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博士論文要旨

論文題目:近代日本の中高等教育と学生野球の自治
著者:中村 哲也 (NAKAMURA, Tetsuya)
博士号取得年月日:2009年11月30日

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問題意識と課題の設定

 近年、高校野球を中心にして、日本の学生野球で暴力事件や特待生問題など様々な問題が発生している。その一方で、甲子園で活躍したチームや選手は、マスメディアで連日大きく取り上げられ、社会の注目を集めることも多い。これら一連のできごとは、現代の学生野球を取り巻く社会状況を象徴している。春と夏の甲子園を中心とした学生野球はマスメディアとの関係抜きに語ることはできない。マスメディアが学生野球大会を主催するとともにそれを大きく取り上げることで、国民的なレベルでの関心事となる。それゆえに、私立の大学や高校は優秀な選手を集めて部の強化をはかり、それが時に暴力を伴った指導となる。少子化と教育の新自由主義的改革を背景とした学校間の生き残り競争が、それに拍車をかけている。
 しかし「日本学生野球憲章」(以下、「憲章」)では「厳格なアマチュアリズム」を学生野球の理念として掲げており、それに違反すれば日本高等学校野球連盟(以下、高野連)を通じて日本学生野球協会(以下、学生野球協会)に当該事実が報告され、学生野球協会から当該チームや人物に処分が下される。高野連や学生野球協会は、マスメディアとの協力のもとで学生野球大会を開催・運営しつつ、勝利至上主義や市場原理の介入を抑制し、教育の一環としての学生野球を統制するという二重の役割を担う立場にある。
 こうした学生野球の組織や理念は、戦後一貫して続けられてきたのであるが、近年の動向の最大の特徴は、その学生野球の組織や理念が世論の支持を失って、強権性や閉鎖性といった組織の体質や、商業主義を排してアマチュアリズムを徹底するという理念が強い批判にさらされている点にある。ただ、学生野球の組織や「憲章」が誕生した経緯を振り返るならば、その出発点にも同時代の学生野球への批判があった。明治後期から昭和初期にかけて、学生野球は社会から「興業化」「商業化」といった批判を浴びた。学生野球批判の高まりをうけて1932(昭和7)年に「野球統制令」が制定され、学生野球は文部省の統制をうけることとなり、戦時下で「弾圧」を経験した。戦前の学生野球の弊害への反省と「弾圧」の経験をふまえて、戦後に学生野球協会や「憲章」が成立する。そして、そこではアマチュアリズムに基づいた健全な学生野球を民主的な自治によって実施することがめざされたのである。学生野球の組織も理念も、学生野球の健全化と民主化の産物なのである。ところが上記のように、現代においてはそうした学生野球の組織や理念のあり方が社会から強い批判にさらされているのである。
 このように考えるならば問うべき課題は二重のものとなろう。すなわち、民主的な自治によってつくられたはずの学生野球の組織や理念が、なにゆえ閉鎖性や強権性といった非民主的性格を非難されるものとなったのかということであり、もうひとつはかつて世論の支持を受けて成立した学生野球の組織や理念がなにゆえ批判にさらされるようになったのか、ということである。そこで本論文では、歴史的なアプローチから学生野球自治の形成と変容を明らかにすることとした。併せてマスメディアの普及・拡大と教育の大衆化を軸にした日本社会の大衆社会化の展開のなかで、学生野球を取り巻く社会構造と学生野球の社会的意味の変容を明らかにした。

本論文の方法

 本研究では、以下の方法的視角を採用した。第一は、自治の形成や変容の分析に際して、学生野球に関する諸主体の主体性や自律性を重視したことである。選手をはじめ、学生野球OB、野球部長や監督、マスメディア、文部省やGHQ民間情報教育局(CIE)等の意思や行為が、協働や対立といった相互関係を生み出し、それが学生野球自治や学生野球を取り巻く社会の状況を変容させる要因を形成するものととらえた。自治の分析に際しては、①自治領域、②自治権能、③自治の主体、④自治の制度化の4点から検討した。
 第二の視角は、諸主体によって発せられるスポーツ観や野球論等の言説を同時代的な相互関係のなかに位置づけ、言説相互の共通点よりも差異を重視したことである。それにより、先行研究において固定的で画一的な日本的スポーツ観や武士道野球論としてとらえられてきたスポーツ観やスポーツイデオロギーを、多様性を含みつつ歴史的・社会的構造のなかでダイナミックに変容するものとしてとらえた。この視角からするならば、支配的なスポーツ観や野球論は、日本文化や日本近代の後発性の産物ではなく、学生野球を取り巻く社会構造と権力関係の産物なのである。
 三点目として、学生野球を取り巻く社会構造のなかでも特に中高等教育機関を中心とした教育社会の状況が、学生野球に与えた影響を分析した。とりわけ、学校の社会的位置づけに規定された学生・生徒の進学と就職の状況は、選手が学業と野球の矛盾に直面した時の選択や、野球の社会的評価に重要な影響を与えたものと考えられる。そこで、各学校の進学や就職の状況をふまえて、野球部の活動や選手の選択、野球論を考察した。
 最後に、多くの学校の野球部史や校友会雑誌を史料として用いることで、政治決定や学生野球を取り巻く社会の変容といった大局的な動向と、各校野球部の相互の影響を明らかにした。これにより、全国的な学生野球の状況や、個別の事例として取り上げられた問題を全国的な動向や社会の歴史的変化のなかに位置づけた。

各章の概要

 第1章では、明治中後期における一高と早慶両校の野球部の活動の実態、特に野球部の運営や方針の決定過程等を見ることによって、中高等教育機関における選手主体の自治の内実を明らかにし、同時に一高野球部に関する通説を批判的に検討した。明治期の高等教育機関では、野球の愛好者たちによって自然発生的につくられたチームが、校友会の成立とともに学校公認の組織となり、自治の経済基盤と組織が制度的に保障された。一高では、監事を中心とした合議によって、部規約の作成、試合や練習、選手の引退等にいたるまで、野球部の運営や活動に関する様々なことがらを選手が決定していた。
 しかし、一高は国家のトップエリートを養成するための学校であり、語学や専門知識の授業が多く、試験も厳しかったために落第者も珍しくなかった。また、彼らは学歴を生かして官僚や政治家、専門職や企業経営者に就くことを見据えており、実際に多くの生徒が立身出世を果たしたのであった。そのため、一高の野球部員にとって学業と野球の両立は至上命題であり、その枠内で可能な限り勝利を追求していた。しかし、日清戦争後になると次第に一高内で運動部批判や校風批判が盛り上がり、同時に一高の入試が難化の一途をたどることによって、一高時代は終焉を迎えるのである。
 一高にかわって台頭したのが専門学校として成立した早稲田と慶応の両校であった。これらの学校でも、学生の間で次第にスポーツが普及するなかで体育会が設立され、学生と学校・教職員が会費を負担して運動部の活動を援助した。部の活動の多くは選手のなかから選ばれた幹部部員が主導したが、早慶戦のような大きな問題が発生すると、体育会の幹部を務める教職員が野球部の活動に介入し、選手自治を制限することもあった。明治期の高等教育機関での学生野球の自治は、個別の学校を単位として選手主体に運営されたが、
 第2章では、明治後期に各地に拡大した中学校の校友会野球部の活動を中心にして、学生自治のあり方を検討した。明治期の中学校は、学業不振や病気、家庭の経済問題を理由とした半途退学が横行する淘汰機関であった。校内における校長の権限も強く、校内の諸事項の決定や操行査定が校長の恣意的な判断によって行われることもあった。それゆえ、校友会野球部の活動も校長の判断によってその様態を大きく変えることとなった。学業問題や校舎の破損、応援団の騒擾などを理由に野球部の練習や試合が一方的に禁止される学校もあれば、校長によって野球部の活動が積極的に奨励される学校もあった。野球部の活動が盛んな複数の学校が集まり、それらの合議によって規約が作成され、持ち回りで大会が開催・運営されることもあった。学生野球自治が、学校単位のものから地域的な広がりをもつようになっていったのである。
 その一方で、明治末期には学生野球の諸弊害や野球批判の高まりを受けて、中学校の野球部の活動、自治の権限が厳しく制限される場合もあった。そうした場合、選手たちが主体となって校長や父兄を説得したり、学校から離れて活動を行ったりしたが、エスカレートして校長排斥の同盟休校へと発展することもあった。生徒による同盟休校が可能となる背景には、野球が多くの生徒の関心を集めていたことや、校友会が学生の組織化を促すものであったことがあげられる。その意味で、校友会は生徒管理の手段であると同時に、生徒による自治的な抵抗の拠点となりうるものでもあった。
 第3章では、大正期に中等野球の全国大会や大学リーグ戦が始められるようになるなかで、学生野球自治の主体として、野球部OBやマスメディアの権限が大きくなっていった過程を明らかにした。その背景には、大会の大規模化による費用の増大や運営のために必要な人員の増大に加え、中高等教育機関の拡充のなかで野球を通じた進学・就職のシステムが形成されていったことで、選手たちが試合での勝利を強く望むようになっていったことがあげられる。野球の普及・大衆化が進んでいったことで、試合での勝利や大会での優勝が難しいものとなっていったことも、その傾向を強める要因となった。学生にとっての野球が、個人的な楽しみや学校のプライドを争うものから、立身出世を賭ける手段となることで、次第に選手は部や大会を運営する主体から、プレーに専念する存在へと変化していくことになったのである。こうした傾向のなかで、学歴社会のなかで中学校よりも低位に位置づけられていた実業学校の野球部が、量的に増加するのみならず、実力においても中学校を圧倒するようになっていった。実業学校の有力選手が野球の技能によって進学・就職するようになっていったことで、野球の世界が次第に<実業学校化>していくこととなった。
 さらに、学生野球の試合や大会において、審判の判定への不満や、勝敗をめぐる応援団の騒擾、入場料徴収の可否等が問題となるなかで、学生野球組織化して各校野球部や選手を上から統制することが求められるようになっていった。
 第4章では、1930年代における学生野球の「商業化」や「興業化」を背景にした学生スポーツ浄化運動の盛り上がりと、思想善導を目的とした国家によるスポーツ政策が本格化するなかで、国家、学生野球OB、選手の三者を中心にした学生野球自治の領域や権能、主体をめぐる闘争の過程を明らかにした。1932(昭和7)年、学生野球の組織化と社会的ルールの制定を目的として「野球統制令」が発令されると、文部省は学生野球の自治領域に対する介入を本格化させていった。それをきっかけにして、「野球統制令」に対する抵抗が起こる一方で、学生野球OB主体の学生野球自治に対して、選手たちからは監督排斥運動が起こることとなった。そこでの主な論点は、学生野球自治の経済的基盤、学生野球の大会数と試合数、各校野球部における監督の権限や運営の主体、学生野球の目的としての精神教育であった。
 1937(昭和12)年には、「野球統制令」を自主的に運用する学生野球の自治組織を形成する運動が盛り上がることとなるが、統制を重視するか、民主的組織を重視するかの組織論をめぐる対立から運動は瓦解した。ただ、一連の闘争と国家による学生野球統制の経験が、戦後の学生野球の自治組織の萌芽となった。
 第5章では、日中開戦以後の戦時体制の進展のなかで、「野球統制令」をたてに国家が学生野球の自治領域に介入し、最終的に学生野球自治が崩壊する過程を明らかにした。日中開戦以後、文部省は戦時下の粛清と学生野球浄化を名目として、学生野球自治に介入した。学生野球界は戦時体制に順応するために、大会やリーグ戦において国家主義的な儀式を導入したり、軍へ献金したりするなどの方策を導入した。一方で、「一本勝負論」や学生野球の「官営化」に対しては、飛田穂洲を中心にして、言論による抵抗がつづけられた。しかし、文部省による学生野球の経済的基盤の切り崩しに加え、国家主導の体育・スポーツ政策である体育新体制に多くの学生野球関係者やマスメディアのトップが取り込まれた結果、学生野球自治は崩壊した。そして、戦局の悪化に伴う重点主義の進展によって、学生野球は「弾圧」を経験することとなったのである。学生野球の「弾圧」は、選手や野球部長らに不条理な経験を強いるものであり、学生野球関係者に自治組織の必要性を痛感させることとなった。
 第6章では、戦後日本社会において、文部省・CIE・学生野球関係者による協働と対抗を経て、学生野球自治が確立していく過程を明らかにした。戦後、学生野球関係者を中心にして、戦前の学生野球の弊害を反省するとともに国家による統制を脱するため、自治組織である学生野球協会とそのルールである「基準要綱」が成立した。そのとき、弊害の発生を防止し、自治の枠内で問題の解決を図ることを目的として、学生野球協会(の審査室)を中心にして上から厳しくチームや選手を取り締まる体制が築かれた。文部省は当初、「野球統制令」の改定の方針を示していたが、学生野球界からの強い反発をうけて、学生野球の自治組織による管理・運営を容認することとなった。CIEは、民主化政策の方針に基づいて、学生野球協会の組織化の過程を注視し、学生野球関係者以上に自治の裁量を認めていた。しかし、野球人気の一極的な集中や、選抜大会の主催者とシーズン制を問題として、次第に学生野球協会・中野連(高野連)と対立するようになっていった。両者の交渉によって、選抜大会の存続が認められる一方で、新聞社は主催から後援に退くとともに、学生野球を教育的に実施するため、スポーツマンシップが強調されることとなった。
 こうした過程を経て、1950(昭和25)年に「明朗強靭な情意」の「涵養」や「強健な身体」の「鍛錬」などを基礎に「学生野球の健全な発達を図る」ことを目的とした「憲章」が制定され、学生野球協会は「この憲章を誠実に執行する」組織として位置づけられた。「憲章」は、学生野球関係者とマスメディアが主体となって学生野球を組織化し、学生野球の選手やチームを強力に統制することを目的として制定されたのであった。
 「憲章」において、こうした教育的意義を重視する野球イデオロギーが打ち出された背景には、学生野球関係者の意図だけでなく、学生野球を取り巻く社会の人々や国家・GHQが学生野球の状況を批判的にとらえ、学生野球を健全なものへとすることを支持したためでもあった。そして、学生野球批判の根底には、学生野球の舞台である中高等教育をめぐる社会の状況があった。明治期から一貫して中高等教育は量的に拡大してきたが、それでも昭和戦前期において中高等教育機関に進学することができるのは同一年齢のなかの少数派にとどまっており、戦後直後もそれが大きく変わることはなかった。中高等教育機関に在籍する学生たちは、将来学歴を生かして大企業に入社したり、専門職に就いたりすることを嘱望された存在だったのである。
 それゆえ、野球を通じて進学や就職する社会システムが形成したのちも、決して野球だけが学生生活のすべてを覆うものとなることがないように、留年選手の試合への出場の禁止やシーズン制といったルールが制定された。野球の現場においても、飛田穂洲の学生野球論に見られるように、野球を通じた精神教育が選手に課されることによって、卒業後に企業が欲する人材となること、社会に貢献する資質を備えることが重視されたのであった。学生野球のイデオロギーと進学・就職システムが結合していたがゆえに、一見不合理に見えるような精神主義や上下関係等を、選手たちも受容していたのであり、そこに日本的なスポーツが長く命脈を保ってきた要因があったのであろう。
 このように考えるならば、特待生問題によって顕在化した「憲章」批判は、日本における学生野球の制度が形成された時に前提としていた教育社会や企業社会が、現代において崩壊したことをも意味すると言えるのではないだろうか。

 本論文の成果と課題

 本論文の成果の第一は、学生野球に焦点を当てることで日本におけるスポーツの自治の展開や、スポーツの自治組織の形成過程を実証的に明らかにした点にある。先行研究においては、日本のスポーツの上からの組織化やスポーツの自律性の弱さが強調されてきたが、本研究では学校長による野球の統制・禁止措置や、国家・GHQとの対抗をへて学生野球の自治が形成されてきたことを明らかにした。
 第二の成果は、中高等教育をめぐる教育社会の状況を視野に入れて学生スポーツを分析することによって、野球に対する批判や野球の統制・禁止措置が生まれる社会的背景、選手たちの試合での勝利に対する意識やスポーツに打ち込むことがもたらす社会的なメリットやデメリットを明らかにしたことである。
 第三の成果は、学生野球やスポーツに関する言説を同時代的な社会状況と言説を発する主体に着目して分析したことにより、「日本的」なスポーツイデオロギーを文化の問題としてではなく、社会状況に規定されたなかで学生野球の理念的なあり方を模索するなかで形成されたことを明らかにしたことである。
 第四の成果として、明治後期から大正初期における野球の統制・禁止措置、戦時下の学生野球の「弾圧」などについて、政治的決定や社会の変化に大きな影響を受けながらも、野球部の活動の内実は多様であったことを明らかにしたことがあげられる。
 一方、今後の課題としてもっとも大きなものは、戦後の教育の大衆化、企業社会の成立、マスメディアの更なる発達といった大衆社会状況のなかで、学生野球がいかに変容したのか、についてふれることができなかったことである。
 さらに、本論文では学生野球の自治の動向を強調して論じたため、それがもつ限界、特に戦前の天皇制国家体制のなかで、個人の権利に立脚した自治の限界について、考察を展開することができなかった。
 最後に、学生野球界がアマチュアリズムを強く打ち出すことの背景には、野球選手の就職状況に加えて、プロ野球との対抗関係が重要な意味をもつと思われるが、両者の関係を実証的に論証することもできなかった。
 これらの課題については、別稿を期したい。

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