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博士論文要旨

論文題目:ドイツ後期照明思想における「理性の公共的使用」について
著者:宮本 敬子 (MIYAMOTO, Keiko)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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本研究はドイツ後期啓蒙主義時代(1780年頃-1800年頃)における「言論の自由」の諸議論を考察し、その中でもとくにイマヌエル・カント(1724-1804)の「理性の公共的使用」概念がどのような思想背景のもとで形成されたのかを探究するものである。
 
 使用する主要テクストはカントの『啓蒙とは何か』(1784年)である。「理性の公共的使用」はこの論文で言及された概念である。非常に短い論文ではあるが、当時の諸啓蒙主義者に特徴的なある思想傾向に対する核心的な批判を含んでいる。そして、このテクストに関連する主要な文献として、プロイセンの司法官僚エルンスト・フェルディナンド・クライン(1744-1810)の論文『思考と出版の自由について―君主、大臣、文筆家へ』(1784年)を考察する。この他、『啓蒙とは何か』に関連する人物として、ユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)、ベルリン王立図書館司書のヨハン・エーリッヒ・ビースター(1749-1816)、 上級宗教局顧問官のヨハン・フリードリッヒ・ツェルナー(1753-1804)、そしてプロイセン国王、フリードリッヒ2世(1712-1786)なども取り上げる。『啓蒙とは何か』は決して抽象的な議論ではなく、彼らの議論を踏まえたきわめて時事的かつ政治的な論文である。本稿の主要テーマは、抽象的な理想論と見られがちなこの論文が一体何を批判し、何を護ろうとしたのかを明らかにすることにある。
 
 本稿の構成は以下の通りである。
 
《ドイツ後期照明思想における「理性の公共的使用」について》

緒 言  問題の所在
第1章  「啓蒙」再考 
 第1節 「啓蒙」の方法としての「理性の公共的使用」
 第2節 『啓蒙とは何か』、以前
 第3節  ディルタイの隠度
 第4節  ハーバマースの隠匿
 第5節 「啓蒙」はAufklärungの訳語としてふさわしいのか?
 第6節 「照明思想」の時代区分
 
第2章  カントの「後見人」批判としての「理性の公共的使用」
 第1節  ベルリンの照明思想家たち
 第2節 『照明とは何か?という問いへの答え』
 第3節  言論の自由とその誤用
 第4節  プロイセンの後見人たち
 第5節  カントの「公共性」の構造転換
 
第3章  フィヒテの「思想の自由回復要求」
 第1節  ヴィーラントの「6つの金の粒」
 第2節  照明の階級制
 第3節  権利としての「可謬性」
 第4節  踏み越えられる境界線

第4章 共生の思想としてのカントの政治哲学  
第1節 共生の思想としての『永遠平和のために』
第2節 無党派的自律的思考としての中庸と「理性の公共的使用」
第3節「理性の公共的使用」を補完する「完全誤謬の否定」
 第4節「理性の公共的使用」と「教育」
 
結語  「照明思想」を楽観と軽視することの楽観
 
 
第1章「啓蒙」再考
 第1節では『啓蒙とは何か』の内容を概説し、「理性の公共的使用」の論理構造について説明を行う。
 第2節では初期啓蒙思想の代表的思想家クリスティアン・トマージウス(1655-1728)の「言論の自由」概念や、盛期啓蒙思想の代表的思想家、クリスティアン・ヴォルフ(1679-1754)の「言論の自由」論など、カント以前の啓蒙思想家たちの議論に内在する理性の公共化の論点を考察する。彼らの議論はカントの「理性の公共的使用」概念に先行する事例と見なすことができ、啓蒙思想、とくにドイツの大学教師による啓蒙思想がカントの考察した公共性の問題に影響を与えたと思われる。
 そしてこのことと対比させる形で、第3節、第4節においてはそうした照明思想における理性の公共化の論理を過小評価する議論について考察する。
 第3節ではディルタイの著作『フリードリッヒ大王と啓蒙主義』を扱う。この著作はフリードリッヒ2世の思想に歩を合わせた国民国家的なものを志向する「上からの」啓蒙を「啓蒙思想」とし、この道からはずれる啓蒙思想家の諸議論についてはその考察の俎上に載せていない。さらにディルタイはカントの啓蒙理論をそうしたフリードリッヒ2世らの啓蒙思想の系譜に配置している。しかしカントはそうした啓蒙理論をこそ批判したのであり、ディルタイは結果的にカント啓蒙理論における世界市民思想の意義を曲げてしまったと言える。
 第4節ではハーバマースの著作『公共性の構造転換』におけるカント解釈の問題点にふれる。ハーバマースはこの著作でカントの「理性の公共的使用」について説明を行っているのだが、そこでは「理性の公共的使用」が18世紀の「私人」たちのイデオロギーとして機能していること、またカントの照明思想が叡知的公共体を現象的公共体として具現しようとするものであったことが語られている。ハーバマースは、カントが「感性的衝動を生きる商品所有者としての私人の立法」と「精神的に自由な人間の立法」という二つの異質な立法を調和させ、しかも一方が他方を害することがないと見なしているとし、これによってカントの構想する公共性が「擬制」であると主張する。一見ハーバマースの議論は堅固なものに見えるのだが、カントの著作『理論と実践』(1793年)における「国法」の議論を論拠とするハーバマースの解釈が、この著作の文脈と当時の状況を考慮に入れたものとは言いがたいことからこの解釈に異議を唱えた。
 第5節では、Aufklärungという言葉がどのような経緯で使用されるようになったのかを説明し、日本語の「啓蒙」という言葉がAufklärungの訳語として相応しいものではないことを明らかにした。日本語の「啓蒙」が中国に由来する子供の訓蒙を指す語であり、最初から他律的な意味しか有していなかったのに対し、Aufklärungは自律的側面と他律的側面の二つの意味を合わせもっている。しかも、この言葉が公共体や民族の道徳などの観点から使用されはじめるのは18世紀後半以降と考えられており、そうすると日本語でいう「啓蒙」の意味は後から派生したことになる。そこでこの節以降は従来の研究で用いられてきた「啓蒙」のかわりに「照明」という訳語を使用することにした。そして最後の第6節において照明思想の時代区分を説明する。

第2章  カントの「後見人」批判としての「理性の公共的使用」
 第1節、第2節では『照明とは何か』が公表される前の2年間に刊行された諸論文の中から、『照明とは何か』に関連する言説を紹介してゆく。ここでは定期刊行物『ベルリン月報』や、メンデルスゾーン、ビースター、ツェルナー等の言説にふれる。
 第3節、第4節では、クラインの論文『思考と出版の自由について―君主、大臣、文筆家へ』の考察を中心に、フリードリッヒ2世の言説も関連させつつ考察する。
 第5節においては以上の思想家たちの言説を踏まえた上で、カントがこれらの議論のどのような点を問題視し、またこれをどのように批判したのかを考察する。
 
第3章  フィヒテの「思想の自由回復要求」
 この章では『照明とは何か』の後に現れた言論の自由論について考察する。
 第1節では、ベルリンの照明思想家たちと似通った議論をしているクリストフ・マルティン・ヴィーラント(1733-1813)の議論を紹介する。ヴィーラントの議論は、ベルリン照明思想家たちによって設立された非公開の協会「水曜会」でなされた「照明」をめぐる諸考察の仕方と同じような進め方をしている。ただし、ヴィーラントが「仕立屋や靴屋まで」例外なく「人間を啓蒙する権利がある」と主張しているように、その議論は民衆の「啓蒙」に躊躇していた「水曜会」の人々に比べてかなり開かれたものとなっている。
 第2節はヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814)の『思想の自由回復の要求』(1793年)を考察するための導入部分となる。この著作が世に現れる前の出来事や、検閲内容の変遷などにふれる。
 第3節、第4節においてフィヒテの言論の自由論を検討した。フィヒテの批判の宛先は、『照明とは何か』におけるのと同じであり、またその内容からフィヒテの議論が『照明とは何か』を継承するものであると結論づけた。またここではフィヒテがカントの『純粋理性批判』(1781年、1787年)『実践理性批判』(1788年)の議論を踏襲していることにも言及している。『照明とは何か』はその後の論壇で注目された形跡があまりなく、カントの照明理論はむしろ後期照明思想の傍流にあったと考えられる。こうした観点から見ることで、カント的照明思想を展開したフィヒテの議論の重要性が理解されるだろう。ただし、「譲渡不可能な権利」としての言論の自由の奪回を試みるフィヒテにはカントとはまた異なる独自の思想が見られる。そこで第4節においてフィヒテの議論の独自性について論じた。
 
第4章 共生の思想としてのカントの政治哲学
 第1節ではカントの著作『永遠平和のために』を中心に考察する。カントは世界の公共的福祉の観点から人間の共生を目指している。しかし、この著作を評価した者も存在するものの、当時の照明思想家はそこで語られた不正に対するカントの危機感を共有しているとは言いがたい。カントに近いところにいたフィヒテでさえも、その『「永遠平和のために」イマヌエル・カントの哲学的論考』(1796年)において、カントの危機感を理解していなかったことを露呈している。またカントの弟子にあたるフリードリッヒ・ゲンツ(1764-1832)もその『永遠平和について』(1800年)において「永遠平和はいうまでもなくキマイラである」と述べたのであった。『永遠平和のため』を批判的に考察した人々の言い分にはもっともなところもあるのだが、ただカントは植民地などでの不正行為を即刻停止すべきと考え、そうした観点から考察を進めている。このことについては重視されてもよかったのではないかと思う。
 第2節では再び過去に遡り、初期照明思想における中庸概念が無党派的かつ自律的思考を目指すものとして機能していたこと、そしてこうした思想の影響下で若きカントが『活力測定考』(1747年)を執筆したことについて論じた。このことは「理性の公共的使用」概念の形成にも関連していると思われる。
 第3節では、『論理学講義』(1800年)などを用いてカントの誤謬論を考察する。「完全誤謬」を否定し、誤謬はすべて部分的であると見なしたカントの議論は、他者に対する完全な否定を回避し、コミュニケーションを持続可能なものとする。それは理性の公共化の論理を補完するものとして機能するだろう。
 第4節では、まずカントの『教育論講義』(1803年)を考察した。カントは世界市民思想が教育によって獲得される概念であると考えている。カントは、「たとえ世界の公共的利益が祖国の利益にならなくても、あるいはみずからの個人的利益にさえならなくても、子どもは世界の公共的利益を祝福できるようにならなければならない」としている。次にカントの『諸学部の争い』(1798年)を用いて、理性を公共的に使用する大学の学部としての哲学部を中心に構想されたカントの大学論を考察した。この著作では「理性が公共的に語る権限」を有す下級学部の哲学部が、政府、または規約のような「文書」的なものによって制約されている神学部、法学部、医学部の三つの上級学部に対して、常に批判的な吟味を遂行すべきことが主張されている。

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