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博士論文要旨

論文題目:「解放」後在日朝鮮人史研究序説(1945-1950年)
著者:鄭 栄桓 (CHONG, Yong-Hwan)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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 「在日朝鮮人問題」は、1950年代以降の日本と南北朝鮮の関係の中心に位置してきた。1951年に始まった日韓会談は、在日朝鮮人の国籍及び在留権問題を主要議題とし、朝鮮民主主義人民共和国の最初の対日講和の呼びかけたる1954年の南日声明は、在日朝鮮人に対する日本政府の迫害の中止と帰国を訴えた。その後半世紀が経とうとしているが、いまだ「在日朝鮮人問題」は日朝関係の中心的テーマの一つであり続けている。「在日朝鮮人問題」を抜きにして現代日朝関係を理解することは不可能であるといっても過言ではない。
 だが「在日朝鮮人問題」をめぐる交渉は常に当事者たる在日朝鮮人抜きに行われ、在日朝鮮人の「問題化=客体化」は交渉の不動の前提であった。本論文は、在日朝鮮人をめぐる諸問題は、いかなる過程を経て、当事者たる在日朝鮮人を排除した「在日朝鮮人問題」として客体化されるようになったのかを明らかにするところに最大の問題関心を有している。いわば「在日朝鮮人問題」の発生史的研究であるといえる。
 その際、論文では大きく二つの課題を設定した。第一は敗戦後日本において、植民地期に構築された朝鮮人支配構造がいかなる過程を経て再編したのか。敗戦後日本国家の朝鮮人に対する諸施策は植民地期の支配の強い影響を受けており、日本が第二次世界大戦に敗北したとはいえ、断絶よりも連続にこそ注目すべきと考えたからである。第二は、この再編過程において日本国家の対朝鮮人「統治」、すなわち支配権限がいかなる形で最終的に日本国家へと帰着していったのかを明らかにする。この際、連合国総司令部に代表される占領当局と日本政府の二者間関係のみならず、朝鮮人団体を対象に含むかたちでこの問題を検討したい。日本政府と占領当局の二者間の在日朝鮮人に関する「合意」のみを持って在日朝鮮人「政策」史が可能であるとする認識こそが、「在日朝鮮人問題」という枠組みを成り立たせているからである。
 
 以上の問題意識から、在日朝鮮人側に視座を据えて、敗戦後日本における朝鮮人に対する支配構造の再編過程を検討するという本論文の趣旨に照らし、在日朝鮮人の動向と二本政府・占領当局の相互関係を時系列的に追跡できるように各章を構成した。
 第一章では「解放」直後在日朝鮮人の団体結成の動きとその担い手を1945年10月に結成された在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)及びその自衛・自治組織たる「朝連自治隊」を中心に検討した。日本敗戦直後の朝鮮人殺傷事件への対処や安全な帰還支援のために各地に朝鮮人自衛組織が叢生し、その糾合・統制のため、朝連は朝連自治隊ならびに特別自治隊を結成し、整備・体系化を図った。自治隊の主な活動は「同胞の生命財産保護」であり、同時に「不良輩」の処罰を通じた朝鮮人内部からの侵犯行為に対する制裁であった。だが、「不良輩」として処罰された者の一部が、朝鮮分断の進行と共に政治的に朝連と対立関係に立ち、占領当局・日本警察と結びつくようになる。
 第二章ではこうした朝鮮人の「自治」活動に対する日本側の治安体制の再編過程を検討した。敗戦と占領という状況を前に一端は日本の対朝鮮人治安体制は動揺するが、占領当局への強い働きかけにより46年2月には治安当局は朝鮮人に対する起訴権・裁判権を「奪回」し、改めて「戦後」的な警察支配の再編に乗り出す。この過程で警察の朝鮮人に対する法を逸脱した弾圧とその免罪、他方での朝鮮人団体の「自治」のための捜査活動の犯罪化が進められる。さらに団体規制の面でも内務省は「民主化」「非軍事化」のための法令たる勅令第101号を朝連にも適用しようとし、占領政策の必要上届出を免除されていた労働組合との顕著な違いがあったことを明らかにした。
 第三章では治安体制再編過程で生じた朝鮮人虐殺事件たる寄居事件を通して、朝鮮人団体、警察、日本人暴力団の三者関係について分析した。この事件は第一章で見た日本人による朝鮮人殺傷に対する朝連による取締活動と、これに対する警察の規制が焦点となった事件である。ここでは朝連の活動が完全に犯罪化され、検察・司法がこれを追認していくなか、布施辰治が朝連活動家を弁護するなかで日本人による朝鮮人殺傷を「戦争犯罪」が継続したものと捉える認識を提起した。
 第四章と第五章ではでは朝鮮人の帰還への動きが停滞し始めた1946年初頭以降に、日本・朝鮮の朝鮮人・日本人の往来を原則禁止する「渡航阻止制度」を作り上げることにより移動を犯罪化する一方、こうした渡航阻止が朝鮮人「不法入国」者摘発のための国内管理制度へと展開し、1947年5月の外国人登録令として法制度化されていく過程を明らかにした。特に外国人登録令交渉をめぐる朝鮮人団体、内務省、占領当局の三者関係の展開に注目し、朝連中総は楽観的な見通しのもと6月の段階で外登令への協力に応じたが、そもそも内務省側に朝連中総の要求を守る気は無く、このため地方での交渉はいずれも暗礁に乗り上げたこと、そしてこのため、朝連中総は外登令そのものの改定が必要であるとの立場に転換し、地方にもその旨指示したことが確認された。
 また、朝連等のいずれの団体も、外登令を契機に在日朝鮮人を「外国人」として承認することを求めたが、結果として朝連が認めさせることができたのは外登令と国籍問題を切離すことに留まった。一方、内務省は外国人登録実施後の体制を築くべく、「外国人登録カード」による外国人登録記載情報の一元的管理、「無籍者」に更新制付仮証明書を交付することに監視といった、その後の「外国人登録体制」の基礎ともいうべき制度的枠組を構築することになった。
 第六章「解放」後の在日朝鮮人運動の新たな基盤として、青年層を中心に形成された新活動家層について、特にこれらの新活動家層の養成機関としての高等学院・青年学院の設立過程とその教育内容の実態、そしてこれらの学院を経て実践に出た活動家の実態について明らかにした。新活動家養成は1946年に開始され、47年には本格的展開を見せ、一年間で約3,000名の卒業生を出すに至る。こうした新活動家養成を担ったのは朝連中央高等学院や三一政治学院といった各地の十数校の高等学院と、それを遥かに上回る夜学形式の青年学院であり、両者は47年には青年学院→高等学院という形で体系化されることになる。また、高等学院の教育内容は、共産党系人脈の影響が極めて強く、新活動家の養成にあたっての同人脈の影響力の強さが明らかになった。
 第七章では在日朝鮮人が直面した「二つの課題」、すなわち朝鮮と日本の政治的状況にいかに参与し、いかなる権利を求めるのかについての諸団体の議論を、朝連を中心に整理し、それが第二次米ソ共同委員会の破綻によって動揺していく過程を明らかにした。この過程で朝連内で「民族の論理」と「階級の論理」が拮抗する事になり、朝連中央総本部は折衷的な立場を取っていた。参政権問題についても「外国人」という朝連の論理と矛盾しないとの立場にたっていた。だが、第二次米ソ共同委員会が破綻することにより朝鮮分断の危険性が目前に迫り、同時に日本における朝鮮人弾圧が外国人登録令という形式を得たため、朝連も新たな情勢への対応を迫られることになる。朝連の白武書記長はこれを打開しようと「民族の論理」に基いた参政権獲得不可、生活権擁護運動、「反・単独選挙」のラインでの統一戦線構築を模索することになるが、結局朝連中央委員会での猛烈な批判に遭い、白武は失脚し、既存の朝連の路線は維持されることになった。
 第八章では南朝鮮単独選挙と在日朝鮮人の民族教育弾圧の同時代性に注目し、両者をめぐる弾圧の位相と在日朝鮮人団体の動向を、主として単独選挙支持派であった朝鮮建国促進青年同盟兵庫県本部を中心に検討した。朝鮮分断が近づくにつれ、朝連は次第に米占領当局との対立を深めていくが、とりわけ大韓民国建国のための国連監視下南朝鮮単独選挙に対し、朝連が猛烈な反対運動を展開したことは占領軍と朝連の敵対関係を決定的にした。南朝鮮で選挙が行われた48年5月は、上記の朝鮮学校に対し日本政府・占領当局が閉鎖命令を出した時期(48年1月-4月)とも重なっており、これら学校閉鎖反対闘争もまた、米占領当局には南朝鮮総選挙反対闘争に映った。このため、米軍は48年4月、神戸で在日朝鮮人が実力で学校を防衛すると即座に「非常事態宣言」を発令し、憲兵を動員して数千人の朝鮮人を検束するに至った。この間、大韓民国支持に属する朝鮮建国促進青年同盟(建青)の兵庫県本部は占領軍に付き従い、朝連の指導者たちの検束に協力した。ただ、朝鮮における米軍政は南朝鮮総選挙における在日朝鮮人の参政権については、積極的にこれを認める方策を採っておらず、建青の選挙への参与勧誘というよりも、反対運動弾圧としての性格のみを持ったといえるだろう。
 第九章では分断体制が構築されようとしているなか、「戦後」の国際体制がいかに植民地支配の問題を扱ったのか、そしてそれに在日朝鮮人がいかに対応したのかについて、極東国際軍事裁判を事例として明らかにした。当初より在日朝鮮人諸団体は東京裁判の帰趨に注目し、日本の戦争責任・戦争犯罪を追及すべしとの声を上げ続けた。だが東京裁判判決では責任追及は一部に限定され、植民地支配責任・植民地犯罪が裁かれないことは確定的になる。これに対し在日朝鮮人団体や朝鮮人発行新聞は強く反発した。それらはいずれもが東京裁判が「平和に対する罪」という新たな概念を用いて、戦犯を裁いたことを評価しつつ、日本の朝鮮植民地支配に言及しつつ判決を批判した。日本の海外侵略の規定を一九〇五年の「乙巳保護条約(第二次日韓協約)」にまで遡るべきだとの主張もなされており、東京裁判が朝鮮植民地支配を裁かなかったことを批判した。また、元朝鮮総督の南次郎等の処罰をめぐっては、韓国政府がその引渡を要求したことや、それをめぐって当時の新聞間で若干の論争があったことが明らかになった。
 第十章では朝鮮分断前後における在日朝鮮人の法的地位をめぐる論議について、「外国人」という地位を軸に検討した。朝鮮での分断国家樹立という事態を前に、占領当局・日本政府は在日朝鮮人の法的地位、とりわけ国籍についての新たな対応を模索することになったが、結果的には「講和条約まで日本国籍」という日本政府の見解が引続き維持されることになった。この過程で外国人登録令と食糧配給通帳の連結による事実上の登録再調査が行われ、朝鮮人団体側は国家樹立に対応するなかで、日本政府に今度こそ「正当な外国人待遇」をするよう強く主張するようになった。しかし日本政府は従来の見解を維持しようとし、これを認めなかった。ただ、ここで朝連と近い関係にあった日本共産党から「外国人待遇=特権」とする批判が起こり、朝連が「正当な外国人待遇」を掲げることは戦後革新の側からも問題視されるようになる。朝鮮分断を前後して、在日朝鮮人団体の「外国人」としての主張はいわば挟み撃ちにあったことが明らかになった。
 第十一章では第二章でみた団体規制が1948年以降にいかなる論理で展開していくのかを考察し、その延長線上に朝連・民青解散を位置づけた。1946年以来、内務省が在日朝鮮人団体を勅令第101号の団体規制の対象としようとしたことは第二章で見たが、1948年に入ると占領当局もまたこれを求めることになり、最終的に1949年9月には朝連・民青に対する解散指定がなされることになる。ここに在日朝鮮人はその「外国人」たる法的地位を否定されるのみならず、活動と生活の物質的基盤を奪われることになる。解散過程では、朝連の指導的活動家に限らず朝鮮人の組織活動全体への規制が試みられ、財産接収・預貯金支払い停止は解散指定された朝連・民青以外の団体及び個人にも及び、特審局は団体結成を制限される「構成員」についても極めて広範な解釈を採用した。
 第十二章では1949年12月の外国人登録令改定による切替制度の導入と韓国における在外国民登録との関連性を検討することを通じて、「外国人登録体制」の確立の歴史的意味について明らかにした。この外国人登録令改定により「外国人登録体制」は確立し、在日朝鮮人の「外国人」化は決定的に困難な状態に置かれることになった。政府は従来どおりの反「外国人化」というラインを崩さず、韓国政府・民団は在外国民登録と外国人登録との連結を求めたが、日本政府はこれを拒絶した。一方、在日朝鮮人の側でも南朝鮮でのパルチザン討伐や兵役法実施による徴兵検査への忌避感情が高く、在外国民登録も低調だった。
 ここに確立を見た「外国人登録体制」とは、分断体制下で在日朝鮮人が朝鮮半島との結びつきを持ちがたくなった状況に乗じて日本政府の法秩序の枠内に在日朝鮮人を「日本人」として囲いこみ、かつ日本人には適用されない外国人登録証切替による監視や登録義務違反や常時携帯義務違反といった不法行為類型の適用という、特殊な朝鮮人支配を可能にする体制であった。1949年の朝連・民青の解散指定と朝鮮学校の閉鎖という在日朝鮮人団体の物質的破壊を前提に、ついに日本政府はこうした朝鮮人支配の法構造を作り上げるに至ったのである。
 
 以上の経過を経て、1950年までに日本政府は在日朝鮮人団体を団体等規正令によって解散指定することによりその交渉主体性を否定すると同時に、「外国人登録体制」確立によって個々の朝鮮人に対し日本政府が直接的な(つまり、南北朝鮮の政府を介することなく)管理controlできる体制を整えるに至った。こうして公的な舞台から在日朝鮮人の姿を消し去った後、1951年に日韓予備会談は開始することになるのである。「在日朝鮮人問題」という枠組み、以上見たように在日朝鮮人団体に対する法的・物質的な破壊と、在日朝鮮人個々人に対する日本政府による専管的な監視制度の導入によって、その姿を現すことになったといえるだろう。
 以後の展開を見ると、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、在日朝鮮人をめぐる状況は再び大きく変化することになる。開戦直後に『解放新聞』などの朝連系メディアは発行停止とされる一方、朝連系の在日朝鮮人団体は団体等規正令により合法的な結社活動が禁止されるなか、非公然に祖国防衛隊、祖国防衛全国委員会の結成を進めることになる。祖国防衛隊は朝鮮戦争の後方基地となった日本内で反基地闘争を展開する。これを第一章でみた朝連自治隊と比較してみると、朝連自治隊が対朝鮮人殺傷や、朝鮮人間の取締などの「自治」を、「解放」直後の時空間において公的に承認させようとしたものであったのに対し、祖国防衛隊は「国連軍」を支援する日本国内の軍需施設をストップさせること、そして「国連軍」の侵略を広めるための宣伝戦の展開に活動の重点を置き、既存の支配体制との間で承認の交渉をする余地は無かった。朝連(及び朝連自治隊)はいわば日本敗戦/朝鮮「解放」という時空間のなかでの新たな秩序=法を形成しようと様々な活動を展開したのであるが、朝鮮戦争下の朝連系諸団体の運動はそれ自体が在日朝鮮人への支配装置と化した「秩序」への抵抗運動であった。
 また、民団は開戦と同時に「国連軍」への自願軍派遣を推し進め、朝鮮戦争に「参戦」することを決定する。第十一章で見たとおり、韓国国軍に参加するため軍事訓練をしていた朝鮮民主国防義勇団は、「旧日本軍人」を含む団体の結成禁止を定めた勅令第101号によって解散指定されたが、朝鮮戦争開戦をうけて、民団と「連合国(国連)」が反共的紐帯を築く過程で、自願軍派遣が実現することになる。ここにも朝鮮戦争を契機とした大きな変化を見て取れる。
 在日朝鮮人の法的地位については、サンフランシスコ講和条約発効直前の52年4月19日の法務府民事局長通達により在日朝鮮人の「日本国籍喪失」措置、そして発効後の「特定の在留資格及びその在留期間を定める省令」(外務省令第14号)により新ためて規定されることになる。この過程で、在日朝鮮人は日本国籍を「喪失」したとされ、外国人登録法(以下、外登法)・入管令の規定する「外国人」として再び日本法の中に位置づけられる一方、日韓会談の難航、日本政府の朝鮮民主主義人民共和国不承認――つまり居住国政府が国籍国を正式に承認していない状態が継続することになり、在日朝鮮人の「外国人化」は事実上先送りされることになる。唯一の講和後の変化といえば、日本国籍への「帰化」が可能になったことであった。こうして、在日朝鮮人は一般外国人とも異なる極めて特殊な地位、事実上の無国籍状態に置かれることになる。

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