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博士論文要旨

論文題目:現代に生きるグラムシ—市民的ヘゲモニーの思想と現実—
著者:黒沢 惟昭 (KUROSAWA, Nobuaki)
博士号取得年月日:2010年2月10日

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目  次

 はじめに
 序

第Ⅰ部 初期マルクスにおける疎外とその回復の思想
序 章 動態的疎外論への前哨
第1章 窮乏化理論と労働者教育
1 「窮乏化理論」について 
2 「自然発生性」と「意識性」
3 労働者の学習・教育についての仮説 
おわりに 
第2章 初期マルクスの人間=社会観について
1 ギムナジウム時代 
2 「学位論文」時代 
3 「具体的普遍」の展開 
4 「ヘーゲル国法論批判・序説」
5 「ユダヤ人問題によせて」

第Ⅱ部 マルクスにおける疎外超克の問題点
はじめに 
第1章 マルクスの主体形成論の再審
1 ドイツの無産階級の状況とその解放 
2 マルクス理論の思弁性 
3 マルクスの真意 
4 歴史の現実 
第2章 ベルリンの壁の崩壊と市民社会
1 市民社会と社会主義 
2 プロレタリア独裁と市民社会のヘゲモニー 
3 Zivilgesellschaft 
4 ヘゲモニー 
付 論 マルクスのアソシエーション論
1 初期マルクスの未来社会像 
2 マルクスの「アソシエーション」をめぐって 
3 小括 

第Ⅲ部 市民的ヘゲモニーの思想──グラムシ『獄中ノート』の再審
はじめに 
第1章 グラムシの「実践の哲学」とヘゲモニー
1 問題の所在 
2 「実践の哲学」と『唯物論と経験批判論』
3 「実践の哲学」における「反映」の意味 
4 「カタルシス」と「合理性」
5 大衆の合理主義とヘゲモニー 
第2章 市民社会論と「歴史的ブロック」
1 問題の所在 
2 ヘーゲル・マルクスの市民社会論の再考 
3 グラムシの市民社会論─ノルベルト・ボッビオの提言を手がかりとして─ 
4 「歴史的ブロック」概念の背景 

第3章 「知的・道徳的」ヘゲモニーの実相
1 問題の所在 
2 グラムシの人間観 
  個体の実体化・批判/全体の実体化・批判/個体・全体の実体化主義の超克 
3 知識人論 
  知識人と非知識人/有機的知識人/伝統的知識人/知識人の機能 
4 知の等質化の構造
第4章 ヘゲモニーの刷新と展開
1 問題の所在 
2 ヘゲモニー概念の拡大・深化 
3 国家・市民社会論の刷新 
4 「ヘゲモニーは工場から生ずる」の再審 
5 「工場」以外のアソシエーションへの展開 
6 ヘーゲルの「職業団体」
7 グラムシにおける「職業団体」の展開 
8 グラムシの未来社会像 
9 政党─未来社会の構想 

第Ⅳ部 市場原理主義と市民的ヘゲモニーの形成
第1章 資本主義の変貌と教育
1 現代資本主義の修正と「先祖がえり」
2 ポスト産業社会と教育 
3 市場原理主義の復活 
4 臨教審の改革構想と実相 
5 教育における市場原理主義の展開 
6 市場原理主義の「虚偽意識」
7 「ゆとり」教育の理念と現実 
第2章 ポスト臨教審と構造改革
1 安倍政権と教育改革 
2 ポスト臨教審と格差社会 
3 教育の荒廃と「教育の再生」
4 「美しい国」政策の内実 
第3章 現代日本における市民社会論と主体形成
1 高度経済成長と地域の問題 
2 工場評議会運動の生成・展開と挫折 
3 工場評議会の挫折とヘゲモニーの構想 
4 ヘゲモニーと教育の関係 
5 三池のたたかいと労働者のヘゲモニー 
第4章 市民社会思想の古典と現代
1 市民社会の思想と現実 
2 現代市民社会の展開 
3 ヘゲモニーとしての市民社会論 
第5章 「現代市民社会」と主体形成
1 持田教育理論の概要 
2 持田教育論の功績 
3 「批判教育計画」の検討 
4  「批判教育計画」の意義と限界 
5 自治体におけるヘゲモニーの創成──「批判教育計画」を超えて── 
付論 Ⅰ 現代に生きるグラムシ─その生涯と思想─
付論 Ⅱ グラムシの教育論への序章
第I部 初期マルクスにおける疎外とその回復の思想
 本書は、人間はこの世において疎外された受苦的な存在である事実から出発する。同時に人間はこの疎外(受苦)を意識しこれを克服しようとする情熱的な存在でもあると捉える。
 
序章 動態的疎外論への前哨

第1章 窮乏化理論と労働者教育
(1)「窮乏化理論」と向坂逸郎の学習論 経済理論を前提としつつも、人間の意識変革・主体形成の面にまで踏み込んで理解しようとする「教育的」「実践的」志向が向坂理論の特色である。
(2)「自然発生性」と「意識性」 「知能のすぐれた」プロレタリアートを媒介として社会主義理論が労働者大衆にもちこまれ、意識化されなければならない。その役割は知識人が受けもつのである。
(3)労働者の学習・教育 自然発生性は、社会主義理論との結合によって対自的意識に高められる。意識性も自然発生性との媒介によって明確な意識性に発展する。

第2章 初期マルクスの人間=社会観について
 現実と理念を統一した存在、これが初期マルクスの人間=社会観である。

第II部 マルクスにおける疎外超克の問題点
 つまり、人間活動の目的はこのコミュニズムの実現である。ここに欠如しているのは、差異による個々人が相互に議論して共同性を拡げ、それによって未来社会を創出しようとする大衆(ふつうの人々)の自律性と主体性である。こうしたマルクスの疎外回復の方式が問題点である。

第1章 マルクスの主体形成論の再審
 1. 「ドイツの無産階級の解放」における現状について、マルクスは2. 思弁の産物と批判される。しかし、マルクスは「プロレタリアート」の形成面をみていない。3. 「マルクスの真意」はこの点にある。4. 「歴史の現実」はマルクスの革命論の批判である。要点は、後進国の現状分析から導き出された革命論が先進国にも適用されたところに根本的誤りがある。これは歴史によって証明された。

第2章 ベルリンの壁の崩壊と市民社会
 ベルリンの壁の崩壊の意味とは、広範な市民が主人公となって民主主義を実現した市民革命である(加藤哲郎)。①抑圧的旧体制への反発、民主化・自由化の要求、②ソ連による国際秩序に対する民族自立の希望、③経済生活の停滞への反発(伊藤誠)。
(1)市民社会と社会主義 平田清明は『市民社会と社会主義』(岩波書店、一九六九年)において、「個体的所有の再建」を視軸に、市民社会の拡充としての社会主義を提唱した。平田の高弟今井弘道は平田の考えをさらに進め、「自然的異質性を克服して社会的同質性を漸次的に獲得していくこと」に新しい社会形成の「核心」を見出した。
(2)今井は平田の構想を継承・発展させて、新しい社会形成の内実を「Zivilgesellschaft」と「ヘゲモニー」概念によって説明する。
(3)Zivilgesellschaft これは、ブルジョア社会という無批判の社会ではなく、反省的な意味を含意するシトワイヤンによって形成される社会のことである。
付論 マルクスのアソシエーション論


第III部 市民的ヘゲモニーの思想――グラムシ『獄中ノート』の再審

第1章 グラムシの「実践の哲学」とヘゲモニー――唯物論と観念論の超克の視界――
(1)問題の所在 「客観的存在」とは、「人間的に客観的」「歴史的に主観的」「普遍的主観」と変換される。これが「実践の哲学」の核心である。
(2)「実践の哲学」と「唯物論と経験批判論」 グラムシは、主観?客観の二項区分を認めたが二項を同時の契機として認識・存在を捉えていた。
(3)「実践の哲学」における「反映」の意味 「土台」は、自存的に存在するのではなくイデオロギーによってはじめて「存在」することになる。
(4)「カタルシス」と「合理性」 「反映」は、歴史的に、つまり多くの人々の生活に資することによって証明される。
(5)大衆の合理性とヘゲモニー 実践の意志(ヘゲモニー)が合成されて歴史は創造される。それが合理的であるのは大衆の生活の拡大に有用であるかにかかっている。

第2章 市民社会論と「歴史的ブロック」――ヘゲモニーの統一化――
(1)問題の所在
(2)ヘーゲル・マルクスの市民社会論の再考 ヘーゲルは、市民社会を「欲望の体系」であると同時に国家によって止揚されるべき分裂態と考えた。マルクスはこの国家観を継承し、「幻想共同体」としての国家に対立する現実の人間の活動の場を「市民社会」と呼んだが、その後、次第にブルジョア社会の生産関係の総体という考え方に変容する。
(3)グラムシの市民社会論――ノルベルト・ボッビオの提言を手がかりとして 「グラムシは、市民社会概念をマルクスからではなく、ヘーゲルから引き出した」ということである。市民社会の主人公を官僚から奪い取りブルジョア自身が主人公にならなければならないことをヘーゲル市民社会論からグラムシが読みとった。
(4)「歴史的ブロック」概念の背景 「歴史的ブロック」は土台?上部構造を統合する概念である。

第3章 「知的・道徳的」ヘゲモニーの実相――知識人と大衆の間――
(1)問題の所在 「『ヘゲモニー』の関係はすべて必然的に教育学的関係」。『獄中ノート』の有名なこの章句はグラムシ思想のキー・ワード「ヘゲモニー」と教育の関係を端的に示している。
(2)グラムシの人間観 グラムシは、マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」から関係的人間観を学ぶ。「人間は、もっぱら個人的・主観的である要素と、個人が能動的関係を結ぶ大量の客観的または物質的である要素との、ひとつの歴史的ブロックとして考えられるべきである。」
 この人間観から、1. 個体を実体化するカトリシズムの人間観と2. 全体を実体化するファシズムの人間観を同時に批判する。3. これら両者を超克するものが「歴史的ブロック」としての人間観である。
(3)知識人論 知識人論は『獄中ノート』の主要テーマである。これは、単なる知的関心ではなく「ヘゲモニー」と関わるグラムシの変革の思想の要石である。1. グラムシは、知識人と非知識人との差は質的でなく量的なものだと説く。これを前提にして次の二つの知識人を区分する。2. 有機的知識人――一定の社会集団に有機的に結びつく知識人層。3. 伝統的知識人――変化に中断されない連続性をもつ知識人。
(4)知識人の機能 大衆を指導し、組織して集団の等質化を行い、そのための意識化を可能にする。これが知識人の機能である。
(5)知の等質化の構造 1. 図式化すれば次のようになる。①「常識」→②「良識」→③「哲学」(世界観)
 2. 大衆は感性はすぐれているが知性は劣る。逆に知識人は、知力はすぐれているが感性は劣る。そこで、両者がたえず、接触して交流し、両者の弱点を補い合いながら等質の集団をつくらねばならない。この関係をグラムシは、コム・プレンデレ(ともに掴みとる)と表現する。この等質化を「知的・道徳的改革」とも呼ぶが、これによって新しい秩序をつくり出す。これがグラムシのヘゲモニー(教育)による社会変革の要点である。

第4章 ヘゲモニーの刷新と展開――「国家の市民社会への再吸収」――
(1)問題の所在 集団の形成は、同業集団から発芽し、経済的連合を経てさらに政治的・国民的統合体へ展開する。この中核にあるのがヘゲモニーである。
(2)ヘゲモニー概念の拡大・深化 ヘゲモニー概念の留意点。1. ヘゲモニーは「知的・道徳的改革」であり、2. 「経済決定論」に対する批判である。3. ヘゲモニーの行使のなかに権力獲得後の要素――「知的・道徳的」優位性が求められている。
(3)国家・市民社会論の刷新 市民社会のヘゲモニーの拡大によって、政治社会は逆比例的に縮小・軽減し、終には死滅する。これがグラムシの社会変革の根本意想である。
(4)「ヘゲモニーは工場から生ずる」の再審 このテーゼが適用できるのはアメリカだけで、ヨーロッパでは「上部構造」の次元で提起されなくてはならない。
(5)「工場」以外のアソシエーションへの展開 グラムシが「工場」以外のヘゲモニーとして重視したのはヘーゲルの「職業団体」である。
(6)ヘーゲルの「職業団体」 ヘーゲルの職業団体は、支配集団のヘゲモニーとみなされるものであるが、グラムシは逆に市民社会のヘゲモニー発芽の拠点と捉えた。
(7)グラムシにおける「職業団体」の展開  「職業団体」が同業組合的水準から普遍的水準(政党的段階)に展開していく。そして、国家に対して市民社会がヘゲモニーを獲得している場合には「国家」は諸集団間の調整機関になり、やがて「死滅」する。
(8)グラムシの未来像 グラムシは、自由主義の国家とファシズムの国家のそれぞれの一面性を批判し、その止揚のモデルとしてヘーゲルの「倫理国家」を考えた。その実現は、国家と自らの終結を目的とする社会集団のヘゲモニーによるものとした。
(9)政党?未来社会の構想 倫理国家の実現は政党によるが、それはつねに国家の原型である。それは次の三つの要素から成立する。1. 「平凡人、普通人の広範な要素」、2. 「一貫した、主要な要素」、3. 「中間の要素」。
 なお、三つの要素の統合のために「警察機能」も不可欠である。さらに、党の有機的統一のためには、民主的集中の機能も必要である。
 さいごに留意を促したい点は、国家と市民社会は実体的に区分されないことである。国家の変革が困難であるから市民社会から、というのはグラムシ的でない。
 
第IV部 市場原理主義と市民的ヘゲモニーの形成

第1章 資本主義の変貌と教育
(1)現代資本主義の修正と「先祖がえり」 七〇年代半ばから日本はポスト産業主義に入った。それに伴って新自由主義の教育政策が導入された。具体的には八〇年代半ばの臨時教育審議会(臨教審)による教育政策で、端的に、教育の市場化である。
(2)ポスト産業社会と教育 社会、労働の現場の変化(ポストモダン状況)が学校に大きな影響を及ぼし、伝統的学校との間に「きしみ」を生じた。(1)の政策はその対応である。
(3)市場原理主義の復活 臨教審の意図は、市場を万能化し、自助努力と自己責任を徳目としてかかげた。この復活の背景には、肥大した福祉予算による慢性的財政赤字がある。そのために「小さな政府」、「市場の力」が求められたのである。
(4)臨教審の改革構想と実相 臨教審の意図は(3)で述べた赤字財政の教育面の解決策であるが、反面、画一的な均質的大衆一括に代わって差異と多様化を求める時代状況もとり入れたものであった。
(5)教育における市場原理主義の展開 臨教審の提言によって、教育課程、教科書検定、学校選択、教員資格、修業年限などの規制緩和が次々と進められた。
(6)市場原理主義の「虚偽意識」 市場主義推進の理由として、日本の平等主義、大きな政府が挙げられるが、それは全く根拠がない「虚偽」であることを山口二郎は各国との比較を試みて論証している。
(7)「ゆとり」教育の理念と現実 「ゆとり」教育は一九九六年の一五期中教審の提言である。「詰め込み」はやめて、「少なく教え、大きく育てる」、これによって「生きる力」を育むことが主旨であった。その後、国際競争のためのエリート養成が喧伝され「ゆとり」教育は当初の理念・意図は失われている。

第2章 ポスト臨教審と構造改革
(1)安倍政権と教育改革 安倍政権の教育改革は小泉内閣の「構造改革」路線の継承である。
(2)ポスト臨教審と格差社会 第一章の(5)で述べた「規制緩和」によって急速に格差化が進み、非正社員化も急速に進んだ。雇用者数に占める非正社員の割合は三人に一人となった(二〇〇六年)。
(3)教育の荒廃と「教育の再生」 安倍はその著『美しい国へ』で、教育のモデルをサッチャー主義に求めるが、イギリス国民は、彼女の市場主義に「ノー」を表明し政権が交代したのである。この変化について安倍は全く言及していない。
(4)「美しい国」政策の内実 安倍の教育政策は(3)で述べたようなお粗末なものであるが、その上、二〇〇六年末に「教育基本法」を強行に改定した。「戦後レジームからの脱却」を謳うが、その歴史観は、小泉と同様、「可視史観」「忘却史観」である。

第3章 現代日本における市民社会論と主体形成
(1)高度経済成長と地域の問題 高度成長に伴う「外部不経済」は地域住民に押しつけられた。労働運動も革新政党も力を失ったため地域社会の疎外に対する回復のための運動は非階級的なラディカルな市民がになった。
(2)工場評議会運動の生成・展開と挫折 イタリア版ソビエトとしてグラムシは「工場評議会」を組織し、その運動を推進したが、労働組合の妨害もあった。結局企業側のヘゲモニーによって挫折した。
(3)工場評議会の挫折とヘゲモニーの構想 挫折の原因をグラムシは獄中で思索し、それは市民社会に張りめぐらされた資本の広範なヘゲモニーによることを究明する。
(4)ヘゲモニーと教育の関係 対抗ヘゲモニーの生成のためには、知識人と大衆の結合によるアソシエーションが必要である。
(5)三池のたたかいと労働者のヘゲモニー 三池闘争は、総資本と総労働のヘゲモニーのたたかいであった。この労働者の学習・教育の特徴は次の三つである。1. 生産・生活の場で発生する疎外を資本蓄積の一般理論の一環として考える。2. 自然発生的な労働者の「反抗」を意識性の萌芽として重視し、知識人の助けをかりてそれを社会主義理論と結びつけ高い意識の形成をはかった。3. 学習を全面的に組合が関与して進めた。端的に「実践学習の組合組織化」であった。こうして労働者のヘゲモニーは強められたが、結局資本のヘゲモニーに敗れたのが三池闘争であった。

第4章 市民社会思想の古典と現代
(1)市民社会の思想と現実 市民社会は「私」と「公」の統一された社会で、中世のヨーロッパで歴史的に形成された共同体が源流である。それは民族や家族のような血縁共同体ではなく、ふつう「地域社会」と呼ばれる住民による同好、同志のアソシエーション、具体的には、理念としての「地方自治体」とみなされるものである。
(2)現代市民社会の展開 1. 市民社会は「ブルジョア社会」ではない。2. 市場社会でもない。市場社会とブルジョア社会の中間領域である。3. 所有論からいえば、社会的共通資本が主要な資本になる。4. 市民社会は経済構造に規制されるから諸アソシエーションによって自立が意図されなければならない。5. 市民社会はトランス・ナショナルな性格をおびる。
(3)ヘゲモニーとしての市民社会論 平田清明は、グラムシから学んで、市民社会を「社会的なるものと経済との双方における諸利害の制御調整の場」と捉えかえした。このように市民社会が把握されるとき、諸個人による連帯的、自律的空間の拡大が市民社会への国家の再吸収と、市場の再構成を促すもっとも重要な「実践」だと理解される。それは現代の希望である。課題は、市民社会のあらゆる分野でヘゲモニー闘争を実践し、「国家の市民社会への再吸収」を進めることである。

第5章 「現代市民社会」と主体形成――持田栄一の言説の再審――
 主体形成論には多くの見解があるが、マルクス、グラムシ研究を踏まえた教育学者の言説として持田栄一の見解を選び批判的紹介を試みる。
(1)持田教育理論の概要 マルクス、グラムシの理論を援用して、近代公教育の現代的形態=社会国家教育構想を解明し、その批判的のりこえ。これが持田教育学の特色である。その主要な例として教育基本法体制が批判の対象とされる。それは、しばしばいわれるように護るべき体制ではない。何故なら「個人」を価値として捉え、それを国家によって保障する近代主義に基づいているからである。そうではなく、教育は個人を類的人間として捉えかえし、社会共同の事業の立場から行われなければならない。その方法として「批判教育計画」を提唱した。
(2)持田教育論の功績 国家・市民社会の分離という近代の在り方から教育事象を捉えようとした点である。当時の教育界で価値的に捉えられた「教育権」も、国家はそれを保障することを通して市民社会の全局面をトータルな形で支配するに至る。この側面を解明したことは持田の最大の功績である。
(3)「批判教育計画」の検討 労働者党のヘゲモニーの喪失という時代的状況を踏まえ持田は、地域に「教育共同体」を創造し、それをネットワーク化して国家ヘゲモニーに対抗することを提唱する。この構想が「批判教育計画」である。
(4)「批判教育計画」の意義と限界 持田のプランは自治体社会主義というグラムシの思想に形式的には合致していた。しかし、持田はあくまでナショナルな面の変革を第一義と考え自治体は第二義としていた。しかし両者は混然としていて実体的には区別できない。グラムシの意想によれば、自治体(市民社会)のなかにナショナルな面の変革を、ナショナルな面に自治体(市民社会)の変革を考えなければならないのである。持田はそこまで思い至らなかった。この点は持田の限界である。
(5)自治体におけるヘゲモニーの創成――「批判教育計画」を超えて―― 市民社会の成熟化を踏まえて、私が提唱するのは、市民(団体)と行政とのコ・プロダクト(協働)による教育改革である。形式としては市民参加であるが、市民が行政の提唱する改革に積極的に参加して、その内部において行政とヘゲモニー闘争を挑みながら、行政(国家の一端)を市民社会に徐々に吸収していくことが眼目である。各自治体の市民的ヘゲモニーが連接されていけばナショナルな変革も展望することができる。                      (完)

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