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博士論文要旨

論文題目:《自己知》とは何か:「精神現象学」の方法と経験
著者:片山 善博 (KATAYAMA, Yoshihiro)
博士号取得年月日:1999年7月14日

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 本論は、ヘ-ゲルの『精神現象学』(以下『現象学』)を、自己を知るとはどういうことか、すなわち<自己知>の探究の書として、考察し、その意義を明らかにすることを課題とする。では、その場合、どのような方法によって、自己知の探究を進めていったのか、ひとつ問題となろう。また自己知をどのように具体的に(その方法を駆使して)ヘ-ゲルが考察していったのか、をみなければならないであろう。こうした点から、本論の副題を「『精神現象学』の方法と経験」とした。
 本論の論点は以下のとおりである。(1)『現象学』全体を<自己知>という観点から読み解く。(2)「意識の経験の学」と「精神の現象学」の関係を明らかにする。(3)自己意識から精神への「意識の経験の歩み」(自己知の歩み)を、<自己知>が<即自-対自-対他>の有機的連関の自己吟味にあるということを自覚していく歩みとして明らかにする。(4)宗教章以降の位置付けを捉え返す、(5)<生と死>に焦点を当て、<精神>の意味するものを明らかにするということである。こうした問題を、『現象学』の叙述にできるだけ沿いながら、考察することを課題とする。

 わたしは、全体を3部構成にし、(1)の問題を考えていく。まず第1部で、<自己知>の方法論を明らかにし、(2)と(4)の問題について考察し、次に第2部で、<自己知>の具体的な展開みるなかで、(3)の問題を考察する、最後に第3部で、<自己知>とは何かをヘ-ゲルのモチ-フにさかのぼって探りながら(5)の問題を考察するという方法をとった。以下概要について述べていきたい。

 第1部では、まず「意識の経験の学」として構想された『現象学』の方法論を明らかにすることを課題とした(第1章)。ヘ-ゲルは、<自己知>の歩みを「意識の経験」として捉えた。ここには、2重の意味がある、ひとつは、「自然的な(自己の在り方に無自覚な)意識」が、さまざまな経験を通じて、具体的に自己の在り方を自覚していくという意味であり、もうひとつは、意識の経験を「観望」する「われわれ」が、<意識の経験の歩み>を通じて、そうした自己の在り方がどのようなものであるのかを明らかにしていく。ヘ-ゲルは、この個々の場面を具体的に経験する<意識にとって>という視点と、意識の経験を観望しそこに必然性を見いだす<われわれにとって>というふたつの視点を、組合せながら、<自己知>とは何かを明らかにしていこうとしている。(もちろんここには<自己知>が学(ヴィッセンシャフト)であることを保証しようというカント以来のドイツ観念論哲学の意図がはたいているのだが。)では、ヘ-ゲルは<自己知>をどのように考えていたのであろうか。ヘ-ゲルは「緒論」で述べているように「意識」を「対象意識」と「自己意識」の二側面から押さえている。意識が現実とかかわるなかで、<知>は生じてくるのであるが、その<知>の対象的な側面(主観と対立した客観的な側面)と、その<知>を自己の経験において吟味していくという主体的な側面(実際には、自己の確信を失うというかたちで経験されるのであるが)である。つまりヘ-ゲルは、現実のなかで生じてきた<知(自己確信)>を自己吟味するという点に意識の<自己知>の源泉を見いだしている。『現象学』の叙述のなかでは、(「自己意識」章が大きな転換となる。)では、<自己知>の究極的な姿とは、どのようなものなのであろうか。ヘ-ゲルは、これを「絶対知」に見る(第2章)。では、絶対知とはどのような意味で、究極的な<自己知>なのであろうか。ヘ-ゲルは、意識の経験の歩みに「必然性」を見いだす点にあるとする。これを具体的に見るには、「宗教」章と「絶対知」章とを<一体のもの>として見る必要がある。つまり「精神」の根拠を示すといわれる「宗教」のテ-マとなっているのが、<実体の主体化>というテ-ゼである。意識の経験の歩みが<実体の主体化(神の人間化)>として押さえられる。宗教章では、このことは、「表象」として捉えられてしまうが、このことを「概念把握」するのが「絶対知」なのである。つまりこれまでの経験の歩み(個体的な経験から共同体的な経験を含めて)を、概念(必然性をもったもの)として、しっかりと自己のうちに展開するということである。この意味で、絶対知は、徹底した自己吟味であるという意味で、<自己知>の究極の在り方を示している。では、どのような経験を経て、意識はこのような<自己知>にいたることができるのであろうか。これを第2部で見ていきたい。

 次に第2部では、こうした<自己知>の具体的な歩みをみておく。ここでは、「自己意識」章から「理性」章を通じて「精神」章までを考察する。わたしは、<自己知>の歩みを見ていくうえで、この3つの章は、密接な連関をもっていると思う。この全体の流れを、社会性の経験を通じて、具体的に自己を把握していく過程として押さえることができるのではないか。別の言い方をすれば、自己を自由の実現の過程としてみるということであるが、これは、自己を抽象的な自立性として自覚する段階から、自立性のみでなく普遍性や他者性を自己の契機とする<全体性>を<自己>として自覚していく過程と押さえることができる。つまり、この全体性を<自己知>として吟味し、展開していくことが問題なのである。したがって、わたしは、この経過をおっていくことを課題とする。まず(第3章)、「自己意識」章の主題となるのは、自己意識の「自立性」ということである。これは、<個としの自立性>、<私は私である>ことを、積極的に実現していこうとする段階である。しかし、これを実現していこうとすることは、かえって「自立性」を断念することになる(「奴隷」)、しかし、死の恐怖のもとで、労働(制御された欲望)することを通じて、かえって、物=客観性(普遍性)を自ら作り出していく。自己意識は、この客観性を通じて、「思考の自由」を得る。しかしこの「思考の自由」は現実の個別性とかかわるなかで、その自立性を奪われていく。「不幸な意識」は、普遍的なものと個別的なものが、同時に意識の内部にはいりこんで、その対立から逃れようとする意識である。しかし、この普遍的なものが、自己を構成するものとして自覚されてきた、という意味で、「不幸な意識」は大きな転換点をなす。つまり、「自己意識」章の確信では、自己とは「自立性(対自存在)」として自覚されていたのが、「不幸な意識(での意識の徹底した普遍化)」を通じて、むしろ「自立性」と「普遍的なもの(即自存在)」とが密接不可分なものとして、自己を構成しているということが自覚されてきたのである。自己が普遍的であるという確信をもって登場するのが「理性」章の「個体」的な自己意識である(第4章)。この個体的な自己意識は、近代的主体性と考えても間違いでないだろう。というのも、ヘ-ゲルは、「理性」章Bの冒頭で、普遍的なもの(共同性)と個別的なもの(個人)の調和という近代主体性の理想的な共同性の枠組みを念頭においているからである。ヘ-ゲルはこうした共同の在り方の具体的なイメ-ジを古代ギリシアのポリス共同体に見ている。しかし、同時にヘ-ゲルは、ギリシア共同体をすでに、すぎさったものとして押さえている。ここには、ロマン主義的な共同体論への批判がある。個体としての自己意識からすると、具体的な共同性を自覚していないという意味で、ギリシア共同体は、目標となる。が、むしろ、新たな共同体の原理というのは、現に存在している共同性、それがどのような共同性であろうとも、それを軸に、考察しなければならないという、ヘ-ゲルの視点がある。つまり、意識の経験としては、個体としての自己意識から、出発せざるをえない(「理性」章の課題)が、その現実的な共同性の原理を自覚する場面は、社会的・歴史的場面を想定した「精神」章で問題となる。「理性」章Bでは、個体としての自己意識が、<現実的な世界の原理>が、<個体性の原理>と<普遍性の原理>の調和において成り立っているということを自覚するまでの経験の歩みをおっている。(ここにはスミスの商業社会が想定されている。)「理性」章Cでは、この原理をもとにして、つまり、この原理を<人間の本性(自然)>として、自覚することによって、現実社会において自己実現をはかっていく個人の在り方が問題となる。この個人の自己実現の成果が<作品>である。作品において、普遍的なものと個別的なものが調和しているはずだと、意識は確信している。が、この作品は、他者に触れることによって、個別的なものとして、扱われる。個体としての自己意識は、この他者の視点を、排他的なかたちで、自己知のうちに組み入れ、欺瞞的な態度にでる。この相互欺瞞の構造が、ヘ-ゲルからすると、近代社会の構造となる。しかし、この<他者>の視点を組み入れることを通じて、こういうかたちで互いに自己を実現しているのだということを自覚することで、ここにある種の共同性がなりたっている。ヘ-ゲルはこれを<事そのもの>として押さえる。<事そのもの>とは、この意味で、<普遍的なもの>と<個体的なもの>、そして<他者>を組み込んで(全体の契機として)成り立っている。(事そのものとは、フランス革命の理念である市民的共同性が想定されている。)つまり<即自(普遍)-対自(個別)-対他(他者)>の形式的ではあるが、相互に連関したものとして成り立っている。この<事そのもの>とは、近代社会になりたつ、形式的・抽象的な共同性(公共性)という意義をもつことになる。この抽象性・形式性を暴露するのが、「理性」章の末尾の「立法理性」、「査法理性」の叙述である。ヘ-ゲルは、この<事そのもの>の抽象性を暴くことを通じて、具体的な人倫(実体)が、自己意識に自覚されてくると見る。具体的な人倫とは、その意味で、<即自-対自-対他>の有機的な(具体的な)連関ということができる。この具体的な在り方を、出発点とするのが、「精神」章の叙述(第5章)である。「精神」章の課題は、「実体」とは何かを自己がどのように自覚していくかを見ていくことである。つまり、<即自-対自-対他>の有機的連関が「精神」であるとすると、この有機的な連関を自己の内面において<自己知>として捉えていく過程であるといえる。「精神」章Aでは、<即自-対自-対他>が直接無媒介に一体化している、言い換えれば、普遍的な共同性がそのまま個体と一体化し、それが他者によって承認されているギリシア共同体の経験が主題となる。ヘ-ゲルはそこでの個体の在り方を「性格」として押さえている。つまり<性格>として押さえられた個体において<即自-対自-対他>が一体化している。ギリシア共同体においては、<性格>は、ふた通りのあらわれ方をする。普遍に力点をおく、国家共同体と、個別に力点をおく、家族共同体である。しかし、この両共同体は、それぞれの掟をもち、両共同体とも、等しい威力をもつので、「性格」のおこなう人倫的行為を通じて、両共同体の対立が明確化され、崩壊していく。この崩壊の帰結として、<即自-対自-対他>の有機的な連関(一体性)がばらばらになっているロ-マの法状態が描かれる。つまり、普遍と個別、他者がそれぞれ自立して、抽象的なかたちで、関連しあっている。ここに成り立つ個体の在り方を、ヘ-ゲルは、承認された空虚な「人格」として見ている。ヘ-ゲルは、これを「第1の自己」とする。つまり、ここではじめて、実体から生じてきた(普遍と他者から切り離されるというかたちで関連しているがゆえに、普遍と他者を自覚することが可能な)自己が問題となる。しかし、この自己にとっては、<即自-対自-対他>の契機がばらばらになっている。と同時にこの<自己>は実体を拠点としている以上、<即自-対自-対他>の連関を基礎としている。つまり、自己において、諸契機は、分離しつつ、つながっている。つまり、意識にとっては、分離が自覚されるが、我々にとっては、連関が見えてくる。この構造が、「疎外」を生み出す。「疎外」とは、自己に対立した普遍に対して、自己の自然(個別的なもの)を断念し自己を普遍化すること(疎外)を通じて、客観的妥当性を獲得するということである。しかし、<即自-対自-対他>の区別の側面に固執しているため、自己を即自として通用させることは、他の契機との対立をひこおこすことにもなる。「精神」章Bの「自分から疎遠になっている精神」とは、<自己>が「疎外」による転倒を通じて、普遍的なものを<自己知>としてどのように獲得していくかの過程の叙述が主題となる。ヘ-ゲルは、「国権」と「財富」という現実的な場面において、<自己>が疎外を通じて、自己実現をはかりながら、他のもの(たとえば、国権から財富、高貴な意識から下賎な意識)に転倒していくかを叙述しながら、その転倒が究極的に自己の内面においてどのように自覚されていくかを明らかにする(分裂のことば)。しかし、この徹底的な意識内部での転倒を通じて、ヘ-ゲルは、新たな社会形成の主体(フランス革命を担っていく主体)を探っていく。これが「啓蒙」と「信仰」である。「啓蒙」は、自己の諸契機の「対自」の側面に力点をおき、「即自」を徹底して「対自」化していく否定性に自己の本質を見ていく<自己知>であり、「信仰」は、自己の「即自」の側面に力点をおき、「対自」の思惟によって捉える「即自」に自己の本質を見ていく<自己知>である。啓蒙は、信仰とかかわるなかで、信仰の<即自>を徹底して否定していく。啓蒙は、信仰を否定するなかで、「即自」と「対自」を結びつける。ここに理神論と唯物論の対立が成り立つ。「即自」は感覚的な物質となる。しかし、この物質(即自)は、同時に純粋思考の抽象(対自)の結果である。こうして「即自」は「対自」との関係におかれる。このことを別の側面からいえば、「即自」は「対他」である。こうして、対自を中心として、「即自」と「対自」と「対他」が反転しあう。啓蒙の真理として、<即自-対自-対他>の相互転換がはかられる。ここにヘ-ゲルは、近代市民社会を形成する<有用性の原理>を見いだす。有用性の原理が、しっかりと<自己>として自覚されると、つまり<普遍的な欲求と個別的な欲求が一体である>ことが自覚されると、<普遍意志>を自己の原理として見いだすにいたる。この普遍意志として<自己>を実現していく(絶対自由の)主体が、フランス共和政をささえる主体となる。この普遍意志が個別意志と一体化しているという「絶対自由」の実現は、それまでの封建的な身分制の体制を崩壊させる原動力となったものであるが、ヘ-ゲルは、この実現に徹底した暴力性を見る。すなわち、絶対自由は、普遍意志と個別意志の形式的な一体性を示すのみで、形式的・抽象的な自由にすぎない。したがって、特定の個別的な自由によってその具体的な内容を与えられる。しかし、その自由は、普遍的なものとして通用するから、特定の自由の普遍的実現となってしまう。したがって、それ以外の自由は全面的に否定される(恐怖政治)。つまり、あらゆる個体の抹殺を導きだす。ヘ-ゲルはこの過程を「最後の教養形成」として押さえる。つまり自己の「人格性」の実現が、人格性の完全な否定となる。しかし、このことを通じて、自己は、再び、共同体の有機的な分肢に組み込まれる。この経験は、一人一人の自己が、自己の内面に立ち返るという側面、と同時に、自己の個別性への固執を絶つという意味をもっている。つまり、一人一人が自己の内面において、普遍意志をもつことを示している。<即自-対自-対他>の有機的な連関が、はじめて<自己知>として、捉え返されることになる(第6章「良心論の射程」)。ここに自己にとって意識されないことは、まったく意味をもたない、という、<自己知>のある種の極まった事態が導きだされる。ヘ-ゲルは、これを「道徳性」として、考察する。自己が<自己知>として普遍性をしっかり掴み取った「道徳的世界観」では、自己の普遍性に自らが従うことになる(カントの道徳理解)が、この普遍性が、本質として、個別的なもの(自己)と対立して捉えられているために、形式的・抽象的な性格をもち、具体的な行為の場面では、普遍的なものは常に個別的なものと対立に陥る。これを避けるために、普遍と個別の調和的が「要請」される。ヘ-ゲルは、ここに「すりかえ」の論理を見いだし、その欺瞞性を暴く。この「道徳的世界観」に対して、ヘ-ゲルは、<具体的な自己確信の行為>にこそ<普遍>と<個別>の一体性が成り立つのだと見る(承認が問題となる必然性)。これが「良心」である。この「良心」の行為は、「普遍」をまさに「自己」の行為として示すという点で、他者による承認が不可欠であると見る。つまり<自己>の行為の普遍性は、具体的な行為を通じて問題にされるので、その普遍性が具体的に普遍(共同的なもの)であるためには、他者からの承認を必要とする。こうして、良心の<自己知>において、<即自(普遍)-対自(個別)-対他(他者)>の関係がはじめて吟味されることになる。ヘ-ゲルは、「良心」の行為を、<知>という場面と<行為>という場面に分けて論じているが、自己完結的な要素をもつ「良心」について、<知>の場面で成り立つ共同性(ロマン派的な「良心」)を外化に耐えられない消失するしかない共同性とみて、徹底して<行為>という場面において、良心を考察する。このことは、<行為>という具体的な場面に定位しながら、<自己>において、<普遍>と<個別>と<他者>の契機を<自己吟味>するという意味をもっている。つまり、この諸契機相互の矛盾のなかに身をおき(すりかえをすることなく)、その中で、これらの有機的な連関を回復するには、すなわち、「良心」として完結するには、自己を断念するしかないということを経験することである。ここに、良心の共同性が成り立つとヘ-ゲルはみる。つまり、<普遍と個別(自己)と他者>の<区別>と<一体性>を徹底して自己吟味するという<自己知>に定位することによって、人倫的実体をささえていくことができる自覚的な共同性が成り立つと見るのである。このように<自己知>、すなわち自己を知るということは、自立的であるかどうかを吟味すること(「自己意識」章)から<即自-対自-対他>の関係を自己吟味する(自己否定)というところまで深まってきた。では、そもそも自己を知るということはどういうことなのか。

 第3部では、この<自己知>の問題を、ヘ-ゲルのモチ-フにまでさかのぼって考えてみたい。そもそも自己を知るということはどういうことなのだろうか。第1部で示したように、<自己の経験の歩み>の意味を知るということである。第2部で示したように「精神」章までの意識の経験の歩みは、<自己を知る>ということを<精神の自己認識>にまで導いた。しかし、それまでの<自己知>は<自己を否定する>というかたちで、実現されたものであった。つまり、意識は、それまでの経験の総体を<必然性>をもったものとして、肯定的な意味で捉えてはいなかった。この側面が、「宗教」章で自己意識に経験されることになる(第1部)。では、この<必然性>とはなんであろうか。この<必然性>をささえている論理とはなんであろうか。わたしは、その論理を「生命」の論理に見たい(第7章「生命論の射程」)。ヘ-ゲルは、「自己意識」章冒頭で、「生命」について論じている(有機的生命については、「理性」章でも述べているが)。ヘ-ゲルは、「生命」について、個体の自立が個体の廃棄(全体の流動性)であり、さらに個体間の相互否定(食いつ食われつ)に、生命の全体性が成り立つと言う。ヘ-ゲルはこの<否定的な運動>に類の生成をみ、意識(自己意識)の成立を説く。つまり、生命の<自己知>が自己意識なのである。その意味で、自己意識とは、<生命>であるとともに<生命からの自立>という意味を同時にもっている。ヘ-ゲルは、<生命>の運動を今度は、自己意識が繰り返すと言う。つまり、これが「精神」の運動を形成する。しかし、決定的に違うのは、<自己知>を決定的な基軸としている点である。生命の場合は、個体の自立と消滅は、そのまま、生と死を意味するが、自己意識の場合は、精神における<死>、つまり「序文」に言われているように、否定のなかに身をおき、それに耐えるということを意味する。別の言い方をすると、<死>を自覚するということである。ヘ-ゲルは、『現象学』のいくつかの重要な転換の場面で、<死>を問題にしている。たとえば、「生死をかけた闘争」の場面、「主人と奴隷の弁証法」の「死の恐怖」、「フランス革命」の場面の徹底した空虚な死、これらの<死(あるいは死の自覚)>は、自己へのこだわりを捨てる、すなわち、全体性を自覚するきっかけを作っている。

 では、<自己知>にとってこの<死>の自覚ということがどのような意味をもつのか(第8章「生と死の弁証法」)。ここで扱うのは、「精神」章Aのギリシア共同体の部分と、「宗教」章の「芸術宗教」、「啓示宗教」の部分である。あらかじめ言っておけば、ギリシア共同体には、生と区別された<死>は存在しない。生と死が一体化するかたちで、共同体が成り立っている。しかし、その分、<死>ということが共同体の存立そのものにかかわっている。一方が、国家共同体における<防衛>の掟であり、他方が、その死者を<埋葬>する家族共同体の掟である。この生命を賭けたり、死者を埋葬するということが、共同体の成立に不可分にかかわっている。しかし、ヘ-ゲルは、ギリシア共同体には、共同体を支えている<死>の自覚が欠けているという。その自覚のきっかけとなるのが、ギリシア共同体の崩壊である。ヘ-ゲルは、「芸術宗教」の場面で、喜劇において「神の人間化」がはたされるというが、ギリシア共同体の崩壊と重ねあわせて、実体の喪失、つまり、神の死をそこに読み込んでいる。この「神の死」を自覚的に展開するのが、「啓示宗教」のキリスト教の神である。ヘ-ゲルは、三位一体の教義の根本的なモチ-フを「神の人間化」と「イエスのあがないの死」、「教団の成立」に見ているが、これは、同時に、三重の意味での<死と再生>を意味している。つまり、父なる神の死とイエスの降臨、イエスの死とよみがえり、自己意識の死と再生の儀式、これらを転回点として、実体の喪失を、実体の<疎遠さ>の喪失として、つまり実体の主体化としてよみとく。ここに<死の自覚=自己の有限性の自覚>にささえられた教団=自覚的な共同体が成り立っていると見る。つまり、啓示宗教での<死の自覚>が、自己の<知>と<行為>に根拠(必然性)を与えるのである。つまり、<自己知>に<実体の主体化>という意義を与えるのである。「意識の経験の学」は「精神の現象学」という意味をもつのである。

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