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博士論文要旨

論文題目:韓国通信検閲体制の形成
著者:小林 聡明 (KOBAYASHI, Somei)
博士号取得年月日:2010年3月10日

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1.研究課題
 韓国では郵便や電話、電報などの通信物にたいする検閲が、一つの社会システムとして機能している。だが、その実態は、ほとんど明らかになっておらず、いつから実施され、どのようにおこなわれていたのかといった重要な問題は、十分に解明されていない。本研究は、北緯38度線以南地域(韓国)における通信検閲体制が、どのように形成され、いかなる構造と機制を有していたのかを解明しようとする。
 韓国の通信検閲体制は、日本統治期(1910~1945年)、米軍政期(1945~1948年)、分断体制期(1948年~)の3つの時代を貫いて維持されてきた。本研究は、この体制のダイナミズムを歴史的に跡づけることで、朝鮮半島で生きた人びとの歴史経験と、そこで作動した権力の動態を浮き彫りにするものである。

2.論文構成
 日本統治期の朝鮮における通信検閲体制について検討する第1部は、二つの章から構成される。第1章では、近代日本における通信検閲体制の成立過程を検討することで、朝鮮の通信検閲体制の起源を明らかにする。ここでは、1900年の郵便法および電信法の制定から1941年に公布された臨時郵便取締令までの時期に焦点をあて、法的な側面から分析する。
 第2章では、太平洋戦争勃発以後、通信検閲体制は、いかに変容したのか、そしてその体制の下で、通信検閲はどのようにおこなわれていたのかを解明する。
 米軍政期について扱う第2部は、4つの章と1つの補論から構成される。第3章では、米軍による通信検閲体制が、いかに成立し、それがどのような構造を有していたのかについて分析する。ここでは、米軍の南朝鮮占領前後の状況に焦点をあて、「舞台」「設計図」「検閲手続き」「担い手」の四つの側面から検討する。
 第4章では、通信検閲が、いかなる機能を備えていたのかについて、検閲された私信の内容から明らかにする。それは、通信検閲の社会的意味について考えるものとなる。
 第5章では、「敵意」とみなされた私信の内容と、それへのCCIG-Kの対応を見ていくことで、通信検閲が持つ一つの限界を明らかにしようとする。
 補論では、まず通信コミュニケーション回路が、どのように拡張されたのかを検討する。そして、南北間で流通した情報が、いかなる内容を有していたのかを解明することで、通信検閲体制が持つ意味的な側面の一端を浮き彫りにする。
 第6章では、通信検閲が、占領の終結とともに、どのように終了したのか。その「終わり」のプロセスを明らかにする。ここでは、米軍内における通信検閲への評価と、それに対応して生じた通信検閲部隊の動きを中心に見ていく。
 第3部では、大韓民国の独立以後、すなわち分断体制期における韓国の通信検閲について分析する。第7章では、李承晩政権の郵便検閲の再開について、法的な側面から検討し、それが植民地朝鮮での郵便検閲と、いかなる関係性を有していたのかを明らかにする。
 第8章では、朝鮮戦争休戦前後において、逓信部に検閲された私信の分析をおこなうことで、人々の社会意識の一端に光をあて、「不穏思想」とみなされたものの内実について明らかにする。
 第9章では、李承晩政権以後、盧武鉉政権期までの通信検閲の状況を素描し、韓国の通信検閲体制が、現在も克服すべき課題として残っていることを指摘する。
 終章では、「戦争」に対応する、一つの社会システムという観点から通信検閲体制の歴史的展開を概観し、そこから浮かびあがる南北分断体制への責任と今後の展望について述べる。

3.概要
 本研究は、日本統治期から米軍政期、そして分断体制期を貫いて維持された通信検閲体制の歴史的展開とその意味について検討した。本研究で明らかになったことは、次の通りである。

(1)第1部:日本統治期
 1900年、日本において、関連法規を統一する目的からドイツ法を参考にした郵便法と電信法が公布・施行された。それにより、人びとが利用する郵便物や電信、電話といったパーソナルなコミュニケーションにたいする国家の統制が法的に保障されるようになった。ここに近代日本における通信検閲体制の成立を見ることができる。
 それからわずか10年後の1910年、韓国併合により、帝国日本の植民地となった朝鮮にも日本法と同一の郵便法と電信法が公布・施行された。帝国の中心で成立した通信検閲体制が、新たに帝国の周辺と位置づけられた植民地朝鮮に移入された。これは、その後、約1世紀にわたって継続される韓国の通信検閲体制の出発点となった。
 近代日本の通信検閲体制は、思想的、物理的、形式的な統制を目的とする郵便検閲と、思想的な側面から統制する電信・電話検閲から構成されていた。植民地朝鮮に出現した通信検閲体制も、日本のそれと同様の構造を有していた。このうち、思想的な側面からなされる統制は、公安を妨害する内容を含む通信物の流通阻止を目的にしていた。だが、何が公安を妨害するのかについては十分な説明がなされず、他の統制基準とくらべて、きわめて曖昧となっていた。だが、こうした統制基準は、朝鮮人による植民地支配への抵抗が激化するにつれて、次第に具体化されていった。
 朝鮮総督府は、郵便法や電信法を治安法令として朝鮮人に適用し、彼ら・彼女らの抵抗運動を厳しく取締まった。朝鮮人の独立運動の端緒が、郵便法や電信法によって発見され、摘発された。郵便法と電信法の治安法令化は、両法を法的根拠とする通信検閲体制が、取締りという機能的な側面において、さらに強化されたことを意味していた。
 植民地朝鮮における通信検閲体制は、植民地支配にたいする抵抗運動としての「戦争」に対応しながら、整備され、かたちづくられた。それは、植民者-被植民者という植民地主義的な関係をさらに強固にし、帝国日本による支配の秩序を維持させる社会システムとして機能した。
 第二に、帝国日本による連合国との戦争であった。日中戦争にともなって軍機保持の必要性が高まり、独ソ戦が勃発したことを受け、1941年10月に郵便検閲の強化を目的とする臨時郵便取締令が制定された。2ヶ月後、太平洋戦争が勃発した。内地のみならず、植民地朝鮮でも戦争への集中的な人的動員を主な構成要素とする総力戦体制が、いっそう強固になった。
 太平洋戦争の勃発直前から、内地や植民地朝鮮における通信検閲体制は、防諜や諜報の観点から、検閲要員の増員が推進された。通信検閲体制の強化は、両地域において共時的に展開した。また、郵便検閲の強化を目的とした臨時郵便取締令が、内地や植民地朝鮮のみならず、帝国の全域で施行された。通信検閲体制は、帝国的な規模で強化されていった。
 太平洋戦争下で通信検閲体制が強化されるなか、内地と植民地朝鮮では、軍部や憲兵隊が、通信検閲に露骨に介入してきた。軍部や憲兵隊は、通信検閲体制が不十分であるとして不満を募らせていた。少なくとも1943年春には、軍部や憲兵隊は、逓信部が担っていた通信検閲体制の主導権を獲得するようになっていた。
 軍部や憲兵隊からの強力な介入を受けた通信検閲体制は、内地であれ、植民地朝鮮であれ、特定の主義主張や思想の取締りを目的としていた。とかく植民地朝鮮における通信検閲体制では、植民地の独立や共産主義、無政府主義にかんする通信物が重要な取締対象となった。それは、国家にたいする有害な思想として分類された。通信検閲体制は、思想取締システムとして機能し、植民地支配に抵抗する朝鮮人は徹底的に弾圧された。
 植民地朝鮮における通信検閲体制は、帝国日本が直面した二つの「戦争」に対応してかたちづくられた社会システムであった。戦争は、国家にとっての戦うべき敵の存在を必須の構成要素とする。「戦争」に対応する通信検閲体制は、共産主義者や無政府主義者、植民地支配に対抗する朝鮮人を、帝国日本の「敵」として析出させた。植民地朝鮮における通信検閲体制は、「敵」の創出と取締りを同時におこなうことで、植民地の公安秩序を確保しようとする社会システムとなっていた。

(2)第2部:米軍政期
 1945年夏、帝国日本は、アジア太平洋戦争に敗北し、崩壊した。朝鮮の人びとは、36年にわたる日本の植民地支配から解放された。だが、ほどなくして、米ソによる南北分割占領統治が開始された。
 1945年9月、ホッジを司令官とする米陸軍第24軍団とともに、沖縄から南朝鮮に上陸した対朝鮮民間通信諜報隊(CCIG-K)は、ただちに通信検閲体制の確立に向けて動き出した。それは、1944年11月に決定した統合参謀本部の命令にもとづく軍事作戦であり、占領地の安定と経済の回復に資する情報収集を目的としていた。
 だが、この作戦は、対日作戦の一部として実施するのか、あるいは南朝鮮向けの独自の作戦とするのかは、曖昧なまま開始された。さらにCCIG-Kは十分な検閲基準や手引きなども持っておらず、占領直後から始められた通信検閲は、場当たり的な様相を呈していた。
 検閲開始直後、CCIG-Kの目に飛び込んできたのは、「敵」である在朝日本人が不法に財産を持ち出そうとしていることを示す大量の郵便物であった。CCIG-Kは、これら「敵」の郵便物を、もっとも重要な取締対象とした。南朝鮮に上陸した米軍は、在朝日本人の財産を南朝鮮経済の復興資金に充当しようと考えていた。CCIG-Kの検閲関心は、在朝日本人による経済的な不法行為、なかでも財産持出の痕跡を示す通信物にむけられた。
 1945年12月から翌年1月にかけて、CCIG-Kは、在朝日本人から朝鮮人の通信物へと関心の対象を大きく変化させた。在朝日本人の引揚げがほぼ完了し、彼ら・彼女らの通信物が相対的に減少したためであった。それは、通信検閲の関心対象が、在朝日本人から朝鮮人に変化しただけでなく、経済事犯の取締りから、感情の取締り、そして世論動向の把握を目的とする社会調査へと通信検閲の機能が拡張していく転換点ともなった。
 このころ、米軍にたいする朝鮮人の意識も変化していた。当初、南朝鮮の人びとは、米軍が日本帝国主義を打ち負かし、植民地支配から朝鮮を解放してくれた「解放者」と見ていた。だが、繰り返される米軍兵士の不品行や、いっこうに改善されない経済的混乱、さらにモスクワ協定によって浮上した信託統治問題は、南朝鮮の人びとの米軍にたいする恐怖や不満、不安を大いにかき立てた。
 彼ら・彼女らの感情は、しばしば私信に綴られ、南朝鮮地域内外で流通した。CCIG-Kは、検閲を通じて、米軍にむけられた朝鮮人の友好的なまなざしは消え、敵意や憎悪を示す通信物が増加していると情勢分析した。CCIG-Kは敵意や憎悪の綴られた通信物が流通すれば、占領地の安定を揺るがしかねないと判断し、これらの通信物の発見に全力をあげた。
 CCIG-Kは発見した通信物を検閲要項にもとづき、分類し、審査し、必要に応じてコメントシートあるいはインフォメーションスリップを作成して、情報を蓄積した。注目すべきは、このプロセスを通じて、米軍への恐怖や不満、不安の綴られた私信が、「占領軍」に分類され、しばしば没収の対象と判断されたことである。人びとが抱く恐怖や不満、不安は、米軍への敵意や憎悪に読み替えられ、重大な取締対象にされた。
 CCIG-Kは、私信に綴られた内容が、たんなる「愚痴」に過ぎないものと見ていた。しかし、取締機能を組み込んだ通信検閲体制は、通信物を媒介とする「愚痴」の交換を禁じた。検閲者のまなざしをかいくぐって、他者に愚痴を述べることは、「犯罪」とされたのである。さらに、それは、しばしば北朝鮮や共産主義と結びつけられ、徹底して取締まられることになった。
 政治・経済的に混乱する南朝鮮社会において、絶望の淵に立たされた人びとの姿は、いたるところで見られた。北朝鮮から届く民主改革の順調な進展を示すニュースは、恐怖や不満、不安を抱き、「愚痴」を鬱積させていた人びとに一縷の望みを与えた。彼ら・彼女らのなかには、北朝鮮や共産主義に希望を見いだし、共感を持つ者もあらわれた。
 CCIG-Kなど軍当局は、こうした状況を共産主義の広がりを示すものとみなし、強く警戒した。CCIG-Kは人びとの苦しみがたたみ込まれた「愚痴」の本質を理解できなかった。そこには「愚痴」を言う者は「共産主義者」であり、取締対象であるという単純な認識しか見られなかった。
 米軍政期における通信検閲体制は、「愚痴」を共産主義と結びつけることで、「犯罪」を作りだし、それを取り締まることで占領地の安定を目指すものであった。日本統治期の
それと同様の社会システムであった。CCIG-Kは、自らが作成した<表(タブロ)>に、人びとの日
常的な感情を配置することで、占領地の秩序形成を目指した。そこには、検閲する側にたいして、不満を持つ者を、「敵」とみなし、「共産主義者」として規定する社会的分類の権力が発動されていた。
 CCIG-Kによる通信検閲は、対日戦のさなかで構想された戦後計画の一環ではあったが、日本軍が残存する戦地で実施するという意味において、当初から軍事作戦の性格を帯びていた。戦地に上陸した米軍にとって、戦うべき「敵」は、在朝日本人であった。だが、しだいに米ソ対立が顕在化し、南朝鮮社会における左右対立も激化するにつれて、「敵」は占領当局に反対する「共産主義者」である朝鮮人へと変化した。
 米軍政期における通信検閲体制もまた、「戦争」に対応するプロセスを経て、かたちづくられた。この「戦争」は、南朝鮮占領の3年間を通じて、在朝日本人を「敵」とする太平洋戦争から、朝鮮人「共産主義者」を「敵」とした民族内部の対立、そして、それを加熱する国際冷戦へと意味的な展開を見せていった。
 日本統治期と米軍政期における通信検閲体制は、いずれも「共産主義者」を「敵」としていた。そして、この社会システムは、「敵」を創出しながら、取締まるという機能を反復的に作動させることで、当該社会における秩序の安定を確保しようとした。ここに日本統治期と米軍政期の二つの時代における通信検閲体制のシステム的な連関を看取できる。

(3)分断体制期
 1948年8月、米軍による占領統治が終結し、李承晩を大統領とする大韓民国が成立した。ほどなくして、李承晩政権は臨時郵便団束法を公布・施行し、米軍占領の終了とともに停止されていた郵便検閲の再開を宣言した。
 植民地朝鮮で制定された臨時郵便取締令は、日中戦争以後、戦争に突き進んでいく帝国日本の戦時、あるいは準戦時の規定であった。こうした法令を踏襲した臨時郵便団束法が、李承晩政権下の韓国で成立したことは、平時の社会に「戦時」が持ち込まれたことを意味した。李承晩政権は、新たな「戦争」を設定した。臨時郵便団束法にもとづく通信検閲体制は、この「戦争」への対応の所産であった。
 臨時郵便団束法が公布・施行された背景には、李承晩政権にたいする絶え間ない民衆の抵抗があった。臨時郵便団束法にもとづく郵便検閲は、政権に敵対する「不純分子」の摘発と予防拘禁を最大の目的とした。逓信部長官が言明したように「不純分子」とは「共産主義者」であり、それは李承晩政権にとっての「敵」とみなされた。
 李承晩政権が設定した「戦争」とは、北緯38度線以北地域に存在する統治権力だけでなく、以南地域の内部に存在する「不純分子」との戦いを意味していた。李承晩政権期に再び姿をあらわした通信検閲体制は、今度は以南地域内外の敵である「共産主義者」との戦争開始を以南地域の住民に告げるものとなった。
 「民主主義」を標榜する李承晩政権は、この戦争を「民主主義」対「共産主義」の戦いと位置づけた。「戦時」下で実施された郵便検閲は、人びとの意見や感情を敵か味方かに分類する政治的なフィルターを通じて、不穏思想を抽出した。
 1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、想定されていた「戦争」は、実際の戦闘行為をともなうものへと大きく変化した。こうした過程で実施された通信検閲でも「不穏思想」が漉しとられた。そこには朝鮮戦争休戦を願い、徴兵を忌避し、構造化された社会的不平等に不満を抱く人びとの日常的な感情が含まれていた。おおよそ共産主義思想には包摂しきれない意味的な広がりが見られた。
 李承晩政権期には、反共スローガンが声高に叫ばれ、共産主義者の殲滅がさかんに鼓吹された。とくに朝鮮戦争後、北朝鮮や共産主義者への憎悪が極限に達した韓国社会では、社会内外の共産主義者を徹底して取締まることを当然視する風潮が広がっていた。
 統治権力は、自らに反対する者は「共産主義者」であり、たとえ暴力という手段が取られようとも、彼ら・彼女らを社会的に排除しても構わないとする社会的「合意」をつくりだそうとした。すでに、こうした「合意」は、朝鮮戦争が勃発する前から韓国社会に準備されていたことは、国会での臨時郵便団束法の制定をめぐる過程のなかから見てとることができる。
 同法の制定をめぐって、国会議員らは、「共産主義者」の取締りにたいする異議申し立てをおこなわなかった。彼らは、「合意」の創出に加担していた。統治権力は、この「合意」を政治的資源として、自らに反対する者を正当に弾圧することを目的とする通信検閲体制を成立させた。
 朝鮮戦争の前後から、李承晩政権は、このシステムを積極的に作動させ、「不純分子」たる「共産主義者」を取締ることで、人びとが抱いていた不満や批判、怒りの表出を抑圧した。彼ら・彼女らは、統治権力にとっての「敵」に分類され、社会的排除の対象にされないよう、生き抜くためには意見表明などを厳しく自己規制するしかなかった。たしかに、そこには韓国社会に住まう人びとから、多様な意見や感情を奪い取っていく権力の効果が見られた。だが、統治権力が、いくらこのシステムを通じて、人びとの意見や感情を抑圧しようとも、彼ら・彼女らのなかから、それらを完全に奪いさることはできなかった。通信検閲体制は、人びとの抵抗的な言葉を削除しても、抵抗それ自体を消失させることはできなかった。
 李承晩政権期における通信検閲体制は、統治権力に抵抗する者を「共産主義者」とラベリングし、彼ら・彼女らを殲滅すべき「敵」として、韓国の人びとの眼前に突きつけた。韓国社会を覆う敵か味方かという、きわめて単純な二項対立的な図式が、統治権力を持続・安定化させる政治的資源として活用された。
 だが、それは何も李承晩政権期だけに見られた特徴ではなかった。日本統治期や米軍政期における通信検閲体制でも見られた。日本統治期から米軍政期、そして李承晩政権期を貫く通信検閲体制は、たたかうべき「敵」を必須の構成要素としていた。それらは、いずれも「共産主義者」であった。この点において、李承晩政権期の通信検閲体制が、日本統治期や米軍政期のそれとの間にシステム的な連関を有していたことが浮かび上がる。このことは、さらに別の側面も浮き彫りにする。
 反共を国是として成立した大韓民国において、「共産主義者」の弾圧は、統治権力自らの正統性を維持するための政治的資源であった。それは、反共主義としてイデオロギー化されることで、この資源に持続性と安定性を供給した。このことは、一般的には朝鮮戦争前後から見られるようになったと指摘される。だが、「共産主義者」を「敵」とみなした日本統治期から米軍政期、李承晩政権期にいたる通信検閲体制のシステム的な連関は、韓国社会における反共主義の起源に新たな見解を付け加えることになる。
 1961年、李承晩政権は崩壊した。だが、それは通信検閲体制が廃絶されたことを意味しなかった。たしかに植民地期の通信検閲を法的に支えた郵便法や電信法、臨時郵便取締令は、1960年および61年に新たな郵便法、電気通信法が制定されたことで廃止された。だが、通信検閲体制の法的根拠が、植民地法から韓国法に切り替えられたにすぎなかった。李承晩政権後の通信検閲体制は、従来の臨時郵便団束法と新たに公布・施行された電気通信事業法を法的根拠とすることで維持された。
 軍事クーデターによって誕生した朴正煕政権は、通信検閲体制から生み出される権力の効果を最大限に引きだそうとした。1961年6月、内務部から分離・独立した情報機関として韓国中央情報部(KCIA)が設立された。朴正煕政権は、統治権力を維持するにあたり、KCIAに大きく依存していた。この政権下では、通信検閲体制の主導権が、それまでの逓信部からKCIAにとってかわられた。情報機関の強い関与は、通信検閲体制そのものが強化されたことを明確に物語っていた。
 李承晩政権期に復活した通信検閲体制は、その後の政権においても引き継がれ、維持された。だが、1987年におこった民主化のうねりは、安定的に見えたこのシステムを動揺させた。民主化の進展は、これまで諸々の権利を蹂躙されてきた韓国の人びとが、基本的人権の回復を求めて声をあげることを可能にした。人びとは、周知の事実であった通信検閲体制の存在を、ようやく公に語れるようになった。KCIAによる通信検閲の実施が、明らかになったのは、1988年10月になってからのことであった。
 韓国における民主化の進展は、通信検閲体制の存在に光をあて、それが基本的人権の問題であることを示す最大の契機となった。それは1910年に植民地朝鮮に移入され、李承晩政権発足直後の約3ヶ月間をのぞいて、80年余りにわたって維持された通信検閲体制の廃絶にむけた、韓国の人びとの挑戦を可能にさせた。だが、それもまた大きく制約されることになった。
 韓国の民主化は、通信検閲体制の法的根拠であった臨時郵便団束法を廃止させたという点において、一定の成果をもたらした。しかし、1993年に同法にかわって制定された通信秘密保護法は、国家安保を理由とした「特例」を準備し、通信検閲を一定の制限のもとで実施可能にさせる法的根拠となった。基本的人権の保障よりも、南北朝鮮の対立を背景とする国家安保が尊重された。通信検閲体制を廃絶しようとする人びとの挑戦は、南北分断体制下で国家安保を優先する社会的、政治的価値の前に大きく制約された。
 日本統治期から米軍政期、そして分断体制期へと継続される通信検閲体制は、社会内外における「敵」の存在と戦争の可能性を構造化した南北朝鮮の分断状況を政治的資源として、安定的かつ自生的に機能している。韓国の通信検閲体制は、いまや南北分断という地政学的条件によって構造規定され、持続性が与えられている。そして、それは南北分断体制を固定化させるシステムとして機能しながら、金大中、盧武鉉の二つの革新政権を経て、現在の李明博政権にいたっている。

4.結論
 韓国の通信検閲体制は、「敵」を創出しながら、それを取締まることで、社会秩序の安定を確保しようとする社会システムであった。そこでは、常に「戦争」が想定され、これへの対応を通じて、通信検閲体制に意味とかたちが与えられた。通信検閲体制は、「戦争」を政治的資源として、統治権力に持続性と安定性を供給した。このシステムは、さらに大きな「戦争」の構図のなかに位置づけることができる。
 第一に、「ファシズム」対「反ファシズム=民主主義」の戦争である。近代日本に成立した通信検閲体制は、韓国併合にともない帝国日本の植民地となった朝鮮に移入され、そのかたちと意味は、日中戦争、そして太平洋戦争を通じて、いっそう明確にされた。それは、「民主主義」を標榜する陣営との効率的な戦争の遂行を目的とした、帝国日本における総力戦体制の構築過程とも重なりあっていた。米軍政期から分断体制期へと引き継がれる通信検閲体制は、こうした総力戦体制下で整備された「戦争」対応のシステムであった。それは、ファシズムの敗北により終焉を迎える、はずであった。
 第二に「民主主義」対「共産主義」の戦争である。第二次世界大戦の終結は、20世紀前半の世界を覆った戦争と暴力の廃絶を意味しなかった。冷戦という新たな「戦争」が開始され、「民主主義」対「共産主義」という対立の構図が姿をあらわした。米軍政期、そして分断体制期を通じて、通信検閲体制が想定する「戦争」は、「共産主義」から「民主主義」を守護する戦いであることが明確にされた。
 この「戦争」の具体的な「敵」は、北朝鮮であり、韓国社会の内外に存在するとみなされる「共産主義者」であった。反共主義を国是とする韓国で暮らす人びとは、「共産主義者」と戦うことを宿命づけられ、この「戦争」へと動員された。この社会では、あらゆる日常的な営みが、「戦争」の遂行を前提に組み立てられた。
 通信検閲体制は、統治権力に敵対すると見なされた人びとを「アカ」として社会的排除の対象と位置づけた。それは、同時に反共主義を公的イデオロギーとする社会統合体の構成員として、大韓民国の国民を創造するプロセスでもあった。差異化と強制的均質化がなされる過程で、人びとにたいして、絶え間ない暴力が行使された。
 ファシズムによって構築された通信検閲体制は、ファシズムの敗北後も「民主主義」を標榜する統治権力によって流用され、温存された。帝国日本による通信検閲体制は、朝鮮半島において、ファシズムの敗北後も解体されなかった。ファシズムによる「戦争」対応のシステムであった通信検閲体制は、今度は「民主主義」のための「戦争」にむけて準備された。
 第二次世界大戦における「民主主義」の勝利は、少なくとも朝鮮半島の北緯38度線以南の地域に暮らす人びとに、戦争と暴力の廃絶をもたらさなかった。むしろ、「民主主義」のための戦争が遂行されるがゆえに、彼ら・彼女らは激しい暴力にさらされ、基本的人権は大きく制約され続けた。
 現代韓国社会における通信検閲体制は、「民主主義」のための「戦争」に対応するシステムとして存続する。このシステムの作動を通じて、戦うべき「敵」の存在が可視化された。それは、北朝鮮との和解を妨げ、南北対立を継続させるだけでなく、韓国社会内部におけるイデオロギー的な亀裂を引き起こす一因となっている。韓国における通信検閲体制は、分断体制成立後に新たに開発された権力のテクノロジーではなく、すでに日本統治期に出現し、かたちづくられた社会システムであった。韓国の通信検閲体制は、約1世紀にわたって韓国の人びとに「戦争」の続く社会で暮らすことを余儀なくさせる社会システムとなっていた。

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