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博士論文要旨

論文題目:敦煌変文韻文考
著者:橘 千早 (TACHIBANA, Chihaya)
博士号取得年月日:2009年7月31日

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1.論文の構成
第一章 序論
 第一節 「変文」の定義
 第二節 高僧伝類からみた「変文」
 第三節 韻文資料からみた「変文」
第二章 「変文」の押韻
 第一節 音韻学的アプローチによる先行研究
 第二節 「変文」全体に共通する特徴
 第三節 北宋時代以降の「中原音」との比較
 第四節 陽声韻を主とした各種語尾の通用
 第五節 小結
第三章 「変文」の平仄
 第一節 平仄簡史、及び平仄の意味するもの
 第二節 「変文」の平仄遵守状況
 第三節 「平―仄―仄―平」形式をとる変文について
 第四節 小結
第四章 唐代韻文文学からみた「変文」
 第一節 近体詩
 第二節 歌行(七言古体詩)
 第三節 「変文」の形式が意味するもの
 第四節 小結
第五章 結論

2.論文の目的と分析方法
 本論は、「敦煌変文」の当該作品(3.論文の対象を参照)の韻文全てを個別に分析し、その特徴を明らかにすることで、唐五代時代の韻文文学としての「変文」を再規定しようという試みである。七言の斉言句を中心に構成される「変文」の韻文は、「語りもの」として一括して論じられることが多いが、たとえば「語りもの」ではない同時代の韻文文学と如何なる部分が共通し、或いは異なっているのか。「変文」各種間では、韻文の文体面に個別の特徴は存在しないのか。もしも何らかの差異があるならば、それは何に起因するのか。――従来、「変文」各作品の特徴を文体面から分析しようという試みは極めて少なく、僅かに狭義の変文の散文部分を対象とした金文京氏の「敦煌變文の文體」が存在するのみである。しかしながら、同氏によって変文の一部がすでに「読みもの」として手が加えられ、様々な文体が効果的に使用されていることが確認された以上、韻文部分においても、このような用途の違いをうかがわせる特徴の存在を広く分析することが必要であろう。たとえば、容易に旋律に乗せられること、形式面や内容面で繰り返しが多いこと、ことばが平易で文字に頼らなくても内容が理解できること等々、聴覚的な配慮の多寡を追うことによって、その作品がどの程度実際に「語りもの」として用いられていたのかが推測できる。従来は目立った違いがないとされてきた韻文部分であるが、講経文・縁起因縁類・(狭義の)変文等で各々異なっていたと思われる上演の場や制作者についての議論をなおざりにしないためにも、各種の特徴を明らかにしたいというのが本論の目的である。
 分析の方法としては、当該作品の全ての斉言句について、各句の押韻の種類と「二六対・二四不同」、及び粘法を調査した。得られた特徴を、押韻では「共通項」と「個別の出韻」に分けて論じ、さらに出韻は標準音に繋がるものと河西方言と思われるもので区分した。平仄では、全作品を平仄の遵守率にしたがって大よそ三種に分けて論じ、また、押韻句ではないが句末字を「平声→仄声→仄声→平声→平声……」と続けていく独特の形式についても、三種に分類して検討考察した。

3.論文の対象
 本論では、前世紀初頭に莫高窟第17窟より発見され、現時点で最も大規模な校定本である黄征・張涌泉編『敦煌変文校注』(中華書局/1997年)に載せられる敦煌の俗文学作品を、広義の「敦煌変文」と位置づけ、その中で一定以上の韻文部分を有する全64種類の作品を主な研究対象とした(個々の作品名については巻末の「参考資料」を参照いただきたい)。但し、このうち、縁起・因縁類である「歓喜国王縁」及び「金剛醜女因縁」には各々2種と5種の異本が存在し、韻文部分の句数や平仄遵守状況が異なるため、前者は原巻(写巻番号:上海図書館028/P.3375v)と甲巻(上海図書館016)に、後者は甲巻系列(S.4511/S.2114v/P.3592v/P.2945v)と乙巻(P.3048――表題「醜女縁起」)に分離して論じた。したがって、本論で言及される作品数は全部で66作品である。

4.論文の概要
第一章 序論
 当章ではまず、第一節で「変文」全般に関連する諸問題について、先行研究の紹介と筆者の見解を述べ、第二節と第三節では各論として、それぞれ講経文の成立過程と、変文の上演状況を論じている。
 変文研究がとかく曖昧さを払拭できないのは、初期研究の輝かしい成果にもかかわらず、研究の根幹部分においてさえ未だ定論を確立できていないからである。第一に、如何なる作品を「変文」と称するかについては、分類推進派・分類懐疑派・暫時据え置き派とでも言うべき三種の潮流が存在し、1990年代頃までは第一の分類推進派が盛んであったが、現在の研究者では第三の、広く校訂を行なった研究者では第二の立場をとる場合が多い。本論では、第一・第二の説をバランスよく取り入れた項楚氏の説に倣って、敦煌の俗文学作品を広義の「変文」と定義し、その下に講経文・縁起因縁類・狭義の変文・押座文の如き種類別の範囲を設けることとした。次に、「変」の文字が何を意味するかについての研究は、同様に、変更改変説・非常神変説・梵語翻訳説の三種が代表的である。現在は何れの説も決定的な証拠を持ち得ない状況であるが、本論では、当初の「変」義よりも、現存する変文が共通してある一つの題材故事を「作品として改変し」、起承転結をつけて纏め上げるという特徴を有することに注目した。すなわち、「変」という字には、語られた故事を整理して作品化するという意図があったと考えられる。最後に、このことと関連して、「変文」の「語りもの」説と「読みもの」説についての研究を追うと、当初は全作品を「語りもの」と認識していた変文研究は、次第に「読みもの」である話本とその他の「語りもの」を区分するようになり、さらに昨今では、狭義の変文についても、整理された記録稿であると主張する論が登場した。しかしながら、筆者は、変文が散文体の話本へ移行する途中の作品であるから「読みもの」なのではなく、変文の制作者は、韻散混合文体のままで、既に作品化の意図を持っていたのではないかと考えている。
 次に、「変文」作品の具体的な成立過程を検討するために、「変文」の中で最も正統的で早くから行なわれていたと考えられる俗講・唱導と講経文を取り上げ、梁伝・唐伝・宋伝の三種『高僧伝』を用いて検討した。その結果、以下の結論を得た。
(1)成立当初の唱導は、皇帝や王族を導く高僧もその担い手となり、内外経典の知識や駢儷文が要求される専門色の濃いものであった。彼らは寺の主たる「維那」であり、八関斎等の斎会において、転読及び梵唄を行なう専門音楽集団である「経師」と共に唱導を行なったが、これは娯楽というよりも儀式的要素が強い厳粛なものであった。南北朝時代末期から初唐時代の間に、唱導師と経師は合流して専門色が薄まってゆき、卑俗化が進んだ。さらに、彼らは「儀式の進行役」から話の内容が重視される「説法師」となり、個人の布施を当て込んだ唱導は娯楽化していったと考えられる。その後数百年間で、同じく俗衆を対象とする論師の俗講が盛行したため、唱導というスタイルは開導の主流から外れるようになった。唱導の一部は論師と合流し、一部は「化俗法師」として俗衆に因果応報の理を説いて回る末端の民間僧となったと思われる。
(2)俗講は、おおよそ南北朝末期から初唐時代までに、仏教知識の民間への急速な浸透を背景に確立された新しい開導形式であった。これは、従来の儒・仏双方における「講経」の伝統を基礎として、俗衆に経典そのものを論じることを主眼に置いている。それ故に、最初の俗講の担い手は唱導師ではなく、大乗仏典を読経していた僧たちであった。しかし、唐代全般において、俗講は俗衆開導の雄として空前の繁栄を享受し、唱導の形式をも取り入れながら、固定化と娯楽化の一途を辿っていったと考えられる。
 最後に、仏教の影響を直接受けた「変文」とは別に、内容的に、仏教とは一線を画した変文の代表として、若い女性によって演じられる転変と、そこでうたわれた題目《昭君変》について検討した。その結果、以下の如き結論を得た。
いつ:9世紀前半の限られた数十年間(会昌年間の風紀粛正前まで?)
どこで:「場」と呼ばれる寺院近くの専用場所のほか、宴会の場でも
誰が:蜀女(非漢民族か?)、京城の妓女
何を:《昭君変》
どのように:画巻を広げ、楽器は用いず、哀切な調子でうたう
何のために:生業として、或いはより良い収入を求めて
彼女らの転変は、「語りもの」というよりも、むしろ「うたいもの」とも言うべきものであった。しかも、妓女や非漢民族といった身分の彼女らがみな漢字を読めたとは考えにくいため、おそらく口伝えで芸を教わったのである。唐の時代、王昭君の故事は格好の詩題の一つであり、「王昭君」「昭君怨」「昭君詞」等の名を冠したり、詩中にその故事を織り込んだりした詩は枚挙に暇がない。これらが軸となって、蜀女らがうたう転変がつくられ、その後、現存する《王昭君変文》のような変文が何編か制作された。口伝えで芸を習う彼女らには台本は必要なかったから、文字に定着した変文は、たとい韻文部分には転変でのうたを取り入れているとしても、散文部分については、ほとんどが改変者(=変家?)のオリジナルだったと考えられる。つまり、狭義の変文は転変の台本そのものではなく、語られた後で大きく形を変えて、現在のように整えられたのである。「(変)場」に出入りしていた秀才たちは、芸人によってうたわれる韻文中心の故事を聞き取り、そこに様々な文体の散文を加えて起承転結の形式を整え、現存する変文にまとめあげた。因って、たとい一度作品化した変文が再び語りものとして用いられることがあったとしても、変文の作成は、基本的には語るためではなく、文字の読める人々に広く読ませることを意図して行なわれたと考えられる。
第二章 「変文」の押韻
 当章では、第一節で押韻に関する先行研究の紹介と本論文における押韻分析の目的、及び分析方法について論じ、続く第二節では「変文」全作品に共通する押韻の特徴をまとめ、第三節では「変文」に見られる出韻の中で宋代以降の標準音に関わるもの、最後の第四節では河西方言に関わるものを取り上げて、当該出韻が現れる作品の種類とその意味について考察している。
 敦煌地域一帯の方言音である「河西方言」を再構築する試みとしては、これまでに、漢字音をチベット語で示した蔵漢対音資料と、「変文」や「曲子詞」等の文学作品を主な対象とした別字異文、そして「変文」の韻文、という三種の異なった材料が用いられてきた。しかしながら、第三の「変文」の押韻を用いる研究は、数としては最も多いものの、あたかも「敦煌変文」の如き一つの作品が存在するかのように扱い、その部分部分で得た特徴を、作品全体の特徴として箇条書きに並べてしまっているために、制作場所や時期を特定できるような効果的な結果が得られていない。したがって、本論文では、全作品の特徴を整理した後、これらを「全ての作品に共通する特徴」と「ある特定の作品にのみ見られる特徴」に分離して論じ、後者においては、当該特徴が存在する意味について考察した。
 全66種の「変文」作品において、平声での押韻があるのは59作品であり、平声韻のない7作品の韻文は、全て押韻句そのものが存在しない「平―仄―仄―平」形式であるので、「変文」の押韻はやはり、平声韻が中心である。具体的な韻目を見ると、『広韻』で「同用」と書かれる隣韻同士は、(一部の佳韻の文字を除いて)全て互いに押韻している。さらに、全作品を通じて、『広韻』では「真諄臻」「文欣」「元魂痕」韻に分けられる韻が「真諄臻文欣魂痕」韻に、「寒桓」「刪山」「先仙」三韻が「元寒桓刪山先仙」韻となっており、元韻が後者に移行し、三つの韻が合流して各々一韻を為している。次に、上声・去声の押韻を有する作品は33種にのぼり、全体のちょうど半数にあたる。その重要な特徴は、全作品において上声字と去声字に区別が見られず、互いにほぼ障害なく押韻していることである。押韻自体も平声韻より緩いものが多く、仄声韻の韻文は平声韻とは異なった役割を与えられていたということができる。最後に、入声押韻を有する作品は22種で、これは「変文」全体のちょうど1/3にあたるが、このうち押韻回数が一箇所であるのが9作品、二箇所であるのが4作品と半数以上を占めるため、「変文」において入声韻は一般的とはいえない。入声韻の有無について、種類による違いは見られないが、「降魔変文」「大目乾連冥間救母変文」及び法華経系の講経文等、年代別に古い作品ほど入声韻を用いる傾向にある。
 河西地域で制作された作品では、これまで知られてきた梗摂と斉韻・止摂との通用、宕摂と各種陰声韻との通用以外にも、陽声韻(特に、臻摂と曾摂)の混用を示すことが多い。これは、河西地域においては梗摂と宕摂の鼻音語尾が脱落した結果、おそらく陰声韻とも完全には一致しない曖昧な音価に変じていたと考えられるため、他の陽声韻にまで一定の影響を与えたからではないかと思われる。河西地域で制作されたと思しき作品は、縁起・因縁類を中心として、大部分の変文、伝文、書、及び大多数の押座文等であって、写巻もほぼ全てにおいて複数巻存在している。その一方で、講経文の制作は極めて稀であって、《仏説阿弥陀経講経文(一)》、《維摩詰経講経文(一)》の2作品と、全編が「平―仄―仄―平」形式で押韻句が存在しないために判断のつかない《盂蘭盆経講経文》等を除けば、敦煌産であるという音韻的特徴を示すような作品は見当たらない。
 止摂と斉韻の通用、陽唐韻と江韻の通用、庚青韻と蒸登韻の混用等は、中原地域においては頻繁に見られる現象であるが、上で述べた特徴を示す作品ではほとんど見ることができない。したがって、これらを顕著に示す作品は、敦煌一帯で制作されたのではなく、他地域で作られて当地に持ち込まれた可能性が高いと思われる。作品の種類としては、大部分の講経文を中心として、《王昭君変文》と《李陵変文》の2種の変文、及び「故圓鑒大師二十四孝押座文(S7)」、「左街僧録大師厭座文(S3728v)」の如き精巧に作られた押座文に限られる。
 流摂唇音字と遇摂の混用、及び入声韻の有無から、「変文」の制作年代をうかがい得る。「降魔変文」、「大目乾連冥間救母変文」、《張議潮変文》は、奥書や外的資料より、「変文」としてはかなり早期に制作されたことが判明しているが、これら3作品及び《妙法蓮華経講経文(三)》においては、流摂が未だ遇摂と合流していない例が見出され、押韻の面からもその古さが証明された。また、「変文」では早期の作品ほど入声韻が多く、時代が下るにつれて次第に押韻が曖昧になって、最後には上去声韻と通用するようになる。このことから、上記作品に加えて《父母恩重経講経文(一)》や「双恩記」の制作年代が比較的早期であること、維摩経系の講経文の中では、かねてから論じられている通り、語句の解説に終始する《維摩詰経講経文(三)》が最も古い作品である可能性が高い。
第三章 「変文」の平仄
 当章では、第一節で仏典の翻訳と並行して展開した、四声論を嚆矢とする平仄意識の成り立ちと発展、及び平仄の整った現存「変文」の韻文が形成された歴史的背景を探り、第二節で全作品の平仄遵守状況を個別に分析して検討している。但し、この平仄遵守状況は、作品の制作場所や制作年代を示していた押韻状況とは異なり、「変文」の種類別の特徴であるため、平仄を厳しく守る作品(講経文)とあまり考慮しない作品(変文類など)に分けて論じた。さらに、第三節で仏教系の「変文」に特異な「平―仄―仄―平」形式の構成について、押座文・縁起因縁・講経文の三種で少しずつ異なるその役割を考察している。
 第一節の結論は、以下の通りである。南北朝時代から初唐時代にかけて、古代インドの声明学に対する学問、及び梵唄を中国式に翻案した転読等の影響を受けて、四声に対する認識が高まった。漢訳仏典の斉言句においても、一般的には押韻せず平仄も整えないのであるが、この時期には中国古来の「賛」の形式等とも融合し、様々な実験的な試みが行なわれた。「変文」の「平―仄―仄―平」形式の祖も、大よそ初唐時代に誕生したと考えられる。唐代半ばには、近体詩の完成と共に多くの試作体は廃れてゆき、仏教典籍の形式の中には名残を留めず消えていったが、ひとり「俗講」という仏教の語りものにおいて、それを担う特殊な文体として生き残ったのであろう。但し、粘法にまで気を配り、完全に律体のスタイルを具えた「変文」の韻文形式は、「変文」自らが当時の音楽を取り入れ、語りものとして芸能化してゆく中で次第に身に付けていった独自のものである。
 第二節の結論は、以下の通りである。「変文」の平仄は、講経文が最も厳格であり、縁起・因縁類及び押座文がそれに続く。「変文」の韻文が近体詩に等しい平仄をとるかどうかは、各々の上演及び制作の方法が関連している。当時の流行曲を模して演じられていた講経文では、とりわけ平声韻の韻文において、粘法まで考慮された最も厳格な平仄を有している。縁起類もそれに準じるが、文字に定着して何度か改変を繰り返す過程で、次第に破格句の割合を多くしていったと考えられる。狭義の変文も、転変時の韻文は平声韻がほとんどで、唱いやすさのために、平仄はかなり整えられていた。全編が平声韻の《王昭君変文》や「捉季布伝文」の平仄が整っていること、或いは破格句が少なくない「救母変文」においても、平声韻は概して平仄が整っていることなどがそれを証明している。しかし、変文の韻文の多くは、文字作品として整理・加工されるにあたって、散文部分と同様に改変された。その際、音楽に乗せるという使命を持たない韻文は律体に拘らず、場面に応じて自由に換韻し、芸術性を高めた歌行体で制作されたと考えられる。
 第三節の結論は、以下の通りである。「平―仄―仄―平」形式は、「変文」の中でも仏教に関連する講経文・縁起因縁・押座文にしか存在しない。これらは何れも「読みもの」ではなく「語りもの」の性質がより強い作品である。同形式は、平声韻を唱うだけでは平板となり、しかも歌詞が聞き取りにくく内容が伝わりにくいという欠点を共に解消しようと導入されたと考えられる。また、同形式には種類別に微妙な役割の違いが存在する。まず、押座文の「平―仄―仄―平」形式は全編にわたり、4句で一連の偈頌とよく似た構造を持っている。そして、縁起類は、平声韻に代わる唯一のスタイルとして、作品中に新奇な効果をあげる役割を担っている。最後に、講経文では、初期の「平―仄―仄―平」形式においては仄声韻とほぼ同等で、作品にリズムを与え、後半の平声韻と合わせて内容を理解させる効果を担っていたが、後期のものでは宣教の内容をよりはっきりと、分かりやすく伝えるための文体へとその役割が変わっていった。これら押座文・縁起類・講経文の「平―仄―仄―平」形式がみな同じふしであったとは考えにくいが、楽曲に乗せて唱われた平声韻のものとは異なり、梵音に擬えたふし回しで、ことばがはっきりと聞き取れるよう朗詠していたと考えられる。
第四章 唐代韻文文学からみた「変文」
 当章では、「変文」の韻文の特徴をより明確にし、その特徴が持つ意味を考えるために、第一節では近体詩、第二節では歌行(七言古体詩)という同時代の韻文文学との比較を行なった。続く第三節において、講経文が4句毎の平仄の整った韻文で作られる一方で、変文の韻文があまり平仄に拘らない所以を、唐代音楽との関連において考察している。
(1)近体詩と「変文」
近体詩の形式と最も似通っているのは、講経文の韻文である。これらは必ず4句か8句毎の倍数で構成され、とりわけ後半部分の平声韻では、粘法まで考慮された厳格な規則が適用されている。宣教の道具という性質上、内容的には無味乾燥であったり、また、分量が多いために対句等の精度に問題があったりするものの、これらは外見的に、近体詩とほとんど変わることはない。制作者が近体詩から多大な影響を受けていたことは確実であろう。但し、切韻系韻書ほど厳格でない韻を全「変文」で用いることや、往々、三・三・七言句の民間歌謡形式を用いること等は、近体詩と異なる部分である。
(2)歌行と「変文」
歌行は元来自由な形式であるから、「変文」作品と完全に一致するという言い方はできない。それでも、たとえば白居易の「新楽府五十首」に見られる出韻の状況は、「変文」全作品の傾向とほぼ等しいものであるし、仄声韻を厭わず、上去声韻を混用して用いること等、近体詩よりも概して柔軟な対応をする部分は「変文」と共通するということができる。また、一部の優れた変文に見られるような登場人物の心情描写や情景描写、一句の中に地の文と会話文を共に入れたりする技巧は歌行と非常によく似ており、韻文の芸術性を高める面でも、これらの影響を受けていたと考えられる。
 このように、「変文」は近体詩・歌行双方から影響を受けているが、決して場当たり的な模倣をしているわけではなく、各々の種類に応じて、独自の特徴を有している。その特徴と、それが意味するものは、以下の如く整理できる。
(1)講経文の韻文が近体詩とよく似た4句毎の厳格な形式で作られているのは、これらが当時の音楽形態である、絶句を楽曲の歌詞とする様式により唱われていたからである。中唐時代頃から長短句の詞が盛行するまで、唐代音楽の主流の一つであった燕楽は、平仄の整った絶句を歌詞に用いることが多かった。講経文は、その韻文部分において、教坊等で用いられるこれらの通俗曲を批判しながらも、自ら類似した形式を用い、楽曲に乗せて宣教を行なっていたと考えられる。中唐時代を中心に盛行した俗講は、廃仏による中断や、或いは地方性もあったと考えられるため全てが同じように演じられていたとは断言できないが、典型的な韻文部分の上演の仕方は、以下の通りであっただろう。まず、6言句か7言の仄声韻を用いて、伝えたい事柄を内容が分かる程度に朗詠する。続いて、7言句の平声韻を用いて、同様の事柄を再現性の高い楽曲で唱う。直後に経文の引用が続く場合は、さらに皆咍韻の韻文を――おそらくそれ専用の曲調で――唱うのである。韻文部分を演じる僧侶は「梵唄」と呼ばれたが、梵の響きと称しながら、実際の上演、とりわけ平声韻の後半部分は、教坊の流行曲とほとんど違いがなかった。これが極端に過ぎたのが、様々な資料に登場する「俗講僧文淑」の存在であり、彼の用いた曲調が、教坊曲の名称によく似た「文淑子」と呼ばれたことはその証拠である。
(2)狭義の変文の韻文は必ずしも近体詩の形式に拘らず、外見上の規則よりも、内容面での繋がりを重視する傾向にある。これは、転変によって唱われていた韻文が文字に定着する際、起承転結を整え、作品の一貫性や芸術性を高めるために様々な改変が加えられた所以である。改変時に、制作者は歌行を参考にして、より芸術性の高い韻文を作り上げた。変文作品の中で、演じられていたままの韻文を比較的よく残しているのは、全編が平声韻で構成される《王昭君変文》や、敦煌産でやはり仄声韻が極端に少ない《張淮深変文》等であると考えられる。また、変文の韻文は講経文と異なり、粘法にこだわる作品がない。故に、《昭君変》を唱う妓女たちに楽器を用いた形跡がないことも含めて、これらは講経文よりも自由に、固定した曲を持たずに唱われたとも推測できる。
(3)狭義の変文には、「降魔変文」「大目乾連冥間救母変文」「漢将王陵変」等の如き一定量の散文と韻文を繰り返す代表的な変文とは明らかに形式の異なる、「第二の変文」とも呼ぶべき仏本行系の変文が存在する。「八相変(一)」「太子成道経」等を主とするこれらの変文は、唐代音楽の歌詞に用いられた絶句と等しい、7言4句の最小の韻文を多く用いているにもかかわらず、平仄等があまり考慮されない。これらの作品は、多くの異本と敦煌産の奥書を有するために、「変文」制作年代のかなり後期に敦煌一帯で整理されたと考えられる。仏本行系変文はすでに唱うことから離れており、文字に定着する際に何度も改変が繰り返されたり、後期の「変文」作品に見られる韻文の短文化等の影響を受けて「偈」の形式が挿入されたりすることで、平仄の整わない韻文が混在することになった。これはまた同時に、絶句を歌詞とする唐代音楽の終焉と、長短句の曲子詞の盛昌をも意味する可能性がある。

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