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博士論文要旨

論文題目:1920年代における在日朝鮮人留学生に関する研究  ―留学生・朝鮮総督府・「支援」団体―
著者:裵 姈美 (BAE, Youngmi)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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 本論文は、留学生・朝鮮総督府・「支援」団体という三つのアクターを分析の軸として、1920年代における在日朝鮮人留学生社会の実態を明らかにし、その実態に即して留学生の主体性の形態を見出すことを目的としたものである。
 第一部では、各統計資料と雑誌、運動の分析を通じて、留学生の実態について検討する。第一章では、1920年代各年度における留学生総数と官費留学生(第一節)、留学生の朝鮮における出身地(第二節)、朝鮮の出身学校(第三節)、日本(東京)の在学先と苦学生(第四節)、専攻科目(第五節)について、それぞれの傾向と特徴を分析し、本論文全体の基礎とした。全体的に朝鮮総督府と日本文部省の留学生政策に影響されていたことが明らかになった。
 第二章では、1920年から1930年までにおける留学生の現実認識と、それに基づいた各種の運動を、時期を追って七つに分けて検討した。まず、第一節、第二節においては、1920年~1921年における留学生の現実認識と運動を分析し、留学生組織の学友会の機関誌『学之光』分析を通して、人道・平和・平等・自由、また「改造」をめぐる議論が活発に行われており、そのような認識の下でワシントン会議へのアピールと自治運動に対する反対運動が行われていたことを明らかにした。当該時期の現実認識と運動の背景には、第一次世界大戦の終結、ロシア革命の影響、2・8宣言運動、3・1運動という、1910年代における歴史的背景、それに関する留学生の経験が深く関連つけられていたといえる。第三節においては、朝鮮人・中国人・台湾人・日本人の連帯と交流から生まれて、1922年~1923年の間に発行された、『亜細亜公論』と『大東公論』を通じて、人道・平和・平等・自由に対する理解がより具体的、実践的な意味を持つようになり、弱者を社会変革の主役とみなすという、当該時期の留学生の現実認識を分析した。第四節と第五節においては、朝鮮人が経験した2度の虐殺―中津川朝鮮人労働者虐殺事件(1922年)・関東大震災時朝鮮人虐殺(1923年)―と、それに対する留学生の認識と運動を取り上げた。
 第四節と第五節においては、朝鮮人が経験した2度の虐殺―中津川朝鮮人労働者虐殺事件(1922年)・関東大震災朝鮮人虐殺(1923年)―と、それに対する留学生の認識と運動を取り上げた。この二つの虐殺事件は「日本人によって朝鮮人が虐殺された」ことのほか、事件に対する留学生(一般在日朝鮮人を含む)の対応・運動の方法にも共通する部分がある。留学生を中心とする朝鮮人は、東京において早速現地調査を行って報告集会を開く一方、朝鮮のソウルでも事件を知らせて、当局に対する抗議活動を展開した。一方、当局の反応はというと、中津川事件に際して、日本政府と総督府は「事実無根」として真相を隠蔽し、朝鮮人の抗議運動も徹底して弾圧・中止した。関東大震災に際して、総督府は朝鮮に逃げ帰ってくる留学生一人ひとりに対して「緘口」、「転学」策をもって、統制、または懐柔を行った。
 第六節においては、関東大震災以降~1926年における、留学生組織と『学之光』記事に関する分析を行った。関東大震災によって活動停止状態に陥っていた学友会は、1925年頃から共産主義系組織が次々と作られる中、留学生社会内部の対立を経ながら組織の再整備を行った。現実認識としては、ブルジョアによる民衆・プロレタリア搾取に問題の核心を求める認識はある程度共通して存在したが、運動の方法をめぐってさまざまな意見が存在し、その意見は大きく、「心的改造」(唯心論的)と「物的改造」(唯物論的)に分けられていたことが読み取れる。最後の第七節においては、1927年~1930年の時期を対象に、在東京朝鮮人団体協議会結成と学友会解散、そして現存する最後の『学之光』の記事について考察した。留学生たちは、社会主義に対する認識が深まり、留学生運動も革命運動、階級運動の前衛的学生運動でなくてはならないという現実認識を持っていたが、コミンテルンの指針、当局の弾圧などによって、学友会は解体した。
 第二部では、第一部の内容と対照しつつ、留学生政策と留学生「支援」団体について分析する。まず第一章では、朝鮮総督府の留学生政策について、1910年代(第一節)と1920年代(第二節)に分けて検討した。その政策とは、1910年代に比べて形式上留学を自由にしたが、基本的には留学自体を抑制しようとしたことであった。留学生監督機関は、1910年代の憲兵一人から東洋協会へ、また総督府学務局の外郭団体である朝鮮教育界奨学部に変わっていったが、その原因は2回とも留学生の抵抗であったことが明らかになった。第二章においては、日本人による留学生「支援」団体と、それに対する留学生の抵抗について検討した。3・1運動直後に作られる五つの団体―向学会の寄宿舎、輔仁会の輔仁学舎、朝鮮(女子)学生会の東光学舎、麗澤会、仏教朝鮮協会の同朋園(第一節)と、1922年に作られて関東大震災を機に拡張された鶏林荘(第二節)は、いずれも「内鮮融和」をかかげて、寄宿舎事業を中心にした「支援」を行っていたが、全ての寄宿舎事業は留学生の抵抗によって失敗に終わったのである。
 第三章では、関東大震災以降に朝鮮人主導によって作られた二つの「支援」団体―力行社と自彊会―について検討し、何が二つを留学生との対立もなく1940年代まで存続させたのかを検討した。その前提と背景して、まず第一節では、「内鮮融和」に対する批判と、阿部充家と斎藤総督の「支援」の実態に対する分析をもって、第二章の内容を合わせて、「内鮮融和」が朝鮮人に通用しなかったことと、関東大震災時の朝鮮人虐殺によって、留学生政策や「支援」のあり方も変更を余儀なくされたことが把握できた。第二節では力行社、第三節では自彊会の設立経緯、運営や「支援」を受けた留学生の実態などの詳細を分析した上、力行社・自彊会と第二章で取り上げる団体(日本人による「支援」団体)―との比較、また力行社と自彊会相互の比較を通して、それぞれの特徴を明らかにした。
 力行社と自彊会は、関東大震災をきっかけとして朝鮮人・日本人間の「意思疎通」が必要であるという認識から、朝鮮人の元・現留学生主導で作られた留学生「支援」団体であり、「内鮮融和」を標榜せず、日本の政治経済界の大物が財政と組織を基盤にして、寄宿舎運営、学費「支援」、苦学生の仕事と卒業後の就職先斡旋を具体的かつ組織的に行っていたことは共通していた。このような共通点は3・1運動直後の組織の失敗と関東大震災時の経験から学んだ「教訓」によって可能であったものであり、それ故、両組織が1940年代まで留学生社会や在日朝鮮人と対立することなく存続できたといえる。ただし、力行社は、歴代朝鮮総督をはじめとする現職官僚、植民統治に直接関わる企業が多数賛助し、下級官吏養成という性格を持った「半官」組織である。それに対して、自彊会は現職の官僚の参加はなく、渋沢栄一・阪谷芳郎や建設業界の賛助の下、朝鮮の天道教組織が基盤となっており、留学生選抜の権限が朝鮮人の理事会にあったことが特徴であった。
 最後の第四節で検討した相愛会は苦学生寄宿舎を運営していただけで、留学生「支援」団体ではなかったが、相愛会の「内鮮融和」の性格と行為のため、留学生や在日朝鮮人社会と対立していた点において、留学生社会の多様性や主体性を考察するための好材料として取りあげた。
 以上のような本文の内容を通じて、以下の五つの課題が明らかになった。五つの課題とは、1920おける在日朝鮮人留学生について、(1)如何なる構成であったのか、(2)どのような現実認識に立ち、どのような運動を展開したのか、(3)関東大震災時において朝鮮総督府は留学生に対して如何なる対策を講じたのか、留学生の実態は如何なるものであったのか、そして関東大震災が留学生政策や留学生社会にどのような影響を与えたのか、(4)朝鮮総督府の留学生政策はどのように推移し、それに対して留学生はいかに対応したのか、(5)留学生に対するさまざまな「支援」団体の実態と、それに対する留学生の対応は如何なるものであったのか、を中心にして分析したものである。
 第一に、第一部の分析を通じて留学生の構成を検討し、各年度別の統計を、朝鮮の教育の実態、朝鮮総督府・文部省の留学生政策と有機的に関連づけることができた。とくに、朝鮮における出身学校と苦学生の実態を分析することによって、出身学校、苦学生の実態と、朝鮮の教育状況、留学先の学校の種類が密接に関連していたことが把握できた。
 第二に、留学生の現実認識と運動については、『学之光』に加えて1922年~1923年の『亜細亜公論』・『大東公論』を取り上げることによって、1920年代全体を通しての推移を把握することができた。留学生の現実認識は、1920年から1923年にかけて、2・8宣言運動と3・1運動、ワシントン会議に対する期待と失望、自治運動に対する反対、中津川朝鮮人虐殺事件と関東大震災時朝鮮人虐殺による衝撃とそれへの対応という、歴史的経験を通して、圧迫・差別を受ける民族・階級・民衆を中心に据え、民族・社会運動と密接な関係を持つものへと、変わっていった。とくに、朝鮮人・中国人・台湾人・日本人の連帯と交流が生んだ『亜細亜公論』・『大東公論』は、それまでの運動の経験によって育まれた朝鮮の社会運動、独立運動へのプライドやビジョンとともに、日本における朝鮮人問題の実態を、日本社会に向けて発信するものでもあり、朝鮮人の運動や思想が日本社会においても力を発揮し、連帯を作り出したことを意味する。1920年代半ばには、「内的改造」(自由主義・文化主義)と「外的改造」(社会主義)をめぐる葛藤はあったが、階級問題の核心を求める現実認識はある程度共通して存在したことが明らかになった。1920年代後半に至っては、留学生運動も社会主義革命運動の前衛運動として認識するようになり、結局、学友会は解体した。ただし、再生のための組織改編と解体に対する反対意見の存在から、留学生社会の求心点という学友会の意義を改めて指摘することができた。留学生の運動については、1920年代半ばに作られる各種思想運動団体、労働運動団体を中心に解釈されてきた従来の研究では把握できなかった、1920年代を通しての全体的な推移と変化を明らかにすることができた。とくに3・1運動記念集会と関東大震災時被虐殺朝鮮人追悼会は留学生のみならず在日朝鮮人運動の求心点として毎年行われていたため、その主宰団体や規模、運動をめぐる葛藤を通して、組織同士の関係と時期別の運動の特徴と推移をつかむことができたのである。
 第三に、関東大震災時における総督府の留学生に対する対策と留学生の実態、その後における震災の影響に区分して分析し、それぞれを具体的に明らかにすることができた。総督府は、朝鮮人虐殺の事実を隠蔽するために、震災地における「極力保護」と、朝鮮における「緘口」と朝鮮内学校への転学をもって、統制策・懐柔策を行っていた。留学生は、朝鮮に逃げ帰った者の約2割(321名)が朝鮮の学校へ転学する一方、東京に戻った者は、1922年の中津川朝鮮人労働者虐殺事件の際の経験を生かし、真相調査と追悼のための組織的活動を始めた。調査報告会や追悼会は当局の弾圧によって解散させられる場合が多かったが、それでも1924年から毎年行われるようになった。また、震災後、しばらく機能できずにいた留学生社会は、学友会の再整備(同窓会の連合体)と各種思想運動団体、労働運動団体の結成という新しい局面を迎えて再び活性化し、地方所在学校への留学生の増加という新傾向も現れた。
 第四に、総督府の留学生政策の推移と、それに対する留学生の対応を明らかにした。1910年代において、憲兵による留学生監督が2・8宣言運動によって失敗したように、1920年代前半においては、民間団体による監督機関の「刷新」も留学生の抵抗(督学部長不信任・辞職勧告)によって失敗した。以後、総督府は留学自体を抑制しつつ、留学生監督業務を朝鮮教育会に移管して留学関連実務を担当させ、日常的な留学生統制の場であった故に留学生の反発も強かった、監督寄宿舎を閉鎖してしまった。一方、斎藤総督は、阿部に紹介された在学中の留学生に対して、選別的、個別的に「支援」を行う「ピンポイント」作戦を行っていた。しかし、関東大震災以降、朝鮮人虐殺の衝撃による留学生の「険悪」な傾向を緩和させるために、就職斡旋を始める一方、より組織的かつ具体的な「支援」が必要であると認識し、民間の「支援」団体に対する直接、間接的支援を行うようになった。結局、総督府の留学生政策は、一貫した方針の下に行われていたというより、留学生の抵抗や関東大震災などによって変更を余儀なくされたものといえる。また、斎藤と阿部の「ピンポイント作戦」と民間の「支援」団体に支えられた面が大きい。
 第五に、留学生に対するさまざまな「支援」団体の実態と、それに対する留学生の対応について、3・1運動直後に作られた団体と、関東大震災以降に作られた団体に分けて、それぞれの特徴と留学生の対応を明らかにした。とくに、あまり研究がなされてこなかった関東大震災以前における「内鮮融和」策について、留学生の対応を中心に分析することをもって、「内鮮融和」策に対する朝鮮人の対応、つまり抵抗として発露された主体性の一形態を確認することができた。3・1運動直後、2・8宣言運動に衝撃を受けた総督府や日本当局の援助をバックに、派手な「内鮮融和」の看板を立てて現れた、日本人の「支援」団体の事業の中、全ての寄宿舎が留学生の抵抗によって姿を消した。そのとき起きた関東大震災は、「支援」団体のあり方を大きく転換させた。朝鮮人虐殺によってあらわになった「内鮮融和」の虚構性は、留学生の不信を確固たるものとするに充分であり、以前のような日本人「内鮮融和」団体では、留学生たちの反発を買うのみで、全く「効果」がないことを当局に悟らせたのである。また、同時期、相愛会に代表される、朝鮮人「内鮮融和」団体も登場し、同じ朝鮮人であるがゆえに、留学生のみならず、在日朝鮮人社会全体において強く批判されることとなった。
 このような背景の下に、「内鮮融和」を標榜せず、元・現留学生主導によって作られた、力行社と自彊会が誕生した。しかし、組織の構成と「支援」の実態においては、力行社は従来の官費留学制度に似た「半官」組織、自彊会は天道教組織を基盤とする「純民間」組織という性格を持っており、大きく異なっていた。留学生の対応を直接示す史料はないが、自ら留学経験を持つ朝鮮人が創立、運営していたためか、両団体が存続した1940年代まで、両団体と留学生・在日朝鮮人の他組織が対立した痕跡は見当たらない。
 以上を総合して言えるのは、留学生、朝鮮総督府、「支援」団体という三つのアクターの相互関係に注目することによって、留学生の運動や思想に注目するだけでは、見逃してしまう1920年代における留学生の主体性のあり方を実態に即してより包括的に把握することができるということである。
 留学生と総督府の関係において、留学生たちは、総督府の留学生政策に一方的に規定されるだけでなく、積極的に対応し、その政策を転換させもしたことが指摘できる。3・1運動が総督府の朝鮮統治方針を転換させたのと同じように、留学生たちの抵抗は監督機関を2度も変え、監督寄宿舎を閉鎖させた。「支援」団体についても同様のことがいえる。3・1運動直後に作られた、「支援」団体と寄宿舎に対する抵抗は、関東大震災時朝鮮人虐殺による衝撃とともに、「内鮮融和」が朝鮮人に通用しないことを総督府や日本の社会に悟らせた。その結果、震災後には性格の異なる団体が登場したのである。このような抵抗は、1920年代前半における留学生運動と同様、組織としての運動だけではなく、留学生社会の日常生活レベルの動きがあってこそ可能であった。このような「内鮮融和」策やその団体に対する留学生の抵抗―日本社会への発信力を持っていた『亜細亜公論』の存在とその内容、また植民地支配体制そのものに対する反対運動(民族運動、社会運動)を含む―は、留学生の主体性のあり方の一形態である。
 しかし、抵抗だけでは留学生の実態を充分に描くことができない。「支援」に対する留学生の対応には、受容だけではなく、請願の場合もおり、それが留学生社会に除名や反目という亀裂を生むこともあった。また、留学生運動の中心人物の中にも斎藤・阿部によってターゲットとされ、「支援」を受けた者がいた。朝鮮人によって作られた「支援」団体の場合、力行社では年に数十名、自彊会では数百名の留学生が長期にわたって「支援」を受けていた。現職官僚が直接関与していた力行社も、朝鮮人理事によって社会主義系組織の会員である留学生の入会が排除されていた自彊会も、留学生社会と目立つ対立もなく、多くの留学生が集っていたのである。
 民族運動、社会運動だけでなく、日本人の「支援」団体に対しても強く抵抗していた留学生が、一方においては「支援」を願ったり受けたりしていたのは、本質的にいえば、留学生たちにとっての「支援」が、留学(勉学と生活を含む)を成立させるために必須であったためである。そして、その状況を生んだのは、そもそも中等・高等教育機関が足りず、予備学校に数年を費やさなければ入学資格が得られないという、植民地統治による朝鮮における劣悪な教育の実態と、日常の生活までに支障を来たす「不逞鮮人」扱いや「要視察朝鮮人」という、日本社会におけるレッテル張りと民族差別であった。 当然、「支援」する側にも意図はある。斎藤・阿倍の「高等政策」の内容からわかるように、総督府にとっての留学生「支援」は、植民地朝鮮の支配を円滑にするための「包摂」、「懐柔」策の一環であった。また、「支援」団体に関わった日本人、朝鮮人の一部にとっての「支援」は、それをサポートする役割を果たすか、「職業的社会事業」、「職業的親日」と批判されるように私腹を肥やすツールであった。 このように、ある意味、留学生は、必須であったともいえる「支援」をめぐって、「支援」する側の意図との葛藤の中から、請願、受容/利用、抵抗など、さまざまな対応を行っていたのである。関東大震災以前にしても、以降にしても、留学生たちは入舎と退舎を繰り返しつつ、日常的に統制される半官組織の力行社よりは、天道教の基盤を持って日本人との直接接触はほとんどなく、学資と仕事斡旋が受けられる自彊会に多く集まったのである。抵抗や運動だけでなく、このような留学生のあり方、対応も、主体性の発露の一形態であったと考える。
 もちろん、当時の留学生の中には、総督府の思惑に「包摂」され、のちに総督府高官として朝鮮統治に協力する者や、戦時期において「皇国臣民化」の先頭に立った者もいる。ただ、留学時における総督府との関係や「支援」に対する対応の形態のみをもって性急に評価を下すということは、「支援」する側の意図に引きずられ、結局は留学生たちの現実的なあり方、主体的な姿を見えなくさせるという問題がある。そのため、このような人物に対しても、より広いスパンの中で何が彼等をして「親日」を内面化させたのかをみてこそ、歴史的評価が可能になるであろう。
 以上のように、本研究によって明らかになった留学生の実態、総督府の政策、「支援」団体の特徴、これら三者の関係、またその中から窺われる留学生の主体性は、植民地期朝鮮の教育問題や朝鮮人の運動、支配政策に関する研究の上でもそれぞれの歴史像をより豊かにする一助となるであろう。また、ひいては植民地期における朝鮮人と、総督府をはじめとする支配体制との関係、その中における朝鮮人の主体性を明らかにする材料としての可能性を持っているとも言えよう。

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