衆社会の中心となる新中間層の価値観にマスメディアによって適合させられてしまったと述べた。松下による皇室の大衆化とマスメディア報道の関係性についての示唆は、現在でも有効な指摘であると思われる。しかし、皇室の大衆化を考える際には、ミッチーブーム以前の天皇制とマスメディアの関係を分析する必要がある。
 これまでの象徴天皇制研究は、戦後政治史における象徴天皇制の変遷と、メディア研究における象徴天皇像の変遷とが個別に行われており、この両者をつなぐ研究はほとんど存在していない。そのため、政治史分析においては、その規定要因である国民世論やマスメディアとの関係について論じられておらず、メディア研究においては、マスメディアを規定する政治的な対抗関係の分析がなされていない。
 そこで筆者は、天皇・宮内庁による象徴天皇制をめぐる政策決定過程及びメディア対策と、マスメディアの報道実態、両者の相互交渉のあり方について分析を行いたい。そして可能な限り、宮内庁やマスメディアの規定要因でもある、天皇制への国民意識のありようも視野に入れて論じていきたい。この研究を行うことで、筆者は、歴史学の立場から、これまでの歴史学とメディア研究の双方からのアプローチを活かしつつ、戦後天皇制の支持基盤の形成過程の分析に新たな視座を提示したい。
 そこで、筆者は、昭和天皇の「戦後巡幸」と皇太子明仁への教育の2点の分析を行う。
 第Ⅰ部では、昭和天皇の「戦後巡幸」に着目し、「象徴」の解釈をめぐる天皇・宮内庁とマスメディアとの相互交渉を分析することで、象徴天皇制の内実がどのように形成されていったのかについて明らかにした。
 宮内庁は、敗戦による国民の天皇制への支持が揺らぐ中で、天皇と国民の紐帯の再建を目指していた。そして、戦災復興のための木材を下賜するなど、国民への「仁慈」を振りまいた。しかし、占領軍が天皇制をどのように扱うかわからない中で、宮内庁の打てる手は限られていた。
 その中で、昭和天皇が自身の独特の皇祖皇宗への責任意識から伊勢神宮への行幸を強く主張したため、宮内庁は否応なく地方行幸を行うことを迫られた。行幸を実行するにあたって、まず宮内庁は天皇の服装を軍服から新たな「天皇服」に替え、天皇の姿から戦争、ひいては戦争責任問題を連想させないようにした。また、この「終戦奉告行幸」の事務を、警備の簡素化や奉迎の自由化、報道の一定程度の自由化といったような、当時の状況下ではやむを得ない変更のみで乗り切ろうとした。しかし、この変更が国民や新聞記者達から高い評価を受けた。つまり、「戦前と異なり」天皇は国民の元に戻ってきたという意識を彼らは持ったのである。この反応を見て、宮内庁は天皇の行幸が、天皇と国民の紐帯を再建することに非常に有用であると認識したのである。
 翌年、GHQからの許可を受けた宮内庁は、神奈川県を皮切りに全国各地へと巡幸を行っていく。この中で、宮内庁は積極的に天皇と国民の交流を推進し、「国民と共にある天皇」像を各地に振りまいた。この天皇の姿は各地で大歓迎を受けていったが、一方で奉迎事務のマニュアル化が進行し、奉迎が次第に形式化していった。そして、大規模化する巡幸を問題視したGHQの民政局(GS)や、宮内府改革を意図した日本政府の方針によって戦後巡幸は中断され、宮内庁は総理大臣管轄の一機関とされて独自の権限を失っていった。
 1949年以後、戦後巡幸は再開されたが、次第に日本政府の政策に従属する働きを求められるようになっていった。そして天皇の行幸が国民統合の再強化のためのツールとされ、全国植樹祭や国民体育大会への行幸が定例化していった。
 一方、宮内庁と新聞記者の関係は、戦前からは大きく変化した。新聞記者達は、「終戦奉告行幸」での報道規制の緩和を体験したことで、戦前の報道規制を軍部・官僚による支配体制の一環であったと見なした。また、自らの取材における立場の変化から、天皇制は戦前と戦後で断絶しているという認識を抱いていった。そして、1946年の年頭詔書(いわゆる「人間宣言」)や、戦後巡幸での天皇と国民が触れ合う姿を見て、その断絶への認識は確信へと変わっていくことになった。「天皇と国民が共に歩む」姿は、新たな「民主主義国家日本」の支柱と見なされていくのである。
 この新聞記者達の記事は、戦前と戦後の天皇制を断絶したものとして見せたがっていた宮内庁にとっても歓迎すべきことであった。しかし、新聞記者達はまさにその「断絶」を盾にとって、宮内庁の報道規制への違反を繰り返すようになっていく。そして彼らは、報道の自由化に逆行する動きや、各地方で戦前を思い出させるようなあらゆる行為に対して、敏感に批判を加えていった。そのため、次第に宮内庁は「国民と共にある天皇」像以外の情報発信が難しくなっていく。つまり、一度作り上げた「民主的な天皇」像に逆に縛られていくことになる。
 そして、このような報道を正当化する論理として使われたのが、「人間宣言」と、それに基づいた新憲法第一条の「象徴」規定であった。新聞記者達は「象徴」規定を「制度」として捉えなかった。そして、戦後巡幸で彼らが報じ続けた「一人の人間」としての「国民と共にある天皇」という姿が、そのまま「国民の総意」としての「国民統合の象徴」という概念へとスライドしていった。つまりこの曖昧な「象徴」という言葉は、それを「表象」する昭和天皇の「身体=人間性」によって意味を与えられていったのである。
 そのため、新聞における天皇報道は、常に「脱政治化」された「人間性」を描くことに終始していくことになっていく。そして、天皇制を否定する左翼、天皇を神格化しようとする右翼、天皇を利用しようとする政治家などといった人々は、彼らが描く「脱政治化した象徴天皇像」を傷つけるものとみなされて全て批判の対象となっていくのである。これによって、象徴天皇制は「安定」を手に入れることができた一方、常にマスメディアからその「人間性」について好奇の目にさらされ続けることになっていくのである。そしてこれが天皇像の「大衆化」を推し進めることにつながっていくことになる。
 第Ⅱ部では、敗戦後の象徴天皇制がどのように形成されていったのかについて、皇太子明仁への教育とそのイメージ形成を通して明らかにした。
 皇太子は11才まで軍国主義が吹き荒れる中で教育を受けてきた。しかし、その教育自体には軍国主義の影響は少なく、軍人にも任官しなかったために、皇太子は戦争のイメージを背負わずにすんだ。また、教育内容も初等科の間は学生との交流を重視する方針であり、将来の天皇に必要な特別教育はまだ行われていなかった。そのため、敗戦時においては、教育においても、メディアでの皇太子像においても、固定した形が決まっていない状態であった。
 敗戦後、GHQの方針により「御学問所」での特別教育ができなくなったため、皇太子は民営化された学習院の中で、他の生徒と同様の教育を受け続けることになった。そして皇太子への教育は、天皇の退位の可能性が無くなったこと、また天皇の地位が、統治権総覧者から、政治においては形式的な「象徴」という存在に変化したために、天皇になるための特別な教育というよりはむしろ、「模範的な人間」といったような人格の陶冶を中心に据えたものになっていった。また、宮内記者達による皇太子についての報道も、皇太子を「象徴」というよりはむしろ一人の「人間」として描き、友人達と「平等」に扱われる姿を報じていった。この「人間」として教育され、報じられたことによって、皇太子は国民から親しまれる存在であると同時に、ゴシップの対象にもなっていくことになった。
 皇太子教育の中心を担った小泉信三は、この新憲法下の象徴天皇制を、皇室を政治社外に置くべきとする福沢諭吉の「帝室論」や英国の国王の立ち居振る舞いを描いたニコルソンの『ジョオジ五世伝』などから解説した。そして、この皇太子が学んでいる象徴天皇制の解釈を雑誌や単行本に掲載し、国民の前にあるべき象徴天皇制の姿を提示しようとした。また、ヴァイニングや小泉といった皇太子側近達は、自らが筆を取って皇太子の「真実」の姿を描くことによって、自分たちの発する皇太子像へと世論を誘導しようとした。しかし、皇太子を描けば描くほど、週刊誌をはじめとする様々なメディアによって、さらなる皇太子の「真実」の情報を求められていくことになるのである。
 皇太子は敗戦後の混乱状況の中で、「一人の人間」として教育され、また「一人の人間」として教育された「イメージ」を付けられていくことになった。そのため、皇太子に込められた「象徴」という言葉の内実は、「立派な人間」という皇太子個人のパーソナリティにのみ依拠されていくことになるのである。
 これを踏まえた上で初めの問いに戻る。「象徴」とは一体何であろうか。
 「象徴」という言葉は新憲法の第一条に組み込まれたものであるが、その内実は新憲法以前から行われていた戦後巡幸における昭和天皇像によって作られていた。この天皇像は「戦前との断絶性」によって特徴づけられる。宮内庁は天皇を戦争責任から逃れさせるために、軍との関係を希薄化させ、国民との交流を積極的に行わせるといった方針転換を行った。これを取材したマスメディアは、取材が規制されていた戦前との落差を実感し、好意的な報道を繰り返した。記者達は「戦前」を、軍部や官僚の手による規制(「制度」)によって天皇と国民の間の関係が断ち切られていた時代として認識した。そして彼らは、その「制度」(壁)を無くし、天皇と国民が一体となることこそ、新時代にふさわしい天皇制のあり方だと考えたのである。記者達にとって、天皇を一人の人間として描き、国民と共にある姿を報道することこそが、敗戦によって得られた教訓であったのである。
 さらにマスメディアのその認識を後押ししたのが、1946年の年頭詔書(いわゆる「人間宣言」)と新憲法の「象徴」規定であった。昭和天皇自身は、年頭詔書において、自らが現人神であることは否定しても、神の裔であることは否定したつもりはなかった。しかし、この詔書は、戦前との断絶を宣言したものと受け取られ、天皇を「人間」として描く傾向に拍車をかけていった。そして、新憲法の「象徴」規定も、天皇から統治権総攬者・大元帥の地位を剥奪したものとして受け取られ、戦前との断絶をさらに意識させることになった。このため、「象徴」という言葉は「人間」天皇という言葉と結びつけられ、一人の人間としての昭和天皇の行動が「象徴」の意味の内実を埋めていくことになった。
 このようなマスメディアの報道に対し、宮内庁は、宮内庁記者クラブを中心に情報を提供することで、報道内容をコントロールしようとした。しかし、報道の自由化による規制の撤廃により、宮内庁の思い通りに記事を書かせることはできなくなっていった。記事にするか否か、どのような内容を書くかはマスメディア側が主導権を握っていたためである。そのため、宮内庁が少しでも取材規制と見られる行動を取るたびに、戦前の国民と天皇の間を疎隔させた状況に戻そうとするものとして批判した。記者達は、新憲法の象徴規定と「人間宣言」という二つを自分たちの行動の正当性に利用し、自分たちの望む「人間」としての天皇像を宮内庁が示し続けることを望んだ。そして宮内庁も、そのような記者達の要望に応えて行かざるを得なくなっていったのである。
 そして、この戦前と戦後の状況の変化の最も大きな影響を受けたのが皇太子明仁であった。敗戦時に11才だった皇太子は、教育内容においても、報道されるイメージにおいても、何も固まっていない状態で連合国軍の占領という事態に直面することになった。まず教育方針は、天皇が政治的な権力を剥奪されたために、人格の陶冶に重点を置くことになった。
 一方、皇太子は報道記者やカメラマン、国民から、好奇の目で見られることになった。戦前のイメージの残る天皇とは異なり、皇太子はイメージが何もないが故に、皇太子像には報道記者達の望む「象徴」のイメージがストレートに反映されていった。そして皇太子は、友人達と一緒に同じ教育を行うという方針があったため、「国民と同じ」一人の個人として報道されることが多かった。そのため、一人の「人間」として扱われる傾向が天皇と比べてもより一層強くなり、ゴシップのような記事も書かれるようになっていった。これに対抗して、皇太子の側近達は自ら筆を取って、自分たちの望む次代の「象徴」の姿を積極的にアピールしていったが、皇太子のプライベートを描くこれらの文章は、さらなる個人情報を求める週刊誌などの関心をより煽っていくことになった。
 かつて松下圭一は、先に引用した「大衆天皇制論」の中で、新中間層の価値観である「恋愛結婚」や「幸福な家庭」というものに適合されたのは皇太子明仁夫妻であるとし、戦前の戦争を背負った天皇ではなく、戦争に汚されていない皇太子だからこそ「新憲法のシンボル」になりえたと述べた。しかし、筆者がこれまで本稿で論じてきたことからすれば、マスメディアによって新憲法に適合されたのは昭和天皇も同様であったということがわかる。昭和天皇の戦後巡幸における取材において、次第にマスメディアの方針に宮内庁が従わざるをえなくなり、「人間」天皇像が流布されていくことになるのである。確かに、「国民と同じ一人の人間」として報じられた皇太子像の方が、より明確に新憲法に適合的な姿を現していたことは確かである。そして、特に皇太子は、マスメディアから見られているという意識を持っていたが故に、自ら理想とする「象徴」像を進んで演じ、側近達はその皇太子の姿をマスメディアに宣伝していった。そのために、正田美智子という「スター」的な要素を持つ伴侶の登場によって、「理想的な」国民のモデルとして皇太子夫妻がクローズアップされてミッチーブームが起きるわけである。しかし、その前提には、すでに敗戦直後から天皇像と皇太子像の大衆化が、マスメディアの報道によって徐々に進んでいたことがあった。
 このマスメディアの「象徴」を一人の「人間」として捉える報道姿勢は、必然的に「象徴」の概念が、天皇や皇太子の「人格」によって揺れ動くことにつながった。松下圭一は皇室の正統性の基礎が「皇祖皇宗」から「大衆的同意」に変化をしたと述べたが、実際に現在ではそのような傾向は強まっていると言えよう。
 つまり、日本国憲法における「象徴天皇制」とは、「象徴」という概念を天皇や皇太子本人の人格に依拠させるがゆえに、「制度」として捉えられにくいという「制度的な特徴」があるのである。

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