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博士論文要旨

論文題目:日中戦争期上海資本家の研究――経済構造の変容と対日関係の模索――
著者:今井 就稔 (IMAI, Narumi)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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1 研究課題
 清末民国期の発展によって中国経済の中心地となった上海は、1937年7月に始まった日中全面戦争により、租界の一部を除いて日本の支配下に置かれてしまう。以後、1945年8月に戦争が終結するまでの間、上海の人々は、日本の占領地政策の下での生活を余儀なくされた。本論文の課題は、戦時期上海商工業の経済構造の変容を経済史的に実証するとともに、経済活動の担い手である各企業家・工場・業界団体の対日姿勢や意志決定過程、時局に対する現状認識について検討を加えることにある。
 分析視角と具体的な課題は以下の三点である。
 第一に、戦時上海の経済についての実証の進展である。
 上海は商工業の中心地であり、経済史・企業史の研究蓄積は豊富である。ただ、大半の研究が戦前を対象としたものであり、戦時期を対象とした研究は相対的に少なかった。これは、戦時期の社会的混乱のなかで、各種統計史料や企業史料がそもそも存在しないこと、残された史料も日本軍から国民政府、共産党と戦中戦後の支配者が次々交替する中で散逸してしまい、体系的な分析が難しかったことという事情がある。これらを克服するためには、日本側の史料と中国側の史料を突きあわせて検証する必要が他の時代以上に求められる。また、これまで日本占領地の研究は、侵略する側の研究を日本近現代史が、抵抗する側の研究を中国近現代史が担ってきた。それぞれの関心に基づいて研究が進められてきたが、同じ日本占領地に関心を持ちながら相互交流は比較的希薄であった。本論文では中国史の研究成果を日本史側へ発信するという意図も含んでいる。
 第二は、対日協力の再検証である。
 一般的な抗日戦争史の場合、武装闘争によって「不屈に、果敢に戦う中国民衆」が日本帝国主義を倒したことが強調されるが、日本占領地で生活する人々は、自らの生活のために対日協力活動に手を染める人々も少なくなかった。こうした人々は、戦争当時から現在に至るまで、対日抗戦に逆行する存在とみなされ、「漢奸」(=売国奴、裏切り者)という否定的な評価を受けてきた。本論文では、対日協力者を告発・非難される存在としてではなく、日本の軍政下という限られた選択肢のなかでも彼らなりの展望を持ちつつ日本との関係を構築していこうとした主体的な存在ととらえ、資本家たちの侵略に対する「生存」の側面を検証することを意図している。
 第三は、資本家のとらえ方についての問題提起である。
 もともと、資本家とは、経済活動を行って利益を得ることを目的としている。ある産業の資本家の経済活動を分析することは、その産業の構造や業界のおかれた経済環境を十分把握することが前提とならなければならない。そこから明らかになる資本家の活動についても、政治的な要素を無視してよいわけではないが、基本的には「経済の論理」に基づいた分析をする必要がある。一方で、前近代の郷紳層に起源を持つ中国の資本家は、単なる経済合理主義的な存在ではなく、社会的な役割も大きかったことも見逃せない。とくに上海の場合は、外国人のための租界を中心に都市が発展し、中国側の地方行政機構も歴史が浅かったため、資本家たちは中国人の法的・社会的地位の向上、慈善事業の展開、社会混乱時の事態収拾などの活動を通じ、上海の中国人社会を統括するリーダーとなり、政治的・社会的に大きな影響力を持つことになった。また、上海の中国人社会を代表して外国の諸勢力と交渉するなかで、資本家自らが上海人意識、民族意識を形成するようになった。以上から考えて、上海の資本家の活動を分析する場合、経済活動・企業経営の側面と、ナショナリズムの主体としての側面との双方を意識することが求められる。
 以上の問題関心から、マッチ製造業、綿紡織業、物資流通の三つの事例に則して分析を進めた。

2 各章の概要
 第一部ではマッチ製造業について論じた。とくに、1935年に中国資本が日本資本と協力して締結した生産・販売カルテルを素材に、戦前から戦中にかけてのカルテルの質的変容と、中国資本の対日姿勢を考察することを主題とした。
 第1章では、業界最大手である大中華火柴公司の経営者・劉鴻生がカルテルを結成するまでの過程と、山東省の中小資本が劉鴻生らカルテル推進派と対立した理由を考察した。
 1930年代前半の中国経済は不況期であり、カルテルやトラストの結成によって市場における企業間競争を制限することは他産業でもみられた。ただ、それらが日本資本への対抗が主眼であったのに対して、マッチ製造業の場合は、劉鴻生が在華日本資本に対してもカルテルへの参加を呼びかけ、日本側にかなりの譲歩をしている。一方、劉鴻生の日本資本への譲歩には、山東の中小企業が猛反発をした。
 江南地域を拠点とする推進派にとっては、生産や販売面で日本資本の影響は小さく、カルテルの実効性を高めるために協調すべき相手であった。そのため、日本側に多少有利な条件であってもカルテルを結ぶことを優先したのである。一方で、山東資本の場合、青島や天津に工場を構える日本資本とはマッチの販売において競合する。この地域の中国資本は小規模零細企業が多く、大規模で近代的な設備を有する日本企業は脅威であったから、日本側に有利なカルテルは受け入れられなかったのである。
 以上のような関係を対日妥協的な大手企業と対日抵抗に自覚的な零細企業という構図のみでとらえるのは一面的である。実は、双方の対立の背景には、統税の脱税というもう一つの問題が存在した。具体的な規模は明らかではないとはいえ、脱税はかなり常態化していた。反対派は、税率の高さ、日本資本との競争、大都市から離れた工場立地、小規模がゆえの脱税の容易さ、といった条件の下で、脱税マッチを市場に流通させた。大手中心の推進派は、不法行為を行う中小企業に対して批判を強めていく。そのなかでカルテルは価格の維持という本来の目的の他に、脱税の疑いのある中小企業を自らの管理下で統制する役割も期待されるようになった。ここに、政府の支持の下で公式な記録として残された販売統計に基づいて厳格に統制しようとする聯営社の方針に危惧を抱いた反対派と、利害が衝突するようになったのであった。
 第2章では、劉鴻生らの結成したカルテル組織・全国火柴産銷聯営社(聯営社)が、日中戦争勃発とともに、日本資本主導で改変され、占領地支配の一機関になってゆく過程と、中国資本の対日関係の模索について検証した。
 劉鴻生の結成した聯営社は、日中戦争が始まると業務を停止した。その後、1938年になると、日本資本主導によって聯営社は再建される。だが、この聯営社は、戦前の聯営社と表面上の機構は類似しているが、その動機と主体は大きく変化していた。戦前の組織は、価格を維持するために中国資本の主導で組織されたものであったが、戦時中の聯営社は戦略的に重要な物資の一つであるマッチを日本の占領地支配の必要性から、在華日本資本の主導によってつくられた組織であった。やがて1941年になると、軍配組合(=軍票の価値維持と物資の獲得を目的とする日本軍部の機関)が直接マッチ製造業を支配下においた。マッチ原料である赤燐や塩素酸カリウムは火薬製造の際にも使用される重要な戦略物資であったからである。
 聯営社への中国側の対応は戦前と戦時中では異なっている。戦前は企業経営活動を維持するために、世論の反発をある程度覚悟しながら日本との協力を推進した。これに対して戦時中は、日本主導の組織にやむを得ず参加したという色彩の濃いものだった。だが、戦時中も、なるべく自分たちに有利な条件を維持しようと常に模索しており、日本のアプローチを全面的に受容したわけではなかった。日本との不即不離の関係を保ちつつ、合弁条件や原料の調達などで少しでもよい条件を求めて積極的に活動していたのである。

 第二部では、上海工業の主力であった綿紡績業資本における日中関係を分析した。
 第3章では、既存の研究に依拠しながら、戦前の上海における中国紡と在華紡の関係を整理した。第一次世界大戦によって欧米からの綿製品輸入が途絶したことや五四運動における国際品愛用運動の高まり、豊作による棉花価格の下落などが重なり、大戦中から戦後にかけて上海の中国資本紡績業は黄金時代をむかえた。一方、日本国内の紡績業は、労働力需要の増加と労働運動の本格的な展開により賃金が急激に増大したこと、中国の関税引き上げに伴う太糸部門の競争力減退を背景として、第一次世界大戦集結前後から次々と中国に進出し、上海にも多くの工場を設けるようになった。民国期上海の綿紡績業は、二つの勢力が対抗や競争を繰り広げながら形成されていた点に特徴がある。
 1970年代までの研究では、両大戦間期は、生産設備や経営内容、資金などのあらゆる面で在華紡が中国紡を圧倒し、中国の民族産業は危機に陥ったと認識されてきた。たしかに、日中綿業資本の間には、1920年代から30年代にかけての日中関係の悪化に伴う民族運動や労働運動の高揚のほか、市場の開拓・労働力の確保、棉花の調達など経営面においても競争や対立する局面が随所に存在した。
 だが、工場規模や綿糸布の生産量をみると中国紡が在華紡に圧倒されているわけではない。また、生産販売品目の選定や市場の選択において、在華紡と正面から対決することを回避したり、棉花改良事業のように在華紡と共同して問題に対処する場合も少なくなかったし、中国紡工場の技術も、その多くが実は日本からさまざまな形で移転されてきたものが多かった。中国人技術者たちは民族主義的な要素を保持していたとはいえ、対日経済絶交や在華紡商品のボイコットなどの急進的な方法には批判的であり、経営や技術の刷新を通じて在華紡との格差を縮めていくことが重要であると認識していた。一方、在華紡側も、中国国内で中国人の労働力に依存して操業を続ける以上、中国側の官民と協調することが必要であり、在華紡からの税収を期待する国民政府とは相互依存の関係にあった。たしかに中国紡と在華紡の間には緊張・対立関係があったが、それ以外にも多様な相互関係が成り立っていた。また、中国紡にとっては、在華紡との関係をいかに築いていくかということが、政治的にも企業経営のうえでもきわめて大きな意味をもっていたのである。 
 第4章では、日中戦争期の上海における綿紡績業の動向について、中国紡と在華紡の関係を実証すべく、両工場の経営者に日本軍の関係者も交えて展開された、中国紡工場の返還交渉について実証した。
 先述のように、戦前の上海では、中国紡と在華紡が競争と協調のなかで綿紡織工業が発展してきた。ところが日中戦争が始まると、中国紡工場のうち、華界にあるものは日本軍に占領され、在華紡が委任経営をすることになった。中国の資本家たちは、日本の権力が及んでいなかった租界内に一時的に避難するが、アジア・太平洋戦争の勃発とともに日本軍が租界へと進駐すると、経済活動の拠点を失い、軍部や在華紡と関係を持たざるをえなくなってゆく。一方、戦争の長期化に伴う占領地政策も行きづまりをみせるなか、日本側も中国紡資本家の経済力と地域社会への影響力を利用する方針に改め、中国の資本家の取り込みの手段と位置づけられたのが、在華紡が委任経営する中国紡工場の返還であった。しかし、日本軍部が返還の条件として日中合弁を条件としたこと、委託経営していた在華紡が返還に強硬に反対し、その理念を骨抜きにしてしまったことなどから、中国紡への返還はきわめて不十分な結果に終わり、中国紡側の支持を得ることはできなかった。また、マッチ製造業の場合と同様、中国紡は日本からなるべく有利な経営条件を引き出すために、軍部や在華紡関係者を巧みに利用し、したたかに戦時期を生き抜いたことが明らかになった。
 第5章では、中国紡の戦時期の対日協力活動について、棉花の買付け事業の事例を検討した。
 1937年11月に日本軍が上海を占領して以降、上海の資本家たちの多くは租界に避難して経済活動を継続した。原料の調達や製品の販売を通じて、租界経済は内外の市場と結びついており、折からの戦時特需も追い風に資本家たちは多額の利益を蓄積していた。だが、アジア・太平洋戦争の勃発とともに日本軍が租界へ進駐すると、そうした租界の優位性は失われた。とくに綿紡績工業の場合、外国棉花の輸入途絶により、日本が支配する江南一帯の棉花に依存せざるを得なくなった。ここに、中国紡と在華紡が「協調」して、棉花の買付けを行う環境が生まれた。当時、中国資本の有力綿紡織資本家は、対日協力に積極的であったわけではない。だが、中国の資本家は、もともと地域社会のまとめ役として活躍する者が多く、上海社会の混乱を収拾し地域住民の生活秩序を維持するため、という論理を掲げて日本の傀儡行政機構の幹部となったり、経営環境の維持を求めて在華紡や軍部に働きかけを行う者もいた。
 実際に軍や在華紡との交渉過程や、実態経済の分析を織り込んで中国資本の対日協力を検証してみると、中国側が日本の支配を全面的に受容したとはいえないものであった。たとえば、棉花の確保をめぐっては、中国側は棉花の質の向上、農業経済の実態調査、関連する機構の創設や人材育成など、紡績業の全過程の改善を視野に入れた日中「合作」を提案していた。これに対して、中国資本の協力を必要とする在華紡側の最大の目的は、軍とも協調しつつ、日本側が当座に必要な棉花を買付けることだった。双方が意図する「協力」には大きな隔たりは大きく、日中「合作」の理念が実現する素地に乏しかったといいうる。対日協力者は、対日抗戦を放棄し、中華民族としての「民族性」の欠如した存在として否定的に扱われることが多かっが、実際の対日協力の過程からは、日本占領下という経済活動が著しく制約された環境の下でも経営条件を有利に維持しようと積極的に活動した、中国の資本家のしたたかさが際立つ結果となった。

 第三部では、戦時上海の物資流通の変容を日中戦争前期(=アジア・太平洋戦争が勃発前まで)を中心に検討するとともに、「孤島」の繁栄を続ける租界経済の抗日戦争上の意義を検討した。
 第6章では、汽船会社の経営者であるとともに、上海社会のリーダー的存在でもあった虞洽卿の戦前から戦時中にかけての活動を上海の経済構造の変化を視野に入れながら検討した。
 虞洽卿(1867ー1945)は浙江省の寧波生まれで、汽船会社を経営する上海を代表する資本家である。また、蒋介石と親密な関係を保ち、南京国民政府成立の財政経済的な基盤を提供したり、租界当局との緊張関係のなかで、中国人の主権の回復を目指して活躍するなど、政治的・社会的にも民国期上海社会の指導的な立場にいた。だが、戦時期の活動については、彼の最晩年にあたることもあって、これまであまり関心がもたれていなかったが、サイゴン米の買付け活動を通じ、上海社会の秩序維持に貢献したことが知られている。
 日中戦争が勃発すると、相対的に安全な上海租界に大量の難民が押し寄せるとともに、日本軍の侵略による交通の寸断によって近郊の農村からの米の供給が途絶え、上海社会は、深刻な米不足に直面する。もともと汽船会社を経営し、船舶の確保や輸送の手配に利のあった虞洽卿は、サイゴン米の買付け活動を展開した。この買付け活動には、難民の救済を通じて上海社会の秩序を維持し、米不足から上海市民を救おうとする点で、「民族性」の側面を有していた。実際に米の輸入統計や配給活動を経済史的に検討すると、虞洽卿の上海社会に対する貢献がはっきりと確認できる。その一方で、米の運搬や輸入の段階で、虞洽卿は、米の一部を私的に売却し、不当な利益を得たともいわれる。サイゴンと上海の米価の価格差や虞洽卿の経営資源には、経済的に大きな利益を得ることができる環境も存在したのである。なお、米取引による不当な利益獲得については、道義的な批判だけではなく、虞洽卿による外国米の大量輸入によって、それまで国産米が主体だった上海社会の米の調達ルートが変化し、従来の流通ルートで活躍する米商人が大きな影響を受けたという経済的な背景にも目を向けなければならない。
 第7章では、対日抗戦遂行のために奥地で経済建設を進める重慶国民政府が、上海租界経済に対してどのような姿勢でいかなる政策を取ろうとしたのかということを、禁運資敵運滬審核辦法(辨法)という法律の制定過程に注目して検証した。
 先述のように、日中戦争前期の上海租界は、日本軍の権力が及ばない政治的に特殊な環境と、折からの戦時特需によって経済は好景気に湧き、経済活動の担い手となった資本家たちは戦時期を上回る利益を挙げていた。当初、政府は禁運資敵物品条例や査禁敵貨条例を制定し、日本占領地との物資交流を断絶する策を講じ、そのなかで上海租界も日本占領地として、物資の移出を制限した。しかし、両条例の制定から半年もたたない39年3月、国民政府は移出緩和措置を求める虞洽卿らを中心とする寧波・温州商人の請願に押されるかたちで辦法を制定し、必要な手続きを経ることで上海租界への物資の移出を認めた。
 政策の急転換の背景にあるのは、商人たちに対する国民政府側の配慮だけではない。戦争の勃発によって長江を利用した上海と奥地とを結ぶ既存の流通ルートが壊滅し、代わって寧波・温州などの港湾が新たな貿易ルートとして重要な地位を占めるようになったことがより大きな理由であった。国民政府としては、戦争中も私的利益を蓄積する上海の資本家は、批判すべき対象であった。だが、その一方で、戦時経済建設に必要な物資をその上海に頼らなければならない。辦法はそうした微妙なバランスの上に成立したものであったし、上海租界経済の戦略的な意義を国民政府が認めた象徴だったともいえるのである。
 終章では、これまで明らかになった知見を整理するとともに、上海資本家の「経済の論理」と「民族の論理」についての問題提起を行った。また、戦時期上海社会や資本家の対日抗戦史上における位置づけを困難にしている理由として、奥地の政治的な正統性と上海の経済的優位性という、「ねじれ」の構図の存在を指摘した。

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