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博士論文要旨

論文題目:希望への手がかり―レイモンド・ウィリアムズの思想と経験―
著者:高山 智樹 (TAKAYAMA, Tomoki)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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・問題の所在
 イギリス・ウェールズ地方出身の文化研究者であるレイモンド・ヘンリー・ウィリアムズ[Raymond Henry Williams: 1921-1988]は、20世紀イギリスにおける最大の思想家の一人に数えられている。彼の研究は、生前から幅広い領域と幅広い世代の研究者に影響を与え、またその民主主義的な社会主義に対する一貫したコミットメントは、アカデミズムの領域においてだけではなく、多くの実践家たちの共感をも呼んできた。66歳という若さで彼がこの世を去ったときには、その早すぎた死を惜しむ声が数多く寄せられ、彼の不在によってもたらされた喪失感が広く共有されている様子がうかがわれた。
 ところでウィリアムズの研究が、そしてその存在自体が、そうして数多くの研究者に影響を与えてきたということは事実であるのだが、実のところ、その影響なるものが具体的にいかなるものであったかということは必ずしも明らかになっていない。ウィリアムズから刺激・影響を受けたことを認める人々の著作においてウィリアムズの思想や研究成果が詳細に説明されている訳ではないし、またそこで展開されている議論とウィリアムズの研究との関係がはっきりと示されている訳でもないのである。従って一人一人の研究者・思想家がウィリアムズをいかに解釈・消化して自らの研究に生かしていったかということについては、さしあたり推測するよりほかはない。またその一方で、ウィリアムズの提示した問題や研究課題を明示的に引き継ぎ、発展させるような研究は決して多くはない。なおかつそうした数少ない研究にしても、ウィリアムズが提起した個別的な課題をそれぞれの研究において引き継ぐという姿勢は見せているものの、それらの課題がウィリアムズの思想全体の中でそもそもいかなる位置を占めているのかといったことまでを論ずることはできていないのである。加えて、ウィリアムズの研究そのものを対象にした先行研究の多くは、ウィリアムズの研究の表面的な内容紹介のレベルにとどまっており、またその紹介にしても、彼の膨大な業績のごく一部を対象としているに過ぎないものが殆どである。つまるところ、ウィリアムズの研究とは実際のところいかなるものであったのか、彼は具体的に何を描き出し何を成し遂げたのかについて、共有された最低限の認識すら存在していないというのが現状なのである。そのため、例えばウィリアムズの評価をめぐる本格的な論争といったものすらいまだ起こってはいないし、そもそもそれが起りうるような条件すら整っていないのだと言うべきなのであろう。
 こうしたことが問題なのは、偉大な思想家と評され、現実に多大な影響力を持ち、また今もなおその影響力を維持している人物の、実際の思想像が具体的には明らかにされていないという奇妙な状態が生み出されているというだけではない。それはまたウィリアムズについての誤ったイメージや偏見の源泉ともなっているのである。ときに指摘されるように、ウィリアムズに対しては、その肯定的な評価に匹敵するほどの否定的な評価が存在している。そのこと自体は、彼の影響力の大きさを物語るものであり、ある意味では当然のこととすら言ってもよい。問題は、そうした否定的な評価の大半が、ウィリアムズの思想・研究に対する誤った認識や、基本的なレベルでの事実の取り違えなどに根ざしたものであるということだ。とりわけウィリアムズの死後には、幾つかの否定的な評価に基づくステレオタイプな(そして実像からはかけ離れた)ウィリアムズ像が広範囲に流通するようになり、ウィリアムズを評価しようとする際、その否定的なステレオタイプが誤った先入観をもたらしてしまうという状況が作られているのである。1990年代以降しばしば見られるようになった、過ぎ去った時代の現代的意義を持たない思想家としてウィリアムズを扱う態度も、そうした先入観に基づいている場合が余りに多い。つまり、ウィリアムズにはもはや現代に通用するような思想的意義は存在しないという評価そのものの可否を検討する以前に、そうした評価が依拠している誤った認識や情報を正さなくてはならないのである。
 従って、現在早急になすべきことは、ウィリアムズに関する誤解を解き、彼の研究・思想の全体像を示すというこになるだろう。そのためにはまずもって、ウィリアムズの研究をその意図まで含めて正しく把握し、理解を深めていくという、ひどく基本的な作業が必要となる。そして本論文が試みているのは、まさしくその作業に他ならない。ただし基本的とはいえども、ウィリアムズの多領域にまたがる膨大な業績を出来る限り広範囲に取り扱い、同時にその広がりの全体を、断片の集積、ないしは内容紹介の羅列としてではなく、一貫した研究プロジェクトとして描き出すという試みは、これまでには見られなかったものであり、それは本論文の第一の目的であると同時に、おそらく本論文の最大の意義となっていると言ってよい。ただし付け加えておくならば、ウィリアムズの研究を彼の意図に即して「全体的」に再構成するという本論文の性格上、彼の研究に対する批判的な視点の提示ということについては不十分であることは認めておかなければならないだろう。しかし繰り返しになるが、そうした批判的な視点の提示の前に、まずもってウィリアムズの研究を正確に把握することが必要不可欠であるというのが、本論文の問題意識なのである。

・ 論文の構成と要旨
 ウィリアムズの思想のそうした「全体性」を描き出すに当たって、本論文ではウィリアムズの多様なテーマをそれぞれ個別的に検討するという方法ではなく、歴史的な時間軸に沿って、すなわちウィリアムズの生涯に即した形で、彼の研究の展開を年代記的に追っていくというスタイルを採用している。具体的に言えば、第一章は1930年代から1940年代までを、第二章は1940年代から1950年代までを、第三章は1960年代を、第四章は1960年代から1970年代までを、第五章は1970年代から1980年代までを、そして第六章は1980年代から現代までを、それぞれ叙述の対象としている。従って本論文は、ウィリアムズについての評伝という性格をも有していると言えるだろう(なおウィリアムズの伝記としては、Fred Inglis, Raymond Williams. 1995と、Dai Smith, Raymond Williams: A Warrior’s Tale, 2008の二冊が出版されているが、どちらも伝記的な事実についての記述が中心で、ウィリアムズの研究内容の満足な分析にまでは踏み込めていない。なおかつ、前者はその事実内容にすら多くの誤りが見られる不十分なものであり、後者は詳細に描かれた優れた伝記であるが、ウィリアムズの初期についての描写にとどまっている)。
 こうしたスタイルを採用したのは、ウィリアムズの思想が基本的には一貫したものであり、なおかつそれが不断に深められていったものであるという判断から、研究の進展・深化の過程を描き出すことが重要であると考えたためでもある。しかしそれ以上に、継続的な歴史の中にウィリアムズを位置づけることで、ウィリアムズが常に同時代の社会的な状況との関連を強く意識しながら自身の研究を行っていたことを明らかにしうるというのが、年代記的な叙述を選んだ最大の理由である。とりわけウィリアムズの研究の意図を汲み取るという観点からすれば、ウィリアムズがいかなる歴史的状況、そしてその中での自身のいかなる経験に対して「応答」を行ってきたのか、そしてそうした「応答」の成果としていかなる研究が積み上げられてきたのかを明らかにすることは、必要不可欠な作業となるだろう。それはまた、彼の政治的コミットメントが、その時々でどのように表現されていたかを説明する作業ともつながっている。
 そのため本論文では、ウィリアムズの思想・研究の説明・分析のみならず、彼が生きてきた時代の思想状況・政治状況の描写にも、多くの頁が割かれている。例えば第一章ではまずイギリスの1930年代の政治情勢が描き出されている。同時代のフランスやスペインにおける人民戦線運動のような華やかさ(と悲劇性)こそ持たないものの、イギリスの1930年代もまた、政治的な意識が高揚し様々な取り組みが行われた時代であった。1921年生まれのウィリアムズにとって、1930年代というのは彼が10代を過ごした時期ということになり、彼自身が認めるように1940年代初頭まで30年代のそうした政治的な空気が残っていたことを踏まえれば、まさしく彼は1930年代という時代の中で青年期の思想形成を行ったということになるだろう。本論中で述べたように、その思想形成の作業自体は、失意の中での挫折を余儀なくさせられることになったが、その挫折がいかなるものであるかを明らかにすること、そしてその挫折からウィリアムズがいかなる思想的課題を受け取り、さらには同時代の状況にいかに働きかけていったかを明らかにすることが第一章の課題であり、そしてこうした歴史とウィリアムズの思想の往還関係を把握するという作業が、本論文を通じて一貫して取り組まれることになるのである。
 例えば1930年代という時代は、スペイン内戦における数多くの知識人の参加とその後の知識人の大量転向という事実からも明らかなように、知識人と政治の関係、さらに言えば、政治の領域における知識人と民衆との関係という問いが鋭く提起された時代であった。それはイギリスにおいても同様であり、そして労働者階級出身でありながらケンブリッジ大学というイギリスの「エスタブリッシュメント」が支配する大学に進学し、さらには教師という職を選んでいくことになるウィリアムズにとって、その知識人と民衆の関係という問題は、とりわけて切実な意味を持つことになった。それは労働者階級で生まれ育ったという彼の経験と、教育を通じて彼が得た知識とをいかに関連づけるかというひどく個人的な問題でもあり、そしてその問題は1930年代から1940年代にかけての思想的な挫折の一つの要因ですらあったし、その後のウィリアムズの研究の方向性を決定的に定めるものでもあったのである。
 従って第二章で描かれるように、ウィリアムズが「文化」という言葉それ自体が持つ歴史を研究したことは、まさしく「文化」という言葉が孕む根源的な矛盾の分析を通じて、労働者階級の経験をも含む「生活の仕方の総体」としての「文化」と、労働者階級の経験を排除し選別してきた特定の価値体系としての「文化」、及びそうした価値体系を体現する芸術や文学の総称としての「文化」との間の分断を歴史的に跡づけ、さらにはその分断を克服しようとする作業に他ならなかった。そしてその「文化的」な分断とは、ウィリアムズがケンブリッジ大学などにおいて自身の切実な経験として感じ続けていたものであり、また福祉国家体制を確立した戦後イギリス社会の中で「市民」として統合されながらも、その選別的な統合によって依然として従属的な地位に置かれていた労働者階級全体の地位を説明するものでもあったのである。従ってウィリアムズは、こうした「文化的」な分断が根源的には資本主義社会の生産関係・所有関係に規定されたものであること、すなわちすぐれて階級的な分断であることを、早くから認識していたし、またその後もそのことを一貫して主張し続けていくことになる。そしてウィリアムズにとっては、そうした階級的な分断を克服し、同時に「文化的」な分断をも克服することが、「社会主義」の目指すべき課題であり、その課題を彼は「教育に基づく参加型の民主主義」と定義したのであった。その達成のためのより具体的な構想については、第三章や第六章で説明した通りである。
 ところで歴史研究を通じてこうした「文化的」な分断のあり様を示し、さらにはその克服の方途を探るという作業は、その後も様々な形でウィリアムズによって取り組まれることになる。第四章で見たように、ウィリアムズは例えば19世紀から20世紀にかけてのイングランド小説の歴史を辿ることで、労働と生活に根ざした「経験」と、それを外在的に観察し分析するための「知識」との間の溝をいかに克服するかという課題が、19世紀後半から20世紀にかけてのイングランドの主要な小説家たちにとって極めて切実なものであったことを明らかにし、さらにはそうした課題そのものが歴史の中で抑圧されていったということも指摘した。そしてウィリアムズは、その抑圧の結果として、正統的な(例えばケンブリッジ大学で採用されているような)英文学史においては、そうした課題の存在すら抹消されてしまい、個々の小説家たちの評価はその抹消を前提とした形で行われていることまでをも暴きだしたのである。また第五章で説明しているように、ウィリアムズはさらに、「文化」という言葉に続いて「文学」と「批評」という言葉(そしてそれに関連した他の幾つもの言葉)の歴史をも詳細に分析し、小説をめぐるそうした分断が、そもそも歴史的に形作られてきた「文学」と「批評」の存在形態そのもの中に埋め込まれていることをも明らかにしている。ウィリアムズによれば、そうした「批評」の形態は現代に至るまで続くものであり、従ってそれらの言葉をめぐる歴史研究はまた、構造主義という同時代の「批評」形式に対するウィリアムズの鋭い批判ともなっていたのであった。
 さらにウィリアムズは、「文学」や「批評」がそうした分断を自らの内に埋め込んでいるという事態そのものが、一つの「疎外」であるという認識をも打ち出していた。それは第二章で見たように、「個人」と「社会」の分裂を批判的に問い直すという形で極めて早い段階から提起されていたものであり、その提起がその後も様々な形で追究されてきたことは、第三章・第四章で検討した通りである。とりわけて注目すべきは、そうした「疎外」が単に支配的な認識の枠組みとして現れているだけではなく現実の社会関係をも規定していること、そしてその社会関係が究極的には資本主義秩序の確立とともに歴史的に形成されてきたことを、ウィリアムズが明らかにしたことであった。ウィリアムズはその作業を、「個人」と「社会」の間の分裂のみならず、「都市」と「農村」の間の分裂という問いをも提起する中で行い、その結果、人間の「自然」からの疎外という、さらに根源的な矛盾にまで到達することになるのである。またウィリアムズのこうした研究は、1960年代後半以降のウィリアムズの政治状況に対する認識の変化とも相俟って、そうした「疎外」が単にイギリス一国の問題ではなく、世界的な規模で展開する資本主義、すなわち帝国主義の問題であることを彼に認識させたのであった。そして、そうした世界的な規模での「疎外」を克服することもまた、ウィリアムズにとって「社会主義」の重要な課題となったことは言うまでもない。
 なお、ここでもう一点付け加えておかなければならないのは、そうした「疎外」の具体的な現れの一つとして、ウィリアムズが放送や出版といった、「文化的」な制度、ないしはコミュニケーション手段をめぐる所有・統制の不平等を、主にその歴史研究を通じて、一貫して問題にし続けてきたことである。この点については、第二章と第五章で扱ったが、そこでも論じられているように、ウィリアムズはそうした不平等が単に「疎外」の一つの現れというだけではなく、「疎外」を克服するための重要な手段を、労働者階級から、そしてそれ以外の抑圧された民衆から奪っているという事態を示すものだとも捉えていた。それは言葉を代えれば、コミュニケーション手段とは、「社会主義」を、すなわち「教育に基づく参加型の民主主義」を達成するための主要な手段の一つであるということでもあった。そしてウィリアムズはさらに、そうしたコミュニケーション手段の不平等を、それ以外の様々な「疎外」のあり方と結びつけて全体的に認識するための方法論として、「文化的唯物論」という名の理論を提起することになる。それはその提起の前後に行われたウィリアムズ自身の研究の理論的な基盤となるものであると同時に、それ自体が社会の幅広い領域において存在している「疎外」に対抗しようとするものでもあった。従って、その理論が同時代の他の「疎外」された批評理論全体に対する批判となっていたのも、当然のことであった。
 以上の説明から見えてくるのは、現実の疎外と不平等、そして階級的な分断の苛酷さについて、「文化」という観点を中心に置きつつ多様な角度から明らかにし、そしてそうした厳しい現実の矛盾を見据えながらも、その矛盾を克服するための実践を重ねてきた一人の思想家の姿である。しばしば誤解されてきたことであるが、ウィリアムズが現実の矛盾を過小評価したことなどは決してなかった。むしろ彼はその深刻さと根深さを誰よりも強く意識していたと言ってもよいだろう。従って、彼の著作にしばしば見られる楽観的とも映るような展望は、ウィリアムズの現実認識の甘さとしてではなく、彼が絶望的に見える状況の中でも、現実を変革するための可能性を見出そうとする姿勢を決して崩さなかったことの現れとして理解されるべきなのである。まさしくウィリアムズが生涯をかけて試みてきたことは、あらゆる手段を講じて、現実の中に「希望への手がかり」を見つけ出すことだったのだ。
 
 
 

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