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博士論文要旨

論文題目:水平社未組織地域の部落差別撤廃運動  ―神奈川県青和会を事例として―
著者:大高 俊一郎 (OTAKA, Shunichiro)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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序章
 序章では本論文の分析対象の設定、研究史整理、課題と方法の設定について論じた。本論文は、1920~1930年代半ばにおける融和団体・神奈川県青和会(以下、青和会)の活動を分析する。神奈川県は全国的にみて被差別部落の比率が低く、当該期において部落差別撤廃に取り組むことに対する忌避感情が根強い地域であった。また、水平社は組織されず、半官半民の融和団体である青和会が積極的な部落差別撤廃運動を展開したユニークな地域である。
 融和運動史の研究は、戦後しばらくはマルクス主義の影響のもとで水平運動に敵対する運動という評価が一般的であったが、1980年代には、実証的な分析をふまえて融和運動が部落差別撤廃にむけて果たした役割に注目する研究成果があらわれ、水平運動の敵対物という評価は相対化された。1980年代の融和運動史研究の基本的な視点は、当初は自主的で大正デモクラシー的な性格がみとめられた融和運動が、どのようにして内務省による国民統合政策に組み込まれ、やがて戦時下において被差別部落に対する戦争協力の動員組織となっていったのかを、水平運動との関係をふまえつつ明らかにしようとするものであった。
 近年も各地の事例研究や人物研究が蓄積されつつあるが、1980年代の研究をこえる融和運動史研究の新しい視角が打ち出されていないのが現状である。そこで本論文は、水平社未組織地域において、青和会がいかにして反部落差別意識が社会意識として成立していったのかを論じ、その実践がもっていた歴史的意味を、1920年代から1930年代への青和会の変化をふまえつつ、同時代の時代状況のなかで明らかにすることを課題とする。そのさい、青和会の啓発活動の思想と手段の両側面に着目し、とりわけ従来の研究では取り上げられなかった手段について、青和会を教化団体の一種とする視点からミシェル・フーコーの権力分析を援用して検討を行う。また、青和会による社会秩序再編の試みに被差別部落の人々がどのようにかかわったのか、また、行政村という地域社会のレベルにおいて、その実践がどのように浸透していったのかを具体的に論じる。

1章 青和会設立までの神奈川の部落問題とその特徴
 1章では、青和会の活動を規定する歴史的前提を論じた。第一に青和会設立以前の部落問題と被差別部落のありようを、統計史料をもちいて検討を加え、神奈川県は被差別部落の比率が低く、部落差別が問題化しにくい状況であったことを指摘した。
 第二に、明治期から行われた部落改善運動の事例を検討した。中郡伊勢原町の伊勢原町自彊組合は、被差別部落外有力者が主導した改善運動で、通俗道徳の実践をとおして被差別部落の経済的向上を実現することで部落差別からの解放をめざすものであり、それは被差別部落が改善されなければ差別されても当然であるとする認識であり、本論文ではこのような部落問題認識を改善主義的部落問題認識とよぶ。また、中郡秦野町は被差別部落内の有力者が中心となって取り組まれた自主的な部落改善運動であったが、そのエネルギーは平運動への発展する可能性をもつものとして、県当局が警戒するところとなった。

2章 青和会における思想と部落問題認識
 2章では、第一に青和会の設立過程とその組織的特徴を論じた。青和会の設立(1924年)は、当該期における神奈川県による部落問題対策の変化と連動するもので、1922年から着手される地方改善事業とともに、水平運動防止策としての意図が込められていた。知事、内務部長、内務部社会課長らが青和会の役員に就任し、実際の運営を担当する理事には地方支部長らと社会課嘱託職員が就任した。地方支部長には、主として町村長や小学校教員などの地域指導者層が就任した。青和会設立過程の特徴は、支部設立もふくめ、同時期における教化政策である民力涵養運動の実践のなかで立ち上げられていったことであり、この点はのちの活動に影響を与えた。
 第二に、青和会指導者の部落問題認識を、青和会の活動方針とかかわらせて論じた。1920年代における青和会の主な活動方針は、被差別部落外の差別意識を部落問題の原因とみなし、その除去を目的とする啓発活動であった。この活動を思想的に主導したのが、青和会初代常務理事である中村無外(円覚寺黄梅院住職)である。その思想は同時期の社会運動とも共通する人格の平等を説く「人格承認要求」にもとづくものであり、大正デモクラシー状況下の平等思想の影響をうけたものであった。他方で、県吏も人格の平等を主張する点では中村とも共通していたが、その主張は、国際競争で勝ち抜くためには、国内の差別問題は解消されるのが望ましいとする、第一次世界大戦後の総力戦段階における国家による支配の論理にもとづくものであり、具体的には地方自治の安定と向上の実現という教化政策と結びつけられて部落差別撤廃が論じられた。この点が、水平運動防止という消極的理由だけでなく、部落差別の解消をもとめる権力側の積極的な理由であった。また、地方指導者層からなる青和会支部長層も、中村が主張する啓発活動の論理を受容しつつも、地方自治の安定と向上を担う立場から改善主義的部落問題認識を完全に放棄することはしなかった。
 さらに第三に、青和会の啓発活動の主張を受け入れる、会員側の思想的要因を論じた。青年層を中心とした会員の多くは、現状の社会を資本主義の発展のもとで人間らしさを喪失した社会として否定的に認識し、そのなかで自分はいかにして生きるべきかという問いを共有していた。現状の社会にかわる理想的な社会を構想するなかで、部落差別が解消された社会こそが理想的であるとされ、その実現に取り組むことがよりよい人生であると考えられた。こうして、会員たちのよりよく生きることを目的とした思想(本論文ではこれを生命主義とよぶ)が、部落差別を非とする主張と結びついたのである。こうした人生をめぐる問いは、会員だけのものではなく、青和会設立以前に一灯園における生活を体験した中村無外も共有するものであり、その世俗的価値観(通俗道徳など)を超越した生き方は会員たちに大きな影響を与えた。
 
3章 啓発活動の実践と規律・訓練的権力
 3章は、青和会を教化運動の一種として規律・訓練的権力とする観点から、その活動の方法とそれがもつ歴史的な意味について論じた。神奈川県は融和運動に対してすら忌避感情が根強い地域であった。そのような条件のもとで、反部落差別意識を社会に浸透させるために、青和会は教化団体(修養団、男女青年団など)との連携を重視した。青和会は教化団体のネットワーク(教化網)にみずからを位置づけ、反部落差別を社会に浸透させていく手段として教化網を利用した。こうして、他団体をとおしての青和会への動員や、他団体との会合の合同開催などが試みられた。また、これらの会合では娯楽的活動を利用した動員も試みられた。青和会への人々の参加は、こうした多様な理由にもとづくものであったが、実際の実践のなかにはそういった人々の部落問題認識を深化させる契機も存在した。教化網を利用し、修養を実践するなかで部落問題への認識をふかめ、個々人が啓発の主体となっていくことで、部落差別を非とする社会秩序への再編が目指されたのである。
 しかし半面で、教化運動は青和会の目的でもあり、青和会による教化網の利用は、同時に他の教化運動の要素が青和会に流入することを意味した。特に青和会は修養団の思想や実践を取り入れ、青和会への参加者は、修養団の会合に参加するのと同様の効果が及ぼされ、修養団が理想とする従順な身体への矯正がほどこされた。ほかにも青和会は、労働者教化、女性教化、時間意識の馴致、教化総動員や内鮮融和など、さまざまな教化的活動を積極的に実践する規律・訓練的権力(フーコー)であり、逸脱の可能性があるものには矯正が加えられた。それはまた、上からの教化政策を受け止め実践するものであった。
 
4章 被差別部落と融和運動
 4章は、被差別部落の人々にとって融和運動はいかなる意味があったのかという観点から青和会の活動を分析し、特に青和会を介在した被差別部落の人々の部落問題への向き合い方の変化に注目して、被差別部落の人々が主体となっての部落差別を組み込んだ社会秩序の変革を可能とする要素が存在したのか否かを論じた。
 青和会の会員の大半は、被差別部落外の人々であったが、被差別部落出身会員も一定程度存在した(1926年で12%、1934年で20%)。これらの被差別部落出身会員は、青和会への参加をとおして部落問題をとらえ返し、部落差別に対抗する知識、思想、手段を獲得していき、実際に日常生活の場面で部落差別に直面するなかで、青和会の理念にもとづいて啓発を実践する被差別部落出身会員もあらわれた。この会員は、青和会が理想とする穏健な手段による啓発によっては解消されない、被差別の苦悩を表明していたが、そのような青和会の統制下から逸脱の危険をはらむものであるゆえに、その部落問題認識は矯正の対象となった。この会員は、差別事件前には、部落差別は「理由のないもの」と公言していたが、事件後に修養団の講習会に参加していくとこなどをとおして、部落差別の原因を被差別部落側の状態にもとめ、改善、向上による差別からの解放を模索していく。
 被差別部落の人々の主体性をどう考えるかは、従来から青和会指導者間に相違がみられたが、1928年に提唱され、以後の融和団体の全国的な方針としていく内部自覚運動への対応をめぐって、その相違は表面化していった。内部自覚運動とは、内部=被差別部落に対して自覚を喚起するというものであり、当初は自覚の内容が多様で不確定であったが、昭和恐慌後に展開される部落経済更生運動とむすびつき、経済的向上を目的とした自力更生を喚起する運動へと発展した。青和会では、中村無外が差別されていることを自覚し、部落差別に立ち向かう主体を形成するものであるとの理解を示したが、支部指導者層は被差別部落の「欠陥」を改め、経済的、社会的に被差別部落が向上するための自覚と理解した。1930年代にかけて融和運動全体が経済対策に軸をうつしていくなか、1931年に中村は青和会常務理事を辞任し、後任には報徳思想や修養団に傾倒していた植木俊助(小学校教員、秦野支部長)が就任する。
 植木の指導のもと、経済的意味における内部自覚運動とそれと結びついた部落経済更生活動が展開され、被差別部落の人々のエネルギーは、もっぱら改善、向上のための実践へとふりむけられた。そこでは、被差別部落外に対する啓発も重視されたものの、被差別部落の人々の主体性はそれとは分断され、その役割はあくまで青和会が担うものであるとされた。そして、被差別部落の人々が持つべき心構えと取り組むべき実践として、伊勢原町自彊組合の事例が模範的なものとして顕彰された。こうして改善主義的部落問題認識が青和会で復活し、青和会は被差別部落の人々を通俗道徳の檻へと囲い込んでいった。
 
5章 地域社会のなかの部落問題と融和運動
 5章では、久良岐郡六浦荘村における長島重三郎(小学校教員、六浦荘支部長)の活動を取り上げ、行政村というミクロな地域社会のレベルにおいて、長島が融和運動に対する地域社会からの承認をどのようにとりつけ、融和運動の実践をどのように地域社会に定着させていったのかを論じた。
 六浦荘村も融和運動に対する忌避感情が根強く、そのような地域社会秩序のなかでは、従来の研究が論じてきた「融和運動は何をしたのか」ということ以前に、運動を立ち上げ維持していくこと自体が、融和運動が直面した困難かつ重要な課題であり、同時に青和会の目的である反部落差別意識の社会的浸透の遂行を容易にするという点において、運動の成否の鍵を握るものであった。長島の思想は社会改良主義的な立場であったが、同時に通俗道徳的を基盤とした修養主義者でもあった。また、長島の社会活動の基本的スタンスは、学校教育と社会教化に尽力し、そのことをとおして天皇制国家を底辺で支える地域社会(行政村)の安定と向上を実現することであった。しかし六浦荘村の実態は、理想的な地方自治からかけ離れたものであり、長島の融和運動の実践は地方自治の安定と向上を目的とした教化運動と一体のものとして取り組まれた。青和会六浦荘支部は村内の「勤倹和順」の実現をも目的に掲げていた。そして長島は、学校教育、社会教化活動、村政の各方面から、村内における主導的地位を確立していき、その過程のなかで部落問題対策に対する地域社会からの承認を獲得し、地域社会に定着させていった。
 1928年に村内初の全村単位の女性教化団体として長島が設立した六浦荘女子修養会は、青和会の目的と女性教化の目的を同時に掲げ、青和会支部と密接に連携して活動を展開した。女子修養会は、やがて女子青年団、婦人会、国防婦人会を兼摂する組織に発展していき、戦時体制下においては村内の女性を戦争協力に動員する銃後団体へと変化していった。こうして長島は、村内における教化運動、とりわけ女性教化の活動をとおして村内における主導権を確固たるものとしていき、その過程と並行して部落問題対策を地域社会に定着させていった。地域政治に対する影響力もたくわえ、地方改善事業をめぐって地域が紛糾したさいには、村当局による調停が機能せず、長島がその役割を代行した。こうして、六浦荘村における地方改善事業の実施も、村が担当すべき公的な事業として定着していった。
 そして、1931年に教職を退き大道区長に就任して以降は、町内会長など地方自治を末端で担う役職についた。しかし、そのような地位にあることは、戦時下においては銃後活動を全般的に担うこととなり、部落問題への取り組みはそのなかで埋没していった。
 
終章
 本論文の成果は、融和運動史研究に新たな方法を提起し、その方法をもちいた分析にもとづく新たな知見を付け加えたことにあり、具体的には以下の3点にまとめられる。第一に、反部落差別意識の社会的浸透のありようを、新たな方法論をもちいて融和運動と教化運動とをむすびつけ、具体的な地域に即しながら水平社未組織地域における独自の部落差別撤廃運動として明らかにしたことである。融和運動と教化運動との連携は、全国的にも同時期に提起された課題であったが、青和会によるその実践は、上からの方針というよりも、融和運動に対する忌避感情が根強いという部落問題をめぐる地域社会の状況と、そのなかで自らが置かれた立場にもとづく、プラグマティックな判断によるものであった。
 第二に、青和会に集った人々の意識を部落問題に限定せず、その雑多な意識を青和会による反部落差別意識の社会的浸透の実践と結びつけることで、融和運動による実践を受容する思想的背景をとらえる視野を押し広げたことである。その意識は、資本主義の展開のもとで人間らしさを喪失した社会にあって、自らはいかに生きるべきかという社会と人生をめぐる問いであり、よりよく生きることを目的とする思想=生命主義という形で表現された。さらにそれは、部落問題にとどまらず理想的な社会をいかに実現するかという、全体的な社会構想の問題として論じられた。そして部落問題は、現実の否定的な社会にかわる理想的な社会構想のなかに位置づけられ、とらえ返されていったのである。
 第三に、規律・訓練的権力の方法論をもちい、新たな融和運動に対する理解を提示したことである。この観点から青和会の活動をとらえれば、融和運動は主として部落問題に対する取り組みを中心としつつも、地域社会にある人々全体を対象として、それらの人々に対するトータルな矯正を施す権力であったという結論が導き出される。さまざまな教化団体と連携したり、時には他の教化団体の機能を代替したりしながら、一定の規範や心構えを身体化した労働者、女性、地方自治を担う公民など、それぞれの属性に応じた矯正が試みられたのであり、それが青和会の活動が有した歴史的な役割であった。よって、青和会の会員であるということは理念的に言えば、被差別部落の人間であろうとなかろうと、その属性に応じた一定の心構えや規範が刻印された、記号化された従順な身体であるということを意味したのである。
 残された課題は、第一に融和団体以外の教化団体の分析は充分に行えなかった点である。たとえば、修養団では部落問題がどのように論じられ、具体的にどのような取り組みが行われたのかという検討をくわえれば、より立体的に教化網を把握することが可能である。第二に、本論文の方法がどの程度の有効性をもつのかを検証するためにも、中央の融和運動をふくめ、同時代におけるさまざまな地域の融和運動の比較研究が今後の課題である。

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