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博士論文要旨

論文題目:日本の青年教育(1920-40s)―軍隊を起源とする人間形成方式の考察―
著者:神代 健彦 (KUMASHIRO, Takehiko)
博士号取得年月日:2010年7月30日

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Ⅰ.課題と研究対象について
 本研究は、1920年代中盤から40年代中盤にかけて展開された独特の人間形成の営みである青年教育について、その成立と展開を跡付けることを企図している。ちなみにここで青年教育と言う場合、青年訓練所(1926~35年、以下適宜「青訓」と略記)、また必要に応じて実業補習学校(1893~1935年、以下適宜「実補」と略記)、さらにそれらの後身である青年学校(1935~47年)に至る一連の国家的教育制度・機関において成立・展開した人間形成の一様態を指すと定義したい。まずは、本研究における検討対象であるところの青訓と青年学校について概説する。

1) 青年訓練所(青訓)
 青訓は、16~20歳の勤労青年男子を対象とした非義務的な教育機関であり、教授内容は普通学科、修身及公民科、職業科、教練に分けられる。その多くは同じく勤労青少年のための補習教育機関としてあった実補とともに小学校に付設され、在郷軍人が教練を教えるほか、他の科目を小学校教員が兼任した。
 また地方自治体などが設置主体となった公立のほか、私企業や組合、私人が設置主体となった私立の青訓も存在する。後者は工場や寮などに付設される場合が多く、企業内教育の一側面を担った。
 またこの青訓の修了者には、徴兵検査の結果軍隊に現役徴集された者が(陸軍の歩兵科に配属されたものに限ってではあるが)、在営期間の6ヶ月短縮という特典を得るために必要な検定を受けるための資格が付与された。
 
2) 青年学校
 青年学校は、青訓と実補双方の内容を受け継ぎつつ創設された教育訓練機関である。これは、尋常小学校卒業程度を対象に高等小学校と並立する形で教育を施す普通科と、高等小学校あるいは青年学校普通科卒業程度を対象とする本科、さらにその上の研究科及び専修科に分けられる。教授内容は、普通学科、修身及公民科、職業科(女子は家事及裁縫科も併設)、教練(男子普通科および女子は体操科)とされた。
 また初期においては軍隊在営年限短縮特典が継承されたほか、1939年には男子のみではあるが義務制が実施されたということも特色の1つである。
 この青年学校も、青訓や実補と同様に公立と私立の別がある。後者はとりわけ男子義務制実施前後に数として急激な伸びを見せた。
 
 本研究は、近代から現代に至る人間形成方式の展開のうちに独特の様態を以って存在したこれら日本の青年教育を、オリジナルな視座からの分析によって、日本における教育研究、歴史研究の中に位置づけようとする試みである。

Ⅱ.方法について
 本研究では方法として、<ペダゴジー>という概念モデル、および、<制度の社会史>という分析の視座を採用している。

1) ペダゴジー
 ペダゴジーとは、「何を如何に教えるか」という教育の内容と方法であるが、より厳密には、対象との関係の上に立ったそれらの反省的な組み換えを行う思惟の在り方を含む。本研究においてペダゴジーとは、「教える」ということに関わる思想と技術の中間形態であり、実践を導き、実践を通して(再)構築される理論としてイメージされる。
 なお本研究では、この広義の意味でのペダゴジーを、その顕れ方によっていくつかに区別して論じた。即ち、学校知識(4章)、教育実践理論(5章)、<青年>という観念(6章)、教育思想(7章)である。

2) 制度の社会史という視座―規範と領有―
 本研究では、従来制度と呼ばれてきたものを、規範としての側面、及び社会的実在としての側面の2つへと相対的に区別したい。換言すれば、従来の研究が制度と呼んできた法令テクストの集積は本研究において、第一義的には、事実を語るもの(ex「青年訓練所とは何か」)ではなく、社会を再編し制作することを企図する規範(ex「青年訓練所とはどのようであるべきか」)として捉えられる。それによって制度は、<規範>としてのそれと、<規範によって成立するもの>=社会的実在とに二重化する。
 法令テクストを事実ではなく規範として捉えることは、その法令が、常にある一定の「失敗」の可能性に開かれていることを意味する。それは、その規範が担い手たちにとって遂行不可能であった場合もあれば、あるいは一見したがっているように見える彼らの「誤解」や「曲解」、「妥協」の産物でもありうる。その「失敗」は、新たに作られる法令や、あるいは行為者たちの工夫によって補われたりすることもあるだろう。ちなみに、ここで「失敗」、「誤解」、「曲解」、「妥協」などと呼んだような、規範が人々によって集合的に担われる社会過程を経て「変質」して顕現する作用に対して、ここでは領有(appropriation)という語をあてた。
 そしてそのような規範と領有の力学を経たいわば均衡点に、先に述べた二重化した制度のもう一端、社会的実在(現実態)としての制度―いわば「人々によって生きられた」制度―が生成される。これは換言すれば、従来の研究において漠然と「制度実態」などと呼び慣わされてきたものと重なる。ただし、「制度実態」という語が、静的な実態(=構造)というイメージを惹起するのと対照的に、本研究で言う社会的実在としての制度は、規範と領有のせめぎ合いという社会過程の表現であって、それ自体常に変動の可能性に脅かされるものである。
 
Ⅲ.本研究の概要
 本研究は、第1、2、3章で構成される第Ⅰ部、第4、4.5、5、6、7章で構成される第Ⅱ部の2つに大きく分かれる。主として第Ⅰ部は、それぞれの章のモチーフはありつつも、総論的・通史的・巨視的な叙述によって、青訓・実補から青年学校へ至る流れを検討する。それに対して第Ⅱ部は、基本的には時系列に並べられた各論から成る。

1) 第Ⅰ部.青年教育の成立と展開―規範と領有、制度の社会史―
 第1章は、青年教育成立の1つのメルクマールとして、青年訓練所令の施行に関わる政治過程に焦点をあてる。そこでの作業課題は、①田中義一、宇垣一成、永田鉄山という3人の軍人の青訓構想の分析、②実務官僚としての社会教育官僚に焦点を当てた分析、③青訓を諮詢した文政審議会の検討、の3つである。それによって、青年教育の多元的な起源を立体的に把握することを企図した。
 固有の政治過程を経て成立した青訓が、人々の生活実態との往還関係の中で、微修正を伴いつつ存在する様を描くのが第2章である。青年訓練所令あるいは関係法令の成立は、青年層やその周囲の人々の関係性の再編を意味する。それは、ある一定の「失敗」を含みながら、むしろそこに失敗があるからこそ克服のための様々な対応策が試された。この動的なプロセスが、第2章のテーマである。
 第3章は、青年学校についてである。青年学校は、1935年に青訓と実補が統合されて成立した。また1939年には、勤労青年男子の全てを収容することを目指して男子義務制を断行する。青年学校の展開は、それ自体が軍隊や産業界と密接な関連を持つゆえに、それらとの絶えざる折衝を伴っていた。また、とりわけ社会状況との関連で言えば極めて多くの矛盾を孕むこの営為を下支えしたのは、公立とは区別される質をもった私立青年学校の普及・増大である。社会変動と政治的・軍事的要請を受けた学校制度の新展開の1つとして、ここでは私立青年学校をとりあげている。

2) 第Ⅱ部.実践の地平―意味論的、あるいは<教育と社会>的考察―
 第4章は、教練の学校知識論的分析とも呼びうるものである。
 ここで重視したのは、青年教練において何を如何に教えるかということにかかわる、その編成の構造と個別的様態である。ここでは、<意味>と<知識>という相対的に独自な範疇へと分析的に区別することによって、青年教練をそれ自体として、また軍隊教育との差異(異同)において捉える道筋が開かれる。
 4章が「学校知識」という、個人に還元されない社会的実在を対象としているとすれば、5章では一転して、具体的な個人に即して青年教育が検討される。ここでの分析の対象は、愛知県岡崎市のある青訓の主事である石田利作という人物、及び彼が打ち立てた教育実践理論(狭義のペダゴジー)である。石田が経験した、個別具体性を持った現場実践の中から立ち上がってくる、青訓の人間形成の思想と技術、またその存在理由について検討した。
 6章は東京の青年学校を事例としたものだが、これまでと趣が異なり、N・ルーマンの社会システム論に準拠した分析を行う。ここで探求の対象とされるのは、教師たちを拘束しているモノの見方、考え方、総括の仕方であり、それと不可分に存在する<青年>という観念である。青年教育の成立において<青年>という観念は不可避の課題であり同時に存立の基礎である。6章は、いわゆる心性とも言い換えられる社会的構築物を社会学的な言語によって記述する試みである。
 7章は、ある無名の青年学校教師が残した教育計画(及びその反省の記録)を素材として、青年学校(実補)職業科の営みと、その営みを媒介にして成立した彼の教育思想に迫った。ここで扱われるのは青年学校における職業科の実践だが、そこで教師は近代学校と徒弟制的人間形成の狭間に立ち、両者の止揚を以って共同体(地域社会)の発展を目指す。時代と社会に「裏切られる」形でその実践自体は潰えていくが、そこに存在する実践家ならではの、現実と格闘しながら構築・修正され、あるいは崩壊していく、無名の教育思想について検討した。

Ⅳ.得られた成果
1) 軍事の論理の逆説
 特に第1章や2章において顕著であるが、本研究で示した成果の第一は、教育史研究においてしばしば言及されることはありつつも、正面から議論の俎上にのぼることのなかった軍人の言説について検討した点にある。
 とりわけ強調しておくべきは、青訓構想に窺われる軍事の論理であろう。具体的には、軍人たちの青訓構想は、良兵良民主義の延長としての良民良兵主義という理念に象徴されている。ここで言う良民良兵とは、突き詰めて言えば、国家総動員体制に際して求められることが予想される、将来のあらゆる局面に対応可能な人間形成の思想である。したがってそれは従来の研究の知見とは幾分異なって、必ずしも狭義の軍人作りに限定されない。国家総動員のリアリズムが、それを許さなかった。勤労青少年の心身の最大効用化と規律化こそがここで求められたものである。
 したがって強大な政治勢力としての軍部が狙ったのは、学校教育の領域と軍事の領域が相対的に自律的に稼動しつつ、職業社会とも関連しながら有機的に連繋することであった。青訓の教育(青年訓練)は、軍隊教育(の劣化版)としてではなく、それ自体固有の青年教育であることによって、軍隊と職業社会の双方に奉仕すべきとされたのである。
 この制度像は、戦局の悪化に伴う社会の変化―あるいは、勤労青少年のライフコースにおける徴兵リアリティの増大―が起こる1940年代まで、青訓や青年学校の基底部分を構成するものであって、青年教育の歴史的展開を理解する上で極めて重要な事実である。

2) 生きられた制度の歴史:青年訓練所
 他方、基本的に青訓が陸軍の思惑から作られたものであったことは間違いない。それは生活世界の文脈の中に生きる青年たち自身の要求によって作られたものではなく、また半ば必然的にその帰結として、彼らへの配慮が不十分な制度として構想されていた。よって現実にはそこに構造的な抵抗としての慢性的な未入所・欠席・途中退所という現象が生まれたが、青訓はまさにそれらへの対応としてのいくつかの入所督励策によって、その実態が特徴付けられるものであった。即ち、軍隊への、また当時大きな変革の中にあった職業社会へのより良い接続ルートとしての青訓である。
 しかしこの制度の創設は、とりたてて勤労青少年の職業社会や軍隊への<移行>を意図したものではなく、したがって青訓に実質的に付与された職業社会や軍隊への接続という機能は、停滞していた量的な意味での青訓の普及を促進するための方途であって、必ずしもそれ自体が目的なのではなかった。そしてここに、制度の実態やその運用が、人々の生活によって規定されている側面を見ることができる。制度創設者の意図は、第一義的には先に述べたような心身の最大効用化と規律訓練、あるいは学校制度と軍隊の合理的接続であった。他方、そこを生きる勤労青少年にとって青訓は、徴兵の保険であり、あるいは職業社会へ分け入る際に有用な自己の差異化の方途であった。制度は、あるいは制度の意図は、そのようにして生きられた(領有された)のである。

3) 制度の歴史性と社会性:青年学校
 制度が生きられるそのような過程は青年学校期においても同様だが、第3章では、また別の側面から制度を論じた。つまりは、法令条文に現れた青年教育の反省性、あるいはその歴史性、社会性である。
一言で言うとすれば、ここで論点となった法制上あるいは実態上に看取される様々な事実は、青年学校が歴史的・社会的力学のただ中で存立することそのものへ向けたある種の工夫、試行錯誤であった。青年学校が存立すべき社会とは、歴史的・社会的力学によって支配された空間なのであって、そこに新たな学校制度を作り出すということは、強力な権力装置たる国家にとってでさえ、容易ではない。本研究は、しばしば目的論(軍国主義、教育の機会均等)のみで語られることに終始してきた青年学校の研究史に対する物足りなさから出発しているが、それに対して本研究が示した、歴史的・社会的力学に抗して存立するための工夫という知見は、シンプルだが、研究史に対してある程度の貢献をなし得る重要なものであると考える。

4) 学校知識
 学校知識は、広義の意味でペダゴジーと呼ぶものの1つであるが、教育実践現場における属身的・前言語的なコミュニケーションの技に比べれば、より伝達すべき内容及び技術として対象化されたものとして想定した。これは、現場の実践理論を規制する反面、そこに実践のアイデアを提供するプールでもありうる。本研究ではこの視座を援用して、青訓及び青年学校における教科目としての教練(青年教練)を分析した。
 結論としては、青年教練は、<知識>として軍隊と青年教育機関を確実に繋ぎ、そして、むしろそうであるからこそ、<意味>としては人間形成の1つの技法であり、軍隊へ徴集されるか否かによらず、当時の社会に生きる人として必要な知識伝達であることを規範的に要請されていた。「そうであるからこそ」という逆説が、ここでは非常に重要である。青年教練は、徴兵された場合にどうしても役にたってしまう。だからこそ、それは職業社会を生きていく上で必然性を持つものでなければならなかったし、またそのように承認される必要があった。そうでなければ、青年教育は積極的または消極的に、徴兵という確率論的なライフイベントを自覚的に自分の人生に重ねて生きる者にしか、必然性が感じられなくなってしまう。そして本章で扱った指導書群=学校知識の諸様態は、その不安定な構造の上にせめぎ合いつつ展開された、学校知識の型のバリエーションであると言える。

5) (教育)実践理論
 より実践現場のコミュニケーションに近い領域におけるペダゴジーの様態については、(教育)実践理論の語をあてた。青訓主事石田利作の著作に現れたそれには、2つの側面がある。1つは、生活、それも勤労青年にとって当然の現実として存在する、職業と深く結びついた<生活>を鍵概念とした人作りの技の側面であり、いま一つは、一度軍隊との連続性を意味論的に断ち切った上で、その固有の意義を確立するという理論的営為の側面である。
 他方、とりわけ本章第Ⅰ部との関連で言えば、後者=「軍隊にもつなぐために敢えて切る」(=分節化)という、周到な理論的営為は非常に興味深い。石田は明らかに教育(実践)の領域に生きる人物だが、見事に、先に述べた軍人たちの青訓構想に呼応した実践理論を展開している。教育的に考え、教育的に発言すること(即ち、教えるということに関わって内容を組み換えるという発想や営為)が逆説的に軍事的なものによりよく繋がるというこのパラドックスは、青年教育をそれ自体として、また隣接諸領域との関係において検討しようとする本研究にとって象徴的な事柄と言える。
 
6) <青年>という観念
 なお、この第Ⅱ部でほぼ一貫して問題となっているのは、<青年>という観念である。ペダゴジー(=何を如何に教えるか)の基底となる、<誰に>、<如何なる者に>という問題系がそこに存在する。方法も内容も、その構成にあたっては、働きかけの対象の性質に即することが重要な基礎であることは容易に想像がつくことであり、本研究では、教師によって捉えられたその対象の一般性質(と彼らが前提したもの)について言及した。
 結論としては、そこには大きな論理的誤謬が存在することが示された。本研究ではそれを大きく3点指摘し、それぞれに<単純化>、<本質化>、<時間化>という語をあてた。それは、<青年>(あるいは<勤労青年>)というカテゴリで、ある個体群をまとめることの恣意性(根拠のなさ)を示すものであるが、しかし、その事自体は教育実践が成立することの根拠であったと言える。本研究で示した<単純化>、<本質化>、<時間化>といったプロセスは、彼らの教育の成立にとって必要な誤謬=教育の可能性の条件であった。
 
7) 教育思想
 広義のペダゴジーを構成するカテゴリとして本研究で設定した最後の1つは、<教育思想>である。しかも、通常「思想」という言葉で連想されるような、その名が人口に膾炙した有名の人々ではなく、実践現場で苦悶するある無名の青年学校教師のうちに「思想」を見るところに、本研究の独自性もある。
 その無名青年学校教師の<教育思想>を、本研究では、<目的的規定説>の契機(「刃物による訓育」)をはらみつつも、既存の学校教育を「徒弟法」を媒介として止揚し、また実践の評定尺度を教育事象外在的な社会的(市場的)評価に置きつつ実践を遂行するという、<社会的規定説>の発想が強く反映されたものとして捉えた。彼の思想がこのような構成をとるのは、明らかに既存の学校教育批判の文脈によるものであるが、筆者としては、このような学校批判の上に構築された学校像を示す<教育思想>は、それ自体が学校方式の展開でありながら学校方式の捉え返しであった青年学校を象徴するに相応しいものであったと考えている。

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